Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

ディーター・ダイゼロート「責任は実証主義にあったのか?」(1)

2015-08-12 | 旅行
 ディーター・ダイゼロート
 責任は実証主義にあったのか? ―― 1933年1月30日から80年目のテーマ「法律家とナチ体制」に関する評論1)
 訳 本田 稔
 
 立命館法学360号(2015年)

 一 グスタフ・ラートブルフ ―― 信頼できる王冠証人なのか?
 二 法と法律の実証主義の核心的内容
 三 実証主義伝説
 四 結論 ―― それが我々に教えるもの

 一 グスタフ・ラートブルフ ―― 信頼できる王冠証人なのか?
 ラートブルフは、長年にわたって社会民主党の帝国議会議員を務め、短期間でありましたがワイマール共和国において司法大臣の任に就いていました。同時に、20世紀において最も影響力のあった法哲学者でもあります。1946年、彼は、その著名な論稿「法律の形をした不法と法律を超える法」において、次のような定式を行ないました。

 「命令は命令だ」という原則と、「法律は法律だ」という原則がある。ナチスは、この二つの原則を用いて、一方では軍人、他方では法曹というナチスの従者を手もとにつなぎとめておくことができた。……「法律は法律だ」という原則には、何らの制限もなかった。それは、何十年もの間ほとんど反対もされずにドイツの法律家たちを支配した法実証主義の思想の表現である。……まことに、実証主義は、「法律は法律だ」というその確信によって、ドイツの法曹から、恣意的かつ犯罪的な内容をもった法律に対して抵抗する力を奪い去ってきた2)。

 ラートブルフは、この定式によって、様々な学問的・政治的「陣営」から、多くの支持と支援を得ることができました ―― ただし、それも今日までです。連邦裁判所3)の長官であったヘルマン・ヴァインカウフは、1935年にナチス政権によって帝国裁判所の判事に任命され、1945年までそこで任に就いていましたが、ミュンヘン現代史研究所から委託を受けて執筆した1968年出版の『司法と国家社会主義』4)のなかで、法実証主義は法曹、とりわけ裁判所から、法の領域への「国家的不法の侵入に対する抵抗力を奪い去った」と解説しました。ヴァインカウフは、国家社会主義に対するドイツ法学の脆弱性は、最終的に法実証主義に帰着すると述べたのです5)。それから数十年、多くの法学者と法適用者は、同じことを論じてきましたし、また論じています。ここでは、それに関して若干ではありますが、実例を示さなければなりません。自らも褐色の過去に深く引き込まれたことがあるハンス・ヴェルツェルは、ドイツの法律家のほとんどが実証主義的心情を抱き、それゆえ寄る辺なきままに「第三帝国」に引き込まれ、「法実証主義に縛られた」という考えを主張しました6)。また、ケルンの憲法学者マルティン・クリーレは、「適法性と合法性の同一視は、あらゆる抵抗権を排除するだけではない。憲法が適法に改変されるときに、民主主義的立憲国家のあらゆる適法性を防衛できなくなることをも意味する。それゆえに、法実証主義は、ワイマール共和国の崩壊を理論的に正当化し、それを準備できたのである」と論じました7)。ヴュルツブルクの刑法学者ギュンター・シュペンデルもまた、法学的実証主義を「国家自身が法として定立し承認したものだけを、秩序と安定性を理由にして法として妥当させ、不正で犯罪的な法律に対する抵抗力を法律家から奪い去った学説」であると特徴づけました8)。さらに、ミュンヘンの法哲学者アルトゥール・カウフマンは、「このような実証主義の倫理的頽廃がいかにして生じたかは、知られている。国家社会主義において、誠に『卑劣で』、『非倫理的』で、かつ『犯罪的』な法律が作られ、実証主義によって教育を受けた法律家の世代からは、その法律に対して、何ら特筆に値する抵抗はなされなかった」と述べました9)。
 私は、ワイマール共和国の廃止に際しても、またナチ体制の期間においても、法または法律の実証主義が「法曹」から「抵抗力」を奪い去ったという、いまだに ―― 今日においても ―― 広く行き渡っている、理論に即していないこの主張を「実証主義伝説」と特徴づけようと思います。この実証主義伝説は、誤った歴史的・法的前提から出発しているため、前提として全く不適格であり、その結論にも致命的な欠陥がある、というのが私のテーゼです。

