りばぁさいどらいふ

東京を流れる某川のほとりから。
ガーデニング、アウトドアなど生活を心地よくするために思うところ、備忘録、いろいろです。

旧東海道散歩 その34-④ 新居宿~

2018-11-11 07:38:00 | 旧東海道散歩
街道一の景勝地と云われた「潮見坂」に入りました。


これまで旧東海道を歩いてきて内海を見ることはできましたが、太平洋の大海原を見ることができるのはこの場所だけです。


かつては富士山も見ることができたそうです。


あれ?「うなひ乃松」に立ち寄らず通り過ぎてしまったようです。坂道を戻り、脇道に入り探していると・・・発見!
「うなひ乃松」

1476年(文明8年)4月6日駿河守護職今川義忠公を葬った上に植えられた松で、枝一本折っても怒りをふるったと恐れられていた松とのことですが・・・枯れかけていて心配です。hekomi

坂道に戻り、上って行くと・・・


「おんやど白須賀(しらすか)」

niko白須賀宿の歴史や文化が紹介されている無料休憩所です。

最初、白須賀宿は潮見坂の下(元白須賀)にありましたが、1707年(宝永4年)地震と津波の被害により坂の上に移転したそうです。

白須賀凧や旅の様子を再現したジオラマが展示されていました。


境宿村に生まれた跡見玄山(1834~1889)

niko華岡青洲に師事し、麻酔手術の外科医療を学び、その後緒方洪庵の門下に入り蘭方の内科外科を学びました。すごいbikkuri 1859年(安政6年)に帰郷し境宿に開業したそうです。

あれ?突然、同じ苗字で、似た雰囲気の方を思い出しましたlight
その場で調べてみると・・・何と跡見玄山から4代目のご子孫でした!(もちろん、こちらが一方的に存じ上げているだけの間柄ですが)あまりにも嬉しい偶然の出会いに、その後その方に近しい友人に報告してしまいました。wink

テンションが上がった状態で、さらに坂道を進みます。


潮見坂上に「明治天皇御遺蹟地記念碑」


潮見坂では、ここからの景色が浮世絵に近い印象でした。


歌川広重「東海道五十三次之内 白須賀 汐見阪」

niko汐見坂を下る大名行列。遠くには遠州灘。海岸線の漁村では地引網の網が干してありますね。江戸時代、白須賀の海では地引網が盛んだったそうです。

太平洋の大海原。


さらに旧東海道を進むと「曲尺手(かねんて)」

niko白須賀宿の東側入口です。

「白須賀宿」は静岡県最西端の宿場で、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠27軒がありました。

「本陣跡と脇本陣跡」


「夏目甕麿(みかまろ)邸跡」

niko夏目甕麿は江戸時代後期の国学者なのだそうです。

「火伏樹の槙(まき)」

niko坂の上に移転した白須賀宿は、(冬に西風が強く)何度も火災に遭いました。この火事をくい止める為に道の両側に土塁を築き、火に強い常緑樹の槙(まき)を植えたそうです。江戸時代には、このような火除け地が宿場内に3カ所ありました。

「庚申堂」


「火除け地跡」


旧家「三枡屋」


こちらが跡見玄山が開業していた「玄山堂」


元白須賀に宿場があった頃は、間の宿「境宿」として賑わい、その後は「猿が馬場」と呼ばれた場所です。


歌川広重「東海道五十三次之内 二川 猿ケ馬場」

小松が群生した丘陵地帯。中央には三味線や唄、踊りなどを生業とした盲目の女遊行芸人「瞽女(ごぜ)」が描かれ、全体に物悲しい景色です。左には名物だった柏餅を出す茶屋に入ろうとする旅人。実はこの場所は二川宿ではなく、手前の白須賀宿内です。左奥に描かれている遠くに見える家並みが二川宿と思われます。

旧東海道と谷川道の分岐点に残る「谷川道道標」と「高札立場跡」

niko白須賀宿の西側入口・・・ここまでが白須賀宿です。

(つづき)

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旧東海道散歩 その34-③ 新居宿~

2018-11-08 07:57:00 | お散歩
空腹を感じていたところ、丁度良いタイミングでたこ焼き屋さんを発見!「平太郎」

niko美味しいたこ焼きでした。お店の前のポケットパークで一休みしつつ食べていたら、次々に車が来て・・・意外にも人気店!たい焼きも有名でお取り寄せもできるようです。

