ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

2015-07-07 02:41:08 | Weblog
自分の本名を書きたい。
わたしはずっとそう思いながら、その気持ちを抑えつけてきたんだなあ、と思う。

もう30年も名乗ってきた姓なのに一向にしっくりとこなくて、でも慣れてしまった名前。
自分をあらわすものなのに、人から与えられ、それを自分として受け止める名前。

名とは、不思議なものだ。

いまなら、ジャック・デリダの「名」についての試論も、別な角度で読めるかもしれない。
神の名と人の名。
言葉では言い表せない超越的な神の名、手が届かないあらゆる他者の名。

認識するために記号化し、記号化しても認識できない存在。
そして、ただひたすら一体化することを求める名。
井上靖の『蒼き狼』で描かれたジュチが、自分を認めるために証明し続けたもの。
洋の東西を問わず、存在の根幹を為すもの。

久しぶりのブログなのに、こんなにとりとめのないことを書いてもしょうがないけど、
泡沫のように、思考が去来する。

ひとつだけ言えることは、キリストやイスラムの神ではなく、
わたしが仏教圏に生まれたことの幸せだ。

三世を超えて届く仏の光は、わたしの過去、現在、未来を救ってくれる。
一方向に流れ、神の前での審判をひたすら恐る宗教では、敗北もやり直しもきかない。
だから、「名を救う」ことができるのは、仏教だけだと思う。

たくさんの後悔と、それでも自分は一生懸命だったという自己肯定。
それを誰かに認めて欲しいという欲求と、そんなこと関係なく受け止めてくれる家族への愛着。
すべてが「名」を基点にして渦巻く感情だ。

個人では、自分では、自分を救えない。
あくまでも他力を求める。

いまの日本が思考的に偏るのも、ストレスに満ち、健康でなくなるのも、
すべては慣れない「個人」を進めたからだと思う。
そもそも、日本人に「個人」は合わない。
そんな気がする。


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