ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

青物横丁品川寺・海雲寺

2015年01月13日 22時13分53秒 | 訪問地周辺散策

大井町にある施設を訪問しました。隣の駅(京急ですが)の青物横丁まわりでした。品川寺(ほんせんじ)があるといことで、ちょっと遠回りしてみました。青物横丁は、駅を出て旧東海道に出た、南品川品川寺寺前(南品川三丁目の一部)を指すようです。歴史的には、品川寺の門前町屋で、もと村地であったものが、承応 元年(1652)に4,800坪余の土地を品川寺が拝領し、その内1,225坪六合を、元禄十一年(1698)門前に家作りすることの許可を得、この町屋が形成された。とのことです。旧東海道を歩いているとの標識が

江戸六地蔵です。江戸六地蔵は宝永五年(1708)9月、江戸深川の僧、地蔵坊正元が15歳のときかかった病が地蔵祈祷によって治療したため建立志願を志し浄財が集められ、座高2.75mの青銅の地蔵菩薩座像が、江戸・神田鍋町の鋳物師・太田駿河守正義によって鋳造され江戸の出入り口となる六つの街道筋に安置したのものです。ここは第一番だそうです。

第一番:品川寺、街道:東海道
宝永五年(1708)建立、座高2.75m品川寺には、その第一番、東海道の尊像として、「天下安全、仏法繁栄、衆人快楽」の祈願のもと奉安されています。
また菩薩像の全身と台座には、造立のために喜捨した人々の名前が刻まれています。暮れに寄った太宗寺は第三番で街道:甲州街道です。正徳二年(1712)建立です。

山門です。中に入ると大銀杏が、次はジュネーブから戻った梵鐘です。。お寺さんのHPでは「品川寺大梵鐘は、品川寺弘尊上人の発願によって、明歴3年(1657年)9月18日に鋳造されたもので、京都三条・大西五郎左衛門(おおにしごろうざえもん)の作です。鐘面には京都七条の大仏師・康斎(こうさい)が6体の観音像を浮き彫りにし、さらに観音経一巻が陰刻されており、『武蔵風土記』『江戸名所図絵』などに記されているように、「世にまれなる梵鐘」として、今日に伝えられています。
 この名鐘が、江戸時代の末期、いかなる理由によってか海外に搬出されたまま行方不明になってしまいました。慶応3年(1867年)パリの万国博覧会に出陳され、ついで明治4年(1871年)オーストリアのウィーンで開かれた万国博覧会にも、多くの日本美術品とともに展示されていたことが伝えられていました。」ということでどのようにして日本に戻ったかはこちらのページを参照にしてください。
http://honsenji.net/bousyo.html 

その他いろいろなものがありました。神変大菩薩 (役の行者石造)宝篋印塔弘法大師修行像弁天堂です。聖徳太子像。こちらが本堂。こんな碑がありました。

旧東海道を50mほど歩いて海雲寺に着きました。山門です。寺のHPに「禅、曹洞宗、龍吟山海雲寺は建長3年(1251)僧不山(そうふざん)によって開基、はじめは庵瑞林(あんずいりん)といい、海晏寺(かいあんじ)境内にあって臨済宗であった。慶長元年(1596)海晏寺五世分外祖耕大和尚を開山とし曹洞宗に改められ、寛文元年(1661)海雲寺になったもので、ご本尊十一面観世音菩薩を安置し、ご尊像は建長3年創立当時、仏師春日の作といわれている。また、鎮守として千躰三宝大荒神王を祀る。」 とありました。古くからお台所に荒神様をお祀りする習わしがあります。荒神様は台所で一番大切な火と水をお守り下さる神様であります。それでお台所に荒神様をお祀りすれば一切の災難を除き衣食住に不自由しないとされています。
品川の千躰荒神は江戸時代から竈の神様、台所の守護神として多くの人々から信仰されてまいりました。今を去る三百七十余年前、島原の乱に鍋島甲斐守直澄公がお年十八歳で出陣の折、天草の荒神が原にありました荒神様にお詣でになり必勝祈願なさったところ、甲斐守様の先頭には必ず千余の神兵が現れその行動は荒神王の荒れさせ給うはかくやと思われるすさまじさ。流石の暴徒も敵し得ず鎮定されました。以後鍋島家ではこの尊像を守護なさいまして東都高輪二本榎木の屋敷に遷座し篤い信心のもとにお祀りしてありました。
因縁あって明和七年寅三月に当山に勧請し奉ったものであります。それからはあらゆる多くの人々の参詣するところとなり、ついには当寺の春秋大祭は江戸年中行事の一つにもなりました。この尊像を信仰する人々の受けました霊験利益は数えきれないものがあります。鐘楼

平蔵地蔵 - 平蔵は鈴ヶ森刑場の番人で、2人の仲間と交代で乞食をしていたが、1860年頃の或る日大金が入った財布を拾い、正直に持ち主の仙台藩士に届けたところ、仲間の乞食に仲間外れにされ凍死したため、藩士が平蔵を悼んで建てたものである。当初青物横丁にあったが、1900年(明治33年)10月京急本線建設に伴い当寺に移された。力石です。


 

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