
”朝顔の紺のかなたの月日かな” (石田波郷) (写真は、画家森田りえ子の「朝顔」)
エッセイ 「色遊び」~青という色
青という色のことをあれこれ書きつづりました。この目で見た絵の中の青。日本人の愛した藍という色。木版画や日本画の青。その青が文学作品の中でどのように描写されているかなどなど。そして最後には、自然界の素晴らしい青をご紹介します。お楽しみいただければ幸いです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
なぜか、身近に青という色を好む女性が何人かいる。それも、みな素敵な人ばかり。そのせいか、青という色が氣になるのである。徳島の藍染めの工房を訪れたこともあり、藍という色は好きである。また志村ふくみさんの藍染めにかける情熱にも感じ入っている。 日本の古典などにあらわれる伝統色や近代以降に広く用いられた慣用色から、青に属する色を拾ってみる。
藍色/青/浅葱色/かめのぞき(甕覗き)/紺色/紺青/群青色/空色/青磁色/露草色
納戸色/花色/縹色(はなだいろ)/二藍/水色/瑠璃色/・・・
(群青色)
染織家(植物染)の専門家である吉岡幸雄さんの労作『日本の色辞典』では、更に詳しく青という色について述べられている。 そのような色を水彩絵の具ではどういうのがあるのだろうか。水彩画を始めた頃、混色ということを少し研究してみたことがあって、色の濃淡、交じり合い、ほかの色の塗り重ねなど、とても気になる。
セルリアンブルー/コンポーズブルー/プルシアンブルー/コバルトブルー/ウルトラマリンディープ・・・・
それから吉岡さんの本のおかげか、最近は日本の色の表現の深さにはまっている。だから詩歌の中でも、色の名前が出てくる歌は気になるのである。たとえば、
”縹(はなだ)から茜に変わる海越しの富士を収める教室の窓”(愛川弘文)
”赤、茜、紅、辰砂(しんしゃ)、黄、山吹 あまたの色を含みて一葉(ひとは)”
(白鳥せいり)
このうちの「縹」(はなだ)という色は余りおなじみではないかもしれない。が、古くは藍で染めた色の総括のように用いられた。藍よりうすく、浅葱色より濃い色を指す。
奈良時代には藍の染色技法はすでに完成していたとみえ、正倉院宝物の中にいくつもの遺品を見ることができる。なかでも、印象的なのは、「開眼縷」(かいげんのる)と記された縹色の紐の束である。天平勝宝4年(752年)に聖武天皇の発願によった東大寺の大仏が完成し、盛大な法要が営まれた。大仏に眼を点じ、魂をいれるのである。この縹の縷は、太さ5ミリ、長さ200メートルあまりの絹の紐で、一方を大仏の眼を描くための開眼筆に結びつけ、もう一方を人々が参集した前庭に配する。それに列席した人々が手を添え、全員が開眼の功徳に預かったのである。今なお、美しい瑠璃色というにふさわしい紐で、藍の色をくっきり残している。
(『日本人の愛した色』(吉岡幸雄 新潮社)より
(開眼縷)
(ベロ藍)色のことは詳しいようなことを言っておきながら、ベロ藍のことは、これまで知らなかった。実は好きな版画家川瀬巴水が多用した青(藍の色)のことである。彼の作品<馬込の月>などに、その色の素晴らしさを見ることができる。巴水の作品の詳しいことは後述する。このベロ藍はベロリン藍(ベルリン藍)ともいわれ鮮やかな発色の藍色である。プルシャンブルーとも言われる。そして遡れば、江戸時代に葛飾北斎がこれを使って富士の絵を描いたのである。日本橋馬喰町の版元、西村永寿堂は当時の富士山登山ブームにあやかって「富嶽図」を売りだせば大当たりすると目論んだのである。そして71歳を迎えた北斎に富嶽図36景を描くようにすすめた。北斎がやる気をそそられたのは、当時まだ入手困難でしかも高価なベロ藍を買い付け、北斎に渡したからである。これはドイツで偶然発見されたフェロシアン化鉄の色材で、文化4年に長崎にオランダ船で持ち込まれている。
