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Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

2015年度前期刑法Ⅰ(総論) 第08週 過失論

2015-05-31 | 日記
 第08週(2015年06月02日・04日) 過失論
(1)過失犯処罰の例外性
1故意犯処罰の原則と過失犯処罰の例外
 刑法38条1項は、「罪を犯す意思がない行為は、罰しない」と規定しています。これによれば、犯罪として処罰されるのは、原則として「罪を犯す意思」だけということになりますが、法律に特別の規定が設けられている場合には、「罪を犯す意思」がない行為であっても、例外的に処罰されることがあります。これが、過失犯の処罰根拠です。

 原則として処罰されるのは故意に行なわれた行為だけであるのは、なぜでしょうか。行為者は犯罪事実を認識・予見していたので、それを止めようと思いとどまる機会がありました(禁止規範に直面して、犯罪とは別の(反対の)行為を選択する動機を形成し、犯罪を思いとどまる機会がありました)。しかし、行為者はその犯罪の実行を決意しました。この意思決定に対しては強い非難が向けられます。

2過失犯処罰の根拠
 過失の場合は、そのような犯罪を実行する意思決定はありません。従って、故意の責任非難を向けることはできません。しかし、行為者は犯罪事実を認識・予見して、それを思いとどまることができた場合には、「なぜもっと注意深く行動しなかったのですか。そうすれば、このような結果を発生させずにすんだはずです」と非難できるのではないでしょうか。過失は、重大な法益侵害の発生を認識・予見して、回避できたにもかかわらず、行為者の不注意からそれを発生させたことに対する非難と理解することができます。

3過失犯処罰の責任主義
 このように過失が処罰される場合でも、刑法は明文の規定を要求しています。しかし、結果の重大性や行政目的の必要性などを理由に、明文の規定がないにもかかわらず、実際に処罰が行なわれている例もあります。責任主義の原則からは大きな問題がるといわなければなりません。

(2)過失の意義
1責任要素としての過失
 過失は、故意とならぶ責任類型(責任形式)の1つです。犯罪の構成要件に該当する違法な行為を行なった後者の心理状態が、過失の責任類型に該当する場合、行為者の過失責任が推定されます。その推定をくつがえす事情(責任阻却事由に該当する事実)が認められる場合、過失責任が阻却されます。

2構成要件該当事実の認識可能性・予見可能性としての過失
 では、過失とは何でしょうか。過失の意義については、次のように理解することができます。

 故意は、犯罪の構成要件該当の違法な事実を認識し、またそのような結果の発生を予見している心理状態です。過失の場合、このような認識・予見はありません。過失行為者の心理状態は、「事実の不認識・不予見」ということになります。しかし、「事実の不認識・不予見」という「無」の心理状態を理由に、過失責任を根拠づけることはできません。故意の場合と同じように、過失の実質も非難可能性である以上、非難に値する心理状態の「有」によって過失は根拠づけられるべきです。

 では、過失という非難可能性を根拠づけることができる心理状態とは、どのようなものでしょうか。それは、構成要件該当の事実(ないし結果)が発生することを認識・予見していなかったとはいえ、注意深く行動していれば、結果の発生を予見して、それを回避することができたにもかかわらず、その注意を怠った心理状態です。私たちは、日常生活において、他者や社会に働きかけながら生活しています。その相互交流の過程において、意図した結果だけでなく、意図していなかった結果を発生させることがあります。その結果が他者や社会にとって有益なものであれば、問題はありませんが、それが不利益であった場合、責任の問題が生じます。意図していなかった結果のなかにも、誰にも予想できなかった結果だけでなく、ちょっと注意すれば防げた結果もあります。刑法は、注意すれば予見できる結果については、それを予見して、その発生を回避する義務を課しています。従って、過失は、予見可能な結果について(結果の予見可能性)、予見義務と結果回避義務に違反した心理状態と理解することができます。