 二 法と法律の実証主義の核心的内容
 まず第一に、そもそも「法実証主義」のもとにおいて、何が理解されるべきなのかという問いに対して、若干の注釈を行ないます。法および法律の実証主義には、多様な潮流が豊富にありますが、それはおそらく二つの核心的テーゼにおいてまとめることができるでしょう。
 実証主義の法源論の主要な内容は、次のようなものです。定立された法、つまり立法者によって実定化された法(および慣習法)以外に妥当する法命題など存在しない。何が法的に許容され、禁止されるかは、妥当する法命題から認識することができる。法学以外の価値や目的、例えば宗教的、政治的、社会的または学術的な価値や目的には、それらが法規範の形において確定されない限り、法を創造し、また法を変更する力があると認めることはできない。これが、法実証主義の法源論の内容です。
 第二に、あらゆる伝統的な実証主義の形態を特徴づけているのは、その法学的な解釈方法です。実証主義者が述べるように、規範の条文内容と意味の確認は、条文が成立した歴史的・政治的な諸条件から導き出されねばなりません。その解釈は、規範の文言を確認し、それを厳密にし、それに従わなければなりません。それ以外にも、もちろん ―― 「文理的」および「体系内的」な視点に基づいて ―― その時々において考察される規範と他の規範、すなわち同一の法典または考慮されるべき一部の法典に含まれている規範を一つの「体系連関」にまとめることを試みなければなりません。ワイマール共和国の重要な法実証主義の主張者として、とくにゲアハルト・アンシュッツ、フーゴ・プロイス、リヒャルト・トーマ、そしてハンス・ケルゼンの名前を挙げることができます。

 三 実証主義伝説
 法実証主義は、ワイマール共和国の廃止にあたって、そしてナチ体制において、「法曹」から抵抗力を奪い去ったという実際に主張されている法的テーゼは、様々な誤った前提を含んでいます。

1.「実証主義伝説」は、法または法律の実証主義が、ワイマール共和国の数年の間、またナチ国家において、つまり1933年前後において、裁判官と法学のなかで支配的な原理であったことを前提にしています。しかしながら、それは全くの誤りです。

・ワイマール共和国時代の国法論による法および法律の実証主義の排斥
 1870年代以降、国法上の実証主義は、ドイツでは不動の地位にありました。それに結びついているのは、とくにパウル・ラバント、カール・フリードリヒ・フォン・ゲルバー等の法学者です10)。1918年から19年にかけて、ドイツに議会主義が導入されるに伴って、その様相は一変します。それは、実際に国法論の亡霊を再びよみがえらせました。その結果、高次の法を探求し、それによって実定的な法秩序を非法学的に基礎づけようと試みる新しい方向へと進んでいきました。それ以降、ワイマール共和国では、哲学上の同様の思潮に対応して、4つの基本的な潮流が形成されました。それらは、国法上の法実証主義とそのワイマールの代表的論者であるゲアハルト・アンシュッツ、リヒャルト・トーマ、そしてハンス・ケルゼンに対立しました。4つの潮流とは、①自然法によって形成された潮流であり、その代表的な論者として、エリック・カウフマンの名前が挙げられます(1950年代にアデナウアー政権の国際法顧問を務めました)。②いわゆる精神科学的な方向を目指す潮流であり、その論者としては、ルドルフ・スメント(「統合理論」)とギュンター・ホルシュタインの名前が挙げられます。③社会学的・政治学的な傾向であり、それを主張した者として、とくにヘルマン・ヘラーと彼を支持する比較的わずかな国法学者が挙げられます。④権力国家的・権威主義的で、反個人主義的・決断主義的な学説であり、それを主張した者としては、カール・シュミットとその支持者が挙げられます。その当時、この潮流には、エルンスト=ルドルフ・フーバー、ヴェルナー・ウェーバーとエルンスト・フォルストホフなどが属していました。
 4つの潮流の核心的な内容は、議会による権力形成、すなわち普通・平等・自由な選挙法に基づいて任命された立法者による権力形成を制約することにありました。それらの議論は、とりわけ3つの問題に関わっています。それは、①ワイマール共和国憲法第109条の平等原則は、その文言(「法律の前での平等」)および従前の学説に反して、立法者に対しても妥当するのか、②憲法の核心部分は、立法者とは異なる次元において成立しているのか、そして③法律の合憲性に関する裁判官の審査権は、憲法に規定されていないにもかかわらず、裁判官に付与されているのか、という問題です。エリック・カウフマンは、すでに1926年にミュンスターで開催された国法学会において、国法上の実証主義がかつて誇っていた優位性はもはや成り立たないと断言しました。彼は勝ち誇ったようにして、次のように述べました。

