(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

時評 玉音放送を振り返って

2015-08-14 | 時評
(長らくのお休みおゆるしください。 再開いたしますので、これまで同様ごひいきにお願いいたします)
8月14~15日は奈良春日大社の万燈籠の灯がともされます。たまたま親しい友人がそれを見に奈良へ行っています。羨ましく思いながら、この記事を書いております。



     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 玉音放送を振り返って

 昭和20年の8月14日、終戦(敗戦)が決まった最後の御前会議で昭和天皇は”国民に呼びかけることがよければ私はいつでもマイクの前にたつ”とその決意を明らかにした。そして陸軍の一部将校によるクーデターも画策されたが、無事玉音盤は確保され、15日の正午大東亜戦争終結に関する詔書が放送された。

 当日は暑いよく晴れた日であった。外では蝉の耳をろうするような鳴き声があった。まだ小学校の一年生であった私には、すべてのことを理解するにはいたらなかったが、”朕(ちん)は時運の赴くところ 堪え難きを堪え 忍びがたきを忍びもって万世のために・・・”というところが耳に残った。何がなんだかよくわからなかったが、なにか将来に明るさのようなものを感じた。その後来た食糧難のことは及びもつかなかった。(余談ながら次の年昭和21年の5月には食糧危機に関する第2の玉音放送が行われている)


さて今回改めてその詔書全文を読み返してみた。そうするといくつかの点で、”おや?”と引っかかるものを感じたのである。その事を取り上げて批判や非難をしたり、あるいはこうすべきだったのでは、と主張するものではない。ただ、70年を経て、感じたことを記しておく次第である。

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ”・・曩(さき)ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス

 この後段とくに「他国の主権を排して領土を侵す(おかす)ごときは朕が志にあらず、はやさしく言い換えると「私がもともと考えていたことではなかった”となる。これはおかしい。太平洋戦争は、あなたの御名御璽(ぎょめいぎょじ)ではじまったのではないですか、と言いたくなる。責任逃れに聞こえる。すこし脱線するが、最近の企業犯罪でも責任逃れが多い。以前堀江貴文氏のライブドア事件では、検察は氏を執拗に追い詰め、とうとう投獄までに至っている。ところが最近の東芝の不正取引事件はひどいもので、同社の歴代経営幹部がよってたかって粉飾決算に走った。ところが、どうしたものか大きすぎる企業のせいか、どうも経営責任をはっきりとらせる方向には動いていない。弱気をくじき、強きを助ける風潮である。まして国家レベルの犯罪となると、戦前から当たらず触らずである。日本の戦死者300万人、アジアの死者2000万人。海外にあった領土をすべて失い、工場はほとんど焼失または倒壊、国全体は焦土と化した。この責任は誰が、どうとったのか?

 天皇の発言は、当時のお気持ちがそのままでたのであろう。太平洋戦争当初はまだ、発現しようにも、情報は側近から入ってこず、さらに戦争末期には軍部に暗殺されるとの危機感も抱いておられたようだ。

 天皇責任論はともかく、本来の国家経営の責任をとらねばならない人間ははっきりしている。いいかえれば国家的な犯罪をおかしたのは誰か? A級戦犯という言葉はともかく軍部の主導的な地位にあった人間である。B、C級もおそらく大半。とくに陸軍を中心としてあらゆる情報を得て、解析し、それを元に執るべき戦略・計画・戦術を進言し、また命令を実行させた人たちである。またそれだけではない、戦地で戦うことなく病や栄養失調で亡くなった多くの戦士、彼らは現地のまた中央の無益な、無意味な作戦指示によるものである。インパール作戦、ミンダナオの戦い、サイパンでの全滅、アッツ島の玉砕・・・。企業経営という観点からみれば、これらの人的損失を發生させた中央の幹部は責任をとらねばならない。すこし脱線するが、靖国神社にはこういう責任をとるべ人間の魂も合祀されているのである。お国のためと言われて戦死した無辜の若者の霊に祈りを捧げるというならわかるが、こんな戦争犯罪人と一緒にされてはかなわない。中国や韓国からの反発以前に、国家レベルの犯罪としてまず国内で指弾さるべきである。

