
1960年代から10年余にわたったベトナム戦争を語る時、この大冊を忘れることはできない。1995年に書かれた『アメリカ・ジャーナリズム』(下山進 丸善ライブラリーというアメリカの調査報道についての優れた著作を書いた下山進さんは、その本の冒頭(プロローグ)で、当代一ジャーナリストとしてデイヴィッド・ハルバースタムを登場させている。多分1993年の秋のことであろうが、留学を終え日本に帰る直前に彼と向い合っているのである。彼(D・ハルバースタム)は、こう言っている。
”アメリカでジャーナリズムと言えば。権威に挑戦し、疑問を投げかけ、物事の意味を捉える(analize)ということです。日本のジャーナリズムは、広報されたことをそのまま伝えるという側面がまだまだ強いという気がしました。・・・アメリカの教育は物事の意味を捉え、教授に質問させ、挑戦することを教えます。日本の教育は、それとは反対に、まず先生のいうことは正しいものだとして覚えることから始める。アメリカのジャーナリストと日本のジャーナリストの違いは、両国の教育の違いによるものではないかと私は考えています。”
このような識見・卓見を持ったハルバースタム(ピューリッツアー賞)が、アメリカが何故あのベトナム戦争の泥沼にはまってしまったのか? ケネディ以下の輝かしいエリートたちがどこでどうして間違った意思決定を犯したのか、またどうして途中で引き返せなかったのかを、500回にも及ぶ関係者へのインタビューを基に追求したものである。
著者渾身の力作であるので、簡単な要約ですますのではなく、長くなるかもしれないが、すこし突っ込んで内容をご紹介する。その上で、現在に生きる私たちが、今日なお学び取るものがあるのではないか、若干の考察を試みた。
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(ベトナム戦争関連 略年表)
1945年09月・・・仏軍 、サイゴンを制圧
1954年05月・・・ディエンビエンフーで仏軍降伏
1961年01月・・・ケネディ、第35第大統領に就任
1962年02月・・・米、南ベトナム援助軍司令部設置
1963年11月・・・ケネディ大統領、ダラスで暗殺さる。ジョンソン大統領就任。
1964年08月・・・米駆逐艦、北ベトナム哨戒艇と交戦(トンキン湾事件)
・・・ジョンソン、北への報復爆撃命令(米軍のベトナム介入)
1965年01月・・・米機、北ベトナムのドンホイを爆撃(北爆開始)
03月・・・米軍の恒常的北爆開始(ローリング・サンダー作戦)
10月・・・米国内のベトナム反戦運動がはじまる。
1966年04月・・・南ベトナム各地で反政府デモ激化
1967年11月・・・マクナマラ長官更迭
1968年01月・・・北・解放戦線がテト攻勢(南部主要土地を一斉攻撃)
03月・・・南ベトナムのソンミで米軍による村民大虐殺事件起こる。
ジョンソン大統領、大統領選不出馬を表明
11月・・・ニクソン、大統領戦で当選
1975年04月・・・南ベトナム・ミン政権、無条件降伏。北ベトナム軍、サイゴンへ無血入場。ベトナム戦争の集結。
注)戦死者5万8000人。ベトナム人の犠牲者は200万人を超す。この中に韓国軍(約3万)によるベトナムの犠牲者も含まれる。1966年のサンディ省攻撃では大量ベトナム人の虐殺があった。婦女子は老若を問わず、集団レイプされている。いずれも、枯葉剤やクラスター爆弾。対人地雷などもふくめ、アメリカや韓国からの陳謝も賠償もない。

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本書は、「ケネディとエスタブリッシュメント」という章から始まるが、文字通りケネディ政権には、これからアメリカのニューフロンティアを切り開くのだという期待のもと、アメリカの英知ともいうべき知的エリート層、東部に根城をもる知的エスタブリッシュメントが参集した。原題にあるベスト&ブライテストは、ケネディが集め、ジョンソンが受け継いだ「最良にして最も聡明な」人材と絶讃を浴びた人々であった。マクジョージ・バンディ/ロバート・マクナマラ/ウオルト・ロストウ/ディーン・ラスクらは、いずれもアメリカ社会の中・上流家庭に生まれ、優れた教育環境で育ち、時には神童とも呼ばれ、またローズ奨学金(・・・)としてイギリスに学んだ。大学の名前を聞くだに、ものすごい。ハーバード、エール、オックスフォードで学んだ・・・。まさにスーパー・エリートたちだ。