 私は、法学における実証主義が今日では広く破綻したと評価されていること、我らの国法学会が少なくともこの問題を問題として受け止めていること、そして法的問題の核心へ、実定的な国法の彼岸にあるものへ進んで、問題解明に真剣に取り組めることを喜ばしく思います。……実証主義は、その性質によれば、安定的な諸関係、または安定的であると評価された諸関係とそれによって与えられた静態性の気風を基盤にして成立するものです。戦争、革命、崩壊、そして平和条約によって、我々は静態的な民族であることをやめたのです。法律の前の平等という原則によって提起された問題が、我々にとって再び問題となりましたが、それもこのことと関係があるのかもしれません11)。

 支配的になった反実証主義の潮流に対抗して、国法学会において反対の論陣を張り、その政治的意図と含意について公然と問題を提起し、問題点を指摘したのは、ハンス・ケルゼンでした。「示されているのは、現実に存在する立法者の権威の価値を過小評価するという明らかな傾向です。ある一部の法律家グループが、これまで無条件に承認されてきた法学的実証主義から離脱しています。その傾向が立法機関の政治的構造の変化によって説明できるのかどうか、どの程度説明しうるのかという問題に立ち入りたいと思いますが、いずれにせよ見逃すことができないのは、かつて裁判官の法規拘束性を教えていた法律家が、今日では自然法を引合いに出すことによって、法律に対抗する自由を裁判官に認めようとしていることです。議会の設立によって、政治的構造が変化したことが明らかになったために、裁判官が非常に自由になっていること、その結果、法曹の全部またはその一部と議会との間に政治的な対立はあっても、今日の裁判官と法曹の間には、そのような対立がなくなていることも見逃せません12)。

・裁判官
 ワイマール共和国およびナチ時代において支配的な法律観であったのは、法律実証主義ではありません。ワイマール共和国の憲法は、議会の無制限の立法権能、全ての市民男女(とくに労働者層)の完全な政治参加の権利を初めて保障しましたが、その共和国が建国されて以来、「ドイツの法曹」の、とりわけ司法関係者の多数は、民主的に成立した法律に対して、ますます容赦のない批判を行ないました。法律の文言を厳格な羅針盤として位置づける解釈方法、(立法府の歴史的意思と目的設定に照準を合わせて)歴史的・主観的な解釈方法を採用することを拒否しながら、 ―― いわゆる高次の「価値」(「実質的法治国家性」)と「利益」、「不可避的な必要性」、「生活上の経験」、あるいはその他の「自由な論証方法」を顧慮した法律の解釈を行なったのです13)。
 法学においても14)、裁判においても15)、確定的な基本方向、あるいは一貫した民主的・「実証主義的」な基本方向が語られることは、ワイマール共和国ではありえませんでした。むしろ支配的であったのは、民主的に選挙された立法者および民主主義に反対する共和国敵対的な基本態度でした(「政党国家」、「大衆民主主義」)16)。