 (ご参考までに昨年のこの日に書いた一文を再掲させていただきます)

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ちなみに太平洋戦争では、将兵や一般民間人300万人が犠牲になった。アジアの人々も2000万人近い数字の人々が戦争の犠牲となった。畑元帥の言葉の関連でいえば、職業軍人なかんずく、戦争を指導した高級軍人は、いわば犯罪人にもひとしく、戦争の責任を取るべきで、到底”お国のために命を捧げた”などという存在ではないことを付記しておく。それまで得た領土を失い、多くの人命を奪い、また日本の国土を焦土と化し、産業を壊滅に追い込んだ。企業経営でいえば、全責任をとらなければならない。

こうしたことを考えれば、靖国神社問題は下記の石橋湛山の言葉のごとく、その帰趨は明らかである。

 ”《石橋湛山の言葉》”

 リベラリスト石橋湛山(たんざん)が、敗戦直後の1945年10月に、自らが主宰する『東洋経済新報」の社論で、靖国神社の廃止を提言した。60年余をすぎた今日でもその説得力はは失われていない。

”靖国神社はいうまでもなく、明治維新以来軍国のことに従い戦没せる英霊を主なる祭神とし、・・・・しかし今や我が国は国民周知の如き状態に陥り、靖国神社の祭典も果たして将来これまでの如き儀礼を尽くして営みうるや否や、疑わざるを得ざるに至った。ことに大東亜戦争の戦没将兵を護国の英雄として崇敬し、その武功をたたえることは、我が国の国際的立場において許されるべきや否や。

”大東亜戦争は万代に拭うあたわざる汚辱の戦争として、国家をほとんど亡国の危機に導き、・・遺憾ながらそれらの戦争に身命を捧げた人々に対しても、これを祭って最早「靖国」とは称しがたきに至った。もしこの神社が存続すれば「後代のわが」国民はいかなる感想を抱いて、その前に立つであろう。ただ屈辱と怨恨の記念として永く陰惨の跡を留めるのではないか」いま日本国民が必要とする のは、あの悲惨な戦争への反省であり、靖国神社のような「怨みを残すが如き記念物」ではない・・・”
 
この石橋湛山(昭和31年 内閣総理大臣)の言葉を意識されたかどうかは不明だが、昭和天皇は昭和63年4月、当時の富田宮内庁長官に対し、A級戦犯を合祀(ごうし)した靖国神社に対し強い不快感をしめした。”だから私はあれいらい参拝していない。それが私の心である”と発言した。これに関し、当時の小泉首相は”あれは個人の問題でありますから”と言い放った。ちなみに”靖国神社側としては「国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝える」場”としているが、上記で説明したように、国家のために尊い命を捧げたどころではなく、日本という国家を壊滅に追い込んだ張本人が祀られているところが問題なのである


 もう一カ所、ひっかかるところは、

 ”朕ハここにニ国体ヲ護持シ得テ・・・”

 という箇所である。この国体の護持というのは国家体制のことを言っていると思われるが、これがくせものである。天皇家を頂点として軍部に支えられた国家のことを言うのか? 戦時中も、しょっちゅう、お国のためと言われていた。ところが現実には若い人たちを戦場に引きずりだし、無意味な戦争で死に追いやっていた。こんな話もある。

 海軍大臣米内光政の密命により終戦工作に奔走していた東郷茂徳(外務大臣)著『時代の一面』によれば、特攻隊生みの親とされている大西軍令部次長は豊田軍令部総長らに対してー”今からでも、二千万人を殺す覚悟でこれを特攻に用うれば、決して負けることはありません」と強硬な意見を述べている。

 ー二千万の国民の命を奪って護持する国体とはなんだろうか? 国体とは国とは、この美しい国土とそこに働く人々の総和であって、天皇家も軍もなにも関係がないである。国が、お国のため、と言う時は注意しなくてはいけない。



 玉音放送のことばに対して、二三つぶやいてきました。本格的な戦後責任論についてはほとんどふれておりません。これに関しては『戦後責任論』(高橋哲也著 講談社学術文庫2005年4月)という優れた著作がありますので、それをご紹介するにとどめます。ただその中の言葉から一二、付け加えておきます。

