れら工房BLOG

2004年の夏に引っ越して、れら工房をオープンしました。
ブログを始めて10年以上が過ぎました。

バースデイ・ケーキ

2013-01-03 20:23:10 | 母と娘、家族
今日は娘の誕生日です。

息子夫婦が駅前から電話をかけてきて、今からケーキ屋を探しているけど、どこがいいかというのです。

私がどこそこがいいかもと言っているうちに、ネットで見つけたから、なんとかなるからと電話は終わりました。

そして娘のためにバースデイ・ケーキを買ってやってきました。↓(森野2-30-13のボンヌール洋菓子店から。)

  



娘は丸いバースデー・ケーキを誕生日に切って食べるのは初めてなのです。
それで、私も記念に写真を撮りました。

  

(つまり、親はバースデイケーキを買って誕生祝いをしなかった!1月3日という誕生日は新年のご馳走?とごちゃ混ぜになって、ごまかされてしまってた。)

生クリームの味があっさりしていて、おいしかった!!

粋な別れ

2012-01-27 10:30:09 | 母と娘、家族
めずらしく雪が降っています。

もうどの位、前になるのでしょうか?

彼は「粋な別れ」を流してほしいと言ってました。
その頃、石原裕次郎のお別れ会で、その曲が流れていました。

また「骨は海か山がいい」とも呟いていました。
それは何十年も前のことですが・・・

突然、彼のお別れ会を開催することになりました。

あまりにも突然で、準備ができていません。

~~~

上は20日に書きました。

その後スケジュールに追われ
続きは今日(27日)になりました。

とりあえずUPします。

子どもたち二人は葬儀などの相談にのってくれ、遺品整理をしてくれています。
この季節は火葬場が混みあっていて、ようやく一昨日、家族葬という形でひとくぎりがつきました。

春になり暖かくなったら江ノ島沖の海に眠ってもらおうかなどと子どもたちと相談してます。

ではこのへんで!また!

パソコンが来た!

2012-01-03 18:38:59 | 母と娘、家族
昨日の午前10時頃、息子が電話をかけてきて、家にいるなら、これから行くけど・・ということでした。

先月、長野へ行く時にめずらしく駅まで車で送ってもらったのは嬉しかったのですが、車中にマントを忘れてしまっていて、それを届けてもらわねばならないし、そして「知り合いから古いパソコンもらったけど、いるか?」という用件もありました。

息子にしてみれば私が使っているパソコンが古くなっていて開け閉めの蝶つがいが壊れかけているし、動きがにぶいということをとても気にかけてくれていました。

新しいのを貰えばいいのに!

ということですが、私は新しいのに変える気になりません。
プロバイダを変えれば、パソコンが貰えるのだそうです。

新しい機種に変わればまた操作方法に慣れるのに手間隙かかっていまいます。

XPで充分です。
ADSLで、まにあってます。

それで、息子はうちのパソコンより、やや古いデスクトップ型を持ってきてくれました。
私は今までノートパソコンを使ってましたので、デスクトップもいいかな?とおもってます。

今使ってるのと同じNECの製品です。
マニアルもついてるので、これからゆっくり慣れていこう!


*12月に携帯の会社を変えたら、まだ操作に慣れていない!
マニュアルがないのです。使い方はホームページを見ればよいというやり方なのです。
紙の文字に慣れてきた世代にとっては厳しいできごとでした。
明日こそ、使い方のページを開いて必要なところを印刷するのだ!

百軒店のカレー屋さん「ムルギー」で思い出したこと

2008-12-08 13:07:33 | 母と娘、家族
昨日は渋谷へ行った。
正確に言うと井の頭線の神泉で下りて、帰りは渋谷から乗った。

渋谷で下りるのはほんとに珍しい。

あるワークショップが百軒店の神社で開催されたのです。

皆様はランチで「ムルギー」というカレー屋さんへ行きました。私はカレーを食べたい気分ではなかったので、店の前まで行きましたけれど、そのまま道玄坂から駅の方へ歩いてみました。

やっぱりこのカレー屋は入ったことがあるかも?
けれど記憶はぼんやりしていて、かすかです。

渋谷駅を背にして細い坂道を昇った記憶。百軒店という地名が珍しかった!

約50年前の記憶です。
まだ上京したての私には何もかも珍しく、食べたカレーがまた辛くてスープタイプで初めての印度カレーでした。

デートなんてことも初体験でした。
その頃つきあっていた彼と何回かムルギーへ行きました。
1年ちょっと位のつきあいでした。