・ナチ国家における法理論
 1933年1月30日以降、ナチの法イデオロギーによって、そしてそれを支援する法学者によって、裁判の場においても各別の攻撃対象にされたのが「実証主義」でした。ナチの権力的で、イデオロギー的な先駆者と支持者は、法実証主義が、ナチ体制の新たな政治目標、しかも諸状況に即応して生成する政治目標の貫徹を阻害するものであると考え、侮蔑しました。彼らにとって実証主義は、「政党国家」の立法者が、憲法の枠内において実定化した抽象的・一般的な法規範のところに、国家の権力行使を、条文の文言に照準を合わせる「形式主義」によってつなぎとめることによって、それを手なずけることを目指した阻害的な方法であり、敵対的な方法でした17)。
 それゆえ、エルンスト・フォルストホフは、1933年に出版された彼の著書『全体国家』のなかで、ワイマール共和国と法実証主義に対して、次のような言葉を浴びせて論争を挑んだのです。「規範の定立と予測可能な執行の上に成り立つ国家(すなわちワイマール共和国)は、実際に決定されたことを、正当であろうが不当であろうが、良かろうが悪かろうが、倫理的であろうが非倫理的であろうが、そもそも執行することができない。というのも、そのような判断を行なうことが可能なだけの実体をその国家は欠いているからである。まさしく、その国家は、決断する力を失った世代の国家であるために、そのような決断を、やむを得ない結果としてではなく、原理的に放棄しているのである。……それによって、その種の国家政体を『法治国家』と特徴づけることのなかに、自惚れが内在していることもまた露呈する。なぜならば、法と不法を区別できない国家が法の国家であることを特別に強い調子で要求し、それによって他の国家、「独裁国家」、「御上」、「権力国家および暴力国家」を見下して、それに反対し、そして優越する倫理的・政治的な価値を守ることを要求するならば、それは根本的に重大な欺瞞でしかないからである」18)。
 ワイマール共和国が終焉を迎え、ナチ体制が安定した状態に入った後、フォルストホフは、次のように定式化しました。「たとえどのような状況にあろうとも、今日の国家は」 ―― つまり1933年のナチ国家 ―― 「必然的に権威を喪失するに至った個人主義的で実証主義的な態度から何らかの力を引き出すことなどできない」19)。さらに、エルンスト=ルドルフ・フーバーは、1935年に次のように記しました。「革命的に創造された国家社会主義の国家秩序を妥当せしめるために重要なのは、ワイマール憲法の意味における適法性ではなく、民族的概念における合法性である」20)。彼は、その標準的な教科書である『大ドイツ帝国憲法』のなかで、そのことを同じように定式化しました。「国家社会主義の革命が適法であることから、ワイマール憲法がまだ妥当しているという結論を導き出す者は、誤った法学的形式主義、すなわち憲法実証主義と規範主義の枠内にとどまっている」21)。
 カール・ラレンツ22)、オットー・ケルロイター23)、カール・シュミット24)、エリック・ヴォルフ25)、そしてハインリヒ・ランゲ26)のような論者は、「正しい国家」に対抗する「形式的法律国家」を同じような方法で批判ましした。カール・シュミットは、1933年に公表された論文「国家・運動・民族」のなかで、数千の法律の条項の歪曲可能な文言によって欺瞞的につなぎとめることに対して反対しました27)。カール・ラレンツは、1935年に公刊された論文のなかで、法律実証主義が、法生活における創造的な改革の放棄へと至り、裁判官の法規拘束性という硬直化した見解によってその責務を果たす喜びを麻痺させ、このような方法によって成文法と全体的な倫理的意識との間に、裁判官が主張するところの「亀裂」を作り出したと非難しました28)。この場合、彼らの念頭にあったのは、実証主義と民主主義的な基本的態度との間に関連性があることでした。それゆえ、エルンスト・フォルストホフは、ハンス・ケルゼンという実証主義者を軽蔑的に「民主主義の首尾一貫した防禦者」と呼びましだ29)。オットー・ケルロイターは、「国民革命の意義と本質について」という論文のなかで、リヒャルト・トーマという実証主義者を「自由主義的な国法論の代表的な主張者」と特徴づけ30)、カール・シュミットは、「典型的な法治国家論者」のグスタフ・ラートブルフを引用し、批判しました31)。

2.それ以外にも、「実証主義伝説」は、ナチの「法律」が一般に明確で拘束力のある法規適用命令を内容としていたことを想定しています。その点に関しては、まずは1933年から戦争が開始される1939年の秋までの全期間において、多くの政府制定法と対立する新しい議会制定法が帝国議会で可決されなかったことを確認すべきでしょう。ナチの「法律」の構造は、それが常に短期間のうちに不明瞭なまま制定されたことに特徴があります。わずかな条文が、一般条項とあいまいな概念によって徹底的に適用されました。ナチの「法律」には、大体の場合、仰々しく響く目的規定を伴った条文が前置きされていました。その法的内容を明らかにすることは、方法上ほとんど不可能でした。従って、ナチの「法律」は、法律の模造品にすぎません。国家社会主義の不法の媒体になったのは、法律ではなく、脱形式化された法でした。この規則の適用は、法以外の価値基準に基づいてのみ可能でした。つまり、利益衡量したり、その基準を踏まえることによってです。1933年以前の時代から存在する旧い法は、その法律の条文が変更されない場合には、ナチ思想32)の指導的指針の意味における解釈による適応という柔軟な戦略を介して適用されました。カール・シュミットは、その指針に原則を与え、裁判官、弁護士、司法官僚または法学教師による一般条項の解釈と取扱いの基準になるのは、「直接的および排他的にナチスの基本原則」だけであると述べたのです33)。

・法律の模造品は実定法にあらず
3.ナチは適法に権力の座についたという命題が、今日まで幅広く普及しています。この命題が、まさにこの適法性を理由にして、「法曹」が実務においてナチ体制の不法なもの、犯罪的なものを断罪し、それに効果的に抵抗することを非常に困難にさせたという命題に結びついています。1933年1月30日以降、現実の過程に「適法な権力掌握」というヴェールをかぶせる着想の「精神的指導者」であったのは、帝国内務大臣フリック(ナチ党)です。ドイツの国法学者の権威ある代表者は、「合法革命」34)と繰り返し呼び、祝賀し、その着想を貫徹させ、適法化する強大な力に貢献しました。ここでは、ひとつの伝説が問題になっています。それは、明瞭な事実によって反証されます。私のテーゼは、次の通りです。「ドイツの法曹」が、1933年にワイマール憲法と現行法を真に受け入れ、それを民主的・「実証的」に解釈し、適用していたならば、彼らにはナチの権力者の多くの法違反や憲法違反を見抜き35)、それに異議を唱える機会が十分にあったに違いありません。ナチ体制の安定化が法律に基礎を持っていなかったことは、法律家には比較的容易に認識できたはずです36)。