3旧過失論から新過失論への展開――「結果の予見可能性」から「結果の回避可能性」へ
 例えば、次のような事案をもとにして、過失の問題を考えていきたいと思います。

 道路交通においては、何かと事故が起こるものです。自動車運転行為処罰法で処罰される事件が発生することも少なくありません。従って、交通関与者は、細心の注意を払い、起こりうる事故を予見して、それを回避するよう努めなければなりません。例えば、Aが自動車で交差点を右折する場合、どのような事故が予見可能でしょうか。起こりうる事故としては、Bの対向車が赤信号を無視して直進したため、その正面がAの車両の左側部と衝突し、Bが死傷する事故が考えられます。また、Bの助手席や後部座席に座っていたCの死傷もありえます。このような様々な事故が予想できるので、Aは右折する際には、交差点中央で一旦停車して、直進するBの対向車が通過するのを確認してから、右折しなければなりません。しかし、対抗車には右折しようと停止しているものもあり、Bの車両がそのかげにかくれて見えないことがあります。「見えない」からといって、「存在しない」わけではないので、直進する対抗車があるかどうかについて細心の注意を払わなければなりません。それにもかかわらず、Aがうっかり右折したために、Bの対向車と衝突し、BやCを死傷させた場合、そのような死傷には過失が成立します。なぜならば、B・Cの死傷は、認識・予見可能な結果であり、Aにはそれを予見し回避する義務が課されていたにもかかわらず、その義務を怠ったからです。

 発生することが予見可能な結果については、それを予見し回避する義務があります。それを不注意にも怠った心理状態は、このように過失の非難可能性を根拠づけることができます。「結果の予見可能性」に基づいて、結果予見義務と結果回避義務に対する違反を論ずる立場を「伝統的過失論」(旧過失論)といいます。「伝統的」というのは、過失が責任要素として位置づけられていることを意味します。例えば、殺人罪も過失致死罪も、「殺人罪の構成要件に該当する違法な行為」であるという客観的な側面においては共通していますが、行為者の主観面、故意であったのか、過失だったのかという点だけが異なるという理解が基本になっています(殺人罪も過失致死罪も、実行行為、違法性などの客観的要素は同じであると理解しています)。

 しかし、このように考えると、いくつかの疑問が出てきます。例えば、進行方向が青信号であったので、Aが減速しながら交差点を直進し、走りぬこうとしたところ、歩行者B(老人や子ども)が突然横断してきたため、衝突して死傷させたような場合です。道路交通には様々な人が関与します。お年寄りや児童なども例外ではありません。「このような結果の発生は予見可能であったでしょうか」と聞かれれば、一般には「予見可能であった」と答えることになるでしょう。従って、結果の予見可能性に基づいて過失の成否を論ずるならば、この結果に対してもAには過失が認められることになります。しかし、それは余りにも酷です。そこで、交通事故のなかには、信号機の未整備、道路事情の悪さ、負傷者のルール無視など、行為者の運転に起因しない原因から生じたものもあるからです。このような場合にまで行為者に過失の責任を負わせるのは酷なので、ある程度は過失の成立範囲を限定する必要があります。そこで登場したのが、新過失論です。

 新過失論は、これまでのように結果の認識・予見可能性を基準にして過失を論ずると、過失の成立範囲が広がりすぎてしまうので、限定しなければならないといいます。自動車運転を行なえば、様々な事故の発生が伴います(対向車の運転者・同乗車、歩行者、自車の同乗車などの負傷)。それらは一般的に言えば予見可能な結果なので、その全てに過失が成立することになります。従って、そのような結果を回避しなければなりません。回避の方法でもっとも効果的なものは、自動車の運転を中止することです。しかし、現代の経済社会において、自動車事故が予見可能だからという理由で、それを中止することはできないでしょう。自動車の開発と普及は、経済社会の重要な部分を担っているので、それを中止することは、社会の発展をも中止することを意味するからです。そこで、自動車運転による事故の発生を回避するための方法として考え出されたのは、自動車運転の際に一定の基準行為を義務化して、それを遵守させることによって事故を回避するという方法です。それを定めたものが、例えば道路交通法です。

