りばぁさいどらいふ

東京を流れる某川のほとりから。
ガーデニング、アウトドアなど生活を心地よくするために思うところ、備忘録、いろいろです。

旧東海道散歩 その34-② 新居宿~

2018-11-05 07:46:00 | 旧東海道散歩
「新居宿 漂流者顕彰碑」

niko1718年(享保3年)新居宿の筒山五兵衛船は、遠州今切湊を出帆。 翌年、奥州宮古から房州へ向かう途中、銚子沖で嵐にあい遭難し、無人島(現在の鳥島)に漂着しました。乗組員12名のうち1739年(元文4年)救出されたのは3名。無人島生活21年というのは日本最長なのだそうです。江戸城に召し出され八代将軍吉宗に謁見し、当時江戸中の評判になったそうです。

旧東海道を進みます。


新居宿は本陣3軒、旅籠26軒の宿場でした。
関所から西側には旅籠が連なり、5軒は脇本陣の役割を担っていました。

niko街道沿いには屋号が掲げられています。

2001年(平成13年)解体修理された「旅籠 紀伊国屋(きのくにや)資料館」


紀州藩の御用宿で、紀州藩七里飛脚の役所も置いていました。






昭和30年代に廃業するまで約250年旅館業を続けたそうです。


「金原明善字額」

「八十や九十や百は子どもなり 鶴は千年 亀は万年 八十三歳の子 明善書」
えっ!? 本物?bikkuri

さらに南側へ路地を進むと「小松楼まちづくり交流館」

nikoスタッフの方が説明して下さいました。

明治末期~昭和初期、この辺りは歓楽街として栄えました。
小松楼は当時最も栄えた芸者置屋のひとつで、多くの芸者さんを抱えいたそうです。

niko当時の芸者さんの写真が展示されていました。

2階の座敷では、小料理屋も兼ねていました。
ガラス戸には小松楼のマーク・・・座敷の灯りで、暗い廊下の壁にもマークが浮かび上がります。


ふすまの下紙は、請求書などの紙をリサイクルして使っていたそうです。


2階の踊り場と赤いべんがら壁。


当時の芸者置屋の雰囲気を味わうことができました。wink

旧東海道へ戻ります。この辺りには3軒の本陣がありました。

飯田武兵衛(ぶへえ)本陣跡と疋田八郎兵衛本陣跡

旧東海道は突き当りを左折して進みます。

「寄馬跡(よりうまあと)」と常夜燈

niko寄馬は、公用の旅人のために馬が集められた場所です。

日本橋から69番めの「新居一里塚跡」


この辺りは新居宿の西境です。防衛のため一度に大勢の人が通行できないように、大きく曲がる(土塁が突き出た)枡形がありました。


柵が設けられていた「棒鼻跡(ぼうばなあと)」

niko棒鼻は駕篭の棒先のことですが、大名行列が宿場へ入るとき、この場所で先頭(棒先)を整えたので、棒鼻と呼ぶようになったとも云われているそうです。

関所から約900m・・・ここまでが新居宿です。

(つづく)

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