 四 結論――それが我々に教えるもの
1.法実証主義は、国家社会主義の支援者でも、その従順な下請人でもありませんでした。法実証主義の原理にある形式的中立性やそれに基づいた法適用、厳格に法律に方向付けられた法適用が、犯罪的なナチの体制を合法化し、それを貫徹することに貢献したのではなかったのです。大多数の法曹を準備させ、彼らに能力を与えたのは、むしろ価値関係的な目的のための、つまり規範性を解体する「実質的」な目的のための自己の道具化だったのです。司法は、法規拘束性ではなく、価値拘束性(「ナチの世界観」、「民族の法思想」および「公共の福祉」条項など)によって統制されていたのです37)。

2.法律の概念は、ワイマール共和国の法実証主義原理においては(特にゲアハルト・アンシュッツ、フーゴ・プロイス、リヒャルト・トーマ)、その民主的な手続的要件に結びついていました。市民的権利と自由への介入には、すべて法律、すなわち国民代表機関の賛同が必要でした。この理解に従えば ―― ゲオルク・イェリネクが定式化したように ―― 、法律は国民代表機関の賛同を伴って宣言された命令の「全てであり、しかも唯それだけ」でした。ナチの政府制定法、総統の命令、およびそれに似た怪しげな命令、規則は、まさしくこの要件を満たしてはいませんでした。従って、それらは、実証主義的な法律の理解によれば、法に非ずということになります。

3.法および法律の実証主義は、国家機関と権力者によって定立された(実定化された)法規範ならば、どんな状況のもとでも遵守されるべきであるという命題を宣伝したとされています。広く普及しているこのような理解を取り除く必要があります。20世紀の最も重要な法実証主義者の2人にしか発言の機会が与えられていないのであれば、ハンス・ケルゼン38)とH・L・ハート39)の名を挙げることができます。彼らにとって、法とは、「国家的に定立された規範の全体系であり、それが義務を課す力を持っていることについては、何も述べられていない」のです40)。彼らは、法の概念的な成り立ちと個別的・道徳的な遵守要求を区別しました。
 ラートブルフの法実証主義の場合は、どちらかというと典型的なものではなく、デフォルメされたものなので、法の遵守要求の説明の仕方は異なっています。彼は、その戦前の哲学に基づいて、法制度に関する実証主義的な言説に、法制度への服従を求める倫理的・道徳的要求を強制的に結びつけることを主体的に説きました。その当否はさておき、彼は自分の着想を1945年以降に振り返って、そのように回想しました。それは ―― 私の考えでは、またもや誤っているのですが ―― 、1945年以降のラートブルフの自然法への転換を自伝的に分かり易くしましたが、説得力があったとは決していえません。
 法実証主義の中立的な法概念は、法の道徳的性質と服従要求に関する決定を市民に委ねています。その限りで言えば ―― ホルスト・ドライアーが適切にも指摘したように ―― 法実証主義にとって必要なのは、個人に決定を委ねるがゆえによりハードルが高くなる理論です ―― それはラートブルフおよびそれに類似した「実質的」な概念の理論とは違うものです41)。

