法と正義の狭間に立つ アウシュヴィッツ裁判
序論─歴史の中の戦闘的法律家フリッツ・バウアー
ラース・クラウメ監督の映画『アイヒマン を追え』は、フランクフルトの検事長フリッツ・バウアーが、裁判所や検事局に巣食う元ナチ党員や親衛隊員の迫害と妨害に抵抗しながら、戦後のドイツ社会に法と正義を取り戻 すために、ナチの犯罪人を司法において徹底 追及する決意を表明するシーンで終わる。「私は私の仕事をする」。アルゼンチンのブエノスアイレスに潜伏するアドルフ・アイヒマンの身柄を確保し、ドイツの司法によって彼を裁く極秘の計画は、ドイツ政府によるイスラ エルとの外交関係への配慮から、またアメリカのサイモン・ウィーゼンタールやウィーンのヘルマン・ランクバインなどの国際的なユ ダヤ人権活動家の要請を受けて、被疑者をイスラエルへ移送し、その地で裁くことで終わった。しかし、アウシュヴィッツ強制収容所 におけるユダヤ人の大量殺人の動かぬ証拠は、すでにこのフランクフルトの検事長のもとに寄せられ、助手の若手検察官の協力のもとに強制収容所の実行犯を探し出す捜査が進められていた。バウアーが映画のラストシーンで 凄みをきかせて述べた「私の仕事」とは、このアウシュヴィッツ強制収容所の実行犯を追及する作業に他ならない1)。
フリッツ・バウアーは、一九〇三年七月一六日にシュトゥットガルトに生まれ、ミュンヘン、チュービンゲンなどの大学で法律学を修め、トラストの法的構成に関する研究論文で法学博士号を取得した二五歳の時、ドイツ史上最年少の若さでシュトゥットガルト区裁 判所判事に就任した。一九三三年のナチによ る権力掌握後、司法のアーリア化と司法から のユダヤ人の排斥政策のあおりを受けて、その宗教的・人種的出自ゆえに、また社会民主 主義の政治思想を理由に裁判官職から排除され、ホイベルク強制収容所に収容された。釈放後は日増しに強まるユダヤ人迫害政策のなかで、一九三六年にデンマークへ、さらに一 九四三年にはスウェーデンへと亡命を余儀な くされた。そして、敗戦後の一九四九年にドイツに帰国し、一九五〇年にニーダーザクセン州検事長に、次いで一九五六年にヘッセン州検事長に就任した。
元ナチ党員が連邦司法省や裁判機関に残留 していた一九五〇年代から六〇年代にかけて、バウアーは彼らの妨害に屈することなく、ドイツ社会と司法を民主的に再生させるために 闘った。一九六三年から六五年にかけて、アウシュヴィッツ強制収容所におけるホロコーストの実行犯を法廷に連れ出し、その不法な過去を司法の場において追及するために尽力した。肉体的・精神的な疲労が重なり、タバ コとアルコールによって健康が害され、一九 六八年七月一日、自宅の浴槽で溺死しているところを裁判所職員によって発見された。法と正義のために闘った法律家の実践は、「アウシュヴィッツ裁判」の名で戦後ドイツの法 学史に深く刻まれている 2)。
一 アウシュヴィッツ強制収容所の大量殺人メカニズム
アウシュヴィッツ強制収容所は、絶滅収容 所と呼ばれた。そこは犯罪人や政治犯を収容 する刑事施設ではなく、ユダヤ人問題の最終 的解決を唯一の目的として設置された「場」であった。それゆえ、流れ作業によって 効率よく製品を生産する近代的な大規模工場 のような運営がなされていた。フリッツ・バ ウアーは、生きた人間を加工して、死体を作 り出す作業をアウシュヴィッツ裁判において 次のように告発し弾劾した3)。
ユダヤ人を乗せた列車がアウシュヴィッツ収容所の最寄り駅に到着する。待機していた 親衛隊員が、列車の鉄扉を開け、ユダヤ人を駅のホームに降ろす。彼らが手にしているカバンなど財産を没収し、男女、老人・子ども、労働不能者と可能者に分類する。労働不能者を「シャワー室」の外観をしたガス室に送る。衣服を脱がし、ドアを開けて「シャワー室」に入れる。ガス室の看守がガスの噴射ボタンを押す。労働不能者は生きながら、死んでいく。ガスの排気が終わるとドアを開け、死体を引き出す。金歯を抜き、髪を切り、焼却場 に搬送する。労働可能者の場合も同様である。労働可能者を強制収容所の作業施設に送る。 髪を切り、シャワーを浴びさせ、縞模様の囚 人服を配給する。三ヵ月後には死に至るまで、 労働奴隷として酷使する。その後は焼却場に搬送する。この過程において没収されたユダ ヤ人の財貨を簿記係が記帳し、看守による横 領を監視する。財貨をベルリンの帝国保安省 に送る。このように計画的な業務が日々繰り 返された。これがアウシュヴィッツ強制収容 所の日常性であった。
残虐な恣意を気ままに実行した狂気の看守もいた。例えば、ヴィルヘルム・ボーガーは、 児童輸送列車から降りてきた子どもがリンゴを持っていると、いきなり子どもの足をつかんで振り回し、その頭部を収容所の仮設小屋の塀に打ち付けた。その手から転がり落ちた リンゴを拾い上げ、平然と食べた。オズヴァルト・カドゥークは、被収容者がかぶっている帽子を奪い取り、立入禁止区域の境界線の先に投げ飛ばした。被収容者が急いで帽子を 取りに行くと、カドゥークが期待したとおり、衛兵がその頭部を銃によって打ち抜いた。また、軍医のヨーゼフ・クレーアは、死亡者報 告日報の記録の「端数」を切り上げるため、 病棟を巡回して二、三人殺した。つまり、二八人を三〇人に、あるいは三七人を四〇人に 調整するために殺人を重ねた。このような狂 気の殺人が日常化していたのは確かである。