「新居宿加宿 橋本」


「風炉の井」

niko橋本長者の屋敷跡です。1190年(建久元年)源頼朝が上洛の際、この井戸水を茶の湯に用いたと云われています。

国道1号線から右側の側道へ入り・・・


「浜名旧街道」を進みます


山裾に「紅葉寺跡」

niko室町将軍足利義教が紅葉を愛で、風景を絶賛したと云われる場所です。

長い松並木が続きます。


スイセンの良い香りに包まれ・・・春はもうすぐmeromero2


「藤原為家(ふじわらためいえ)・阿仏尼(あぶつに)の歌碑」

「風わたる 濱名の橋の 夕しほに さされてのぼる あまの釣舟」前大納言為家
「わがためや 浪もたかしの 浜ならん 袖の湊の 浪はやすまで」阿佛尼
niko藤原為家は鎌倉中期の歌人で、阿仏尼は為家の側室です。  

旅人の休息所「立場跡」


「明治天皇御野立所址(めいじてんのうおのだてしょあと)」


1本道は続きます。


実は、今回の旧東海道散歩・・・我々には珍しく少し緊張して臨みました。というのは、県境である新居宿、白須賀宿、二川宿の間には電車やバスなどの公共交通機関がないのです。何としても一気に歩いて、今日中に二川宿へ到着しなければなりません。run

「火鎮神社」


まだまだ1本道。


日本橋から70番めの「白須賀一里塚跡」と「高札場跡」


「神明(しんめい)神社」


「蔵法寺」

nikoうん?猫・・・

寄って来て・・・お腹を見せてゴロゴロ甘えてきます。可愛い~meromero


長かった1本道はここで終わり。右折し・・・


潮見坂に入ります。


(つづく)
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旧東海道散歩 その34-② 新居宿~

2018-11-05 07:46:00 | 旧東海道散歩
「新居宿 漂流者顕彰碑」

niko1718年(享保3年)新居宿の筒山五兵衛船は、遠州今切湊を出帆。 翌年、奥州宮古から房州へ向かう途中、銚子沖で嵐にあい遭難し、無人島(現在の鳥島)に漂着しました。乗組員12名のうち1739年(元文4年)救出されたのは3名。無人島生活21年というのは日本最長なのだそうです。江戸城に召し出され八代将軍吉宗に謁見し、当時江戸中の評判になったそうです。

旧東海道を進みます。


新居宿は本陣3軒、旅籠26軒の宿場でした。
関所から西側には旅籠が連なり、5軒は脇本陣の役割を担っていました。

niko街道沿いには屋号が掲げられています。

2001年(平成13年)解体修理された「旅籠 紀伊国屋(きのくにや)資料館」


紀州藩の御用宿で、紀州藩七里飛脚の役所も置いていました。






昭和30年代に廃業するまで約250年旅館業を続けたそうです。


「金原明善字額」

「八十や九十や百は子どもなり 鶴は千年 亀は万年 八十三歳の子 明善書」
えっ!? 本物?bikkuri

さらに南側へ路地を進むと「小松楼まちづくり交流館」

nikoスタッフの方が説明して下さいました。

明治末期~昭和初期、この辺りは歓楽街として栄えました。
小松楼は当時最も栄えた芸者置屋のひとつで、多くの芸者さんを抱えいたそうです。

niko当時の芸者さんの写真が展示されていました。

2階の座敷では、小料理屋も兼ねていました。
ガラス戸には小松楼のマーク・・・座敷の灯りで、暗い廊下の壁にもマークが浮かび上がります。


ふすまの下紙は、請求書などの紙をリサイクルして使っていたそうです。


2階の踊り場と赤いべんがら壁。


当時の芸者置屋の雰囲気を味わうことができました。wink

旧東海道へ戻ります。この辺りには3軒の本陣がありました。

飯田武兵衛(ぶへえ)本陣跡と疋田八郎兵衛本陣跡

旧東海道は突き当りを左折して進みます。

「寄馬跡(よりうまあと)」と常夜燈

niko寄馬は、公用の旅人のために馬が集められた場所です。

日本橋から69番めの「新居一里塚跡」


この辺りは新居宿の西境です。防衛のため一度に大勢の人が通行できないように、大きく曲がる(土塁が突き出た)枡形がありました。


柵が設けられていた「棒鼻跡(ぼうばなあと)」

niko棒鼻は駕篭の棒先のことですが、大名行列が宿場へ入るとき、この場所で先頭(棒先)を整えたので、棒鼻と呼ぶようになったとも云われているそうです。

関所から約900m・・・ここまでが新居宿です。

(つづく)