4.法と非法は、区別されねばなりません。この「実証主義者」の格言は、民主的・法治国家である限り放棄できません。それにもかかわらず、様々な形態の法および法律の実証主義は、歴史的に見れば、物事を盲信してきましたし、今もまたそうです。この意味において学問的でないこともまれではありませんでしたし、今もまたそうです。そのことは、特に条文の内容と意味の探求は、条文が成立した歴史的・政治的な条件から導き出され、確認されなければならないという法実証主義の前提条件に関してもあてはまります。
 社会科学的な方法やその研究成果を顧みなくても、妥当する法を探求することは、ほとんど可能です。何故ならば、法は「凝固した政治」だからです。それは、特に憲法の規範にもあてはまります。憲法の規範は、憲法の制定者(pouvoir constituant)と変更する立法者(pouvoir constitue)から導き出された結論であり、苦悩に満ちた過去の経験に対する回答です。その回答は、その規範が将来起こるであろう新しい紛争状態に適用されることを求めます。その領域において予期されなかった新しい事態が発生したとき、または既に知られている事態が全体の発展経過に組み込まれることによって、新しい関係と新しい意味において現われるとき、憲法の規定が「意味の転換」を経験することがあるのはもちろんです42)。しかし、このような意味での実態的な諸関係の変化が憲法の変更に至るのは、その実態的な変化が、その時々の憲法規範の条文に含まれた規範プログラムの、しかも伝統的な解釈方法によって解釈できる規範プログラムの内側にある場合だけです43)。
 規範の提供者によって定立された規範プログラムを適正に適用することができるようにするために、それを明確にしようと思う者は、まずは当該法的規則が形成され、実定化されるに至った多様で非常に複雑な社会的・政治的な紛争状態と、その解決された状態を調査しなければなりません。法規範を適正に解釈する際に必要不可欠なことは、とくにその文言がどうなっているのか、その歴史的な成立過程がどのようなものであったのか、他の規則などとの関係がどうなっているのか、解釈されるべき規定の目的がどんなものであるのかを考慮に入れることです。
 ただし、法的規則を作り出し、それを適用するだけでなく、それを遂行し、執行するための条件は、実は豊富にあります。その条件に関して、純粋の「規範主義的」なスタンスに自ら法律家としての立場を限定し、転換の条件、その効果、影響に関して、社会科学的な問題提起やその認識には具体的な意味がないとする者は、狭い視野しか持っていないため、責任ある態度で法を取り扱うことは難しいでしょう。それは、法学者と同様に、行政府や司法府にいる法適用者にもあてはまります。また、法政策に関わる関係者にもあてはまります。

・法規範は基本法の民主主義の要請に応ずべし
 憲法と基本法は、言うまでもないことですが、それが規律する事柄しか規律できません。その限りで言えば、基本法の規制は、「全体を網羅する」のではなく、その端緒を与えるだけです。私の見解によれば、一見すると論理的に思われるような具体化の施策によって、個々の規定の総和から新しい法規範を法創造的に常に導くような「全体の体系」を導き出すことは、憲法解釈者の仕事ではありませんし、またその任務でもありません。パウル・ラバントのようなドイツ帝国の実証主義者が誤りを犯したのはなぜかというと、(自己完結的な)法体系から出発し、価値中立的・論理的な演繹によって、法的上位概念から常に新しい法命題を獲得することを前提にしたためです。それは、彼らが行なっていることの現実を隠蔽しました。そこから一定の教訓が必然的に導き出されねばなりません。
 民主的な立法府によって作り出された国内の法規範は、 ―― 法学的な「手工芸的技術」の放棄し得ない構成部分であり、それゆえもう一度強調されなければならないのですが ―― その規範の確定されるべき文言、諸規則の関連性、その体系的な位置づけ、それが成立した歴史、そしてそこから派生可能な目的に基づいて解釈され、適用されなければなりません。その際、民主的憲法秩序ならびに基本法においては、基本法22条に規範化された(中心的な)民主的・社会的な「国家目的規定」に常に注意を払わなければならないことは言うまでもありません。ドイツ連邦共和国は、「全ての国家権力が……国民に由来する」ところの「民主的で社会的な連邦国家」(1項)です。全ての法規範を解釈するにあたって出発点になるのは、法規範は基本法の民主的要請(および社会国家的要請)の意味において解釈・適用されなければならないということです。とくに民主的な社会それ自体にとって本質的に重要なコミュニケーションの権利は、「民主主義に一致する」ように解釈されなければなりません。

5.「行政管理的」な解釈論的着想は、行政機関に対して、法律に拘束されない自由な裁量権を与え、それによって選挙された国民代表機関に対抗できるようにします。また、「超法規的緊急事態」、「国家の存在根拠」、または「行政府の核心領域」のような概念構成体を用いて、多少なりとも行政機関を法的拘束から解放することを切望し、それを実現します。しかし、批判的に問題視されなければならないのは、そのような着想の背景に何があるのかということです。例えば、司法府、軍隊、その他の国家機関は「機能的」でなければならないと論じて、「機能性」を要求して、憲法を解釈し、それによって基本権を制約する場合がそうです。また、「効率性の悪い判断規範に直面したときに」、一定の政治的領域は「民主主義から除外」されなければならないと要求する場合がそうです(最近ではケルンの国法学者オットー・デペンホイザー44)がそのように主張しています)。