しかし、強制収容所における大量殺人は、 一握りの狂人によって実行されたのではない。推計で一五〇万人を超える人間の殺害は強制収容所における高度に組織化された能率的で効率的な分業と協業なしにはありえなかった。強制収容所の関係者は、相互の意思連絡 のもとにおいて作業に従事していたわけでは必ずしもなかった。その限りで言えば、彼らは自己に割り当てられた作業に従事し、その職務を全うしたにすぎない。しかも、それらは必ずしも「下劣な動機」から行われたものではなく、謀殺罪の犯罪構成要件に該当する行為ではなかった。とはいえ、個々の作業は総体として強制収容所の唯一の目標の実現に向けられた分業化された工程の一部であり、そのいずれもが収容所のメカニズムを機動させるための不可欠な部分であった。腕時計の秒針、分針、時針が文字板の上で正確に時を 刻み、日付と曜日を切り替えていくように、関係者の個々の関与行為がなければホロコースト全体は成立しえなかった。駅のホームでユダヤ人を選別した者、労働不能者をガス室に連れて行った者、ガスの噴射ボタンを押した者、死体から金歯を抜いた者、髪を刈り取った者、死体を焼却した者、ユダヤ人から没収した財貨を記録・管理した者、労働可能者のために作業用の囚人服を準備した者、彼ら を死に至るまで酷使した者、その行為のいずれもがユダヤ人問題の最終的解決の実現に向 かって協働したホロコーストの一部であり、 かつ全体であった。被告人の個々の「行為の 事実」を個別的・分割的に取り上げ、その法的・犯罪的特質を検討するならば、ホロコーストの本質を見誤ってしまうであろう。
バウアーは、このように主張して、その全員が謀殺罪を共同して実行したと弾劾した。被収容者の殺害を指揮した強制収容所の所長 や司令官だけでなく、その指揮のもとに個々の日常的業務に従事した者、さらには一九四一年以降にユダヤ人問題の最終的解決を立案・計画した党幹部や司法省の官僚法曹などを含む全員が、謀殺罪を実行した正犯の責任 を負わなければならないと主張して、一九六 三年四月一六日、証拠関係から関与が明らかな二三人を謀殺罪の共同正犯として起訴した のである(判決時は二〇人)4)。
二 近代法による反近代的不法の克服のパラドックス
一九六五年八月二〇日、二一日、フランクフルト・アム・マイン州裁判所は、二〇人の被告人のうち、六人に終身刑、一一人に有期刑、そして三人に無罪を言い渡した。被収容者を無慈悲に殺害したボーガーやカドゥークなどの狂気の被告人には、謀殺罪の正犯の責任を問い、終身刑を言い渡したが、他の被告人には、彼らは謀殺罪を実行したのではなく、それに協力的に関与しただけであったと認定して、謀殺罪の共同正犯ではなく、その幇助犯に該当すると判断した。
アウシュヴィッツ強制収容所の看守たちは、収容所の唯一の目的がユダヤ人問題の最終的解決であること、そして自己が担った個々の 業務がその目的を実現する作業の一環であり、その全体を支えていることを認識していたに 違いない。「私はこの収容所で何が行われているのかを知らなかった」などと抗弁できないことも分かっていたはずである。強制収容所の看守の行為は、ジグソーパズルの個々のピースが全体の絵柄や模様を表現するのに不可欠であるのと同じように、ホロコーストを 全体として遂行するのに欠かすことのできない構成部分であった。従って、その問題の本質を把握するためには、被告人の個々の行為を検討するだけでは十分ではなく、それらが強制収容所における分業と協業の整序された作業過程において結合したときに立ち現れる総体としてのホロコーストを認識しなければならない。ユダヤ人から没収した財産の記録を付けた簿記係、被収容者に囚人服を手配した被服係の行為も、被収容者の生命を直接的 に侵害する行為ではなかったが、それも強制収容所における重要な任務であることは明らかであった。
しかし、裁判所はバウアーが主張したような個々の行為をホロコーストの全体的計画に 連関させて審理する方法を斥け、あくまでも個々の行為を全体から分割して個別的に審理する方法を採用した。ホロコーストの歴史的 事実は、バウアーが主張するように認識することも可能である。それを中心となって行ったのはナチの思想によって洗脳された狂信的な活動家であるが、多くの国民もまたその外延において関わった。直接的または間接的に動員されて、それを本意または不本意に支えたのである。そうである以上、誰もが一定の責任を負わなければならない。そのような歴史の事実に向き合い、それを心に刻むことは 国民の義務でさえある。
しかし、「それが何だというのでしょうか」と、一人の裁判官が若手検察官に述べた。問われているのは歴史認識ではなく、被告人の行為の法的評価なのであると。近代法の理念、とりわけ近代刑法の基本原則は、前近代の封建的で専制的な野蛮な刑罰執行の歴史の反省を踏まえ、それを法によって拘制することを本務とする。ナチが刑罰権を自由自在に濫用し、共産主義者や他の民族、他の宗教者を迫害した歴史を踏まえれば、近代刑法の基本原則は現代のドイツ連邦共和国においても自覚 的に堅持されねばならない。被告人たちが強 制収容所に勤務していたという事実をもって、彼らがホロコーストを実行したことの証拠とし、謀殺罪の正犯の責めに帰すならば、それはかつての暗黒の時代の法適用と同種であるとの誹りを免れない。社会的法治国家ドイツの最上級の裁判所である連邦通常裁判所は、そのような法適用を決して認めない。裁判官たちの認識はこのようなものであった。一方 でナチの不法を法によって克服することが正義に資することに理解を示しながら、他方でナチによって蹂躙された近代法の原則を取り戻し、その近代法の理念によってナチの不法を克服することが法理論的に容易でないことも認識していた。とりわけ近代刑法の原則である責任主義(人は自己のなした行為にのみ責 任を負う)を超えてその責任の対象を拡大させる動きには毅然たる態度をとったのである。
とはいえ、裁判官たちはアウシュヴィッツ強制収容所の看守たちを無罪放免にはしなかった。彼らを謀殺罪の幇助犯として裁くこと を忘れなかった。この点は指摘しておかなければならない。ナチによるユダヤ人問題の最 終的解決は、刑法上の謀殺罪に該当する。その責任は、それを「下劣な動機」から立案・ 計画・指令したナチの党幹部や政府・司法機 関の官僚法曹が負うべきである。彼らにはナチの世界観に基づく世界史的野望があり、それを実現するためにユダヤ人の絶滅を図った。このような「下劣な動機」から殺人を実行したがゆえに、彼らには謀殺罪の正犯が成立すると判断した。これに対して強制収容所の看守たちに同様の世界史的野望があったかというと、必ずしもそうではない。彼らは職務に 忠実であったがゆえに、また職務不履行を理由とする処分を恐れたがゆえに党幹部などの指示に従い、その作業の一端を担わされたのかもしれない。そうであるならば、彼らには 「下劣な動機」があったとはいえない。ドイツ刑法では、たんに人を殺しただけでは謀殺罪には当たらない。ユダヤ人憎悪などの「下