 日本国内のことのみ語ってきました。2000万といわれるアジアの被害者の問題はまだ解決されていません。これは国際法の対象になると思いますは、国際法上、戦争犯罪や人道に反する罪には時効はないとされています

 またギリシャ悲劇の「アンティゴネーの悲劇」という戯曲を例に引いての議論があります。たとえA級戦犯の父であっても、子供にとっては父であり、手厚く弔いたいというのは自然でしょう。どんな死者でも遺族や友人には哀悼する権利があります。けれどもそのような弔いによって戦争責任が曖昧(あいまい)にされてはならないのです。


 ご清読ありがとうございました。




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5 コメント

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曖昧の民族 (龍峰)
2015-08-15 22:24:00
ゆらぎ 様

久しぶりです。お元気に万筆に復帰されて何よりです。
仰せのご意見、ごもっともです。あの放送の内容は多分に連合国の今後の日本への処置への言い訳が半分入っていたのでしょう。それよりか、戦争犯罪人を国民の手で裁いていないことが最大の問題だと思います。ドイツは連合国側の裁判を受け入れていない。但し、自らナチの人間を裁いている。筋の通る話である。善悪を問わず争いを避け、ぬるま湯に浸かることが一番居心地が良いとする国民の風潮がやはり一番問題だと思う。曖昧さでその時をすり抜け、臭いものには蓋をする。時が経てば臭いも無くなる式の考えがこの社会では通ってきた。これがやはり問題になっている。中国や韓国からの非難は多分にその事が一因であるように感じられる。
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ありがとうございました (ゆらぎ)
2015-08-20 20:05:39
龍峰様
 想い任せて書きなぐったような駄文をお読みいただき、ありがとうございました。始まりつつあった冷戦下で、東京裁判は天皇を免責し、日本のアジアに対する戦争責任を不十分にしか問わず、そこから戦後責任が今日まで持ち越されてしましました。だからいつまでも問題はなこるのですね。
返信する
玉音放送その一 (九分九厘)
2015-08-23 15:46:02
長文故に2回わけてコメント致します。

玉音放送における「国体の護持」
 昭和12年(1937)、文部省は『国体の本義』なる本を出して全国の学校や官庁に配布した。「国体を明徴にし、国民精神を涵養振作」することを目的に編纂されたもので、以降の教育の基本精神をまとめたものである。その文中に「我が国は現御神にまします天皇の統治し給ふ神国である」とあり、戦時下における「神国」の公的定義を端的に示している。神としての天皇をいだく日本は如何なる国をも凌ぐ「万法無比」の神聖国家であり、韓国併合も満州国建国も世界に「御稜威」を発揚する「大御心」の現れに他ならない。『国体の本義』はこのように説かれている。
 ブロブに書かれたように、玉音放送の最後の文
「朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ」・・・・「確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ」
 ここに書かれた「国体」は上述の本義を意味しているものと考えねばならない。「神州」なる言葉も後段においてみられる。ポツダム宣言受諾で敗戦を意味するが、この時点ではまだ神国なる国体の護持を意図していた。この定義を根底から覆したのがアメリカによって作られた新憲法である。「現御神」を否定され「象徴」なる地位に天皇は置き換えられた。日本には古代より多くのカミが存続していて、習俗としてのカミとの付き合いが国民に引き継がれている。戦後70年の今の時代に、天皇を「現御神」として崇める人はもはやいない。ところが、戦争で亡くなった英霊をカミとして崇める靖国神社が、日本の多くの神社の中で異彩な政治色を発揮しているのである。
 