6.憲法は、法的な枠組秩序です。基本法は、教理学修書でもなければ、聖書でも、信心書でもありません。憲法によって導き出された限界の最外延が踏み越えられない限り、民主主義の過程は開かれています。憲法が立法者に裁量権を付与していても、憲法によって保障された民主主義の過程の原則的な公開性は、制約されてはなりません。言葉を換えて言うと、基本法の規則が、立法者に対して、また議会に責任を負っている行政府に対して、政治的決定の裁量権を与えている場合、この裁量権を法定手段を用いて狭め、閉ざすことは、司法府の課題ではありませんし(連邦憲法裁判所の課題でもありません)、また「憲法解釈者の開かれた学会」の課題でもありません。それは、法治国家の中心的な要請、つまり司法(連邦憲法裁判所もまた)が法と法律に拘束されるという要請であるだけでなく、偉大な民主主義理論の重要性でもあります(基本法20条1項)。それゆえ、民主的な過程は、原則的に未来に開かれていなければなりません。国民、民主的な統治者、彼らによって選ばれた議会および政府の代表者に付与されている民主的な形成選択権は、彼らから奪われてはなりません。それは、たとえ青、黒または赤の法服のもとであっても、奪われてはなりません。さもなければ、民主的な選挙とそれに結びつけられた政治勢力の民主的連合体は、重要性を失うでしょう。カノッサならぬ、「カールスルーエの屈辱」のごとく、連邦憲法裁判所にお伺いを立てても、民主的な討議の代わりになるわけではありませんし、それを不要なものにすることもできません。
 もっとも、基本法の法規範において、国家機関のための指針が確立している場合、その指針は、国家機関によって厳守されねばなりません。憲法が求める事柄、それが禁止する事柄、そして国際法(基本法20条3項と25条)の規準によって行政府を厳格に拘束しても、指針の遵守を緩和することはできませんし、また緩和してはりません。それは、ヨーロッパ連合の領域にも妥当します。それは、あらゆる民主的立憲国家の核心なのです。