劣な動機」から人を殺害したのでなければ、謀殺罪の正犯にはなりえない。党幹部にはそ のような動機があったので、彼らには謀殺罪の正犯が成立するが、そのような動機がなか った看守たちは、法的評価としては謀殺罪を幇助したにすぎない5)。
三 机上の実行犯による反撃――共犯理論と時効理論の活用
アウシュヴィッツ強制収容所の看守たちは、ナチのホロコーストに直接関与したにもかか わらず、法的にはその遂行を手助けし、それを容易にした幇助犯と認定されただけであった。この判断に対してはバウアーだけでなく、多くの法律家から異論が出された。バウアー は、国家によって遂行されたホロコーストの現象が解体されてパーツに置き換えられたことによって、その全体と本質が見失われたと糾弾した。自由民主党系の刑法学者ユルゲン・ バウマンは、このような評価の行き着く先は、謀殺罪の正犯は結局のところヒトラー総統一人だけであり、他の者は忠実な幇助犯になってしまうと指摘した6)。
裁判所の判断にはこのような問題を内包したものであったが、全く異なる観点からこの判断に注目していた人物がいた。それは、第 二次世界大戦中にオーストリア・インスブルック特別裁判所付検察官として数多くの死刑 判決に関与したエドゥアルト・ドレーヤーと戦前から司法省の司法官僚として評価の高かったヨーゼフ・シャフホイトレである。彼らは、アウシュヴィッツ裁判の判決の法理を逆手にとって、ナチの幇助犯に「裏口からの恩 赦」を与えることを計画した。その計画の巧 妙さを明らかにするために、煩雑であるが、その法的ロジックを説明する。
1正犯と共犯の理論的関係
刑法理論では、犯罪を自ら行った者を「正犯」、それに関与した者を「共犯」という。 そのうち他人に犯罪を実行させた者を「教唆犯」、他人が犯罪を行うのを容易にした者を 「幇助犯」という。正犯と共犯を比較すると、 一般的には正犯の方が重大であり、共犯はそ れよりも軽いが、アウシュヴィッツ裁判当時のドイツ刑法では、共犯に科される刑は正犯と同じとされていたが(教唆犯については刑法〔旧〕四八条二項、幇助犯については同四九 条二項)、幇助犯に宣告される刑は裁判官によって裁量的に減軽できるとされていた。フ ランクフルト州裁判所がアウシュヴィッツの 一一人の被告人に謀殺罪の幇助犯の成立を認め、有期刑を言い渡したのは、彼らに「下劣な動機」がなかったことが裁量的な減軽理由にあたると判断されたからである。
また刑法には、行為者に特定の人的属性が備わっていることで初めて犯罪が成立するものがある(その典型は収賄罪。それは公務員で なければ成立しえない)。その人的属性のことを刑法理論では「身分」といい、そのような犯罪を「構成的身分犯」という。ドイツ刑法には殺人罪の規定として、謀殺罪(二一一条) と故殺罪(二一二条)の二種類が設けられている。それが施行された一八七一年当初、謀殺罪は「熟慮に基づく殺人」(死刑。戦後は終身刑に改正)、故殺罪は「熟慮に基づかない 殺人」(五年以上一五年以下の禁錮刑)と定められていた。独ソ戦とホロコーストが開始される一九四一年、ナチはこの規定を改正し、殺人嗜好、性欲・物欲の充足、その他の「下劣な動機」から殺人を行った者を「謀殺者」、そのような動機のない殺人を「故殺者」と改め、このようにして謀殺罪は「下劣な動機」という人的属性が行為者に備わっていなけれ ば成立しない構成的身分犯にされた。例えば、ナチの世界観やユダヤ人憎悪などの人格的・心情的特性を備えた人物が殺人を行った場合 にだけ適用されることになった7)。それに対して、故殺罪は誰もが行いうる通常の殺人として理解された。ナチの党幹部には「下劣な動 機」があり、ゆえに彼らの殺人には謀殺罪の規定が適用されるが、アウシュヴィッツ強制収容所の看守たちに「下劣な動機」があったとはいえないので、彼らには謀殺罪を適用することはできなかった。彼らはナチ党の幹部謀殺罪の実行を容易にしただけなので、謀殺罪の幇助犯でしかないと判断された。フラン クフルト裁判の判断の前提にはこのような法解釈があった。
2犯罪の公訴時効制度
刑法は犯罪とそれに科される刑罰を定めている。特定の被疑者・被告人に刑罰を科すことができるか否かは刑事裁判によって決まるが、被疑者を無制限に追及することはできな い。それを時間的に制約するのが公訴時効制 度である。
犯罪の公訴時効の期間は何によって決まるかというと、アウシュヴィッツ裁判当時の刑法規定では、一般に犯罪の法定刑を基準にして計算された。また、刑法が刑を(裁判官の裁量によらずに)必要的に減軽するとしている場合には、その減軽された刑を基準に時効の期間が計算された。終身刑を法定刑とする謀殺罪の場合、その公訴時効は「二〇年」で あり、それが完成するのは(起算点を一九四九年一二月三一日とすると)一九六九年一二月三一日であった。それを教唆・幇助した共犯の公訴時効もまた、謀殺罪の正犯の公訴時効 が適用された。裁判の結果、たとえ幇助犯に宣告された刑が裁量的に減軽されても、公訴時効としては謀殺罪の正犯と同じとされた(刑法〔旧〕六七条一項)。ドレーヤーとシャフホイトレは、ナチの幇助犯に「裏口からの恩赦」を与えるために、幇助犯の公訴時効を「一九六〇年五月八日」に完成したことになるよう刑法改正を企てた。
3秩序違反法施行法を利用した刑法改正