なんで別れてしまったんだろう!理由を思い出そうとしたら、父の反対が真っ先に浮かびました。

「まだ若すぎる。相手の家の格がよすぎるので、つりあわない。身分違いはやめたほうがいい。」

そんな父の意見に私は動揺しまくってしまいました。
私の動揺が彼に理解してもらえるわけもなく、そのうちに別れがやってきました。

というようなことを即興劇として再現してもらったわけですが、一晩寝てみるともう一つの理由がみつかりました。

当時大学に入って、2年目の頃には、すでにやり直したい気分になっていましたので、卒業したら、また別のどこかへ編入したくなっていました。
そのことを彼に話したら、話が通じない。なんか会話にならない。
私にとっては、とても大事な話なのに空転している感じでした。

で、そうだったのか!
と納得しました。

そこのところが私にとってほんとに大事なことだったんだ!

*~*~~*~~~*~~~*~~~*~~~*~~~*~~*~*

実際、私はとりあえず、入学した学科は卒業し、学士入学というかたちで、も一度3年生と4年生をやり直しました。

でも実際そうしても、その頃の私はまたやり直ししたくなってた。

自分が何をしたいのかわからなかった!

親は特に母親は大学にぶらさがっていればどうにかなると思ってたふしがある。

ただ私は親の家から、離れた所にいたかった!

2回目の卒業をしてもどうしていいかわからないので、大学院へ入った。
何となく先輩たちがそうしていたから・・

どの学科にしたらいいか迷ったあげく、一番行きたいところではなく無難に入れるところにした。

*~*~~*~~~*~~~*~~~*~~~*~~~*~~*~*

10代の私は親から離れて暮らしたかった!
そのために大きなエネルギーが必要だったので、何をしたいかは後まわしとなった。

一応私は一人暮らしに成功!したけれど・・
それで目出度しとはいかなくて、迷いの人生だったね!

で、親がいなくなって自由になれたかというと親の「せりふ」が残っていて・・よく浮かび上がってくるのですよ!

だから、まだ当分ハコミとかその他のワークショップにお世話になる次第です。


胡桃の思い出

2008-11-30 22:20:53 | 母と娘、家族
先月、私はカリフォルニア産の「殻付きかしぐるみ」を買ってきた。

いくつかの胡桃割り器を持ってますが、
写真の胡桃割り器が気にいってるので最近よく使ってます。
ねじるタイプです。

以前は実家の裏庭に胡桃の木があり、毎年送ってもらっていました。
9年か10年前頃に帰省したら、その木は地面から2m位に切られていました。

毎年沢山の実をつけていたのに!
どうして!
私はびっくりしましたが。

母は隣の敷地に葉が落ちても、もう掃除ができないから、切ってもらったのだと言うだけ。
私に何の相談もなしに!
私は毎年とても楽しみにしてたのに!
どうして!
私に相談せずに!

あの胡桃の木は私が子どもだった頃、叔父が小さな苗を「私に」と言って植えてくれたものです。
私の木だと思っていたのに!

手入れしていたのは母だった!
胡桃の実を干していたのも母だった!

私はあれは「私の木だ」と1回も言ってなかった。ただ、そう心の中で思っていただけ。
胡桃がおいしいと、または感謝していると母に言ったろうか?
私の感謝の言葉は私の心の中だけで、母には伝わっていなかった!
毎年、送ってもらって、嬉しいと私は一度も言ってないだろう!多分!

私はとても嬉しかったのに!

*~*~~*~~~*~~~*~~~*~~~*~~~*~~*~*

最近、私は気がついている。

私は言えなかった!言うべき言葉を言わなかった!よけいなことは言っても。

ごめん!
嬉しかったのに!言えなかった!

よくあった。
言わずに時間が過ぎて行くことが。




実家の整理

2008-06-06 17:49:38 | 母と娘、家族
3日前の雨の日に私は実家へ向けて旅立ち昨夜帰宅しました。
出発日は雨でしたが長野に滞在していた間は曇り日であれやこれやの雑用整理をいたしました。

実家の周辺も変化が激しく、移り変わってゆきます。駐車場が増えています。
向かいの駐車場に薔薇が咲いていましたので撮りました。いつからこんな素敵な色の薔薇があったのでしょうか?
気がつきませんでした。6月に実家へ行くことが無かったからかな?

あわただしく2泊3日の旅を終え、子どもの頃を思いだしたりしています。

今回は高校時代の同期生がやっている店で手打ち蕎麦を食べ、同期会が9月末にある話などをきき、さらに卒業50周年記念誌の原稿について話したりしましたので、高校時代のことを思い出しています。