 ここで問題とすべきは、日本人にとって神国とは何を意味するのか、崇めるカミとは如何なる存在であるのか、これらを歴史的に解明して現代の問題点を整理する必要がある。佐藤弘夫  は、神国日本の論理構造が古代以来、時代の変遷に伴い次々と変わり、その都度政治的な道具に利用されて来たことを指摘している。
・ 古代には日本列島には様々カミが存在し、それぞれのカミにまつわる神話が共存していた。
・ 大化の改新以降、天武・持統朝時に全国のカミは序列化されて神話も一つの形に体系化され、天照大御神を皇祖とする天皇制が始まる。天皇の地位の神聖化が図られ、神祇制度の整備が進む。
・ 上記の律令制は10世紀に入ると崩壊を始め、同時に伊勢神宮を頂点とする古代神祇制も崩壊する。天皇家・摂関家・大寺院は己の荘園獲得に奔走するが、カミを抱える神社もその例外ではなかった。神社も自由競争の原理で動くことになる。
・ 仏教は6世紀に日本に導入されるが、奈良時代以降「神仏習合」を深化させていく。その経過は仏教側が理論的にリードし、日本の神を仏教の六道の「天」の範疇に位置づけたところから、日本の神々も六道の中を輪廻する苦しみから脱していないものとした。かくして、日本の神々を次第にその支配下に収め、仏法の守護神として日本のカミ達を位置づける。この本地垂迹説は鎌倉初期までにその全ての形態を具体的に実現していく。本地垂迹の意味するところは、人間が認知し得ない彼岸世界の仏と、この現実世界に実在されると信じられたカミとの結合の論理である。興福寺と春日社、延暦寺と日吉社のごとく、中世においては伊勢神宮を除き、どの神社もその主導権は僧侶の手に委ねられた。
・ 律令時代には、天照大御神を頂点とする序列化されたカミ達が天皇の国土を守るという「日本=神国」という発想があった。『日本書紀』にもその記述があるが、その神国には仏教的要素は全く入っていない。
しかし、上述のごとく自由競争の原理で動いた院政期以降の神国意識を支えるカミ達は、相互に競争する人格的なものに変わっていった。神国の定義が「カミ達が占有する無数の神領」からなる集合体と観念されたのである。古代と中世では神仏が守るべき「国家」の意味が大きく転換することになる。中世において「神国」の意味するところは、垂迹がカミの姿で現れたという特殊な宗教形態を言っているのであり、太平洋戦争時にみられるような自民族中心的主義を高揚するような論理構造を持っていなかった。
・ 上述の如き中世の神国の枠の中で、天皇は如何なる役割を担っていたのかが問題となる。中世の天皇家は権門と並ぶ大荘園主と換言してもよいが、権門支配体制を維持するための非人格的な機関であり、都合よく祀り上げられた存在であった。従って、支配権力総体の意にそぐわない天皇は何時でも首がすげ替えられる運命にあった。しかし、制度としての天皇制は否定されることはなかった。そのわけは、古代以来の伝統と貴種を誇る天皇に変わるだけの支配力結集の核が見つからなかったこと、国王の地位を天皇家の家職とみなしていたことである。むしろ、天皇家を失うことは諸権門を位置づけるための座標軸の消失を意味することになる。天皇の不可侵は其の存在の実態とは無関係に、体制の矛盾が強まるほど、支配権力側によって反動的に強調されねばならないことになる。国家権力により神国思想が強調される理由はここにあった。鎌倉期における蒙古襲来時に神国思想が強く唱えられたのも、当時既に荘園制度の崩壊の体制危機が背景にあった。しかも、この神国思想を強く主導したのは本地垂迹説を唱える顕密権門の仏教僧侶であった。
・ 鎌倉時代に完成する中世的な神国思想は、中世後期の室町時代に入って変貌を遂げる。彼岸浄土に往生をするという他界観念が縮小して、現世こそが唯一の実態であるという考え方が広がる。日々の生活が宗教的価値から解放され、社会の世俗化が急速に進む。それはやがて江戸時代において一つの完成された姿を見せることになる。彼岸思想の後退は本地仏の観念の縮小を招き、垂迹のカミは特権的な地位を持たなくなった。カミも仏もこの世で等質なものと化した。
・ 戦国時代を経て、一向一揆やキリシタンは息の根を止められ、比叡山や興福寺などの大寺院も領地を没収され治外法権の特権を剥奪される。天下人は民衆や敵対勢力が信仰を口実にして反抗をするのを防ぐために、宗教的権威を自らの支配秩序に取り入れる。そして自らが神になることを目指した。「豊国大明神」「東照大権現」は伝統的な神祇形式を備えた神として祀られている。秀吉・家康がキリシタンを根絶やしにするのは日本が神国であることを理由とした。しかし、ここに至る発想は中世のもと全く異なるものである。カミや仏が人間を他界浄土にいざなうという発想は皆無で、万物の根源であるカミは人間の中に内在するものとする。そしてカミは「仁義」という根本道徳の形をとって、この世の人間社会・君臣秩序を支える働きをするものとされた。ここには人間が日常生活をする現世と、そこで機能する儒教倫理が浮上している。本地垂迹は他界と現世を結ぶ三次元の関係ではなく、現世を舞台とする二次元の平面世界での人間と神仏関係へと変化した。こうした神国論は室町時代に体系化された吉田神道の影響をうけているものとされる。
