(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

読書『サンディ・ワイル回顧録』(上・下)

2007-11-08 | 時評
読書メモ『サンディ・ワイル回顧録』
(サンディ・ワイル、J.S.クラウシャー、日本経済新聞社 07年8月)

 『ルービン回顧録』のメモを書いたところ、Tack様より、ワイルのも書いて欲しいとのご要望がありましたので、アップロードいたしました。すこし急ぎ働きの感がありますが、ご容赦ください。


 1998年4月、トラベラーズ・グループとシティコープが、1500億ドルという超大型の経営統合をおこなった。これによりリテールの顧客数1億人、法人顧客数は3000万、売り上げおよそ500億ドル、収益80億ドルという世界的に最強の金融機関が誕生した。この大胆な計画を着想し、そして実行に移した男、サンディ・ワイルの波瀾万丈の人生物語が、本書である

 本書は、ワイルの活躍の歴史と人となりを詳述したものであるが、同時代の金融情勢の変遷や、ワイルが変化の激しい時代に巧みに対応して組織を発展・運営してきた手法や考え方も詳述されているので、企業経営の観点からも学ぶところが少なくない。


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(ワイルの辿った道)
 1950年代後半、アメリカでは宇宙時代がはじまろうとしていた。若手ブローカーとして働いていたワイルは、投資銀行業に関わっていた友人と語らって、自己資金を出し合い、小さな金融会社カーター・バーリンド・ポトマ&ワイルを立ち上げた。ワイルは、この時から、「業界をリードするような会社、そしてなによりも尊敬を勝ちうるような会社」にしたいとビジョンを抱いていた。
 1960年ケネディが大統領となり、株式投資が盛んになたったが、キューバ危機で暴落。そのころから、一つの業種にかたよることのないようビジネスモデルを拡大することにして、機関投資家向けのビジネスを手がける。同時に調査部門も設立。

 1965年組織としてのパートナーシップに見切りをつける。株式の公開に踏み切る。少し前からNY証券取引所の規制の変化を読んで、準備を進めていた、こういう時代の流れを見る目が鋭い。一方、企業基盤の拡大のため、精算業務に進出。またオペレーション業務の重要性を強く認識し、その基盤を固めている。当時の証券大手では、新時代のコンピューター技術がよく分かっていなかったので、証券業務の拡大にともないに大変な混乱をおこしていたが、ワイルの会社は、びくともしなかった。ワイルは、”ウオール街の経営幹部は、ともすればこうしたオペレーション部門の人々を軽視する”、と書いている。

1970年には、名門の証券会社ヘイドン・ストーンを救済合併し、従業員1500人、売り上げ1200万ドルの中堅会社に成長していた。このヘイドン・ストーの買収で、資本を大部分よそから調達し、ほとんど費用をかけずにかなりの大手を買収できる可能性を実証したことから、さまざまなビジネスモデルを考えるようになった。

 1971年ニクソン大統領は、金本位制を廃止、ドルを切り下げた。インフレと金利上昇、ウオーターゲート事件、第4次中東戦争などで、ウオール街が大打撃を蒙った。他社は、証券株の下降は一時的と判断して過剰な反応をしなかった。しかし、ワイルは、この状況に即座に対応すべきと判断し、キャッシュフローが崩れぬようコスト削減に努めた。彼は、つねに財務面でのリスクを制限することを基本としていた。

 1973年FRBが利上げに踏切、プライムレートは、10%に急上昇した。ワイルは、固定費の吸収のためには、規模を拡大する買収が不可欠と判断し、販売力のつよいセールス網を擁する全国的な大会社シェアソン・ハミル(投資銀行)の買収をおこなった。引き続き1978年にはローブ・ローズを買収、シェアソン・ローブローズとなった。株式市場も順調で、シェアソンは大きな利益をあげ、株価も急上昇した。この買収のことで、ワイルは、”絶望に負けてはいけないという大事な教訓を胸に刻んだ”、と云っている。
   注)その前に、クーン・ローブというユダヤ系の名門投資銀行の買収などに失敗したことを指してのことばである。

 1980年代にはいり、インフレの波が激しく打ち寄せ、物価は急速に上昇した。ちなみにこのころのプライムレートは、なんと21%だ! 経済は、制御を失ってきりもみ状態に陥っているとみたワイルは、金融サービス業界はまもなく、いまよりも強力な形で融合する方向に進むとの予感をもった。そして、「さまざまな革新的商品によってビジネスの規模を拡大すれば、利益率の低下などものともしなくなる」、と考えた。そして大手金融機関の一つであるアメリカン・エクスプレスに目をつけた。
   注)98年に、日本国内では、北海道拓殖銀行が巨額の不良債権問題で経営破綻しているが、護送船団方式といわれた金融行政の崩壊の空気も読めずにいた経営者がいた。他力に頼る、こんな考え方はワイルならとらないだろう。

 1981年シェアソンを10億ドルでアメックスに売却し 同社取締役となる。その後83年に社長に就任するも、権力闘争に敗れて退任するにいたった。このとき、すでに52才。本書の後半では、その後小さな消費者金融会社(コマーシャルクレディット)の再建に携わり、これを基に買収を繰り返し、93年大手保険会社トラベラーズを買収、アメックスからシェアソンも買い戻し、証券・保険分野で確固たる地位をきずいたこと、そしてシティコープとの統合と共同経営の問題などその後の動きなどが描かれているい。

 
 主として シェアソンを成長させたところまでを中心にワイルの軌跡を追ったが、これ以降の部分も丹念に読んでいくと、ワイルのビジネスに取り組む姿勢や、金融業界の変遷も分かって興味深い。長くなるので、割愛させていただく。他にも、人間関係の確執、NY司法裁判所との戦い、などなど興味深い記述がある。また。99年のサウジやインドをまわった海外歴訪談も面白い。2週間にわたる出張期間中、各国の政治指導者とあって親交をあたためている。
  注)日本の金融・証券界のトップに、こんなことができるだろうか。
 
それにしてもワイルが、失敗を繰り返しながらも、次第に企業を発展させ、最強の金融グループを作り上げたのは、なんによるのであろうか? ひとことで云えば、大きな理念を抱いて、絶えず夢を追い続ける持続力と情熱によるものではないか。その一方で、リスクを徹底的に抑えるという考え方は、理想を追い求める基盤として重要な要素である。本書は、かなり赤裸々にワイルを取り巻く人間模様も描かれている。自分をさらけ出して語るという姿勢は、ふつうの回顧録にはあまりみられないものである。

余談になるが、今回シティの会長になったルービン元財務長官を同社に引き抜いたのは、ワイルである。退任したチャック・プリンスは、コマーシャルクレディットの法律顧問であったが、2001年末のエンロン破綻に端を発した司法・金融当局との対立問題で、社内体制の立て直しに大いに貢献し、ワイルによって後継に指名された。金融の現場での経験がすくないということが、サブプライム問題で巨額の損失を招いた遠因になるのかもしれない。
コメント (2)
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