かなりの皆様にご無沙汰しておりますので、400字の近況報告を書いて送ろうかな?

*~*~~*~~~*~~~*~~~*~~~*~~~*~~*~*

旅に出る日は雨続きでしたので、洗濯物がたまっていて、晴れたので、洗濯を優先しました。
庭の手入れはしましたが、市民農園までは行く元気がありませんでした。

韓国ドラマを二つ見ました。
ヤフー動画から「ファンタスティック・カップル」、Gyaoからは「宮」。

二つとも、とても面白いですよ!

「ファンタスティック・カップル」は記憶喪失のセレブな女とドケチ男の物語で、一緒に暮らすうちにセレブな彼女がどんどんふつうの女風に変わっていくところが面白いです。

「宮」はもしも韓国に皇室があったならという空想的なお話です。
窮屈な生活に縛られていて我慢を重ねている皇太子が「何年後かに皇太子をやめるかも」などという発言もとびだしますが、お伽話なのかもしれないけれど祖父同士がきめた婚約にそって、同じ高校に通う女子高校生が皇太子妃となって、てんやわんやの物語となります。
彼らが一人または何人かで、おしのびでどっかに出かけてしまうということが何回も出てきたりするのですけど・・・まあそれはドラマだから・・お話だからとハラハラしながら楽しんでおります。(「ローマの休日」はどこかの国の王女様のおしのび外出体験でしたよね!)

最後は「皇太子をやめる」のが話としては面白いのですが、さあ、どうなるんでしょう?

息子たちとの夕食

2007-09-05 21:25:26 | 母と娘、家族

8月末に長野から帰宅しましたが、その後忙しい日々が続き、ようやく今日、書く時間ができました。

地域市民講座の書類提出の締切日前日なので、困るから翌日に変更できないかと言ったのですが、やはり都合がつかないと、息子たちは私の忙しい日にやってきました。
しかし、携帯電話を買うという用事が手間取ったらしく、予定より遅れてくれてほっとしました。


夕食は近所の台湾料理店へ行きました。
息子の彼女と紹介者(仲人)と小3の息子がきました。(私と娘が相談して、上海料理の店がどこにあるかわからないし、とにかくまだ彼女が日本の食べ物に慣れていないだろうから、台湾でもましなのではということで。)
こちらは3人集まったので7人で、夕食を食べました。

仲人Eさんの息子は日本語より、中国語が得意らしいので、ききましたら最近日本に来たのだそうです。
店の人と仲良くなって中国語で話して、遊んでいました。小さい店だと店員さんが子守りをしてくれたかっこうになりました。

その店には9時からカラオケタイムと書いてありましたが、他の客もいなかったので時間前でもどうぞ!とのことで、(帰る間際に一人来ましたが。)食事のあとカラオケになりました。
息子の彼女メイさんは数曲歌いました。日本語ができないので、もちろん中国語の歌を。

私は疲れていたので、一桁の曲数できりあげました。
とにかく息子の彼女は歌がうまい!声がよい!大きい声がでる!

そのうちにまたカラオケパーティーができるでしょう!
とにかく初顔合わせなのですから、あまり長時間にならないほうがよいと私は判断しましたよ!

また、翌日の予定を考えるとカラオケを楽しむ余裕のない私でした。

写真は今日、雨の合い間に撮りました、公園の「藪枯らし」の花です。
雨のしずくが写っています。

息子の彼女

2007-08-27 23:35:16 | 母と娘、家族
息子の彼女にはじめて会った!
何枚もの写真を見せてもらってたので、ああ写真の人だと思った!

息子に手渡すものがあったので、渡して、じゃあね!と駅前で別れた。
今度は9月上旬にうちにくるということです。
その時はまあ多少の話はできるでしょう!

数日前に彼女が日本に来たと息子から電話がありました。(8/22)

今朝、電話が来て、市役所に手続きに来たということでした。
で、ほんのわづかの時間でしたが、彼女に会えたわけです。

普段、車でしか移動しない人が、電車で来たわけです。
ほんとに彼女の影響は大きいです。

彼女はまだ日本語がよくわかりません。
私は知ってるはずの「ニーハオ!」だって言えませんでしたよ!
言いなれてませんもの!
息子は中国語を勉強中だと言いました。

「え!くそ!このやろう!」と言いたい気持ちになりました。
若さに嫉妬したのかな?それとも彼女のために今までしなかったことをいろいろとしている息子につい嫉妬してしまいますね!

ああ!これが息子をとられた母の気持ちなんだと納得です。

私だって、中国語を覚えようかと一度テレビ講座見てみましたが、この年であらたな外国語に挑戦はほんとに無理だな!です。
(最近、ハングル講座に月3回、出てますが予習、復習、にかなりの時間がかかってしまいます。同時にもうひとつの外国語は無理ですよ!)