・ 江戸の中期以降、神道家や国学者によって神国論が論じられるようになるが、これらの主流は中世的な性格から日本絶対的優位性を強調する近世的な思想に転換していく。古代の日本=神国は天照大御神を頂点とする仁義化の序列を前提とし、この秩序に添う形で神国思想が主張された。中世では顕密体制の権力集団が便宜上天皇制を担ぎ上げて神国思想を利用した。江戸中期以降の近世社会では神国論の中身を規制する如何なる制約もなかった。神国の思想は権力批判に結びつかない限り自由に論じられた。思想や学問が宗教・イデオロギーから分離し独り歩きすることが可能になったのが近世であった。神国思想が様々な思潮と結びついて自己展開する客観的条件が近世になって初めて成熟することになる。
・ 政治権力が日本を神国である根拠をどこに求めるか様々な議論があったが、所詮古来伝統的な正当な根拠は天皇しか見つからなかった。江戸の後期に起こるこの考え方の主流は、明治維新を経て近代まで引き継がれることになった。維新政府は神国=天皇という基本線を継承しながらも中身を別なものに差し替えようと試みる。「神仏分離令」を出して、神祇信仰に対する仏教の影響を排除し天皇を中心に新生国家を立ち上げようとした。天皇を現御神として祭り上げ、その権威を支える神々の世界を再構築して、近代天皇にふさわしい新しい神話を創造してく必要があった。中世的な天皇は仏教的世界観に取り込まれていたわけであるから神仏分離を必要としたわけである。ここに純粋な神々の世界がはじめてこの列島に誕生することになった。
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玉音放送その二 (九分九厘)
2015-08-23 15:50:14
 佐藤氏の論を長々と引用要約してきたが、鎌倉新仏教をどのように位置づけるか等によって、その史観に異論があるのが現状である。資料によって客観的に検証していく佐藤氏の論に私は現在納得している。
 さて、ブログ本論に戻るが、日本が国家の体裁を整え始めたのが天武・持統朝とすれば以来現在は約1300年経過、近代国家に変身した明治維新以来約150年余を過ぎた。奈良時代はそれほど大昔のことではない。大戦以降70年の経過である。歴史を振り返見れば、大きくカミや神国に対する考え方が変遷していることが見えてくる。世界の帝国主義の流れを國際政治的に読みきれず敗戦国になり、その間ブログにあるように多数の人命を失ったことは痛恨の極みである。しかし、資源のない日本が竹槍で本土決戦直前まで戦おうとした事実は、その根底には近代明治以来の神国思想に洗脳された日本人が圧倒的に多数いたことである。当然、その洗脳過程に至るまでの政府・軍部の政治責任者の追求が行われるべきものである。本論冒頭に述べた「国体の本義」からすると天皇はその責任から逃れることが出来ない。結果論として進駐軍は新憲法において天皇制を廃止することなく象徴として存続させることとした。憲法九条の戦争放棄の問題はさておき、憲法第1条に於いて天皇を「日本国民統合の象徴」として、現御神の座からおろし普通の人間として定めたことは、日本歴史上大きな出来事である。後世の日本文化史にエポックとして記される史実となろう。もし天皇制が廃止されていたら、今の日本の姿は変わっていたであろうか。極めて興味のある問題である。
 戦後70年の今日、日本は国体としての倫理性ははっきりとしていない。憲法第一条での「象徴天皇」では統率できない時代を迎えている。日本の過去の歴史に照らしあわせても相応する時代も見つからない。
 和辻哲郎  は明治後半から昭和初期にかけて近代日本の国家主義を唱えた「国民道徳論」を批判し(大正8年)次のように主張する。「忠は君主と臣下と関係において直接的かつ私的に成り立つ徳目であって、天皇と一般国民の間にはあり得ない。天皇を直ちに欧州の君主と同一視することは間違いである。天皇の本質は権威にあって権力にあるのではない」「そもそも、アマテラスは権力者として己の意志を実現するのではなく八百万のカミと相談して、その決定は常に団体の意思を現しているのである。尊王思想とは個人としての天皇に忠誠を誓うのではなく、己が帰属する全体性に権威を認めることにある。こうした流れにより、時の為政者は次の為政者に<人倫的国家の理想>が継承される事を自覚することになる。」こうしてみると、現在の憲法第1条はまさに和辻哲郎の意を受けた如きものである。
 今年の敗戦日も女性閣僚3人が靖国神社に参拝した。「お国のために尊いお命を捧げられた英霊に安らかにあれとお祈りした」と口を揃えて言う。徴兵制により無理矢理に戦争に駆り出され無念に亡くなった人に対して、この言葉はいかなる意味を裏に持っているのかを問い糺したい。
まして、戦争を起こした責任者も合祀しているのである。靖国神社は英霊をカミとして祀っているのである。こうした発言は、長いカミの歴史から見れば、何か浅薄な感じと印象を受けざるを得ない。発言の真意が分からないのである。本人は今の政治を担う為政者の一人なのである。
 いずれにせよ、私見であるが憲法第1条も現在の日本の国体の骨組みにはなりえない。イスラムは戒律により、キリスト教は教義により、ある一定の社会的倫理性を有すると考える。現在の日本仏教は葬儀屋であり且つ個人の死後救済を担っているだけである。その他の宗教も雑居状態とみなしてよい。ただ、日本人として自覚できる手段として認識できるのは、地方各地にそれぞれの個性を有する寺社での祭りであり、その他NPOなど国民の活動である。町おこしの意味もあるであろうが、日本伝統の祭りを掘り起こし、その経過から互いの人間尊重を深め合うことが行われている。日本の古いカミ達が新たに目覚めて来ていると見たい。そしてその集合体が今後の日本の思想的骨組みを作り上げていくものと考えたい。
 