北斎が永寿堂から渡されたベロ藍を水で溶いて塗布してみると、透き通るような明るい、美しい青が紙にでた。
”これだ。この青を、植物繊維から採れる濃い藍とかけあわせれば、素晴らしい空や水が描ける。絵の具は絵師の命だ、小躍りする北斎をみて、永寿堂は「富嶽三十六景」の成功は間違いないと確信した”
水彩画ではこのベロ藍、プルシャンブルーは群青といわれる青で、粒子が細かく明度、彩度ともに低い。この色を見て喜んだ北斎も気持の一端はアマチュアの私にも理解できる。水彩画の師匠が、あるとき見たこともないような鮮やかな青の絵の具をもって来てみせてくれた。”ラピスラズリ”という青である。少し脱線することをお許しいたきたい。
フェルメールの絵には鮮やかな青が見られる。それは「フェルメール・ブルー」と呼ばれる。用いられた絵の具は、天然「ウルトラマリンブルー」。非常に貴重な鉱石「ラピスラズリ(Lapis lazuli)」を原材料としている。17世紀には金よりも貴重であったといわれ、「天空の破片」とも呼ばれた。ラピスラズリは、ヨーロッパの近くではアフガニスタンでしか産出せず、それが海路で運ばれたため、「海を越えて運ばれる青」という意味で「ウルトラマリン」と呼ばれた。ウルトラマリンブルーは通常の青い絵の具の百倍の値段がついたとされる。通常の画家は限られた部分にしか使わない貴重な絵の具だったが、フェルメールはこのウルトラマリンブルーをふんだんに使った。ちなみに神戸にある文具センターの「ナガサワ}では、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」に使われたウルトラマリン・ブルーを使用したインクを開発して、販売している。粋なことをするものだ。

これは今でも高価なのであるが、水彩の絵を描いていて、どこかにラピスラズリの青を、ぽんと、一点だけ置くと、まったく絵の印象が違って魅力的になるのである。それを自分で体感しているので、北斎の気持ちは痛いほど伝わってくる。
北斎が心血を注いだ「富嶽三十六景」のうち、最も力をいれたのは「神奈川沖浪裏」と言われる。

この絵の詳しいことはさておき、寄せる波も引く波も、波の裏側が藍の濃淡で描かれ、白い波頭に胡粉と透明な明るいベロ藍が混ざり合い、波の裏側の濃い藍との対比が鮮やかである。
(川瀬巴水のベロ藍)さて、時代は下って近代になるころ(浮世絵)版画は衰退していたが、大正に入ると、川瀬巴水(はすい)たちが新版画を起こし、新たな風を吹き込んだ。この川瀬巴水は東京銀座8丁目にある渡辺木版美術画舗の渡辺庄三郎と出会い、その絶大なる支援によって世に出たのである。川瀬巴水は、ベロ藍の青を愛していた。巴水は空の青、水の青にこの染料を使い、特に夜景の描写にベロ藍を不可欠とした。
”巴水の時代には、多くの顔料や染料も混ぜて使うこともあったと思いますが、巴水はベロ藍のもつ透明感に早くから気づいていました。淡い青を何度も摺り重ねて深い青にします。その青は決して濁ることなく、透明なまま深さを増してゆくのです”