9月上旬には息子は親と妹に彼女をひき合わせるために来ます。
仲人にあたる人もくるかも?

上海で結婚式はもうすでにすんでるし、こちらでも婚姻届もいつでしたっけ、もうだいぶ前にだしてあります。

婚姻届が先で、私が彼女にあったのが今日なのです。

息子はパーティーとかはしないと言ってます。すごい地味婚です。
私には何かするようにという親戚もいないし、ごく、うちわで、ご飯を食べるだけなのです。

私の父は披露宴はどうしてもやってほしいと、近所、親戚をよんで和食でパーティーやりましたけど・・だから、写真は残ってます。

二人のスナップ写真を撮って、葉書にプリントしようかしら?

と書いていると、そう思い出しました。10数年前のことですが、夫の妹の家で一人娘の結婚通知が葉書で来ました。
理由はできちゃった婚なので地味にしたのだそうです。

その後、私は夫と別居しましたので、夫の親戚とはつきあいがなくなりました。
私は一人っ子なのです。いとこたちは皆、長野に住んでいますので、あまり行き来はありません。

ということで、親戚にむけた披露宴は必要がないのです。




一人っ子の悲しみ

2006-12-01 18:53:51 | 母と娘、家族
12月になりました。
おだやかな日です。
洗濯をしました。

「今日は妹が来たので、鍋ものをしました。」

ああ!私はそんなふうに書きたかった!
正確に書くと、翻訳すると「妹のような可愛い子が来ましたので、いっしょに鍋を食べました。」となります。

「妹」という言葉を使ってみたかった!
兄弟姉妹がいない一人っ子なので、確かに親の葬式で財産を争うなんてことは体験できなくて、楽だったと言えば言えるけれど・・・

それで、娘のことも妹のように感じてしまうこともある。

一人っ子の悲哀はできれば皆様に感じて欲しくないのだけれど・・・

いつだったか?
もう相当前のことなのだけれど、中国が一人っ子を奨励することになったと言うことを聞いた時(農村部では緩やかだったらしいけれど)いったいどうなることかと悲しかったけれど・・・
なすすべもなく・・・
そして、一人っ子たちがが大人になったころ、いろいろ困ったことが明らかになり最近は多少の変更をしたそうですが・・・
こどもの数が少ないと、または親が暇だと子どもに手をかけすぎて、子どもはいい迷惑だ・・・ということになりかねない!

親にもよりますけど・・・確かに・・・

だから、一人っ子の親である方々へ
自分の人生を幸せに生きてくださいね!(人間、誰にも言えることでしょうが・・)
特に、子どものために自分の人生を犠牲にしないでください!
自分の人生を充実して、楽しんでくださいね!

子どものために、もうかなり大きくなっているのに何かをしすぎないでください!
その子の自主性がそこなわれるのですから・・・
大人になるのが難しくなるのですから・・・

*~*~~*~~~*~~*~~*~~*~~*~*~*~*
近所でみかけた葉牡丹の写真を載せます。
まだ植えたばかりのようでした。
葉牡丹があちこちで、見れる季節になりました。
うちの庭にも植えたいとは思うけれど・・・
さあ、どうなるでしょう?

おとといの出来事

2006-11-20 14:38:07 | 母と娘、家族
昨日からの雨続きかと思いきや・・間もなく上がり、秋を感じる少し寒い日です。
金・土・日と2泊3日のハコミワークから、昨夜、帰宅し眠い日です。
でも数日前から、電話の調子がおかしいので113に問い合わせました。するとFAX器が故障と判明しました。
つまり電話がかかってくると向こうの声は聞こえるのだけれどこちらの声が相手に伝わっていない状況になっているのです。
FAXに切り替わってしまうのだそうです。
さて、新しい機種を買えば解決する模様です。なんか電気やに行くのがかったるい日です。
でも郵便局はどうしても行かねばならぬ。その帰りにエネルギーが余ってたら、買いにいこうか?
けだるい日です。

昨日も眠い日でした。
夜中に目が覚めてしばらく眠れなかったので!
なぜかというと・・
とてもびっくりすることが起こったのです。

(数日前に息子の父親から電話があって、息子が上海在住の女性と結婚の話がでているとは聞いていましたが・・・・・息子に電話で確認しましたら3月に結婚するかもしれないとのこと。)

まあ詳しいことは不明のままハコミワークへ出発し1泊いたしましたら、朝、息子と彼女の姉が父親に会いにくるということになったのを知りました。
息子はいつも通り「用事があるのなら別に帰ってこなくてもいい」と淡々としておりましたが、私はそうはいきません!