 道交法では、運転者が基準行為に従って運転している限り、事故を防ぐことができる仕組みになっています。事故のほとんどは、この基準行為を行なっていなかったことに起因しています。従って、この基準行為を行なわずに事故を発生させた場合にだけ過失を認めればよいということです。つまり、発生することが予見可能な結果について、基準行為者を順守しなかったことによって発生したものについてだけ過失を問題にすればよいのです。自動車運転は、人身事故を伴う危険な行為ですが、その危険は道交法が定めている遵守行為(前方・後方の安全配慮など)によって安全に管理・制御することができます。その意味で、自動車運転は、人身事故が伴う危険な行為ですが、遵守行為を行なっている限り、その危険は「許された危険」であるということができます。基準行為を行なったにもかかわらず、事故が発生した場合、それは回避不可能な事故であり、特定の個人の過失を問題にするのではなく、社会全体で負担することになります(福島第一原発の事故は、「想定外の地震と津波」が原因であると主張する人は、事故は安全基準を守ったにもかかわらず生じた回避不可能な事故であり、それは社会全体で負担すべきであえると考えるでしょう。これに対して、当時の研究水準に照らせば、地震や津波の想定はもっと厳しく想定することができたはずだと主張する人は、回避可能な事故であったと考えるでしょう)。

 このような立場は、これまで過失の判断基準として結果の認識・予見可能性を基準に考えてきた過失論を「旧過失論」(旧い時代遅れの過失論)と批判し、過失の有無を結果の回避可能性を基準に考えるべきであると主張しました。遵守行為を行なっていれば、結果を回避することができた場合には過失を認め、遵守行為を行なっていても、結果は回避できなかった場合には過失を否定するのです。これが新過失論(新しい時代に適合した過失論)です。進行方向が青信号であったので、Aが減速しながら交差点を直進し、走りぬこうとしたところ、歩行者B(老人や子ども)が突然横断してきたため、衝突して死傷させたような場合、事故回避のための基準行為(青信号の確認、前後左右の安全確認、交差点進入の際の減速など)を順守していたにもかかわらず、歩行者を死傷させたことについては、「このような結果の発生は予見可能であったが、それを回避するための義務を尽くした。それにもかかわらず発生したことについては、過失は成立しない」と答えることになるでしょう。

4過失の犯罪体系上の位置の変化――責任要素から構成要件要素へ
 新過失論は、刑法理論と刑事実務が自動車社会という新しい時代に即応するために、過失の意義を改めて問い、その成立範囲を限定するために重要な問題を提起しました。それは、過失の判断基準だけでなく、その犯罪体系上の位置関係に大きな変化を促しました。

 結果回避のための遵守行為を行なったにもかかわらず、(歩行者や対向車の運転者の違反行為があたっために)結果が発生した場合、新過失論からは過失が否定されますが、この過失が「責任要素」であるなら、被害者の死傷は、基本的に殺人罪や傷害罪の構成要件に該当する違法な行為ですが、責任要素としての過失が否定され、無罪という説明になります。しかし、遵守行為を行なったにもかかわらず発生した結果が、「違法である」というのは奇異な感じを受けます。過失を責任要素として位置付ける以上、事故は客観的に違法といわざるをえませんが、果たしてそれでよいのでしょうか。新過失論は、ここに疑問を投げかけます。つまり、過失がないことを理由に、違法でもないと主張することはできないかと問題を提起します。そして、過失を「構成要件要素」として位置付けることによって、行為者が遵守行為を行ない、結果回避措置を講じたにもかかわらず、結果が発生した場合には、過失がないことを理由に、「過失運転致死傷罪」などの構成要件該当性を否定することができると考えるわけです(ゆえに過失犯の違法性も推定されません)。新過失論は、過失の判断基準を「結果の予見可能性」から「結果の回避可能性」へと変化させたことによって、過失を「責任要素」から「構成要件要素」へと移すことになったのです。