こう話すのは東京銀座に店を構える渡邉木版美術画舗の渡邉章一郎。彼の祖父渡邉庄三郎は巴水の版元っであり、新版画隆盛の時代を築いた。写真の『馬込の月』も摺ること30回以上。月の周りの明るい青から、黒松の深い深い青まで、巴水の青が余すことなく表現されている。~雑誌サライの2015年6月号の記事からとらせていただきました。
この絵の、グラデーションのかかった青(ベロ藍)はなんとも言えぬ深みがある。巴水代表作の一つといわれる所以である。ちなみにこの渡邉画舗は東京で仕事をしていころ何度も足を運んでおり、すっかり巴水の作品に魅せられている。
(速水御舟の青)「炎舞」や「名樹散椿」で知られる日本画の俊秀、速水御舟は大正期に活躍したが惜しくも42歳で早逝してしまった。その彼が、わずか24歳の時に描き上げた傑作「洛北修学院村」は青一色の世界を描いている。青という色のことが気になり、一文を書いてみようかと思っていた五月の終わりごろ、東京は世田谷美術館で、<速水御舟とその周辺~大正期の日本画の俊英たち?という絵画展が開かれているのを知った。見たい絵があれば、福岡であろうとワシントンであろうとどこへでもすぐ出かけてゆく行動派のわたし(ある意味、おっちょこちょい)は、直ちに上京し、世田谷は砧にある美術館の足を運んだ。美術館に入ってすぐのところに、「洛北修学院村」の絵がかかっていた。吸い込まれるような青の世界。夜明け前の薄闇に沈む京の山里が描かれている。青でまとめられた絵はなにか光り輝くような幻想の世界である。この絵の前をいったり、きたり。離れたり、近づいたり。手前はすこしぼけ気味なところもある、遠方の山が精密に描かれていたり不思議な絵である。

それは絵の構図や色の構成、濃淡などいろいろな見方があるが、それはともかく、御舟はこの絵を群青という絵の具で描いた。単なる群青一色ではない。”当時、群青中毒にかかった”ともらしていたくらい、群青という色を好んでいたが、実際に描くときは、群青/緑青/焼群青という絵の具を一つの皿の上で混ぜあわせるという技法をとった。いずれも粒子が大きく、溶け合うことがないが、画布の上におかれるとそれぞれの粒子が光を反射して、美しく発色した。しかもシーンに応じて、絵の具の配合具合も変えている。とうてい写真の画像ではわかりにくいが、たとえようもなく美しい静謐な青ワールドである。
(井上よう子の場合)さて現代の絵のことである。西宮在住の気鋭の画家、井上よう子は青を多用する。というより、”青の画家”と言うべく、その作品はほとんど青一色のアクリル画である。ご本人に聞くと、ウルトラマリン・ブルーがベース。それに黄土系のローシェンナを混ぜることもあるようだ。ウルトラマリンは明度こそ低いが、彩度がずば抜けて高い。青といえばセルリアン・ブルーがあるが、より明るくさわやかな色なので、時に使っているのではないかと勝手な推測をしている。
(行くべき道をさがして)
井上よう子は神戸の北野にあるギャラリー島田で、時折その絵を見ることがある。そのギャラリーを運営する島田誠氏は若手の芸術家を励まし、応援することに力を注いでいる。稀有な方である。井上について1989年に初めて会った時の印象として、こう言っている。
”京都芸大の院生時代の作品から、すでにアンドリュー・ワイエスを思わせるような気品ある描写力と遠くを夢見るような余韻のある画面に十分な才能を感じた”
”井上よう子の青への愛着は幼少のころからであり、身辺に至るまで青にこだわる。
・・・繊細きわまりない音色(色彩)をもとめて純粋なブルーを混色することなく、、丹念に透明感を失わないように塗り重ね、ウオッシュし、また重ね、ペーパーでこすりだし、またドリッピングしたりを繰り返して、自分のイメージする空間を創る・・”