携帯で連絡をしながら、私はハコミを1時間早退し、帰宅いたしました。
お茶の用意などしておりましたら、息子は父親と日本在住のお姉さんを連れてやってきて1時間ほど話していきました。(息子の父親は隣町に住んでます。)
ほんとにこの前息子に会ったのはいつだったかしら?
久しぶりに会ったのにあわただしく写真を見せてもらったり、携帯の動画も見せてもらいました。
娘は質問したり、よく、しゃべっていました。たすかりました。
私は落ち着かず・・ホテルに戻る時間も気になるし・・

息子は上海で蟹だとかその他ご馳走を食べてきたらしい。
彼女は3月に日本にやって来る予定などとおおざっぱなことはわかりましたが私はハコミワークを休みたくないからホテルには10時半ころ帰りつきました。
ですが、いろいろ気になって、よく眠れませんでした。

しかも、その朝はもう一つの大事な用事ありでした。9時半から2時間ほど久しぶりに上京した知人に会いました。
忙しい人なのでめったに会えないし・・・
2月にタイ旅行にさそわれて、そわそわしてる私もいるし・・・

いろいろ盛りだくさんな週末でした。

近所の南天の実が色づいてきましたので載せます。

<追記>11/26
要するに息子の件は上海出身のお姉さんが妹を紹介し、本人同士はOKであるということなのでした。息子はお見合いに上海へ行って来たということ。
彼の初めての海外旅行なのでした。
私はものすごく慌てていて、落ち着かなくて良くわからないまま、うまく質問もできずにいたのですが・・娘がそのお姉さん(えりさん)とおしゃべりが盛り上がっており、あとで、ハコミワークから帰宅しまして、ゆっくりと娘と感想を話しあいましたら、えりさんがお見合いを仕組んだわけでした。
そうか!35才になる息子の縁談をもってきてくれる人が現れたのかと、なんだか不思議なそわそわした気分です。

一人息子の母はとりみだすのです。
でもなんとか息子にとりつく母をやりたくないものですから、ちぐはぐになります。おかしなことになります。
で、この件はかなりの部分を娘に任せればいいのかというのが今の心境です。
娘はお兄ちゃんにもこういう話が来たのかと冷静な観察をしています。


金平糖の実

2006-07-25 23:11:15 | 母と娘、家族
朝、出かける時は雨が降りそうな空でしたのに、帰路は暑くなっていました。
途中で金平糖のような実がついている木を見つけましたので、撮りします。

子どものころ、母に連れられて、祖母の家に行くと、そこの生垣には「金平糖の実」がいっぱいなっているのでした。
毎年祖母の家に行くのは楽しみでした。
金平糖の木が私を迎えてくれるのです。
よくきたね!
また会えてうれしいよ!
木の香りがします。

祖母は白くて大きい豆を煮て待っていてくれるのです。
やわらかくて、おいしい豆なのです。
しばらく、その家にいて、次は母の叔母の家に行くのです。
私一人が母と手をつないで、バスから降りて舗装されていない道を歩いた記憶があります。そのうちに、弟が母の背中におぶさって3人で祖母の家に向かって歩いたこともありました。
弟が歩けるようになって3人で行った記憶はありません。

私は金平糖の実のことを誰かに話した記憶がありません。
ずっと心の中で懐かしく思い出していました。

前に住んでいた場所でとてもよく似た木を見つけましたが、ちょっと違っていました。木の香りはそっくりでした。
でも、どこだったか正確な場所を覚えていなくて2回目を見ることができませんでした。

今日は写真に撮ってみましたが、似ているけれど違う木かもしれません。
きっと、この季節に実のなる木なのでしょう。

今くらいのペースで写真を撮っていたならば今年はきっと金平糖の実がなる木にめぐり合えるかもしれない。
あの懐かしい木にまた会えるかもしれない!
そんな気がします。

そして、あの白くて大きい煮豆を食べよう!
やさしい空気の流れる「金平糖の実がなる生垣」を思い浮かべて私は・・涙がとまらない!

あの木はなんだったんだろう?
もしかして、もういちどあの生垣に出会えたら・・・いえ!あの生垣を植えることができたとしたら・・・

私は空想の世界に飛び回る。

母のようには・・・

2006-05-20 09:21:15 | 母と娘、家族
台風の合い間の晴れでしょうか?
空の一角には雲が広がり、風がアルミサッシに当たってビュウビュウ音をたてています。
こんな日は暑いですね!

一昨日はハコミの自主勉強会でした。
5人集まりました。
ある人の言葉・・「母のように生きたくない」に私は反応してしまい、そうだ!そうだ!
と私のなかで声が響きわたりました。

そう!