 今後の見通しはよくわからないのが正直なところである。私は、まだまだ歴史の浅い日本社会にたまたま生まれきたのだとしみじみ思う。
                      以上

佐藤弘夫『神国日本』ちくま新書、2006
和辻哲郎『日本倫理思想史、(1),(2)』 岩波文庫、2011
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遅ればせのお礼 (ゆらぎ)
2015-08-27 20:16:48
九分九厘様
 雑文をお読みいただきありがとうございました。その上、長文のコメントを賜り厚くお礼申し上げます。カウンターコメントをさせて頂くほどの理解力も知識も持ちあわせていません。ただ、すこし感じるところを述べさせて頂きます。

 「国体の護持」ということは神学論争的でよくわかりません。だたポツダム宣言受諾で天皇制が残ったことは事実です。それが良かったのか、どうか分かりませんがは終戦直後の国民の姿を思い返しますと、地方に天皇が巡幸されたとき、多くの民衆は地面に頭を擦りつけてひれ伏していました。最近になっても、二重橋での参拝のに多くの人が詰めかけます。これもいい事か、そうではないことかは別にして、日本人は心の拠り所として天皇を尊敬しています。とくに今上陛下・皇后陛下の沖縄訪問などの言動に多くの人びとが共感し、尊敬の念をもって見ています。これは次の世代(天皇・皇后陛下および国民にとって)どのようの変化してゆくか分かりません。しかし、前述のように人間というものは心の拠り所のようなものが必要なのでしょう。いたずらに天皇制を否定する必要もないと思います。ただ、それを必要な時は利用し、気に要らぬ時は無視する政治家たちには注意が必要でしょう。昨今の女性閣僚の考え方は、まったく理解できません。もっと太平洋戦争とそれが引き起こした問題について深く勉強して欲しいものです。
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