りばぁさいどらいふ

東京を流れる某川のほとりから。
ガーデニング、アウトドアなど生活を心地よくするために思うところ、備忘録、いろいろです。

旧東海道散歩 その39-① 岡崎宿~

2019-05-29 08:51:00 | 旧東海道散歩
豊橋で一泊し、愛知環状鉄道「中岡崎駅」へ戻ってきました。

niko「オカザえもん」がお出迎え。不思議なもので愛着がわいてきました。

「竹千代橋」を渡り岡崎城のある岡崎公園へ。


橋を渡ると、竹千代(徳川家康の幼名)の銅像。


samurai徳川家康は、1542年(天文11年)12月26日岡崎城で誕生しました。
この時産湯として使用した「東照公産湯の井戸」


1959年(昭和34年)復興された「岡崎城」


samurai少年期は人質(6歳~織田信長の父である信秀、8歳~今川義元の人質でした)として他国で過ごした家康ですが、桶狭間の戦いで今川義元が戦死したことで自立し、19歳から29歳まで岡崎城主となりました。

「観光ガイド案内所」をのぞくと多くのボランティアガイドさんが待機されていました。我々に気づいた男性ガイドさんが声をかけて下さったので、無料ガイドをお願いすることにしました。

まずは「三河武士のやかた家康館」で、徳川家康に関する歴史を学び、その後公園内を案内して頂きました。

「二の丸能楽堂」


公園内には徳川家康の像が点在しています。

「家康公・竹千代像ベンチ」


「家康公銅像」と「しかみ像」


samurai苦渋の表情の「徳川家康三方ヶ原戦役画像」は、通称「しかみ像」。家康の三大危機(三方ヶ原の戦い、伊賀越え、三河一向一揆)の一つ「三方ヶ原の戦い」で、家康は武田の大軍に敗北し、多くの家臣を失いました。家康は無謀な戦いを行った自身を悔やみ、自戒の念を忘れることのないように描かせたと云われます。

「家康のからくり時計」

niko毎時00分・30分に家康が能面をつけて能を舞います。

大変暑い日でしたが、ガイドさんはとても熱心に1時間ほど公園内を案内をしてくださいました。

smile「二十七曲がりはもう行きましたか?」
niko「はい。昨日歩いて来ました。」
smile「そうなんだ~!一緒に歩いて案内してあげたかった~!」
と嬉しいお言葉。

smile「今日はどちらから?」
niko「東京です」
smile「東京・・・名古屋で仕事をしている息子が、年に数回出張で東京に行きますよ。〇〇〇〇という会社知ってる?」
niko「えっ!実は私も〇〇〇〇の社員です」
smile「そうですか!それは嬉しい偶然ですね」 
niko「本当ですね。もしかしたらどこかで息子さんとお会いしているかもしれませんね!」
と、大変盛り上がりました。

多くのボランティアガイドさんがいらした中で、偶然にも同じ会社の社員(面識はありませんがwink)のお父様に案内して頂いたことになります。
さらにガイドさんの計らいで、グレート家康公「葵」武将隊の「本多忠勝」殿とお話しさせて頂きました。

「グレート家康公「葵」武将隊」

niko徳川家康とその家臣、徳川四天王(酒井忠次・本多忠勝・井伊直政・榊原康政)が平成の世に甦り、家康や岡崎の魅力を広めているそうです。

samurai「本日は皆、ボートレース浜名湖へ出張中で、私ひとり留守番でござる。もう二十七曲りは行かれたか?」
というように、話し方も武将風。

二十七曲りの公園の辺りで迷ってしまったことを直訴(?)すると
samurai「確かにあの辺りは少しわかりにくいかもしれぬ」

葛餅でできたアイスが美味しいとお勧めいただき…とても好青年な「本多忠勝」殿でした。

ガイドさんと「本多忠勝」殿とはここででお別れ。岡崎の良いところをたくさん教えて頂きました。ありがとうございました~niko

岡崎城へ入城。

wink城内では、岡崎藩、城下町、岡崎城主の歴史が紹介されていました。(ここで岡崎三郎信康の人生を学びました。)

(つづく)
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