あんなふうにがんばって生きるのは私には無理です。
がまんして、がまんし続けて・・・
子どもの時から、誰かのために働き続けて・・・
もうゆっくり休んでもよい時にいたっても、休むということがどういうことかわからず・・・ぼけることしかできなくて・・・

☆。.:*:・'゜★。.:*:・'゜☆。.:*:・'゜☆。.:*:・'゜★。.:*:・'゜☆。

母は長女だったので、いなくなってしまった父親のかわりをして弟妹のめんどうをみた。
結婚したら、嫁として、がんばって働いた。
戦後の苦しい時をなんとかきりぬけて、バブル崩壊のころにはもうかなり弱ってしまっていた。
母のような働き者がやはり、バブルを支えたのだろうか?
その子の私はああいう働きができなくなっている。
体の弱い時期が長かった。

60代になって、それなりに元気な日々を送っているが・・・

☆。.:*:・'゜★。.:*:・'゜☆。.:*:・'゜☆。.:*:・'゜★。.:*:・'゜☆。

一昨日のハコミでは私は次のような言葉の数々を皆様に言ってもらった。

がまんしなくていいですよ!
無理しなくていいですよ!
自分を犠牲にして人の世話をしなくていいですよ!

そして、上の言葉を聞いて、私のなかからさらに言ってほしくなったことを、次のような言葉を何回も言ってもらいました。

ゆっくりしていいですよ!
気楽にしていいですよ!
休んでもいいですよ!

私は小さな子どもになり、そういう言葉を聞いていた。
小さい時に子どもらしい暮らしができないと、子どもらしくわめいたり泣いたりしていないと、大人になって苦労する。

幸いにそのメカニズムに気づくことができ、私は癒しの日々を送る。


花や空などの自然で癒され、やさしい人々の言葉や心で癒され・・
私は癒しの日々を送っている。

☆。.:*:・'゜★。.:*:・'゜☆。.:*:・'゜☆。.:*:・'゜★。.:*:・'゜☆。

母は私が10代の終わり頃、東京に出たいと言った時、そんなに行きたいのならば行けば!
と言ってくれた。
父が反対していたけれど、その頃の母には父の言葉を押し切る力があった。
それから母は少しづつ強くなっていき、父との力関係が変化した。
(母は和裁教室をきりもりし、金を稼ぎ出す人となっていった。)

私が子どもの頃の母は口数が少なくて、おとなしい人なんだと信じて疑わなかった。
父が時々、怒り出す人だったので、機嫌が悪くならないようにとの母の対処術だったのだ。

男女平等推進センターのフェスティバルに関わったりするのは母が父から不当な扱いを受けたことに対する怒りが、私の中に燃えさかっているからだ!

嫁は家事をし、家業をし、子どもを生む・・・それだけの存在か!
どんなにがんばっても感謝とかいたわりとかの言葉のない父を見てぃると男にたいする怒りが沸いてくる。

最近、男がそういう父のような人ばかりじゃないことが次第にわかってきています。
男一般に怒りをむけなくてもいいよ!
という気持ちになっています。

逆におとなしい男の存在が気になることもあります。優しい男が増えたかも。

私は夫に期待できないからと息子に理想の男を期待してしまった!
そんな母から、息子は逃げる力があり、時おり、年に1回程度、顔をだしてくれます。
それで私は充分に幸せを感じます。
息子につきまとう母は卒業しました。

その後、娘につきまとう母をやってしまった時期があります。

このやり方は母から学んだものです。

私は子どもにつきまとう母をしたくはないと思うようになっています。
しかし、なかなか習慣をかえることはむずかしいですね!
意識して、少しだけ努力しています。
(気づいただけでも、すごい!)

癒し系ワークショップにでるのはとても役にたちます。

女が男から、ひどい目にあったから、じゃあそれはやめて男を支配してやろう!
という発想でいくと、なんじゃこりゃ・・でしょう!

男も女も人は皆幸せに生きていこう!
という表現は使ってもいいのではないかと思うようになりました。
人は誰も幸せに生きてよいのです。
幸せに向かって、日々を暮らしてよいのです。

ただ、幸せとは何?どのような状況?
ひとつ言えることは、幸せは自分が感じることであって、他人からこれが幸せだと押し付けられるものではないでしょう!

私の場合、母は私の幸せを願って、母の理想の幸せを私のうえにイメージした感があります。
私の幸せは私が感じるものだと思います。
だから、その人それぞれの幸せがあるのでしょう!
それでいいのでは・・・

だから、自分の感情を取り戻す・・・という作業が必要な人がいるかも・・・

私は自分の感情に気づいたり、表現できない人生が長かったので、今、自分の気持ちを素直に率直に表現する練習をしています。