一九六〇年代は刑法改正作業が進められた時代であった。アウシュヴィッツ裁判の当時、 連邦司法省が起草した一九六二年刑法改正草案によれば、共犯の公訴時効は正犯と同じであったが(草案一二七条三項)、構成的身分犯の共犯が身分を持っていない場合には必要的に刑を減軽するとした(草案三三条一項。謀 殺罪の法定刑の終身刑を減軽すると、三年以上 一五年の禁錮刑)。つまり、刑法改正草案は、共犯の公訴時効については正犯と同じとしながら、その刑については「身分」の有無に応じた(つまり責任に比例した)刑を科すという考えに基づいていた。ドレーヤーとシャフ ホイトレは、ナチの幇助犯に「恩赦」を与えるために、刑法改正草案から三三条一項を取り出し、それを刑法に取り入れることを計画した。それが成功すれば、謀殺罪の幇助犯のうち、「下劣な動機」を持たない者については、必要的に刑が減軽され、その公訴時効の期間はその減軽された「三年以上一五年の禁錮刑」を基準に計算されることになり、その結果、その期間は一五年になる。そうすれば(ナチが降伏した一九四五年五月八日を起算点として)、 一九六〇年五月八日に完成していたことになる。これがドレーヤーたちの狙いであった。
彼らはそのために刑法改正草案から三三条 一項を取り出し、それを刑法の一部改正案として連邦議会に提案せず、当時立法化が進め られていた秩序違反法施行法(日本の軽犯罪法に相当)の法案一条六号(秩序違反法に伴う 刑法の一部改正条項)に組み込んで提案した。その法案は一九六八年五月二四日に可決された(施行日は一〇月一日)。刑法の一部改正案 として連邦議会に提案すると目立ち、批判が殺到するおそれがあったので、秩序違反法と いう目立たない法案を利用したのではないかと思われる8)。
4ナチの幇助犯の裁判の打切り
フリッツ・バウアーは、アウシュヴィッツ裁判が結審する直前の一九六五年四月、助手の若手検察官に対して、ナチの安楽死計画を立案・計画・指示した帝国司法省の官僚法曹らを謀殺罪の幇助犯で訴追するよう指示して いた(第二次アウシュヴィッツ裁判)。この裁判の審理が進められるなかで、裁判所から被告人らの手続を打切る決定が突然出された。被告人らによる安楽死計画への関与は明らかであったが、彼ら自身に「下劣な動機」があったかどうかは不明であったからである。被告人らに「下劣な動機」がなければ、謀殺罪の幇助の刑が減軽され、公訴時効は一五年になるので、それはすでに一九六〇年五月八日 に完成していたことになったからである。そのような理由から、第二次アウシュヴィッツ裁判の被告人らの手続はほどなくして打切られた9)。
秩序違反法施行法が連邦議会で可決されたのが一九六八年五月二四日、それが施行されたのが同年一〇月一日、バウアーが密かにこの世を去ったのが七月一日であった。ホロコーストの机上の実行犯を司法によって追及する彼の努力は、元ナチの司法官僚による机上 の法案作成作業によってくじかれた。
結論――フリッツ・バウアーの戦闘的精神の継承
ラース・クラウメ監督の映画『アイヒマンを追え』は、検事長フリッツ・バウアーが、入浴中に気を失い、熱い湯船に沈んでいくシ ーンから始まる。風呂の脇には常備薬が置かれていた。肉体的にも精神的にも疲れた検事長は、ゆっくり風呂に入るために軽い睡眠導入剤のようなものを常用していたのであろう。正義のために闘い、法の壁に阻まれて、眠れぬ日々を過ごした法律家は、挫折と失意のうちに死んでいった。彼の死後、「私の仕事」 を引き継ぐ者はまだ現れていない10)。
(1)ラース・クラウメ監督「アイヒマンを追え」(ニューセレクト/クロックワーク ©20(5zeroonefilm/TERZ Film )。
(2)Vgl., Matthias Meusch, Von der Diktatur zur Demokratie, 2001., Irmtrud Wojak, Fritzt Bauer Bauer, 2011., ders., Fritz Bauer und die Aufarbeitung der NS-Verbrechen nach 1945, 2003. (邦訳・本田稔・朴普錫「フリッツ・バウアーと一九四五年以降のナチ犯 罪の克服」〔『立命館法学』三三七号〕五五九 頁以下), Ronen Steinke, Fritz Bauer oder Auschwitz vor Gericht, 2013. (本田稔訳『フ リッツ・バウアー』アルファベータブックス)。
(3)a.a.O., Steinke, S.20(f (本田訳・二二八頁 以下)。
(4)Beund Naumann, Auschwitz, 1968, S.12f., Fritz Bauer Institut, Auschwitz-Prozeß 4Ks2/(3 Frankfurt am Main, 2004, S.247f.
(5)a.a.O., Naumann, S.269f., Fritz Bauer Insititut.,S.607f.
(6)Jürgen Baumann, Beihilfe bei eigenhädiger voller Tatbestandserfüllung. NJW 1963 Heft 13, S.561f.
(7)ナチの党幹部と政府の官僚は、ホロコーストを「熟慮」して実行したが、それは職務ゆえにであって、下劣な動機からではなかったと言い訳し、謀殺罪の責任を回避するために、戦争が本格化する前に謀殺罪の規定を改正したのではないかと疑われる。
(8)Joachim Perels, Mythos von der Vergangenheitsbewältigung, Fritz Bauer Institut - Newsletter Nr. 28, 2006, S.17f., Michael Greve, Amnstie von NS-Gehilfen, in: Einsicht 04 Bulletin des Fritz Bauer Instituts, 2010, S.54f.
(9)Vgl. a.a.O., Steinke, S.274f(本田訳・三 一二頁以下).
