りばぁさいどらいふ

東京を流れる某川のほとりから。
ガーデニング、アウトドアなど生活を心地よくするために思うところ、備忘録、いろいろです。

旧東海道散歩 その42-① 桑名駅~

2020-01-26 07:18:00 | 旧東海道散歩
江戸時代、多くの旅人は宮宿から桑名宿の間は七里の渡しを利用していました。(つまり船移動ですね!)
現代の我々は電車移動。JR名古屋駅から桑名駅まで所要時間は約20分でした。


桑名駅周辺を歩いていたところ、女性から「どこから来たの?」「どこへ行きたいの?」と声をかけられました。地元の方から見たら、我々は明らかに旅人なのですねwink
smile「桑名は見るところが色々あるから楽しんでね~」
と背中を押され、まずは「七里の渡し跡を目指します。

途中、「薩摩義士墓所」と掲げている海蔵寺に立ち寄りました。


海蔵寺には、宝暦治水で犠牲となった薩摩藩士が眠っているそうです。

宝暦治水・・・初めて耳にした言葉です。
江戸時代、木曽川・長良川・揖斐川があるこの地域は洪水が多発していました。そこで9代将軍・徳川家重は薩摩藩に治水工事を命じたのですが、幕府の本当の目的は薩摩藩の財政弱体化でした。既に66万両もの借入金があった薩摩藩は益々財政がひっ迫していきます。

さらに幕府は、薩摩藩の食事を一汁一菜の粗末な食事に規制し、地元農民には、薩摩藩へは蓑、草履を安価で売らないよう指示したのです。hi
工事中には3度も堤が破壊されてしまうのですが、その破壊を指示していたのは幕府の役人でした・・・ひどい話しです。hihi
1754年(宝暦4年)4月14日薩摩藩士の永吉惣兵衛、音方貞淵は幕府への抗議として自害、その後51名の藩士も自害してしまいます。
8月には赤痢が流行・・・157名が赤痢に罹患し、33名が亡くなりました。
あまりの幕府の非情さに、薩摩藩に同情して監視役の徳川家来2名が抗議の切腹を行いました。もう・・・訳が分かりません。hihihi

1755年(宝暦5年)5月22日工事が完了。5月24日薩摩藩総奉行・平田靱負(ゆきえ)は書面で工事完了を国許へ報告し、翌日割腹自殺しました。予算オーバー(現在の金額で300億円以上)と多数の藩士を失った責任を負ったと云われています。
平田靱負 辞世の句 
「住み馴れし里も今更名残にて、立ちぞわずらう美濃の大牧」

大きな犠牲を払って完成した堤はその後どうなったのでしょうか・・・何と洪水の回数は以前よりも増加してしまったそうです。川底へ堤の土砂が堆積したためと云われています。

初めて知った歴史でした。
その後、薩摩藩は江戸幕府を終焉に導くことになります。今まで、何故薩摩藩が執拗に幕府を追いつめたのか腑に落ちない気持ちがあったのですが、その理由の一端を感じることができました。

境内には、薩摩藩が宝暦治水で植えた「千本松原の松の木」と「さざれ石」がありました。


多くの人々で賑わう「寺町通り」に寄り道。


14代将軍・徳川家茂や明治天皇が宿泊された「本統寺」

境内には、親鸞聖人像と松尾芭蕉の句碑とがありました。
「冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす はせを」・・・芭蕉が本統寺で詠んだ句です。 

活気がある商店街・・・この日は偶然にも「三八市」が開催されていました。

niko3と8がつく日に朝市が開かれるそうです。

行列のできているお団子屋さんを発見!
我々も列に加わると、前に並んでいた女性が振り返り・・・
smile「ここのお団子美味しいのよ~!うちのおじいさんも大好きだから買っていくの!」
と教えてくださいました。


winkはい。とっても美味しかったです!

「その手は桑名の焼き蛤(はまぐり)」・・・ということで、桑名の名産は蛤です。

meromero桑名市のゆるきゃらは「ゆめはまちゃん」 

見どころがたくさんある桑名市ですが・・・そろそろ旧東海道散歩を始めましょう。

(つづく)
コメント