井上の青は、どういう意味、思いが込められているのだろう。彼女の絵にはじめて遭遇したときは、なにかやや暗い、あるいは心の沈潜した静けさのようなものを感じた。決して明るいという印象ではなかった。画家自体にお目にかかってみると、明るい、さわやかなひとであるのに・・。 じつは、それは彼女自身が経験してきたさまざまな悩みや苦しい日々、家族の問題であったり、自らの問題であったり・・・・、そういう境遇や人生体験に基づいたものであったようだ。彼女の言葉をかりれば、
”専門学校で色彩学の授業を担当したとき、色の心理に関する本を読んだのですが、「青は喪失と再生の色」と書いてあり、はっとしました。一番多感な思春期に姉を亡くしたとき、大きな喪失感があって、そこから再生していこうとする思いが、ブルーを使い続けることにつながっているのかなと思ったんです。”
実際最近の作品を見ると、孤独や絶望から明るい未来への期待につながっていくような印象を感じる。



(文学作品の中の青)井上の言う”喪失と再生”という言葉を読んだ時、芝木好子の小説『群青の湖』のことを思い出した。琵琶湖のほとりに一人嫁いできた女性の遍歴の物語。旧家の重みと夫の背信から逃れようと、一度は湖で命を絶とうとさえする。しかし、かつて染や織りの技を競い合った仲間に、暖か迎えられ、励まされ、ふたたび自分を取り戻す。病死した嫁ぎ先の義兄が惹かれた琵琶湖の、深海のように青く妖しい湖のことが忘れられない。彼女は、その群青の永遠の神秘を、その片鱗でもよいから一枚の布に留めたいと願う。その湖の色には引き込まれるようなものがある。染織の仲間の浜尾は言う。
”湖は不思議だ。陽が射すと珠玉のように明るむが、陽が一瞬かげると一変して闇に近づく濃紺になる。。吸い込まれそうだ・・・”
そして、ここは死者の眠る奥津城だ、とい主人公に対し、次のように言う。
”ぼくは奥津城とは思わない。秘した湖がだんだんこっちへ向かってくる精気を感じる。湖が突然消えないように、よく見ておこう。色は顔料に群青に糊を加えて染めてみようか。
この言葉を聞いた主人公は、”死の淵の色を、生きた色に変えてゆこうとする彼に、瑞子は感嘆した” そしてこのよう言う。
”今私に見えているのは、湖の藍の生命と、浄化の雪と枯れ葦の明るい茶なの。清らかな鎮魂の布が織れたら、私も過去から解放されて自由になれそうな気がするの・・”
そうなのだ。こういう生きた、明るい青がいいなあ! 機会があれば、この深秋か初冬、大気がが澄み切った頃に琵琶湖へ足を運んで、そんな群青の色を見てみようと思っている。
(奥会津の青)最後に自然界の青をご紹介しよう。私の愛する会津、それも奥会津の写真家星賢孝さんの撮影になるものだ。水害でいまだ寸断されている只見線の復興を粘り強く願う星さんはさまざまな奥会津の風光を写真で世に送り出している。これはその最近の一枚。只見線の早戸駅。”夜の帳の落ちゆく前に”と題されている。星さんによれば、「ブルーモーメント」と呼び、日没直後の10分間程度の間に辺り一面がブルーの光に包まれる現象という。写真の技術は言うまでもなく、またおそらく名機を使用して撮影されているであろうが、こういう写真を撮るとき、粘り強くシャッター・チャンスを待つ忍耐心があってこその一枚と思う。雨の日も風の日も、氷雪の日も待ち続けた一枚である!

~~~~~終わり~~~~~
長々と語りました。いやあ! 青の色って魅力がありますね。お楽しみいただけたでしょうか?
