蓮
(城跡ほっつき歩記)より
夏のしじまは満ちてきたか
夜明けの兆しはもう間もなくか
黎明の時を測ってほどなく咲くか
花弁に包まれた願いは純化されたか
ポンと音立てて悟りは開けたか
魑魅魍魎の跋扈を封じ込めたか
薄衣を纏った釈迦牟尼は花になれたか
蓮台に露をいただく儀式はつづいているか
大気は何ゆえに波動するか
動かぬ水に密かな動きはあるか
月は夜明けをうっすらと見届けるか
恥じらう蓮のつぼみをやさしく励ますか
緑から紅への変化にため息をもらすか
永久に交わらない花片の筋を許すか
暁を待つ無言の祈りに同調するか
希望は蓮華にありと思えるか
混乱のニュースにまだ飽きてはいないか
まばゆい映像の氾濫に溺れていないか
気味の悪い囁きに怯えていないか
騒々しい音どもを聞き流せるか
9.11と3.11の本質を透視できるか
空からと海からの力を感応できるか
怒りの多寡をおおよそ量れるか
花弁は記録紙だと信じられるか
ようやく夏のしじまは満ちてきた
夜明けの兆しはそこまで迫っている
黎明の時は隙をついて蕾の肩を揺する
花弁に包まれた願いは程なく羽化を迎える
哀しみ半分程度ですね
なぜなんだろうと考えてみました
そして気づいた
こっちの世界では死だけれど
あっちの世界では生まれているのかもしれないなーと
だとすれば半分はめでたいということか
いまにもポンと音を立てて開きそうな蓮のつぼみを選んだ窪庭さんの心が伝わってくるような
「黎明の時は隙をついて蕾の肩を揺する」という末尾近くの一節までたどり着いて、ああやっぱりそうだったと納得させられました
揺すられてポンと開くんだよね
あっちの世界で彼が生まれる音が聴こえてくるような
人は消えやしないんだ
ただこっちからあっちへ移動するだけで
いい詩だなあ
たしかに、この年になって親しい仲間を送ることになり、いろいろの思いが去来しました。
そうしたなか、ぼくは「あわい」という言葉を思い出しました。
能のシテを務めた方が書いた本からの聞きかじりですが、彼は「あわい」について、次のように語っています。
「能は、媒体者であるワキが、異界の存在であるシテ(霊)と出会い、現実界と異界をつなぐ『あわい』の存在として、シテの思いを晴らすまでの物語を描いています。したがって、能について語ることは異界の『神』や『霊』について語ることを意味しています」
残された二人は、まさにワキ役で「あわい」の位置にあるのではないか。
それを具現化する媒体の一つとして、蓮の蕾を考えていただいたとすれば、あの世からポンと生まれ出る彼の気配を感じ、悲しみ半分、安堵が半分の心境に至る過程がよくわかる気がします。
あの夜は不思議な偶然がありました。
次のエッセイで、その事を書いてみようと思います。
コメントありがとうございました。
なるほど、仏教的には、”あの世からポンと生まれ出る気配”なんですね。
歳のせいか、最近は、仏教的なもの、つまり、お寺、仏像、絵巻、屏風絵などを身近に感じる様になりました。
たしかに仏教的なものを前にすると、落ち着きますよね。
街道歩きの途次に、たくさんの寺社に立ち寄られる更家さんの記事、興味深く拝見させていただきます。
ありがとうございました。