(10)バウアーの「私の仕事」を継承する外務大臣ハイコ・マース(前連邦司法大臣)の活躍に注目が集まっている。ハイコ・マース「フリッツ・バウアー」(『立命館法学』三七三号)四八七頁以下、同「ローゼンブルクの記録」(『立命館法学』三七四号)三八八頁以下参照。
*日本の戦争責任資料センター「季刊戦争責任研究」第90号(2018年夏季号)93―98頁。
序論─歴史の中の戦闘的法律家フリッツ・バウアー
ラース・クラウメ監督の映画『アイヒマン を追え』は、フランクフルトの検事長フリッツ・バウアーが、裁判所や検事局に巣食う元ナチ党員や親衛隊員の迫害と妨害に抵抗しながら、戦後のドイツ社会に法と正義を取り戻 すために、ナチの犯罪人を司法において徹底 追及する決意を表明するシーンで終わる。「私は私の仕事をする」。アルゼンチンのブエノスアイレスに潜伏するアドルフ・アイヒマンの身柄を確保し、ドイツの司法によって彼を裁く極秘の計画は、ドイツ政府によるイスラ エルとの外交関係への配慮から、またアメリカのサイモン・ウィーゼンタールやウィーンのヘルマン・ランクバインなどの国際的なユ ダヤ人権活動家の要請を受けて、被疑者をイスラエルへ移送し、その地で裁くことで終わった。しかし、アウシュヴィッツ強制収容所 におけるユダヤ人の大量殺人の動かぬ証拠は、すでにこのフランクフルトの検事長のもとに寄せられ、助手の若手検察官の協力のもとに強制収容所の実行犯を探し出す捜査が進められていた。バウアーが映画のラストシーンで 凄みをきかせて述べた「私の仕事」とは、このアウシュヴィッツ強制収容所の実行犯を追及する作業に他ならない1)。
フリッツ・バウアーは、一九〇三年七月一六日にシュトゥットガルトに生まれ、ミュンヘン、チュービンゲンなどの大学で法律学を修め、トラストの法的構成に関する研究論文で法学博士号を取得した二五歳の時、ドイツ史上最年少の若さでシュトゥットガルト区裁 判所判事に就任した。一九三三年のナチによ る権力掌握後、司法のアーリア化と司法から のユダヤ人の排斥政策のあおりを受けて、その宗教的・人種的出自ゆえに、また社会民主 主義の政治思想を理由に裁判官職から排除され、ホイベルク強制収容所に収容された。釈放後は日増しに強まるユダヤ人迫害政策のなかで、一九三六年にデンマークへ、さらに一 九四三年にはスウェーデンへと亡命を余儀な くされた。そして、敗戦後の一九四九年にドイツに帰国し、一九五〇年にニーダーザクセン州検事長に、次いで一九五六年にヘッセン州検事長に就任した。
元ナチ党員が連邦司法省や裁判機関に残留 していた一九五〇年代から六〇年代にかけて、バウアーは彼らの妨害に屈することなく、ドイツ社会と司法を民主的に再生させるために 闘った。一九六三年から六五年にかけて、アウシュヴィッツ強制収容所におけるホロコーストの実行犯を法廷に連れ出し、その不法な過去を司法の場において追及するために尽力した。肉体的・精神的な疲労が重なり、タバ コとアルコールによって健康が害され、一九 六八年七月一日、自宅の浴槽で溺死しているところを裁判所職員によって発見された。法と正義のために闘った法律家の実践は、「アウシュヴィッツ裁判」の名で戦後ドイツの法 学史に深く刻まれている 2)。
一 アウシュヴィッツ強制収容所の大量殺人メカニズム
アウシュヴィッツ強制収容所は、絶滅収容 所と呼ばれた。そこは犯罪人や政治犯を収容 する刑事施設ではなく、ユダヤ人問題の最終 的解決を唯一の目的として設置された「場」であった。それゆえ、流れ作業によって 効率よく製品を生産する近代的な大規模工場 のような運営がなされていた。フリッツ・バ ウアーは、生きた人間を加工して、死体を作 り出す作業をアウシュヴィッツ裁判において 次のように告発し弾劾した3)。
ユダヤ人を乗せた列車がアウシュヴィッツ収容所の最寄り駅に到着する。待機していた 親衛隊員が、列車の鉄扉を開け、ユダヤ人を駅のホームに降ろす。彼らが手にしているカバンなど財産を没収し、男女、老人・子ども、労働不能者と可能者に分類する。労働不能者を「シャワー室」の外観をしたガス室に送る。衣服を脱がし、ドアを開けて「シャワー室」に入れる。ガス室の看守がガスの噴射ボタンを押す。労働不能者は生きながら、死んでいく。ガスの排気が終わるとドアを開け、死体を引き出す。金歯を抜き、髪を切り、焼却場 に搬送する。労働可能者の場合も同様である。労働可能者を強制収容所の作業施設に送る。 髪を切り、シャワーを浴びさせ、縞模様の囚 人服を配給する。三ヵ月後には死に至るまで、 労働奴隷として酷使する。その後は焼却場に搬送する。この過程において没収されたユダ ヤ人の財貨を簿記係が記帳し、看守による横 領を監視する。財貨をベルリンの帝国保安省 に送る。このように計画的な業務が日々繰り 返された。これがアウシュヴィッツ強制収容 所の日常性であった。
残虐な恣意を気ままに実行した狂気の看守もいた。例えば、ヴィルヘルム・ボーガーは、 児童輸送列車から降りてきた子どもがリンゴを持っていると、いきなり子どもの足をつかんで振り回し、その頭部を収容所の仮設小屋の塀に打ち付けた。その手から転がり落ちた リンゴを拾い上げ、平然と食べた。オズヴァルト・カドゥークは、被収容者がかぶっている帽子を奪い取り、立入禁止区域の境界線の先に投げ飛ばした。被収容者が急いで帽子を 取りに行くと、カドゥークが期待したとおり、衛兵がその頭部を銃によって打ち抜いた。また、軍医のヨーゼフ・クレーアは、死亡者報 告日報の記録の「端数」を切り上げるため、 病棟を巡回して二、三人殺した。つまり、二八人を三〇人に、あるいは三七人を四〇人に 調整するために殺人を重ねた。このような狂 気の殺人が日常化していたのは確かである。