1)本稿は、著者がザクセン・アンハルトの裁判官研修の一環としてハレ・ザーレにおいて行なった講演を基にしている。
2)Gustav Radbruch, Gesetzliches Unrecht und übergesetzliches Recht, SJZ 1946, Nr. 5, S. 105 ff.
3)Vgl. Klaus-Detlef Godau-Schüttke, Der Bundesgerichtshof - Justiz in Deutschland, Berlin, 2005, S. 21 ff.
4)Hermann Weinkauff, Die deutsche Justiz und der Nationalsozialismus, Stuttgart 1968 (Band 16/1 der "Quellen und Darstellungen zur Zeitgeschichte").
5)Weinkauff, ebd., S. 30 f.
6)Hans Welzel, Naturrecht und Rechtspositivismus, in: Werner Maihofer (Hrsg.), Naturrecht oder Rechtspositivismus?, 1962, S. 322 (323).
7)Martin Kriele, Recht und praktische Vernunft, 1979, S. 126.
8)Günter Spendel, Justiz in der Zeitwende. Gustav Radbruch zum 100. Geburtstag, 1979, S. 28 f.
9)Arthur Kaufmann, Theorie der Gerechtigkeit. Problemgeschichtliche Betrachtungen, 1984, S. 31.
10)Vgl. dazu u.a. Oeter von Oertzen, Die soziale Funktion des staatsrechtlichen Positivismus. Eine wissensozliologische Studie über die Entstehung des formalistischen Positivismus in der deutschen Staatswissenschaft. Hrsg. und mit einem Nachwort von Dieter Sterzel, 1974.
11)Erich Kaufmann, VVDStRL 3 (1926), S. 3.
12)Hans Kelsen, Diskussionsbeitrag, in: VVDStRL 3 (1926), S. 54.
13)Vgl. dazu u.a. Knut Wolfgang Nörr, Der Richter zwischen Gesetz und Wirklichkeit, 1996, S. 10 ff.
14)Vgl. dazu u.a. Ingeborg Maus, Entwicklung und Funktionswandel der Theorie des bürgerlichen Rechtsstaats, in: Tohidipur, Der bürgerliche Rechtsstaat, 1978, S. 13 (40 ff.); Deiseroth, in: ders/Hase/Ladeur (Hrsg.), Ordnungsmacht, 1981, S. 85 ff.(88ff.) m.w.N,: Ridder/Bäumlin, in: AK Grundgesetz, Bd. 1, 1. Aufl., 1984, Art. 20 Abs. 1 -3- Rechtsstaat - Rn. 21 ff. m.w.N.; Stolleis, Geschichte des öffentlichen Rechts in Deutschland. Dritter Band, 2002, 171 ff.; Deiseroth, Die Legalitäts-Legende, in: Blätter für deutsche und internationale Politik, Heft 2/2008, S. 93 (98ff.).
15)Vgl. u.a. Ingo Müller, Furchtbare Juristen, 1987, S. 54 ff.; Deiseroth, Nordrhein-westfälische Justiz und NS-Vergangenheit. Anmerkungen zu dem vom NRW-Justizministerium in Auftrag gegebenen Forschungsprojektoth, in: Kritische Justiz (KJ) 2002, S. 90 (91 ff.) m.w.N.
16)Vgl. dazu u.a. Sontheimer, Antidemokratisches Denken in der Weimarer Republik, 1962 (2. Aufl. 1968); Fridrich Kübler, AcP 162 (1963), S. 104 (114 ff.); Fangmann, Justiz gegen Demokratie, 1979; Rottleutner, in: Dreier/Sellert (Hrsg.), Recht und Justiz im "Dritten Reich", 1989, S. 323 ff.; Ingeborg Maus, in: Dreier/Sellert, a.a.O., S. 80 ff.)
17)Vgl. dazu u.a. Rüthers, Die unbegrenzte Auslegung, 1973, S. 91 ff.
18)Ernst Forsthoff, Der totale Staat, 1933, S. 13 f.
19)Ernst Forsthoff, Der totale Staat, 1933, S. 32.
20)Ernst Rudolf Huber, Wesen und Inhalt der Verfassung, 1935, S. 76.
21)Ernst Rudolf Huber, Verfassungsrecht des Großdeutschen Reiches, 2. Aufl. 1939, S. 44 ff. (49).
22)Karl Larenz, Deutsche Rechtserneuerung und Rechtsphilosophie, 1934, S. 11 ff.
23)Otto Koellreuter, Deutsches Verfassungsrecht, 2. Aufl. 1936, S. 54 ff.
24)Carl Schmitt, JW 1934, 713 ff.; ders., DR 1934, S. 27 ff.
25)Erich Wolf, ARSPh 28 (1934/35), S. 348 (352f.).
26)Heinrich Lange, Vom Gesetzesstaat zum Rechtsstaat, 1934, S. 20 ff.
27)Carl Schmitt, Staat, Bewegung, Volk, 1933, S. 46.
28)Karl Larenz, Zeitschrift für deutsche Kultur-Philosophie 1935, S. 40 (60).
29)Ernst Forsthoff, Der totale Staat, a.a.O., S. 14.
30)Otto Koellreuter, Vom Sinn und Wesen der nationalen Revolution, 1933, S. 15 und 17.
31)Carl Scmitt, JW 1934, S. 713 (714).
32)Vgl. dazu auch Franssen, JZ 1969, S. 767 ff.(768); Horst Dreier, Der Radbruchsche Formel - Erkenntnis oder Bekenntnis?, in: Heinz Mayer (Hrsg.), Staatsrecht in Theorie und Praxis, Festschrift für Robert Walter zum 60. Geburtstag. Wien, 1991, S. 117 (126).
33)Carl Schmitt, JW 1933, S. 2793 (2794).
34)Vgl. zu der Doppel-Funktion dieser juristischen Interpretation u.a. Jürgen Meinck, Die nationalsozialistische Machtergreifung und die deutsche Staatsrechtswissenschaft, in: Demokratie und Recht (DuR) 1979, S. 153 m.w.N.
35)So zu Recht auch Hans Mommsen, VfZ 1964, S. 361 (365ff.); ders, Entstheung und Bedeutung des Ermächtigungsgesetzes vom 23. März 1933, 2003, S. 8ff.
36)Vgl. dazu u.a. Deiseroth, Die Legalitats-Legende, a.a.O., S. 99 ff.
37)Vgl. dazu u.a. Michael Stolleis, JuS 1982, S. 645 ff. (648 f.).
38)Vgl. dazu die Studie von Horst Dreier, Rechtslehre, Staatssoziologie und Demokratietheorie bei Hans Kelsen, 2. Aufl. 1990, S. 232 f.
39)Herbert L. A. Hart, Das positive Recht als System von sozial akzeptierten Regeln, in: N. Hoerster (Hrsg.), Recht und Moral, 2. Aufl. 1980, S. 45 ff. (63 f.).
40)Vgl. Gerald Grünwald, Zur Kritik der Lehre vom überpositiven Recht, 1971, S. 23; Horst Dreier, in: Festschrift für Robert Walter, a.a.O., 1991, S. 117 (132); ders., Rechtslehre, a.a.O., S. 232 f.
41)Vgl. dazu Horst Dreier, in: Festschrift für Robert Walter, a.a.O., S. 134.
42)Vgl. BVerfGE 2, 380 (401); BVerfGE 3, 407 (422).
43)Vgl. dazu Hesse, K., Grenzen der Verfassungswandlung, in Festschrift für Ulrich Scheuner zum 70. Geburtstag, ed. H. Ehmke/J. H. Kaiser/W. A. Kewenig/K. M. Meessen/W. Rüfner, Berlin 1973, S. 123 (138).
44)Vgl. FAZ v. 20. 11. 2012.