 また、このような問題提起を受けて、故意・過失を責任要素として位置づける論者からは、順守義務を守った行為は「問題のない行為」(適法行為)なので、被害者の死傷結果は、その行為に「帰属」されない(別の原因から発生した結果である)と論じて、行為と結果の「因果関係」や客観的帰属関係を否定し、殺人罪や傷害罪の構成要件該当性を否定する議論が行なわれています。

5新・新過失論の登場――危惧感説
 新過失論は、過失の基準を「結果の回避可能性」に求め、それを構成要件要素として位置付け直しました。それによって、旧過失論によって認められる過失の成立範囲を限定することが可能になりました。しかし、それでも「結果の回避可能性」という基準は、「結果の予見可能性」を前提にした基準なので、新過失論の場合も、過失の成立の最外延(外枠)は、旧過失論と同じように、「結果の認識・予見可能性」によって限界づけられています。つまり、発生が予見可能な結果について、予見義務・回避義務が問題になるだけであって、発生が予見不可能な結果については、過失は問題にはなりえないということです。

 ここで「発生が予見可能な結果」とは、何であるかというと、それは構成要件該当の事実(犯罪結果または法益侵害)です。相手の生命を侵害するとか、健康を害するなどの具体的な法益侵害、特定の犯罪の構成要件に該当する事実の予見が可能である場合に、結果の予見可能性が認められます。自動車を運転すれば、どのような事実が予見可能でしょうか。料理を作れば、どのような法益侵害が予見可能でしょうか。ガソリンや灯油を販売・取引する仕事をしている時に、どのような事故が予見可能でしょうか。このような作業に従事している場合、一定の結果の発生が、しかも具体的な法益侵害発生が予見できるのではないでしょうか。そのような予見可能な結果の発生を回避するというのが、新過失論のいう「結果の回避可能性」です。

 しかしながら、食品や医療品を開発・製造する最先端の科学や医学の世界では、科学的な知見が十分の得られていない分野であっても、製品の開発や実験を行なうことが珍しくありません。「全てが明らかにならなければ、製品化できないない」となると、知識は無限大に広がっていくので、製品化は永遠にできなくなってしまいます。科学的な知見が不十分であっても、製品の開発や実験をやめるわけにはいきません。問題は、このような実験や製品化の過程において、予期せぬ事故が発生した場合の過失をどのように論じたらよいのかということです。「このような結果の発生を予見することは不可能でした。想定外でした」といって、過失の成立を否定することができるでしょうか。確かに、「このような結果の発生」を予見することはできなかったのかもしれませんが、「少なからず不安はあった」というならば、その不安を払拭するために、考えうるありとあらゆる措置を講ずることが求められるのではないでしょうか。未知の世界であるため、自分の行為からどのような結果(法益侵害)が発生するかを具体的に認識・予見できないかもしれませんが、ありとあゆる事態を想定して、不安を払拭することができるまで、回避措置をとるべきではないでしょうか。このような予見義務・回避義務は、新過失論のそれとは異なります。新過失論の予見義務・回避義務は、あくまで構成要件該当の「具体的」な事実の予見義務・回避義務です。具体的な事実の予見義務・回避義務だけを問題にしていると、科学的知見が不十分な領域で生ずる予期せぬ事故について過失を問うことはできなくなります。

 そこで登場したのが、新・新過失論(危惧感説)です。危惧感説、予見・回避すべき事実や結果の具体的な内容を抽象化してて「具体的に何が起きるかは漠然としていて分からないが、不安が除去できない」という場合には、その不安を除去するための措置を講ずる義務を行為者に課すべきであると主張し、結果発生(構成要件該当事実)の認識・予見可能性という最外延を超えて、結果回避義務を行為者に課します。そして、それを尽くさずに一定の結果を発生させた場合に過失を認めるべきだと論じた(徳島地判昭和48・11・28刑月5巻11号1473頁)。

