不安の日々を送る正夫を尻目に、十日ほど過ぎた初秋の午後夕子が姿を見せた。
潮風にでも曝されていたのか、むき出しの肩から二の腕にかけての皮膚が小麦色に焼けている。
バンダナを巻いた髪も、夏の日差しに負けてチリチリと撚れているように見えた。
「どこへ行ってたの?」
心配げに問いかける正夫に、夕子はいたずらっぽく笑った。
「どこだと思う?」
よく見ると、日焼けを嫌っていた顔面にま . . . 本文を読む
山野正夫は、正午ごろまで眠り、午後アパートや盛り場で時間をつぶしてから、神田にある印刷所に出勤する習慣を守っていた。
夕子とは週のうち四日ほど会っていたが、正夫のアルバイトが始まる夜の十時を目安に、一時間前には腰を上げて自宅へ帰っていった。
「あなたのお仕事、気に入ってるみたいね?」
昼ごろに現れて、正夫の食事づくりや部屋の掃除などをすることもあったが、たまに朝方やってきて、正夫の寝 . . . 本文を読む
正夫が新宿で屯する一人の少年と知り合ったのは、名曲喫茶『風月堂』のすぐ横の通路だった。
長い髪をストローハットにたくし込み、白黒縦縞の長ズボンを穿いている。
裾の方がやや広いのは、近頃見かけるフーテンの衣装を意識しているのだろうか。
東口に屯する若者たちと違うのは、紫色のシャツから抜き出た長い首の清潔さだった。
「すいません、ぼく、モーリーといいます。いま、ぼく困っているんです。 . . . 本文を読む
正門を出ると、正夫は道路を挟んだ土手を見ながら右に曲がった。
病院寄りに数メートル進んだところで道を渡り、雑草の踏み跡をたどって斜面を一気に登った。
緑陰をめがけて、濠からの風が幾重にも吹き上げてきた。
折りしも通過中の電車が、心地よい振動音を風に含ませている。
正夫は一瞬、土手の上でたたずんだ。
泡のように皮膚表面で弾ける感覚を、立ち止まって味わった。
水と緑のかすか . . . 本文を読む