著者ノートからの言葉を借りれば、”これら多くの人びとが、南北戦争以来アメリカを襲った最大の悲劇と考えられる戦争の生みの親でもあった”、のである。 1968年の大統領選挙戦がベトナム戦争を巡って大混乱に陥った様子の取材を終え、ジョンソン政権とそれを引き継ごうとした民主党陣営が、この戦争という争点のために一敗地にまみれるのを目撃した直後、この本の作業が始まった。”なぜ あのような事態になったのか、諸処の決定はどのような背景のもとに、いかにくだされたのか、何故彼らはルビコン川を渡ったのか、私は知りたかった”
(時代の背景について)
1947年、アチソンが国務次官を辞任するとマーシャル(当時国務長官)はその後任にロヴェットを選んだ。(ロバート・A・ロヴェット。スティムソン・マーシャル・アチソン時代という、戦中・戦後の、あの成功に満ちた輝かしい過去を現在に結びつける偉大な生存者であり、これから大統領に就任するケネディにどのような人材を登用すべきか助言をしたエスタブリッシュメントの一人であった)
エスタブリッシュメントの指導者たちは、過ぐる年月が見事な大成功であったと感じていた。自分たちは、眠れる民主国家を覚醒させ、日本とドイツに対する勝利を導き、戦後はヨーロッパにおいてロシアの進出を阻止し、西ヨーロッパを復興させたのだ。マーシャル計画は、共産主義を食い止め、ヨーロッパ諸国を破壊と腐敗から立ち直らせ、経済復興の奇跡を生んだ。 「やってやれぬことはない」というアメリカ人固有の自身も手伝って、彼らにはマーシャル計画の成果を実際以上に評価する傾向があった。奇跡をもたらしたのが、ヨーロッパの人々の努力であるという事実を認めるのではなく、自分たちが采配を振り、自分たちが成功を生み出したのだと、彼らは信じて疑わなかった。彼らにしてみれば、歴史が彼らの正しさを証明しているのであった。・・・ロヴェット自身、1940年代の後半について、「あれはまさに奇跡に近い時代であった、行政府と議会が一致団結し、マーシャル計画、ポイントフォア(発展途上国援助)」、NATOを次々と誕生させていった輝かしい時代だった」と回想している。
ロヴェットとケネディとの対話の中で、さまざまな名前が上がっていった。のちにケネディ・ジョンソン政権下で国務長官を務めるディーン・ラスク、フォード社に若手で後に国防長官になるロバート・マクナマラ、・・。
1958年頃の大統領選挙前の活動でのケネディの評価は、1960年の大統領選挙で党の指名を受け、評価は一変した。選挙が本調子にさしかかったころ、彼の演説には新しい自信が芽生え、国民も求めて耳を傾けようとするようになった。彼には、自分自身と国民の運命を担っているのだという気迫が感じられてきた。あの『世論』という名著で有名なリップマンは、「フランクリン・ルーズヴェルト以来、この若者ほどアメリカ国民の心を捉え、揺るがし、高揚した人物はいないと」賞賛しはじめた。リップマンは、しかるべきポストにマクジョージ・バンディを推薦した。ラスクは次第に重要な地位に登っていった。国家安全保障担当の大統領補佐官になる。バンディの補佐官には、ウオルト・ロストウがなった。・・・
彼らがワシントンに携えてきたのは、アメリカの選民思想の高まりと興奮であった。国内においてアメリカの夢を実現するというよりは、世界各地にその夢の実を結び、国際社会におけるアメリカの役割に新たなる強い躍動的な精神を吹き込み、アメリカ・ナショナリズムの新しい一頁を開くために、アメリカ各地から最高、最良の人々が召喚されたのだ、という興奮である。・・・アメリカ全盛時代を思わせるこの傲慢さは、その時代が傾き、実際、空中分解してしまったあとでもケネディグループの人々に残っていた。
(ベトナム戦争への政策意思決定とその過ち・愚行)
(1)まず挙げなければならないのは、ベトナムという国家についての理解の欠如と、己の力への過信である。
(2)次にベトナムの戦場に関する情報の一方的コントロールとマスメディアの操作
(3)さらに文民が軍部をコントロールできるとの思い込み
(以下 その②へつづく)
後編が楽しみ、待たれます。
東部のwaspのエリート集団がなぜ深みはまり、過ちをおかしたのか、論の展開が楽しみです。根元はシンプルかも知れません。
せっかく関心を持っていただいたのに、続編を書くのに手間取りました。ご容赦ください。10月5日、アップしております。