しかし、強制収容所における大量殺人は、 一握りの狂人によって実行されたのではない。推計で一五〇万人を超える人間の殺害は強制収容所における高度に組織化された能率的で効率的な分業と協業なしにはありえなかった。強制収容所の関係者は、相互の意思連絡 のもとにおいて作業に従事していたわけでは必ずしもなかった。その限りで言えば、彼らは自己に割り当てられた作業に従事し、その職務を全うしたにすぎない。しかも、それらは必ずしも「下劣な動機」から行われたものではなく、謀殺罪の犯罪構成要件に該当する行為ではなかった。とはいえ、個々の作業は総体として強制収容所の唯一の目標の実現に向けられた分業化された工程の一部であり、そのいずれもが収容所のメカニズムを機動させるための不可欠な部分であった。腕時計の秒針、分針、時針が文字板の上で正確に時を 刻み、日付と曜日を切り替えていくように、関係者の個々の関与行為がなければホロコースト全体は成立しえなかった。駅のホームでユダヤ人を選別した者、労働不能者をガス室に連れて行った者、ガスの噴射ボタンを押した者、死体から金歯を抜いた者、髪を刈り取った者、死体を焼却した者、ユダヤ人から没収した財貨を記録・管理した者、労働可能者のために作業用の囚人服を準備した者、彼ら を死に至るまで酷使した者、その行為のいずれもがユダヤ人問題の最終的解決の実現に向 かって協働したホロコーストの一部であり、 かつ全体であった。被告人の個々の「行為の 事実」を個別的・分割的に取り上げ、その法的・犯罪的特質を検討するならば、ホロコーストの本質を見誤ってしまうであろう。
バウアーは、このように主張して、その全員が謀殺罪を共同して実行したと弾劾した。被収容者の殺害を指揮した強制収容所の所長 や司令官だけでなく、その指揮のもとに個々の日常的業務に従事した者、さらには一九四一年以降にユダヤ人問題の最終的解決を立案・計画した党幹部や司法省の官僚法曹などを含む全員が、謀殺罪を実行した正犯の責任 を負わなければならないと主張して、一九六 三年四月一六日、証拠関係から関与が明らかな二三人を謀殺罪の共同正犯として起訴した のである(判決時は二〇人)4)。
二 近代法による反近代的不法の克服のパラドックス
一九六五年八月二〇日、二一日、フランクフルト・アム・マイン州裁判所は、二〇人の被告人のうち、六人に終身刑、一一人に有期刑、そして三人に無罪を言い渡した。被収容者を無慈悲に殺害したボーガーやカドゥークなどの狂気の被告人には、謀殺罪の正犯の責任を問い、終身刑を言い渡したが、他の被告人には、彼らは謀殺罪を実行したのではなく、それに協力的に関与しただけであったと認定して、謀殺罪の共同正犯ではなく、その幇助犯に該当すると判断した。
アウシュヴィッツ強制収容所の看守たちは、収容所の唯一の目的がユダヤ人問題の最終的解決であること、そして自己が担った個々の 業務がその目的を実現する作業の一環であり、その全体を支えていることを認識していたに 違いない。「私はこの収容所で何が行われているのかを知らなかった」などと抗弁できないことも分かっていたはずである。強制収容所の看守の行為は、ジグソーパズルの個々のピースが全体の絵柄や模様を表現するのに不可欠であるのと同じように、ホロコーストを 全体として遂行するのに欠かすことのできない構成部分であった。従って、その問題の本質を把握するためには、被告人の個々の行為を検討するだけでは十分ではなく、それらが強制収容所における分業と協業の整序された作業過程において結合したときに立ち現れる総体としてのホロコーストを認識しなければならない。ユダヤ人から没収した財産の記録を付けた簿記係、被収容者に囚人服を手配した被服係の行為も、被収容者の生命を直接的 に侵害する行為ではなかったが、それも強制収容所における重要な任務であることは明らかであった。
しかし、裁判所はバウアーが主張したような個々の行為をホロコーストの全体的計画に 連関させて審理する方法を斥け、あくまでも個々の行為を全体から分割して個別的に審理する方法を採用した。ホロコーストの歴史的 事実は、バウアーが主張するように認識することも可能である。それを中心となって行ったのはナチの思想によって洗脳された狂信的な活動家であるが、多くの国民もまたその外延において関わった。直接的または間接的に動員されて、それを本意または不本意に支えたのである。そうである以上、誰もが一定の責任を負わなければならない。そのような歴史の事実に向き合い、それを心に刻むことは 国民の義務でさえある。
しかし、「それが何だというのでしょうか」と、一人の裁判官が若手検察官に述べた。問われているのは歴史認識ではなく、被告人の行為の法的評価なのであると。近代法の理念、とりわけ近代刑法の基本原則は、前近代の封建的で専制的な野蛮な刑罰執行の歴史の反省を踏まえ、それを法によって拘制することを本務とする。ナチが刑罰権を自由自在に濫用し、共産主義者や他の民族、他の宗教者を迫害した歴史を踏まえれば、近代刑法の基本原則は現代のドイツ連邦共和国においても自覚 的に堅持されねばならない。被告人たちが強 制収容所に勤務していたという事実をもって、彼らがホロコーストを実行したことの証拠とし、謀殺罪の正犯の責めに帰すならば、それはかつての暗黒の時代の法適用と同種であるとの誹りを免れない。社会的法治国家ドイツの最上級の裁判所である連邦通常裁判所は、そのような法適用を決して認めない。裁判官たちの認識はこのようなものであった。一方 でナチの不法を法によって克服することが正義に資することに理解を示しながら、他方でナチによって蹂躙された近代法の原則を取り戻し、その近代法の理念によってナチの不法を克服することが法理論的に容易でないことも認識していた。とりわけ近代刑法の原則である責任主義(人は自己のなした行為にのみ責 任を負う)を超えてその責任の対象を拡大させる動きには毅然たる態度をとったのである。
とはいえ、裁判官たちはアウシュヴィッツ強制収容所の看守たちを無罪放免にはしなかった。彼らを謀殺罪の幇助犯として裁くこと を忘れなかった。この点は指摘しておかなければならない。ナチによるユダヤ人問題の最 終的解決は、刑法上の謀殺罪に該当する。その責任は、それを「下劣な動機」から立案・ 計画・指令したナチの党幹部や政府・司法機 関の官僚法曹が負うべきである。彼らにはナチの世界観に基づく世界史的野望があり、それを実現するためにユダヤ人の絶滅を図った。このような「下劣な動機」から殺人を実行したがゆえに、彼らには謀殺罪の正犯が成立すると判断した。これに対して強制収容所の看守たちに同様の世界史的野望があったかというと、必ずしもそうではない。彼らは職務に 忠実であったがゆえに、また職務不履行を理由とする処分を恐れたがゆえに党幹部などの指示に従い、その作業の一端を担わされたのかもしれない。そうであるならば、彼らには 「下劣な動機」があったとはいえない。ドイツ刑法では、たんに人を殺しただけでは謀殺罪には当たらない。ユダヤ人憎悪などの「下