 例えば、喫茶店でフルーツパフェを食べた子どもが「塩酸中毒」にかかったとします。喫茶店の経営者には、フルーツパフェを食べた客が「塩酸中毒」にかかることの予見可能性があったでしょうか。予見可能であったというためには、フルーツパフェに使用されている食材のなかに、「塩酸」のような劇薬物が混入している事実、それを食した人が中毒にかかることを予見しえたといえなければなりません。そのような事実の予見可能性は、喫茶店の経営者だけでなく、一般の人(そのなかには客も含まれる)にもなかったのではないでしょうか。しかし、パフェに乗せるミカン(缶詰のミカン)を製造するときに、皮がむかれ、房がばらばらにされたミカンの薄い皮は、人間の手先でむくのが困難なために、かつてはベルトコンベヤーに乗せて、「塩酸」によって溶かしていました(YouTube:「THE MAKING (115)みかんの缶詰ができるまで」14分)。現代の日本において、そのようなことが行われているかどうかは分かりませんが、製造者はみかんの薄皮を(少量であっても)塩酸によって溶かしている事実を認識していたので、「塩酸中毒という具体的な結果」について予見し、塩酸中毒を回避する義務があったといえるでしょう。それを知らなかったとしても、化学薬品で薄皮を溶かしている事実を認識していたのであれば、「なんか心配だな。何も起こらなければよいが」という不安を払拭するための措置を講ずる必要があったでしょう。新・新過失論(危惧感説)は、何らかの不安な事態が発生するということを認識していた以上、その不安を払拭するための措置を講ずる義務があると論じて、「塩酸中毒という具体的な結果」の予見可能性がなくても、起こった塩酸中毒に対して過失を認めます。それは、食品、調味料、健康食品、医薬品などを使用したため、重篤な疾病にかかった被害者を救済し、製造者の企業責任を刑事責任として追及するための理論として主張されました。

6過失の最外延としての具体的な事実の予見可能性
 新・新過失論の主張は、興味深いので、傾聴に値しますが、「何らかの不安な事態」という抽象的な事実の認識があったことを理由に、塩酸中毒に対する過失を認定することには問題があるように思われます。具体的な事実の予見可能性の範囲を超えて結果回避義務を課し、生じた結果に過失を認めるのは、事実上の無過失の刑事責任を認めることになりかねません。

 構成要件該当性が認められる程度の具体的な事実・結果について、予見義務・回避義務を課していくことによって、過失の成立範囲を限定することが必要です。

(3)過失の構造
 過失は、「結果の予見義務」と「結果の回避義務」に対する違反の有無によって判断されます。

1結果の予見義務と結果の回避義務
 結果の発生を認識・予見していなかったとはいえ、それが認識・予見可能であった場合には、その結果の発生を予見し、回避するための措置を講ずる義務が課されます。予見可能性のある結果については、予見すべき義務があり、同時に回避すべき義務が課されるということです。その義務に反した場合、過失が認められます。

2予見可能性の対象
 結果の予見可能性とは、構成要件該当事実の認識・予見可能性、法益侵害の認識・予見可能性です。精神を集中させていたならば、そのような事態を認識・予見でき、また回避できたであろうと言える場合、結果の認識・予見義務違反、結果の回避義務違反を認めることができます。精神を集中させても、認識・予見できなかった結果については、予見義務も回避義務も問題にはなりません。

 AがBを殺害するために発砲したが、弾丸はBの背後にいたCに命中した具体的事実の錯誤における方法の錯誤の場合、AがCの存在を認識していなくても、法定的符合説からは、Cに対する殺人の故意が成立します(数故意犯説からは、Bへの殺人未遂罪が成立する)。つまり、実際に被害を受けた客体(C)と同種の客体(B)に対する侵害の認識があれば、実際に侵害を受けた客体に対する故意は否定されません(これに対して、具体的符合説からは、存在が認識されていなかったCについては、その認識が可能であった場合に限り、過失が成立するだけです)。

