(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

読書『マティスを追いかけて』(その3)コリウール

2008-07-15 | 時評
(その3)美しきジャングル・コリウール
 (コリウールを紹介する素敵なサイトを見つけました。興味のある方はのぞいてみてください。「コリウール・ツーリスト・インフォーメーション・オフィス」のものです。画面の右下にユニオンジャックの旗があります。そこをクリックすると、英文の画面が出てきます。冒頭の写真も、そこから拝借しています)

 モーガン夫妻は、フォーヴィズム誕生の地といわれるコリウールを訪れる。スペインとの国境に近く、地中海に面したこの港町はマティスにとって重要な意味をもつところである。そしてモーガン夫妻にとっても、その後さらに一年を過ごすことになる”わが家”のようなところである。

 ”港の教会の薄紅色(コッペリー・ピンク)の鐘楼を見れば、そこがコリウールだとすぐ分かる。マティスやアンドレ・ドーランの絵に何度も描かれた風景だからだ。、彼らは小さな漁村に過ぎなかったこの土地をとんでもなく色鮮やかなカンヴァスに表現することで、フランス画壇のお偉方に衝撃を与え、ひいては”野獣”’(レ・フォーヴ)というあだ名で呼ばれることになった。だが、多くの絵画に触れ多くの書物を読んできたわたしにとっても、この本物のコリウールの姿は想像を越えるものだった。ここはピレネー山脈が地中海に没するところにあるのどかな港町で、芸術的な要素がことごとくそなわっている。

 暗緑色の山並み、コバルト色の海、教会、砦、シャトー、城、風車、釣り船、枝の曲がったプラタナスの並木、ブールゲーム、港に面したカフェ・・・。瓦屋根をかぶる家々の壁はピンク、黄土色、碧青色(コバルト・ターコイズ)、赤褐色、それに青紫(ペリウインクル)色に彩られ、それぞれが太陽に美しく映えるようにわざと閉められている鎧戸の鮮やかな色とうまく調和している・・・”


(絵は、マティスが1905年に描いた「開かれた窓、コリウール」 ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)

 1905年にイーゼルと絵筆を携えてマティスは、コリウールの駅に降り立った。時に35歳。前年の夏に新印象派のシニヤックとサントロペで過ごしことの影響もあって、ある意味プロフェッショナルとしての自信にも溢れていた。余談になるが、モーガ夫妻はサントロペにあるアノンシアード美術館を以前に訪れている。ここには、、ポール・シニヤックの奨めで村を訪れた画家たちの作品が集められており、屈指の近代フランス絵画コレクションという。シニヤック、スーラ、ボナール、ヴュイヤール、マティス、ドラン、ルオー、クロス、ヴァッロトン。”シニヤックの輝ける≪サントロペの港≫の美しさを堪能したあのちに、となりの窓からその本物の風景を眺めることができた”


(絵は、シニヤックの「サントロペの港)

 コリウールを訪れる以前のマティスは、つかのまの成功のあと苦しい挫折の連続で辛酸をなめていた。その悪夢のような日々のマティスを力づけたのはセザンヌの絵(三人の湯浴みする女たち)とセザンヌの大胆な姿勢であった。1904年、サントロペに旅立つ直前、初めての個展をひらき、45枚の油絵と一枚の素描を出展した。その後1905年には、8枚の絵をシニヤック率いるサロン・デ・アンデパンダンに出品し、新印象派の画家たちに「ピサロ以降最も高名な、新印象派の改革者」と称されることになった。

ジムはコリウール時代のマティスの絵について言う。

 ”コリウールはわたしが一番楽しみにしていた土地だ。ついにそこへ足を踏み入れるまでの数ヶ月、かの有名な「アンリ・マティス回顧展」(’92 MOMA)に出品された、コリウール時代の作品を穴のあくほど見詰めつづけることで過ごしていた。20世紀を生きる人間の目からみても、マティスのコリウールでの油絵は衝撃的だ。それらは基本的に、色をつけた自由な素描といっていいー淡く、自発的で、奔放で、ときにはある種の派手さをもつ。やわらかな春色に固い鉱物が混ぜあわさったような緑。ほとんど罪なほどに爛熟したピンクとすみれ色。振動する青に、光り輝くオレンジ。これらの色が描く世界はみずみずしいと同時にたくましく、官能的な猛々しさにはじける熱帯のジャングルだ・・・”