劣な動機」から人を殺害したのでなければ、謀殺罪の正犯にはなりえない。党幹部にはそ のような動機があったので、彼らには謀殺罪の正犯が成立するが、そのような動機がなか った看守たちは、法的評価としては謀殺罪を幇助したにすぎない5)。
三 机上の実行犯による反撃――共犯理論と時効理論の活用
アウシュヴィッツ強制収容所の看守たちは、ナチのホロコーストに直接関与したにもかか わらず、法的にはその遂行を手助けし、それを容易にした幇助犯と認定されただけであった。この判断に対してはバウアーだけでなく、多くの法律家から異論が出された。バウアー は、国家によって遂行されたホロコーストの現象が解体されてパーツに置き換えられたことによって、その全体と本質が見失われたと糾弾した。自由民主党系の刑法学者ユルゲン・ バウマンは、このような評価の行き着く先は、謀殺罪の正犯は結局のところヒトラー総統一人だけであり、他の者は忠実な幇助犯になってしまうと指摘した6)。
裁判所の判断にはこのような問題を内包したものであったが、全く異なる観点からこの判断に注目していた人物がいた。それは、第 二次世界大戦中にオーストリア・インスブルック特別裁判所付検察官として数多くの死刑 判決に関与したエドゥアルト・ドレーヤーと戦前から司法省の司法官僚として評価の高かったヨーゼフ・シャフホイトレである。彼らは、アウシュヴィッツ裁判の判決の法理を逆手にとって、ナチの幇助犯に「裏口からの恩 赦」を与えることを計画した。その計画の巧 妙さを明らかにするために、煩雑であるが、その法的ロジックを説明する。
1正犯と共犯の理論的関係
刑法理論では、犯罪を自ら行った者を「正犯」、それに関与した者を「共犯」という。 そのうち他人に犯罪を実行させた者を「教唆犯」、他人が犯罪を行うのを容易にした者を 「幇助犯」という。正犯と共犯を比較すると、 一般的には正犯の方が重大であり、共犯はそ れよりも軽いが、アウシュヴィッツ裁判当時のドイツ刑法では、共犯に科される刑は正犯と同じとされていたが(教唆犯については刑法〔旧〕四八条二項、幇助犯については同四九 条二項)、幇助犯に宣告される刑は裁判官によって裁量的に減軽できるとされていた。フ ランクフルト州裁判所がアウシュヴィッツの 一一人の被告人に謀殺罪の幇助犯の成立を認め、有期刑を言い渡したのは、彼らに「下劣な動機」がなかったことが裁量的な減軽理由にあたると判断されたからである。
また刑法には、行為者に特定の人的属性が備わっていることで初めて犯罪が成立するものがある(その典型は収賄罪。それは公務員で なければ成立しえない)。その人的属性のことを刑法理論では「身分」といい、そのような犯罪を「構成的身分犯」という。ドイツ刑法には殺人罪の規定として、謀殺罪(二一一条) と故殺罪(二一二条)の二種類が設けられている。それが施行された一八七一年当初、謀殺罪は「熟慮に基づく殺人」(死刑。戦後は終身刑に改正)、故殺罪は「熟慮に基づかない 殺人」(五年以上一五年以下の禁錮刑)と定められていた。独ソ戦とホロコーストが開始される一九四一年、ナチはこの規定を改正し、殺人嗜好、性欲・物欲の充足、その他の「下劣な動機」から殺人を行った者を「謀殺者」、そのような動機のない殺人を「故殺者」と改め、このようにして謀殺罪は「下劣な動機」という人的属性が行為者に備わっていなけれ ば成立しない構成的身分犯にされた。例えば、ナチの世界観やユダヤ人憎悪などの人格的・心情的特性を備えた人物が殺人を行った場合 にだけ適用されることになった7)。それに対して、故殺罪は誰もが行いうる通常の殺人として理解された。ナチの党幹部には「下劣な動 機」があり、ゆえに彼らの殺人には謀殺罪の規定が適用されるが、アウシュヴィッツ強制収容所の看守たちに「下劣な動機」があったとはいえないので、彼らには謀殺罪を適用することはできなかった。彼らはナチ党の幹部謀殺罪の実行を容易にしただけなので、謀殺罪の幇助犯でしかないと判断された。フラン クフルト裁判の判断の前提にはこのような法解釈があった。
2犯罪の公訴時効制度
刑法は犯罪とそれに科される刑罰を定めている。特定の被疑者・被告人に刑罰を科すことができるか否かは刑事裁判によって決まるが、被疑者を無制限に追及することはできな い。それを時間的に制約するのが公訴時効制 度である。
犯罪の公訴時効の期間は何によって決まるかというと、アウシュヴィッツ裁判当時の刑法規定では、一般に犯罪の法定刑を基準にして計算された。また、刑法が刑を(裁判官の裁量によらずに)必要的に減軽するとしている場合には、その減軽された刑を基準に時効の期間が計算された。終身刑を法定刑とする謀殺罪の場合、その公訴時効は「二〇年」で あり、それが完成するのは(起算点を一九四九年一二月三一日とすると)一九六九年一二月三一日であった。それを教唆・幇助した共犯の公訴時効もまた、謀殺罪の正犯の公訴時効 が適用された。裁判の結果、たとえ幇助犯に宣告された刑が裁量的に減軽されても、公訴時効としては謀殺罪の正犯と同じとされた(刑法〔旧〕六七条一項)。ドレーヤーとシャフホイトレは、ナチの幇助犯に「裏口からの恩赦」を与えるために、幇助犯の公訴時効を「一九六〇年五月八日」に完成したことになるよう刑法改正を企てた。
3秩序違反法施行法を利用した刑法改正