 このような故意の構成要件的符合を過失の場合について考えると、次のようになります。例えば、AがBに拳銃の点検を指導しているときに、誤まって暴発させてBにケガを負わせ、さらに背後にいたCにもケガを負わせたとします。この場合、存在が認識されていたBについては、暴発しケガを負わせることの予見可能性があるので、過失が認められます。しかし、その存在が認識されていなかったCに対しても、同じように結果の予見可能性が認められるかが問題になります。つまり、そこにいることを認識していたBに対する負傷の予見可能性だけでなく、そこにいることを認識していなかったCの負傷についても予見可能性があったといえるかという問題です。

 判例においては、Aが軽トラックの運転を誤り、同乗者を死傷させた事案で、助手席の1人(B)だけでなく、知らないうちに後部荷台に乗車していた2人(C・D)についても、過失を認めた事案があります。その理由は、乱暴な運転をすれば、「人の死傷を伴ういかなる事故を惹起するかもしれないことは、当然認識しえた」(最決平成元・3・14刑集43巻3号262頁)というものでした。現に侵害を受けた客体(B・C・D)のうち、助手席のBについては、その存在を認識していたので、ケガを負わせる事故の予見可能はあったといえるでしょう。しかし、知らないうちに乗車していたC・Dについては、その存在を認識していなかったので、Bの場合と同じ様に事故予見可能性があったといえるかは疑問が残ります。この判例は、実際に侵害を受けた客体(Bだけでなく、C・Dにも)に侵害が生ずることまで予見可能性があることは不要であると判断したものと理解されています。つまり、知らないうちに乗車していたC・Dに対する侵害の予見可能性は不要であるということです。

 Aは、無断で乗車していたC・Dの存在を認識していなかったので、侵害の予見可能性はなかったと思われます。しかし、存在を認識していなくても、その存在が認識可能である場合に限り、過失が成立すると解すべきです。軽トラックの運転手のところで、荷台に人が乗っていないことを確認してから運転すべき義務がある場合には、その存在を確認する機会はあったので、C・Dの存在については認識可能性があり、そこにおいて生ずる侵害の予見可能性もあったということができます。

3結果予見義務の基準
 社会生活上の経験や知識の程度、身体の状態などに応じて、人によって結果の予見可能な範囲が変わってくる場合があります。例えば、人の注意能力を「生理的な条件」と「心理的な条件」に分けて考えると、運動能力や視力など「生理的な条件」が高い人とそうでない人とでは、注意能力の程度に差が出ることがあります。しかし、慎重さ・軽率さなどの「心理的な条件」は、誰にも等しく求められるものなので、差を設けるべきではないでしょう。

 例えば、雨の日の夜に、街灯の少ない道を自転車で走っていて、歩行者と衝突した場合、視力があまり良くなかったために人の存在に気づくのが遅かった場合、結果の予見可能性や回避可能性の有無とその程度は、本人の生理的な条件(主観的基準)にもとづいて判断すべきでしょう。

 これに対して、サングラスをかけていたために人の存在に気づくのが遅かった場合、結果の予見可能性や回避可能性の有無とその程度は、心理的な条件(客観的基準)にもとづいて判断すべきでしょう。

(4)信頼の原則
1信頼の原則の意義
 道路交通は、自動車運転者だけでなく、バイクや自転車の運転者、歩行者などが適切に行動することによって、事故を回避する仕組みになっています。従って、道路交通に関与する者は、被害者や第三者が適切な行動に出れない特別な事情がない限り、彼らが適切な行動に出ることを信頼して、それを前提にして、自らも適切な行動を行なえばよいわけです。彼らが不適切な行動に出たために、運転者の適切な行動から事故が発生しても、運転者には過失はないと考えられます。これを「信頼の原則」といいます。