またコリウールの迷路のような町を歩き回り、いたるところでマティスが絵に描いた風景を見る。

 ”坂道を下りきったところで、道を渡って波止場のほうへ向かう。13世紀のシャトーと17世紀の教会を両端に配した美しい入江が、まるで海からきりとられたようにみえるボラマール大通りを行くと、野外ギャラリーさながらに次から次へと壁の絵が現れた。マティスの≪コリウールの眺め(鐘楼)≫、ドランの≪コリウールの町はずれ≫、マティスの≪コリウールの小舟≫・・・マティスの≪コリウールのフランス窓≫これらのほとんどはこの港町を斬新な目でとらえた風景で、1905年以降、ふたりの芸術家がその血といなじように熱くたぎる色彩をもって、それまでの伝統的絵画の世界に切り込んで行ったときの作品だ。”

 ジムたちは、コリウールの最後の3泊を「レ・タンプリエ」で過ごした。ここはコリウールの有名な歴史的な建築物で、芸術家たちが好んで宿泊するところと聞いていた。そこについた途端にジムたちは、”わが家の帰ってきたような気がした”と大いに気に入った。”芸術的でゆったりとしていて、文句なしに美しい。我々の部屋は広く、赤と白の縞模様のカーテンと群青色(ウルトラマリン)のよろい戸がついていて、窓からは城砦と港が見渡せた。どこの階の廊下にも壁の上から下まで彩画やデッサンが飾られていて、そのほとんどが長年のオーナーであったルネとポーリン・プス夫妻に捧げられていた。・・・バーにはルネ・プスとピカソが並んで写った写真があった・・・”

 フロントに頼んで、ホテル「レ・タンプリエ」のオーナーに逢いたいと頼み、彼らの息子にあたるムッシュー・ジョジョ・プスと会うことになった。そこでモーガン夫妻は、また素晴らしい出会いの場に恵まれたのである。

(マネが見せてくれた”黄金の本”)
 「レ・タンプリエ」は、ジョージ・プスの両親が1947年に開いたレストランが発展してホテルになったものであるが、様々な人が訪れている。「わたしは生涯コリウールを離れたことがありませんでね。世界がわたしのところに来てくれました」と語る、その世界とは、マティス、デュフィ、ピカソ、パブロ・カザルス、エディス・ピアフ、モーリス・シュヴァリエなどなど。そこでモーガン夫妻に、プスが見せた本とは長年コリウールに住んだ友人ワイリー・ミュシャという画家がプス一家のために、素描・水彩画・油彩画それに注釈などをひとまとめにして綴じた本であった。

 ”マネ(娘)は、父親そっくりの小柄な女性で、およそ40センチ四方の四角くて分厚い本を2冊、胸に抱えている。一冊目を開いて手書きのタイトルページをみせてくれた。

 Ce livere d'or
Edite par Willy Muchs pour glorifier Colliure
dernier lieu des esprits libres , poetes errants,・・・・


 この文章がこの”黄金の本”の中身をよく言いあらわしていたー「ウイリー・ミュシャ編集。さまよえる詩人が、渇いた画家が、純粋な色を求めた、自由なる魂の最後の土地、コリウールををたたえて」。ミュシャは多くの友人に声をかけ、その画集に作品を寄贈してもらったのだ、それはいわば画家たちのサイン帖だった。
 あるページはとてもシンプルなデッサンで、たとえば港の風景がほんの数本の線で描かれていた。またあるページは画用紙いっぱいに色が塗られ、蝶や山や海、それに地中海の太陽に照らされた町の鮮やかな家並みなどを表現していた。知らない名前が多かったが、知っている名前ーピエール・ブリュンヌ、サルヴァドール・ダリ、ラウール・デュフィ、ピカソ、アンリ・マティスーの直筆サインをみるの、心ときめく体験だった。”

 こういう訪れる土地土地での知らない人々との交流には心温まるものがある。この旅行記の魅力のひとつでもある。なんと楽しい旅であることか!

          ~~~~~~~~~~~~~~

 ちなみにラウール・デュフィは、私(ゆらぎ)の好きな画家の一人であるが、彼はこんな言葉を残している。

 ”色彩はデッサンによって生きるもの、デッサンは色彩によって生きるもの”
                      (ラウール・デュフィ)

(次は、マルセイユに近い地中海の町カシでの滞在について)

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マティス(その三) (九分九厘)
2008-07-15 20:57:14
3日分の文を纏めて読むと,モーガン夫妻の喜びあふれた旅行が目の前に躍り出て、これぞまさしく「The Bucket List」の最後の一行になるのではないかと羨望した次第です。光溢れる南仏の光景の鮮やかさが、ゆらぎさんの手によって描き出され、絵画論なる理屈なんてどうでもいいじゃないの!という気にされてしまいました。と言ってこれで終わりにするのは、やはりよくない。 とりあえず言いたいことを先に片づけて、それからマティスに入っていかなければならない。