一九六〇年代は刑法改正作業が進められた時代であった。アウシュヴィッツ裁判の当時、 連邦司法省が起草した一九六二年刑法改正草案によれば、共犯の公訴時効は正犯と同じであったが(草案一二七条三項)、構成的身分犯の共犯が身分を持っていない場合には必要的に刑を減軽するとした(草案三三条一項。謀 殺罪の法定刑の終身刑を減軽すると、三年以上 一五年の禁錮刑)。つまり、刑法改正草案は、共犯の公訴時効については正犯と同じとしながら、その刑については「身分」の有無に応じた(つまり責任に比例した)刑を科すという考えに基づいていた。ドレーヤーとシャフ ホイトレは、ナチの幇助犯に「恩赦」を与えるために、刑法改正草案から三三条一項を取り出し、それを刑法に取り入れることを計画した。それが成功すれば、謀殺罪の幇助犯のうち、「下劣な動機」を持たない者については、必要的に刑が減軽され、その公訴時効の期間はその減軽された「三年以上一五年の禁錮刑」を基準に計算されることになり、その結果、その期間は一五年になる。そうすれば(ナチが降伏した一九四五年五月八日を起算点として)、 一九六〇年五月八日に完成していたことになる。これがドレーヤーたちの狙いであった。
彼らはそのために刑法改正草案から三三条 一項を取り出し、それを刑法の一部改正案として連邦議会に提案せず、当時立法化が進め られていた秩序違反法施行法(日本の軽犯罪法に相当)の法案一条六号(秩序違反法に伴う 刑法の一部改正条項)に組み込んで提案した。その法案は一九六八年五月二四日に可決された(施行日は一〇月一日)。刑法の一部改正案 として連邦議会に提案すると目立ち、批判が殺到するおそれがあったので、秩序違反法と いう目立たない法案を利用したのではないかと思われる8)。
4ナチの幇助犯の裁判の打切り
フリッツ・バウアーは、アウシュヴィッツ裁判が結審する直前の一九六五年四月、助手の若手検察官に対して、ナチの安楽死計画を立案・計画・指示した帝国司法省の官僚法曹らを謀殺罪の幇助犯で訴追するよう指示して いた(第二次アウシュヴィッツ裁判)。この裁判の審理が進められるなかで、裁判所から被告人らの手続を打切る決定が突然出された。被告人らによる安楽死計画への関与は明らかであったが、彼ら自身に「下劣な動機」があったかどうかは不明であったからである。被告人らに「下劣な動機」がなければ、謀殺罪の幇助の刑が減軽され、公訴時効は一五年になるので、それはすでに一九六〇年五月八日 に完成していたことになったからである。そのような理由から、第二次アウシュヴィッツ裁判の被告人らの手続はほどなくして打切られた9)。
秩序違反法施行法が連邦議会で可決されたのが一九六八年五月二四日、それが施行されたのが同年一〇月一日、バウアーが密かにこの世を去ったのが七月一日であった。ホロコーストの机上の実行犯を司法によって追及する彼の努力は、元ナチの司法官僚による机上 の法案作成作業によってくじかれた。
結論――フリッツ・バウアーの戦闘的精神の継承
ラース・クラウメ監督の映画『アイヒマンを追え』は、検事長フリッツ・バウアーが、入浴中に気を失い、熱い湯船に沈んでいくシ ーンから始まる。風呂の脇には常備薬が置かれていた。肉体的にも精神的にも疲れた検事長は、ゆっくり風呂に入るために軽い睡眠導入剤のようなものを常用していたのであろう。正義のために闘い、法の壁に阻まれて、眠れぬ日々を過ごした法律家は、挫折と失意のうちに死んでいった。彼の死後、「私の仕事」 を引き継ぐ者はまだ現れていない10)。
(1)ラース・クラウメ監督「アイヒマンを追え」(ニューセレクト/クロックワーク ©20(5zeroonefilm/TERZ Film )。
(2)Vgl., Matthias Meusch, Von der Diktatur zur Demokratie, 2001., Irmtrud Wojak, Fritzt Bauer Bauer, 2011., ders., Fritz Bauer und die Aufarbeitung der NS-Verbrechen nach 1945, 2003. (邦訳・本田稔・朴普錫「フリッツ・バウアーと一九四五年以降のナチ犯 罪の克服」〔『立命館法学』三三七号〕五五九 頁以下), Ronen Steinke, Fritz Bauer oder Auschwitz vor Gericht, 2013. (本田稔訳『フ リッツ・バウアー』アルファベータブックス)。
(3)a.a.O., Steinke, S.20(f (本田訳・二二八頁 以下)。
(4)Beund Naumann, Auschwitz, 1968, S.12f., Fritz Bauer Institut, Auschwitz-Prozeß 4Ks2/(3 Frankfurt am Main, 2004, S.247f.
(5)a.a.O., Naumann, S.269f., Fritz Bauer Insititut.,S.607f.
(6)Jürgen Baumann, Beihilfe bei eigenhädiger voller Tatbestandserfüllung. NJW 1963 Heft 13, S.561f.
(7)ナチの党幹部と政府の官僚は、ホロコーストを「熟慮」して実行したが、それは職務ゆえにであって、下劣な動機からではなかったと言い訳し、謀殺罪の責任を回避するために、戦争が本格化する前に謀殺罪の規定を改正したのではないかと疑われる。
(8)Joachim Perels, Mythos von der Vergangenheitsbewältigung, Fritz Bauer Institut - Newsletter Nr. 28, 2006, S.17f., Michael Greve, Amnstie von NS-Gehilfen, in: Einsicht 04 Bulletin des Fritz Bauer Instituts, 2010, S.54f.
(9)Vgl. a.a.O., Steinke, S.274f(本田訳・三 一二頁以下).
(10)バウアーの「私の仕事」を継承する外務大臣ハイコ・マース(前連邦司法大臣)の活躍に注目が集まっている。ハイコ・マース「フリッツ・バウアー」(『立命館法学』三七三号)四八七頁以下、同「ローゼンブルクの記録」(『立命館法学』三七四号)三八八頁以下参照。
*日本の戦争責任資料センター「季刊戦争責任研究」第90号(2018年夏季号)93―98頁。