 判例においても、交差点を直進して走行していた被告人Aの自動車の前に、被害者Bの車両が交通法規に違反して、突然その前を右折し突破しようとしてきたため、衝突して被害者を死亡させた事案について、「自動車運転者としては、特別の事情がないかぎり、右側方からくる他の車両が交通法規を守り自車との衝突を回避するための適切な行動に出ることを信頼して運転すれば足りるのであって、本件の被害者の車両のように、あえて交通法規に違反し、自車の全面を突破しようとする車両のあることまで予想して右側方に対する安全を確認し、もって事故の発生を未然に防止すべき業務上の義務はない」(最判昭和41・12・20刑集20巻10号1212頁)。ただし、負傷者が幼児や高齢者の場合、道交法に即した行動に出ることが「信頼」できない場合は、この原則を適用することはできません。

 この「信頼の原則」は、被告人が道交法を遵守していた場合に、その過失を否定します。しかも、被告人が道交法に違反していた場合でも適用される余地があります。例えば、Aが制限速度50キロで走行すべき場所を60キロで走行し、100キロで右折するBの対向車と衝突し、被害者を死亡させた場合、かりに50キロで走行していても、結果を回避できなかったといえる場合には、「信頼の原則」が適用される余地はあります。

2信頼の原則の犯罪体系上の位置
 「信頼の原則」によって否定される過失が、「責任要素」としての過失であれば、行為者は少なくとも人身事故という傷害や殺人の構成要件該当の違法な行為を行なっていることになります。

 これに対して、その過失が「構成要件的過失」である場合、自動車運転過失致死傷罪の構成要件が否定されます。行為者のところで結果の予見可能性・回避可能性がなかっただけでなく、社会生活の経験から、運転行為から死傷結果が生ずるとは通常いえない、つまり相当因果関係がないので、運転行為と死傷の因果関係を否定すると解することができます。相当因果関係説からは、「信頼の原則」は行為と結果の相当因果関係を否定する理由として用いられます。

 これに対して、「客観的帰属論」などは、「信頼の原則」が適用される場面においては、実際に生じた被害者の死傷結果を被告人の自動車運転行為に帰属すべきではないと主張して、その帰属関係(因果関係)を否定し、構成要件該当性を否定します。それは、因果関係を否定するという点で相当因果関係説と類似していますが、それは「過失」を否定することによって根拠づけられるのではなく、結果の行為への客観的帰属関係を否定することによって根拠づけられます。

(5)管理過失・監督過失
 複数の人間が連携して作業に従事している場面において、そのうちの一人の不注意から事故が発生することがあります。

 例えば、Aが指揮・監督し、そのもとでBが作業に従事しているときに、Bが不注意で事故を起こした場合、誰に過失があるのでしょうか。直接行為者であるBに過失が成立するのはもちろんですが、その監督Aの過失も問題になることがあります(監督過失)。

 また、火災などの発生を防止すべき物的・人的体制を整備すべき義務のある者が、それを怠ったために、火災が発生したり、その拡大を防止できなかった場合にも、その者の過失が問題になります(管理過失)。

1監督過失
 Bが過失によって法益侵害を発生させたが、Bを監督すべきAが背後にいた場合、監督者Aが、直接行為者Bが過失によって結果を発生させることを予見しえたならば、Aにもその結果に対して過失があります。これが、監督過失です。

 例えば、直接行為者Bが過労や未熟であるため、ミスを犯し、被害を発生させることが予見できる場合(結果の予見可能性→結果の予見義務)、監督者Aはそれを回避するための措置(担当者を交代させるなど)を講ずる義務があります(結果の予見義務→結果の回避義務)。それにもかかわらず、その義務に違反した場合(結果回避義務違反)、過失が肯定されます。これに対して、結果回避義務を尽くしたにもかかわらず、結果が発生した場合には、過失は否定されます。