エッセイ 「色遊び」~青という色
青という色のことをあれこれ書きつづりました。この目で見た絵の中の青。日本人の愛した藍という色。木版画や日本画の青。その青が文学作品の中でどのように描写されているかなどなど。そして最後には、自然界の素晴らしい青をご紹介します。お楽しみいただければ幸いです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
なぜか、身近に青という色を好む女性が何人かいる。それも、みな素敵な人ばかり。そのせいか、青という色が氣になるのである。徳島の藍染めの工房を訪れたこともあり、藍という色は好きである。また志村ふくみさんの藍染めにかける情熱にも感じ入っている。 日本の古典などにあらわれる伝統色や近代以降に広く用いられた慣用色から、青に属する色を拾ってみる。
藍色/青/浅葱色/かめのぞき(甕覗き)/紺色/紺青/群青色/空色/青磁色/露草色
納戸色/花色/縹色(はなだいろ)/二藍/水色/瑠璃色/・・・

染織家(植物染)の専門家である吉岡幸雄さんの労作『日本の色辞典』では、更に詳しく青という色について述べられている。 そのような色を水彩絵の具ではどういうのがあるのだろうか。水彩画を始めた頃、混色ということを少し研究してみたことがあって、色の濃淡、交じり合い、ほかの色の塗り重ねなど、とても気になる。
セルリアンブルー/コンポーズブルー/プルシアンブルー/コバルトブルー/ウルトラマリンディープ・・・・
それから吉岡さんの本のおかげか、最近は日本の色の表現の深さにはまっている。だから詩歌の中でも、色の名前が出てくる歌は気になるのである。たとえば、
”縹(はなだ)から茜に変わる海越しの富士を収める教室の窓”(愛川弘文)
”赤、茜、紅、辰砂(しんしゃ)、黄、山吹 あまたの色を含みて一葉(ひとは)”
(白鳥せいり)
このうちの「縹」(はなだ)という色は余りおなじみではないかもしれない。が、古くは藍で染めた色の総括のように用いられた。藍よりうすく、浅葱色より濃い色を指す。
奈良時代には藍の染色技法はすでに完成していたとみえ、正倉院宝物の中にいくつもの遺品を見ることができる。なかでも、印象的なのは、「開眼縷」(かいげんのる)と記された縹色の紐の束である。天平勝宝4年(752年)に聖武天皇の発願によった東大寺の大仏が完成し、盛大な法要が営まれた。大仏に眼を点じ、魂をいれるのである。この縹の縷は、太さ5ミリ、長さ200メートルあまりの絹の紐で、一方を大仏の眼を描くための開眼筆に結びつけ、もう一方を人々が参集した前庭に配する。それに列席した人々が手を添え、全員が開眼の功徳に預かったのである。今なお、美しい瑠璃色というにふさわしい紐で、藍の色をくっきり残している。
(『日本人の愛した色』(吉岡幸雄 新潮社)より

(ベロ藍)色のことは詳しいようなことを言っておきながら、ベロ藍のことは、これまで知らなかった。実は好きな版画家川瀬巴水が多用した青(藍の色)のことである。彼の作品<馬込の月>などに、その色の素晴らしさを見ることができる。巴水の作品の詳しいことは後述する。このベロ藍はベロリン藍(ベルリン藍)ともいわれ鮮やかな発色の藍色である。プルシャンブルーとも言われる。そして遡れば、江戸時代に葛飾北斎がこれを使って富士の絵を描いたのである。日本橋馬喰町の版元、西村永寿堂は当時の富士山登山ブームにあやかって「富嶽図」を売りだせば大当たりすると目論んだのである。そして71歳を迎えた北斎に富嶽図36景を描くようにすすめた。北斎がやる気をそそられたのは、当時まだ入手困難でしかも高価なベロ藍を買い付け、北斎に渡したからである。これはドイツで偶然発見されたフェロシアン化鉄の色材で、文化4年に長崎にオランダ船で持ち込まれている。
北斎が永寿堂から渡されたベロ藍を水で溶いて塗布してみると、透き通るような明るい、美しい青が紙にでた。