前回の続きになります。レオナルド・ダ・ヴィンチは、近代絵画の革命的な手法を編み出したと考えているが、彼は主題表現を明確に表に出すために、図学的硬直的な遠近法を採用してはいない。更に従来の線遠近法にくわえて、空気遠近法や省筆遠近法をも生み出した。最大の特徴はスフマートという明暗の技法を創出したことである。一種のぼかし手法であるが、対象の持つ微妙なニュアンスや雰囲気を表現するためにこれを創案し、作画の最終仕上げを左右する高度な明暗処理すなわち彩色法を生み出した。モナ・リザに代表される微妙で繊細な、あの微笑むともなく微笑んでいる密やかな面持ちを成立させているのは、この自由自在な明暗法の戯れなのである。しかもこの明暗法は、単に個別的な対象再現に限ってのものではなく、画面全体の総括的な表現としてとらえられている。画面全体の中を構成する複数の対象物を総合的に処理して、全体を統一した調子を作り上げていく大局的な見地から生まれてくる明暗処理法である。もちろん彩色される固有色の明度も計算された結果のことである。レオナルドにとって絵画とは「眼に捕捉しえるありとあらゆるものを包摂し内包する」ものであり、「絵画を軽んずるものは、哲学をも、また自然をも愛していない」と断じ、ありとあらゆるものに関する膨大な素描を残して、「画家の科学の神性を有するとも言うべき点は、画家の知能が神のそれに似たものに変化し得るところにある」と言ったのである。実に偉い超人である。

このルネッサンスの伝統的写実主義と決別するマティスが活躍するのは、レオナルド・ダ・ヴィンチのあと、約500年たった20世紀になってからのことである。ルネッサンス以降バロック、ロココそしてロマン主義の流れが過ぎていくが、この間の変遷はすっ飛ばして、いきなりマティスの中に入っていく事にする。私がレオナルド・ダ・ヴィンチにこだわっているのは、21世紀に生きる私自身が依然として彼の創始した手法を金科玉条として現在尚も手習いをしつつ、そして素描の魅力から逸脱できず、色彩の魔力にすら目を見開いていない事実を自覚しているからである。

古典的な絵画、それも印象派の時代も含めてのことであるが、人物画や風景画などはよく白黒で美術史などに掲載される。人間の脳裏には、こうした人物風景などは色彩感覚が記憶されていることから、明暗と写実がしっかりしていると、白黒で支障はないし、人によっては脳裏に実際の色を描いてしまうのである。点描のスラー、そしてマティス、デュフィあたりになるとそうはいかない。マティスは自分のアトリエそのものを、種々の色彩とオブジェクトを取り替えていって、身の回りに多彩な色彩を溢れさせていったというが、アトリエの内部の絵を描くのに壁の色を何種類か変えて描いたという。アトリエの緊張感あふれた雰囲気を描きだす為に、結論は真っ赤な壁色の絵を描いたという話が残っている。レオナルド・ダ・ヴィンチでは想像もつかなかったことであろう。マティスの絵を見ることが即ち「赤を見る」ことにつながってくるのである。デュフィの場合は絵の中のたとえば人や船やなど、あるゆる形体を一つの色彩の強さによって征服してしまう、たとえば地中海の真っ青の「青を見る」ことになるのである。

古典的な絵を見ることは日常的に馴染んだ神経ネットの枠内のことであるが、突然真っ赤なスクリーンの前に人間を立たせると、非日常的な特別な「感覚」を抱いてしまう。絵に限ったことでなく、PTSDが残るほどの異常な光景を見るとか、さまざまな知覚現象に人間は生きている間に遭遇する。マティスの絵をこの種の異常なるほどの状況に立たせる必要はさらさらない。それよりむしろマティスは日常的近代絵画であると言っても差支えないが、現代の抽象画の世界になってくると必ずしもそうでもないようである。マティスを現代絵画史のどこに位置づけるかは問題であるが、現代抽象アートの先駆けであったのは事実であるので、この後の論議は、前回述べたハンフリー教授の実験心理学の論を横に置いて進めてみたい。ブログの主人公ジムの行動が意外にこのハンフリー教授の説に合致することが分かったからである。