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旧東海道散歩 その34-① 新居宿~

2018-11-02 21:01:00 | 旧東海道散歩
前回の旧東海道散歩は、舞坂宿の渡船場で終わりました。
江戸時代の旅人は、今切の渡し(渡し船)で浜名湖を渡ると「新居関所」の渡船場に到着・・・関所で厳重な検問を受ける必要がありました。

歌川広重「東海道五十三次之内 荒井 渡舟ノ図」

舞坂宿から新居宿に向かう、浜名湖の渡し舟の様子が描かれています。中央には毛槍を立てた大名の御座船。その後ろの舟では、お供の奴たちがくつろいでいます。海岸沿いの建物は新居関所ですね。

ということで、今回は新居関所からスタート予定です。
新幹線で「JR浜松駅」に到着。
構内には河合楽器のピアノが展示されていました。

bikkuriX-JAPAN(YOSHIKI)愛用の「ホワイトクリスタルグランドピアノ」(640万円)と「SHIGERU KAWAI-5」(370万円)・・・どちらも自由に触れて、演奏可能の太っ腹な企画ですgood

東海道本線で「JR新居町駅」に到着しました。


関所へ向かう途中、小さな運河に架けられた「浜名橋」

niko新居宿を描いた浮世絵が紹介されていました。

江戸時代風の町並み。


こちらは消防団詰所です。


トヨタグループの創始者である豊田佐吉と、その長男でトヨタ自動車創業者の豊田喜一郎の「生まれたまち」として紹介されていました。


「新居関所」


実は、2回目の訪問です。あの頃は、まさか旧東海道を歩くなどとは思ってもいませんでしたmeromero2

入館するとご親切にスタッフの方が関所や新居宿について説明してくださいました。

復元された「渡船場跡」

niko舞阪宿を出発した今切の渡し(渡し船)は、この場所に到着します。現在、海は埋め立てられていますが、江戸時代はここまでが海でした。

下船して進むと・・・


「面番所」 ここで検問を受けます。

bikkuri主要街道の関所では、唯一現存する建物です。

当時の様子を浮世絵でご想像ください。meromero2






面番所に入ると・・・人形で当時の様子が再現されていました。


隣接した「新居関所資料館」で関所や東海道について学ぶことができました。
新居関所は、1600年(慶長5年)浜名湖入口近くに設置されましたが、1699年(元禄12年)の高波と1707年(宝永4年)の大地震と津波で移転を繰り返し現在の場所へ移ったそうです。さらに1854年(安政元年)安政東海地震の被害により、1855年(安政2年)現存する建物に改築されたそうです。

「江戸への最初の関門」であり、「江戸から出る最後の関門」である新居関所では、「入鉄砲(いりでっぽう)と出女(でおんな)」の厳重な検問が行われました。
「鉄砲改め」は、鉄砲が江戸で反幕府運動に使われることを警戒して行われましたが、実際はチェックの甘い関所も多い中、新居関所は大変厳格で、徳川御三家や幕府高官であっても規定に反していれば通行を止められたそうです。
「出女」は、人質として江戸に滞在させた妻や子女が国元へ帰ることを防ぐ目的で行われましたが、実際は出女だけでなく入女も「女改め」として厳しく調べられたそうです。男性の場合は名前を聞く程度、庶民でも往来手形のようなものがあれば通ることができたそうですから・・・旅をする女性は大変でしたね。

「時代劇 水戸黄門」のエンディングで、黄門様と別れ、幸せそうに旅立つ女性・・・のシーンを思い出しました。物語的には「めでたしめでたし」な感じですが、その後の苦労を考えると・・・複雑な気分ですhi

関所を無事通過すると・・・(復元された)大御門を出て新居宿に入ります。


大御門に隣接し、江戸時代の記録をもとに復元された高札場。

niko江戸時代、大御門の西側の桝形に高札場があり、宿高札(左上)と浦高札(右下)の二つの高札がありました。

(つづく)
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