”これだ。この青を、植物繊維から採れる濃い藍とかけあわせれば、素晴らしい空や水が描ける。絵の具は絵師の命だ、小躍りする北斎をみて、永寿堂は「富嶽三十六景」の成功は間違いないと確信した”
水彩画ではこのベロ藍、プルシャンブルーは群青といわれる青で、粒子が細かく明度、彩度ともに低い。この色を見て喜んだ北斎も気持の一端はアマチュアの私にも理解できる。水彩画の師匠が、あるとき見たこともないような鮮やかな青の絵の具をもって来てみせてくれた。”ラピスラズリ”という青である。少し脱線することをお許しいたきたい。
フェルメールの絵には鮮やかな青が見られる。それは「フェルメール・ブルー」と呼ばれる。用いられた絵の具は、天然「ウルトラマリンブルー」。非常に貴重な鉱石「ラピスラズリ(Lapis lazuli)」を原材料としている。17世紀には金よりも貴重であったといわれ、「天空の破片」とも呼ばれた。ラピスラズリは、ヨーロッパの近くではアフガニスタンでしか産出せず、それが海路で運ばれたため、「海を越えて運ばれる青」という意味で「ウルトラマリン」と呼ばれた。ウルトラマリンブルーは通常の青い絵の具の百倍の値段がついたとされる。通常の画家は限られた部分にしか使わない貴重な絵の具だったが、フェルメールはこのウルトラマリンブルーをふんだんに使った。ちなみに神戸にある文具センターの「ナガサワ}では、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」に使われたウルトラマリン・ブルーを使用したインクを開発して、販売している。粋なことをするものだ。

これは今でも高価なのであるが、水彩の絵を描いていて、どこかにラピスラズリの青を、ぽんと、一点だけ置くと、まったく絵の印象が違って魅力的になるのである。それを自分で体感しているので、北斎の気持ちは痛いほど伝わってくる。
北斎が心血を注いだ「富嶽三十六景」のうち、最も力をいれたのは「神奈川沖浪裏」と言われる。

この絵の詳しいことはさておき、寄せる波も引く波も、波の裏側が藍の濃淡で描かれ、白い波頭に胡粉と透明な明るいベロ藍が混ざり合い、波の裏側の濃い藍との対比が鮮やかである。
(川瀬巴水のベロ藍)さて、時代は下って近代になるころ(浮世絵)版画は衰退していたが、大正に入ると、川瀬巴水(はすい)たちが新版画を起こし、新たな風を吹き込んだ。この川瀬巴水は東京銀座8丁目にある渡辺木版美術画舗の渡辺庄三郎と出会い、その絶大なる支援によって世に出たのである。川瀬巴水は、ベロ藍の青を愛していた。巴水は空の青、水の青にこの染料を使い、特に夜景の描写にベロ藍を不可欠とした。
”巴水の時代には、多くの顔料や染料も混ぜて使うこともあったと思いますが、巴水はベロ藍のもつ透明感に早くから気づいていました。淡い青を何度も摺り重ねて深い青にします。その青は決して濁ることなく、透明なまま深さを増してゆくのです”

こう話すのは東京銀座に店を構える渡邉木版美術画舗の渡邉章一郎。彼の祖父渡邉庄三郎は巴水の版元っであり、新版画隆盛の時代を築いた。写真の『馬込の月』も摺ること30回以上。月の周りの明るい青から、黒松の深い深い青まで、巴水の青が余すことなく表現されている。~雑誌サライの2015年6月号の記事からとらせていただきました。
この絵の、グラデーションのかかった青(ベロ藍)はなんとも言えぬ深みがある。巴水代表作の一つといわれる所以である。ちなみにこの渡邉画舗は東京で仕事をしていころ何度も足を運んでおり、すっかり巴水の作品に魅せられている。
