長谷寺正面
おなじみの長谷寺を覗いてみた。天気がいいので、つい足を延ばしたというところ。
何度か行った記憶はあるが、いざ中に入るとなんとなく見慣れない感じがする。
順路の立て札に導かれて回ったので、他人任せのような気分がぬぐえない。
大仏・小仏
如意輪菩薩なのかなあ、錫杖を持った仏様が迎えてくれたのだが、足元 . . . 本文を読む
『松代の友人に案内された夏』
<皆神山ピラミッドなど>
高井鴻山と佐久間象山交友の場所
将棋が縁で仲良くなった友人のT君から、ひと夏彼の故郷である長野方面へ遊びに来ないかと誘いがあった。
新幹線で長野駅へ着き、階段を下りるとT君が待っていてくれた。
近くの駐車場まで歩き、そこで白っぽい乗用車の後部座席に乗せられ、二泊三日の長野め . . . 本文を読む
(『富岡製糸場』と絹産業遺産群を世界文化遺産推薦へ)
文化審議会の特別委員会は7月12日、2014年の世界文化遺産登録を目指し、国連教育科学文化機関(ユネスコ)に「富岡製糸場と絹産業遺産群」(群馬県)を推薦することを決めた。富岡製糸場を中心に開発された技術が世界に広まり、絹織物の大衆化に貢献したことを評価した。政府の関係省庁連絡会議で正式決定し、9月末までにユ . . . 本文を読む
禅林寺
禅林寺の起源
元禄十二年(一六九九)八月台風のために建物が倒壊したので、松之坊は寺社再建不可能のために寺社地を村方へ返還した。
そこで村方一同は協議の末、江戸本所石原に在った黄檗宗賢洲元養禅師に寺社建立のことを懇請した。
かくして村方一同より官へ願い出で、元禄十三年十二月、黄檗宗霊泉山禅林寺と改称、江戸神田紺屋町駒田孫右衛門が開基となって堂宇伽藍の経営も着々と進 . . . 本文を読む
(溶岩流の爪あと鎌原観音堂)
先月末に北軽井沢から嬬恋地区をドライブした折、鎌原観音堂を訪れた。
ご存知の方も多いと思うが、ここは天明三年の浅間山大噴火によって溶岩流が押し寄せ、階段の一部を残して呑み込まれた場所である。
画像に見える赤い欄干の橋から上が、辛うじて埋没を免れた。
次の画像にある立て札に、当時の様子が詳しく説明されている。
文字が見えないだ . . . 本文を読む
(深大寺元三慈恵大師ご開帳)
本日12月3日をもって、25年に一度(本来は50年に一度)という秘仏のご開帳が終了する。
もともと比叡山の第十八代天台座主であった慈恵(じえ)大師が、正暦二年(991)に深大寺に遷座され、この地で入寂したとのことである。
正月三日に亡くなったことから、通称元三(がんざん)大師と呼ばれ庶民に大変人気があったらしい。
『おみくじ』の創始者と伝 . . . 本文を読む
(薪小屋の美しさ・六合村にて)
赤岩集落については、何年か前にNHKテレビでも紹介されていた。
この地域全体が、『重要伝統的建造物群保存地区』の指定を受けた年だったと思うが、狭い村中の道を散策する中年のご夫婦や、若い女性の二人連れを見かけたものだった。
<長英の隠れ湯>に入った後、野菜など地元特産品をあつかう<赤岩ふれあいの家>に立ち寄ると、赤岩散策マップが用意されている。 . . . 本文を読む
『長英の隠れ家』(湯本家)
六合村の美しさを何回かに分けて書いたのは、1年半も前の4月頃だったろうか。
ティータイム(44)から四、五回にわたっての事で、その後も機会をみつけて訪れているが、こころが洗われる思いはいまも変わっていない。
混雑するお盆休みを少しずらして、短い夏休みをとった。
何をおいても畑の草取りを済まさなければならない。
植えっぱなしの馬鈴薯とインゲンが、 . . . 本文を読む
「雷電」は規格外の<無類力士>
「雷電」の生家と墓を見学した際の写真を一枚掲載したものの、なかなか全貌を伝えにくかった。
さいわいブログへのコメントをいただき、「雷電」の意外な人となりを知ることができた。
怪童、大男、怪力の相撲取り・・・・主に身体的な部分に目がいっていたが、(信濃者)と自称し、不遇な信濃の人びとを救った誠実な人柄を教えていただき、この伝説的な力士につい . . . 本文を読む
「雷電」の生家をたずねて
前回ドライブした鹿沢~東部湯の丸『百体観音通り』が、東御市に至って浅間サンラインと交わるところに道の駅『雷電』がある。
すぐ近くを上信越道が通っていて、店内食堂や駐車場に併設の木製テラスからも眺められる。
雄大な浅間山麓に位置し、浅間山のほか上信越道越しに八ヶ岳方面の山々まで遠望できる快適な立地条件を備えている。
この道の駅の特徴は、名前からも分かる . . . 本文を読む
小布施再び・『高井鴻山記念館』を観る(5)
北斎の下絵をもとに鴻山が描いたとされる画の中で、極彩色の四曲屏風<象と唐人図>はもっとも有名である。
北斎が江戸の見世物ででも見たのであろうか、象の巨大さが驚きと共に表現されている。
樹木との丈比べ、象使いとの大きさ比較、誇張というより目の当たりにした存在感の率直な表現であろう。
その下絵をもとに、鴻山は存分の筆づかいをみせた。
. . . 本文を読む
小布施再び・『高井鴻山記念館』を観る(4)
まずは、井戸についての説明文を再掲する。画像が小さいので、たぶん読み取れないだろうと思うからである。
<小布施は扇状地のため地下水が低く、井戸を掘ることが困難であった。村内の井戸は数える程しかなく、住民は日常川の水を用いた。
高井家の井戸は殊に水量が豊かで「上町の井戸」と呼ばれ、事あるごとに付近の住民に利用された。
ある年、松川の . . . 本文を読む
小布施再び・『高井鴻山記念館』を観る(3)
記念館『脩然楼』は、もともと鴻山の祖父作左衛門が江戸時代に建てた京風建築の隠宅を改築したもので、中庭を囲むようにいくつかの棟がつながっている。
鴻山はこの建物内でさまざまな人物と会い、国の将来像について語り合ったようだ。
幕府の勘定奉行小栗忠順(上野介)に再三資金援助を要請される関係にある一方、過激な尊皇攘夷論者とも会い激論を戦わして . . . 本文を読む
小布施再び・『高井鴻山記念館』を観る(2)
高井鴻山の揮毫による書や幟は勇壮で、地元の民衆を元気づけるシンボル的な意味を持っていたのではないだろうか。
神社の鳥居や寺の山門を背景にはためくさまを想像すると、見上げる人々の心に勇気と希望がふつふつと湧き上がる気がするのである。
その裏づけといおうか、いつも民衆の側に目を向けていてくれる鴻山への信頼が感じ取れる。
北信州の各地に奉 . . . 本文を読む
小布施再び・『高井鴻山記念館』を観る(1)
志賀高原から降りてきて、成り行きで小布施に向かうことになった。
前回寄り損ねた『高井鴻山記念館』を観る機会が、こんなに早く来るとは思っていなかった。
前に写真に撮った東門から、昔風の小路を歩いて黒々とした建物に近づいていった。
入ってすぐのチケット売場で券を買うと、一応順路が示されていて東門は出口に当たることを教えられた。
「どちら . . . 本文を読む