キャンパスの芝生に足を踏み入れると、教室内とは違った種類の暑さがあった。
長い間咲きつづけてきたツツジもいつしか散り、花壇はふたたび緑一色に染まっていた。
山野正夫はそこの縁石に足をかけ、ずれてきたテキストを膝の上で留めなおした。
本はブックバンドから外れるほど曲がっていたわけではないが、彼はそうしながら考え事をしていたのだ。
現在、学内の一郭で熱っぽい議論が交わされている。
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(カナカナの声に誘われて)
ささやかな山小屋といったら、一番当たっているだろうか。
猛暑のさなかに、北軽井沢のいつもの住処に行った。
二三日前にテレビ画面をにぎわした旧軽井沢の別荘地とは別世界だが、緑の風とセミの声は分け隔てなく安らぎを与えてくれた。
前回からちょうど三週間がたっている。
連日のように雨が降っていたから、つい足が遠退いていたのだ。
畑の作 . . . 本文を読む
(ウグイスな人) 季節はずれのウグイスの声が、ぼくの背後から聞こえてきた。 ホー、ホケキョ。・・・・ホー、ホケキョ。 (ああ、また一緒になったか) ぼくは、同じ間隔でついてくるウグイスの声を意識しながら、神社の塀越しに覗く楓の枝を目で探っていた。 生まれつき五感に焼き付けられた反応だろうか。 小鳥の鳴声を聞けば、思わずあたりを見回す本能といってもよかった。 だが、ウグイスの囀りは、樹の枝 . . . 本文を読む
(覗かれ魔)「キャーッ、なにこれ・・・・」 風呂場から麻里の悲鳴がひびいた。「どうしたの?」 おかみさんが飛んでいった。 夜の十一時である。 大家は何事が起こったのかと緊張したが、相手が下宿人の若い女性とあっては、すぐに駆けつけるわけにはいかなかった。「麻里さん、大丈夫?」 おかみさんが何度か問いかけると、「・・・・もう、あたしのペチャパイ撮られた」と、怒った声の返事がかえってきた。「え . . . 本文を読む
(カラーコーン)
麻のジャケットを着た老人が、公園の外周路を歩いていた。
手には木製のステッキを持ち、日陰を選ぶように歩幅を伸ばしていた。
季節は初夏、あと一週間もすれば例年より遅い梅雨入りをしようかという時期であった。
老人の名は師岡博史、西洋大学の名誉教授を務めた後、いまはリタイアして東京郊外のM市に隠棲していた。
辞書の編纂では日本でも有数の学者で、日本国 . . . 本文を読む