人はみな一生懸命に生き延びようとするが、その場合生存とはたいてい「意識」の存続を意味することである。意識とはそもそもな何なのかと問うことになるが、私達の誰もが自らの心の中では意識の正体を密かに知っている。そのうちでも特に注目されるのは現象的意識であって、これを生ぜしめるものとして「感覚」というものがある。突然に目の前に真っ赤なスクリーンが照らしだされるという「赤を見る」(ここではマティスを見ることと同義)という経験は、先ずは「判断停止」(エボケー:人が本質だけに焦点を絞れるよう、通常の知識や先入観をすべて捨て去ろうという努力)が始まり、次にその人特有のある種の感覚が生ずる。見る対象のマティスの絵は特異な存在かもしれないが、誰にでも見られることが出来るということで、非個人的な存在である。見る人、この場合はモーガン夫妻特にジムのことになるが、そしてその赤をみるという行為自体は、個人的な事象である。赤を見ている人は、<赤を経験していると自らが呼ぶような特別な意識の状態すなわち感覚>を生み出していくのである。言い換えれば「赤をみる」ということは「赤をする」という事になる。ジムにとっては「マティスを見る」から「マティスをする」という感覚が自分のなかで生まれるのである。こうした感覚の形成は原始細胞時代より長期の進化時期をへて現在にいたる。自己細胞より外の世界との接触刺激により発生する、人間特有の感覚は、進化過程の長期の間に遺伝子に刷り込まれ、膨大な数になり通常日常的に不要なものは潜在化していて容易に表に出てこないが、喪失しているわけではないという。もう一つの問題は、外部の刺激に対応する感覚と知覚(視覚、聴覚、嗅覚、触覚など)は独立した動きをするもので、知覚に従属して感覚が結果として起きるものではなく、二つの事象は同時に起こっている。この発生の最初のきっかけは外部からの刺激である。この刺激に対し人間はその正体を知るべく、進化の過程で得たきた自己モニター能力が働いていく。このモニタリングの結果、外部刺激に対応する特有の感覚が発生し、同時に外部の正体を確認すべく知覚が働くという。勿論知覚は視覚のみであることはない。スクリーンに映像を映し同時に対応する特定の音楽あるいは振動を与えていく訓練をしたあと、音楽あるいは振動のみで映像を知覚し、視覚的判断をすることが出来るし、そのほかのいわゆる感覚代行の実験は数多くなされている。(非常に分かりにく文章になってしまった。本文はさらに専門用語で分かりにくいことになっている。陳謝。)

主人公ジムの場合は、マティスの絵を見るだけのことではなく、マティスが実際に絵を描いた土地の光、空気、温度、風その他マティスに関して知覚出来るほとんどのものを、しかも長期の時間をかけて経験していくのである。マティスの感じた光、風土などあらゆる「外部刺激」を再現していって、その結果の「マティスの感覚」を積み重ねていく。同時にジムの可能な限りの「知覚機能」でその「刺激」を再確認していく旅行をするのであるが、その知覚とは見ること、歩くこと、食べること、触ること、しゃべることその他すべてのことなのである。「Matisse-ing」なのである。

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鋭い観察に拍手です (ゆらぎ)
2008-07-16 22:10:48
九分九厘様
 引き続き熱心にお読み頂きありがとうございます。その上ご自分の体験にも照らし合わせて絵画論と率直な告白論的な見方を展開いただき、一段と興味深く拝見しました。

そのなかでいくつも興味深いところがあるのですが、紙面制約上一つ、二つの論点に絞らせて頂きます。

”私がレオナルド・ダ・ヴィンチにこだわっているのは、21世紀に生きる私自身が依然として彼の創始した手法を金科玉条として現在尚も手習いをしつつ、そして素描の魅力から逸脱できず、色彩の魔力にすら目を見開いていない事実を自覚しているからである。”

 ーこれまで九分九厘さんの絵をいくつも拝見してきました。素描の魅力に惹きつけられているというのは分かりますが、色彩の魔力に目を見開いていないと言うことはないのではないでしょうか。ご謙遜でしょう。ただ好きな画家の名前を5人挙げて見るとしたとき、大兄と私では、大分違いが出てくると思います。一例を上げると、現代抽象画の先駆けとなったカンディンスキーです。いつか年賀状のデザインに使ったこともありますが、彼の「Succession」に見る色彩の乱舞は、伝統的な絵画やデザインとは違ったものです、私は魅力を感じます。


 ”「赤をみる」ということは「赤をする」という事になる。ジムにとっては「マティスを見る」から「マティスをする」という感覚が自分のなかで生まれるのである”

 ーこれはまたさらに深みのある見方ですね。じつは、道元の正法眼蔵の中にも、また明治のころの宗教家弁栄(べんねい)聖者にも同じような見方がああります。”世界には、一大心霊がいて、それが自らを客観化して世界をつり、それを見て楽しんでいる”とか、”自己が自己する”などといった言葉がよく出てきます。九分九厘さんの言われることはよく理解できます。ジムは、マティスの行動・足跡を追うことで、マティスの心理分析のようなことをしており、それらを通じてヘミングウエイのように、自己挫折することなく、いつまでも自己を探索し続ける人生を追っているように思います。

 
 「Matisse-ing」とは言い得て妙です! ありがとうございました。
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