このブログもその一つかな?
言葉でしゃべるのが苦手な私にとって。

それでも最小限の会話を練習する機会も作ったり・・・
やり直し、生きなおしもなかなか楽しいわけです。

公民館の自主男女共生学級に今年は「私を生きる」という学級名で参加します。
「男も女も共に生きる」という趣旨の公民館事業です。
そいう方向で学習していこうという市民参加の企画です。

つい子どもとか誰か他の人のめんどうをみることにより、誰かの迷惑になっているのに気がつかない状況を私は何とか回避し逃げ出そうとした。
けれど、人との付き合いの仕方にいつもギクシャクしたものを感じ・・・最近は一人で過ごす時間を大切にするようになった。
すごい!

対人関係がまだ練習途上だけれど・・もしかして、私だけではないかも・・・

*~*~~*~~*~~~*~~~*~~~*~~*~~*~*

夕方の公園に咲く花を撮りました。
調べた範囲では空木(うつぎ)らしい。
確信がもてないけれど・・・

空木とはまあ!
偶然・・何か・・もしかして・・
母の悲しい人生を表現しているようで・・・

季節の変わり目

2005-11-02 10:51:01 | 母と娘、家族
今日もよい天気!
天気予報は降水確率0です。

布団干し、洗濯日和!

秋冬もの衣類を出し、そう・・クリーニング屋から、冬ものをもらって来なければ・・・・・
季節の衣類がまだ用意できてなくて・・ああ~~~!
寒い日々を送ってたりしましたが、今日はかなり冬仕度がすすみそうです。

外では小さな子どもたちが遊ぶ声がします。
娘が2才のときにこの街に越してきました。約30年の歳月が過ぎ去りました。
娘は「お家に帰る!」と言ってよく泣きました。以前住んでいた家に帰りたがり私は当惑しました。
それで、お隣に住んでいたゆりちゃんに遊びに来てもらいました。

娘は「ゆりちゃんち」でよく遊んでもらっていたのです。
ゆりママは娘と同い年のゆりちゃんと2才年上のお姉ちゃんを保育園に通わせていましたが保育園は4時過ぎには終わってしまいます。土日祝もあります。
娘はよくお隣へ行ってました。

あの頃、お隣があったので、何とか生き延びれてこれたのだとシミジミ~~~

もちろん、引越し先で、娘はまもなく慣れてそのあたりの子どもたちと広場で遊ぶようになるのですが・・・
広場には砂場やすべり台があり・・・

あるとき、娘の泣き声がサイレンのようだと近所の方に言われました。お兄ちゃんたちと遊んでいて、いやなことがあると、すごい大声で泣きました。
だから、私は家の中にいても聞こえるのです。

もう、30才も過ぎてしまった娘なのですが、あの時サイレンのように泣きわめいていた記憶は懐かしく思い出され、自分の感情をそのままに出す大人になっていてうらやましくもあります。
(一見、おとなしく、落ち着いているように見える娘なのですけれど・・・)

子どもが小さかった頃、さまざまな方々のヘルプがたくさんありました。
娘が赤ん坊のころ住んでいた住宅の隣には公衆浴場があり、赤ん坊の衣服をきせてくれるおばさんがいました。私は年子の子ども二人を連れて、お風呂に行くのですから、とても助かりました。赤ん坊を先に上がらせて、上の子を洗ってやるという手順になってました。
その時代は赤ん坊をつれて公衆浴場に行く人が多かったのです。

近所の方々の世話になりながら、子どもたちが大きくなっていったことを此処に書いてくれと、娘の伝言です。
つまり、若かった私は赤ん坊をだいて、 親子3人で近所の定食やさんに行ったら、何か妙な顔されたとか、二人目の子持ちになった冬は「貸しオムツ」を利用するしかなかったんだとか、かなり手抜きをしていた話をしました。コロッケとか鳥のもも焼きをよく買ってたのですよ!

ほんとに、初めての体験でまったく、なれていないことばかりで、少し先に子どもを育てている方々の話を聞きまくりました。
それを井戸端会議とも言いますが・・・(^-^*)

このあたりは小さな子どもを持った家が多く、若いパパは朝、ゴミ捨てを日課にしてる。
今はパパがゴミ捨て当たり前になったんだなと感無量!
時間がある時は子どもの世話をしてくれたけれど、子どもたちの父親にゴミ捨てなど頼めるわけもなく、仕方なく私は息子が中学生の時はちょうど通学路なのでゴミ袋を持たせた。きっと、そんな風に育った少年たちが今パパになってゴミ捨てしてるんだろうか!

子どもたちの父親は祖母と母にかしづかれて、子ども時代を送っているので、家事手伝いを頼むのにものすごいエネルギーを消費した。
仕方ないよね!慣れないことは!
それでもその人にとってはすごい努力をしたんでしょう!



母の思い出から