 監督過失の場合、法益侵害結果は直接行為者の行為(過失による作為)から発生しています。その背後にいる監督者についても過失の行為が認められます(過失による不作為)。つまり、直接行為者の過失の作為と監督者の過失の不作為が、順次作用して競合して、一つの法益侵害へと結実しているわけです。監督過失の問題の特徴は、「過失の競合」という角度からも考えることができます。

2管理過失
 管理過失とは、不注意から結果回避措置を講じなかったために、結果の発生を防止できなかった場合です。例えば、ホテル利用者Bが行った寝タバコ(その火を消さない不注意)が原因で火災が発生したところ、ホテルの管理者Aが防火設備や避難誘導体制を十分に整備していなかったために、利用者の多くが逃げ遅れ、一酸化炭素中毒や火勢により死傷した場合、誰が過失責任を負うのでしょうか。

 Bには過失により火災を発生させた「失火罪」が成立します。その過失が、失火に起因する焼死にまで及ぶならば、Bには重過失致死傷罪が成立します。しかし、Bの過失は死傷には及ばないと思われます。なぜならば、ホテル管理者Aは、万が一の火災に備えて、防火設備や避難誘導体制を備えるべき義務があり、それを備えていれば、利用者の寝タバコに起因する火災は防げなくても、利用者の死傷を防ぐことができるからである。つまり、ホテルの管理者Aは、火災が万が一発生した場合でも、その危険を最小限に抑える義務を負っているのです。防火設備が十分に設置されていなかった場合、利用者の死傷の原因はAの失火ではなく、失火の延焼と拡大を防げなかった防火設備の不備にあったといえます。Aには(消防法などの遵守違反だけでなく)業務上過失致死傷罪が成立します。

 この問題は、因果関係の問題でもあります。利用者Bの寝タバコから失火が発生し(火器厳禁の場所での喫煙であれば「作為」、部屋での喫煙後に消火しない場合には「不作為」)、その後、利用者の死傷に至るまでの間に、ホテル管理者Aの防火・避難誘導義務違反の行為(不作為)が介入しています。つまり、この問題はBの行為後に第三者Aの行為が介在した場合の因果関係の問題です。Bの行為と利用者の死傷との間に条件関係(あの行為が行われなかったならば、この結果は発生しなかったであろう)を認めることができても、その間にA行為が介在しているので、相当因果関係の有無が問題になります。一般にはホテル管理者の防火体制や避難誘導が行われるはずであり、それが行われなかったのは異常な事態です。利用者の寝たばこからホテルの火災が生ずることは通常ありえても、大量の利用者の死傷はありえないといえるので、B行為と死傷との相当因果関係は否定されます。利用者の死傷との間に因果関係があるのは、B行為です。Bの立場から見れば、利用者の寝タバコのような過失の行為は予見可能であり、Bはそれに起因する火災を回避する義務があるといえます。ただし、利用者が自殺を図るためにガソリンや灯油をまくという故意の行為が行われた場合、管理者にそのような行為まで予見することは不可能なので、そのような行為に起因する死傷を回避する義務を課すことはできないでしょう。というのも、ホテル管理者Aは、利用者Bが利用規則に従った行為を行なうことを信頼してよいので、それに反した利用行為を想定して、防火・安全体制を確立し、結果の回避に努める義務はないからです。「信頼の原則」は、道路交通事故などを背景に形成された学説ですが、広く適用できます。

 以上、説明したように、ホテルやデパートなどにおいて、防火設備や避難誘導体制があまりにも貧困であったため利用者が逃げ遅れて死傷した事案では、防火・避難誘導体制を確立すべき義務に違反していたことに強い非難が向けられます。その分だけ、失火の原因が何であったか、失火であったのか、放火であったのか、それが予見できるものであったのか、という問題には関心が払われない傾向も見られます。逆に、火災の原因が故意の放火である場合、放火に対して強い非難が向けられるために、防火・避難誘導体制が十分であったのか、それと死傷との間に因果関係があるのか、といった問題に目が向けられにくくなります。管理過失が問題になる事案では、このような点の冷静な判断が求められるでしょう。
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