(速水御舟の青)「炎舞」や「名樹散椿」で知られる日本画の俊秀、速水御舟は大正期に活躍したが惜しくも42歳で早逝してしまった。その彼が、わずか24歳の時に描き上げた傑作「洛北修学院村」は青一色の世界を描いている。青という色のことが気になり、一文を書いてみようかと思っていた五月の終わりごろ、東京は世田谷美術館で、<速水御舟とその周辺~大正期の日本画の俊英たち?という絵画展が開かれているのを知った。見たい絵があれば、福岡であろうとワシントンであろうとどこへでもすぐ出かけてゆく行動派のわたし(ある意味、おっちょこちょい)は、直ちに上京し、世田谷は砧にある美術館の足を運んだ。美術館に入ってすぐのところに、「洛北修学院村」の絵がかかっていた。吸い込まれるような青の世界。夜明け前の薄闇に沈む京の山里が描かれている。青でまとめられた絵はなにか光り輝くような幻想の世界である。この絵の前をいったり、きたり。離れたり、近づいたり。手前はすこしぼけ気味なところもある、遠方の山が精密に描かれていたり不思議な絵である。

それは絵の構図や色の構成、濃淡などいろいろな見方があるが、それはともかく、御舟はこの絵を群青という絵の具で描いた。単なる群青一色ではない。”当時、群青中毒にかかった”ともらしていたくらい、群青という色を好んでいたが、実際に描くときは、群青/緑青/焼群青という絵の具を一つの皿の上で混ぜあわせるという技法をとった。いずれも粒子が大きく、溶け合うことがないが、画布の上におかれるとそれぞれの粒子が光を反射して、美しく発色した。しかもシーンに応じて、絵の具の配合具合も変えている。とうてい写真の画像ではわかりにくいが、たとえようもなく美しい静謐な青ワールドである。
(井上よう子の場合)さて現代の絵のことである。西宮在住の気鋭の画家、井上よう子は青を多用する。というより、”青の画家”と言うべく、その作品はほとんど青一色のアクリル画である。ご本人に聞くと、ウルトラマリン・ブルーがベース。それに黄土系のローシェンナを混ぜることもあるようだ。ウルトラマリンは明度こそ低いが、彩度がずば抜けて高い。青といえばセルリアン・ブルーがあるが、より明るくさわやかな色なので、時に使っているのではないかと勝手な推測をしている。

井上よう子は神戸の北野にあるギャラリー島田で、時折その絵を見ることがある。そのギャラリーを運営する島田誠氏は若手の芸術家を励まし、応援することに力を注いでいる。稀有な方である。井上について1989年に初めて会った時の印象として、こう言っている。
”京都芸大の院生時代の作品から、すでにアンドリュー・ワイエスを思わせるような気品ある描写力と遠くを夢見るような余韻のある画面に十分な才能を感じた”
”井上よう子の青への愛着は幼少のころからであり、身辺に至るまで青にこだわる。
・・・繊細きわまりない音色(色彩)をもとめて純粋なブルーを混色することなく、、丹念に透明感を失わないように塗り重ね、ウオッシュし、また重ね、ペーパーでこすりだし、またドリッピングしたりを繰り返して、自分のイメージする空間を創る・・”
井上の青は、どういう意味、思いが込められているのだろう。彼女の絵にはじめて遭遇したときは、なにかやや暗い、あるいは心の沈潜した静けさのようなものを感じた。決して明るいという印象ではなかった。画家自体にお目にかかってみると、明るい、さわやかなひとであるのに・・。 じつは、それは彼女自身が経験してきたさまざまな悩みや苦しい日々、家族の問題であったり、自らの問題であったり・・・・、そういう境遇や人生体験に基づいたものであったようだ。彼女の言葉をかりれば、
”専門学校で色彩学の授業を担当したとき、色の心理に関する本を読んだのですが、「青は喪失と再生の色」と書いてあり、はっとしました。一番多感な思春期に姉を亡くしたとき、大きな喪失感があって、そこから再生していこうとする思いが、ブルーを使い続けることにつながっているのかなと思ったんです。”
実際最近の作品を見ると、孤独や絶望から明るい未来への期待につながっていくような印象を感じる。