2005-06-22 21:44:52 | 母と娘、家族
私が子どもの頃、母は朝から晩まで働いていました。家業は和裁仕立業&和裁教室でしたので、和裁を習いに来る若い女性は夜9時までいました。時おり、誰も来ない日がありましたが・・・嬉しかった!
(ただし、戦後まもなくは和裁の仕事はなかったのでは・・と記憶しています。)弟が5才で亡くなったのは私が小6の時ですが、その頃にはすでに夜9時まで誰かが家に来ていました。何時に寝たのかはよく覚えていませんが、歩いて5分の小学校ですのによく遅刻していました。朝寝坊でした。テレビも無かった時代なので、私は何をしていたのでしょう?あまり良く覚えていません。たまの記憶ではせっかく眠ったばかりなのに親たちががたがたするので、目が覚めてしまったこともあります。中学のあたりでは少し住居スペースがひろがり、私の部屋ができました。(一時期、祖母が同室のこともありました。)

母は和裁の仕事をしながら、家事もするのですから、とてもおおざっぱな家事でした。というか小学生のころたいしたおかずなどなかった。私はコンロで薪で、ご飯炊いてた頃もあります。消し炭つくってました。しばらくすると都市ガスとなりましたが・・・その頃、ご飯たくのは私の役目でしたが、おかずはほんの少しでぬか味噌漬けを出すとか。

母は元気な人でした。風邪をひいて、寝てたことはなかった。年老いてから(70代になってから)風邪ひいたと電話で言ってるのをききました。丈夫だったのか、何なのか!
父は頭痛、めまいなどで横になってることがありました。

母は小学校高学年で親戚(母方の叔母)の家から学校に通うことになり、子守をしながら通学したのだそうです。女学校に行きたかったのでしたが、親戚の居候ではままならず、 女工となり妹弟に仕送りしていたのだそうです。(この時、実父が行方不明で母が家族の父親がわりをせざるを得ない状況にあったので。)
母の父(私の祖父)七郎さんは借金に借金を重ね、何処かへ消えていました。小さな妹と弟は母親とともに七郎さんの生家のすみで暮らしていました。母は長女で、その下の妹と二人は親戚に預けられました。

母は女工時代、必死に働いて、送金していたそうですが、弟妹のために使われず、借金の埋め合わせに使われてしまったと残念そうな口ぶりでした。若いころはそのように働き、嫁いでからは「嫁は労働力」だと思っている父と暮らすのですから、口数少なく、働きまくっていました。

母のしゃべり声が大きくなっていったのは私が20代になってから夏休み冬休みに帰省する頃。
こんな大きな声でしゃべる人だったのかとビックリしました。和裁教室に来る人の数が増え始めてからです。(1960年代、世の中が絹の着物を作るようになったので)母が和裁教室を切りまわしていました。

着物

2005-02-04 18:46:24 | 母と娘、家族
今日のランチは「きものパーティー」の皆様と千○閣で和食。和服用のコートも防寒具もないので、着物持参で会場で着替えました。(それと明日のフェスティバル展示が出来上がっていないので、その作業もしなければいけないので・・・)
母が残してくれた着物・帯などがあるのです。
母は和服仕立業&和裁教室の経営者でしたから、自分の着物を購入する時 あとで私が着れるようなサイズで縫ってました。全く袖を通してない着物も残りました。

母が祖母から譲り受けたものは帯揚げひとつ。祖母の手織りで、地味なピンク系で織り柄が少し入ってました。祖母は母にたったひとつしか残せなかったのです。母の見ている前で、差押人が家財を全部差し押さえてしまい、母がそっと隠し持った帯揚げが1枚残り、私の手に渡りました。祖母のなつかしさとともに私はその帯揚げをマフラーにしていました。でもそのうちに、擦り切れてしまいました。(でその後、私は骨董市に行き似た感じのものを2-3枚買ってしまった。)

私は子どもの頃、母と祖母の家に行き、大きな白い豆がおいしかったのを懐かしく記憶しています。生垣は金平糖のような実がなっていた。小川が流れ、どじょうや鮒が泳いでいた。
祖母は手織りをしていたのだそうだが、私が会ったときには、もうその織機もなくなってしまい、親戚の倉庫に間借りしていた。

母は娘に着物をいっぱい残したかったんだろう!母は自分の辛かった子どもの頃の体験を私にさせたくなかったんだ!「女の一生」という世界名作があるけれど、母は子どもの時から働きずくめでずっと!ずっと!朝から晩まで働いて、なくなる前 少しのあいだボーとした時期があっただけでその一生を終えた。私は母はいつまでも丈夫で元気なのかと思い込んでいたら、70代の後半から、体調が少しづつ衰えていった。
その母も亡くなって5年が過ぎた。