(文学作品の中の青)井上の言う”喪失と再生”という言葉を読んだ時、芝木好子の小説『群青の湖』のことを思い出した。琵琶湖のほとりに一人嫁いできた女性の遍歴の物語。旧家の重みと夫の背信から逃れようと、一度は湖で命を絶とうとさえする。しかし、かつて染や織りの技を競い合った仲間に、暖か迎えられ、励まされ、ふたたび自分を取り戻す。病死した嫁ぎ先の義兄が惹かれた琵琶湖の、深海のように青く妖しい湖のことが忘れられない。彼女は、その群青の永遠の神秘を、その片鱗でもよいから一枚の布に留めたいと願う。その湖の色には引き込まれるようなものがある。染織の仲間の浜尾は言う。
”湖は不思議だ。陽が射すと珠玉のように明るむが、陽が一瞬かげると一変して闇に近づく濃紺になる。。吸い込まれそうだ・・・”
そして、ここは死者の眠る奥津城だ、とい主人公に対し、次のように言う。
”ぼくは奥津城とは思わない。秘した湖がだんだんこっちへ向かってくる精気を感じる。湖が突然消えないように、よく見ておこう。色は顔料に群青に糊を加えて染めてみようか。
この言葉を聞いた主人公は、”死の淵の色を、生きた色に変えてゆこうとする彼に、瑞子は感嘆した” そしてこのよう言う。
”今私に見えているのは、湖の藍の生命と、浄化の雪と枯れ葦の明るい茶なの。清らかな鎮魂の布が織れたら、私も過去から解放されて自由になれそうな気がするの・・”
そうなのだ。こういう生きた、明るい青がいいなあ! 機会があれば、この深秋か初冬、大気がが澄み切った頃に琵琶湖へ足を運んで、そんな群青の色を見てみようと思っている。
(奥会津の青)最後に自然界の青をご紹介しよう。私の愛する会津、それも奥会津の写真家星賢孝さんの撮影になるものだ。水害でいまだ寸断されている只見線の復興を粘り強く願う星さんはさまざまな奥会津の風光を写真で世に送り出している。これはその最近の一枚。只見線の早戸駅。”夜の帳の落ちゆく前に”と題されている。星さんによれば、「ブルーモーメント」と呼び、日没直後の10分間程度の間に辺り一面がブルーの光に包まれる現象という。写真の技術は言うまでもなく、またおそらく名機を使用して撮影されているであろうが、こういう写真を撮るとき、粘り強くシャッター・チャンスを待つ忍耐心があってこその一枚と思う。雨の日も風の日も、氷雪の日も待ち続けた一枚である!

~~~~~終わり~~~~~
長々と語りました。いやあ! 青の色って魅力がありますね。お楽しみいただけたでしょうか?
早速お目通しいただきありがとうございます。いやあ、こんな記事は、書いていても楽しいです。本人が楽しんでいるですわ。奥会津のブルーモーメント、いいでしょう。写真では、やや青くでると撮影された写真家は言っておられました。流石、鋭いなあ! この記事をみた京都の友人が、セミプロ級の写真マニアですが、びわ湖でも、そういう瞬間というかシーンガあると教えてくれました。空気の澄むこの秋にでも、写真をとりに行こうと思っています。
最後の奥会津の写真は素晴らしい青ですね。ご指摘のように青の強調は、写真機がデジカメかフイルムカメラかで色彩表現の自由度は変わってくるようですが。色々な青やその歴史、作家までの紹介は大変な勉強になりました。兎も角、青は考えてみれば小生にとって、小さい時からの一番身近かな色ですね。生れたところは日本海の浜辺だったから、海は体の一部で、青が体に染みついている。だからウルトラマリンブルーは一番好きな色の一つで、キャンバスの下書きはいつもウルトラマリンブルーである。それは黄色が入っていて寒色系のどこかすましているセリアンブルーに比べれば、赤が入っている分温みを感じられる色だからからもしれない。空も海も山も水も青、地球も青いと言われた。究極の色かも知れない。
拙文にお目通しいただき、ありがとうございました。青は身近な色でしたか!”だからウルトラマリンブルーは一番好きな色”~なるほど! 思い当たる気がします。近々、徳島へ行って藍染めの色を眺めてこようと思っています。また、びわ湖のブルーモーメントも見に行きます。世界が広がります。