Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

第9回講義「現代と人権」(2013.11.22.)

2013-11-24 | 日記
 第9回 現代と人権   日本のプラグマティズム――生活綴り方運動(その3)
 今日は、「生活綴り方運動」の組織、思想・理論、他の思想潮流との結びつきについて見ていくなかで、「生活綴り方運動」の意義、昭和初期の日本のプラグマティズムの実践的運動としての今日的な意義をまとめたいと思います。

(10)生活綴り方運動の特質――(1)組織について
 「生活綴り方運動」が、最高潮に達したのは、1936年、1937年頃です。当時の日本、またその影響下にあった上海、満州、朝鮮半島において、「生活綴り方運動」の成果として、数多くの作文集が発行されました。1936年2月の時点の数(おそらく、1935年末までに公刊された文集の数だと思いますが)は、北海道で10点、東北で20点、関東で25点、中部で14点、近畿で17点、中国地方で15点、四国で1点、九州で5点、朝鮮で3点、満州1点、上海で1点となっています。全体として見ると、中国地方から東の地方、北の地方において、作文集が多く発行されていることが分かります。そのなかでも、東北地方の20点というのは、中部、近畿、中国地方などの人口が集中している地域と比べると非常に多いです。それは、自分の日常生活の実感を自分の言葉を使って、自由に文章を書くことを指導する教師がいたこと、そしてその指導にもとづいて生き生きと作文を書いた子どもがいたことを意味します。そして、その作文に表現された生活実感が社会認識から社会批判へとつながっていったことを予想させます。当時の政府や文部省にとっては決して見過ごすことのできない動きであったと思います。
 1928年3月15日、日本共産党に対する大弾圧が行われ、それによって最高幹部の佐野学と鍋山貞親が検挙されました。彼らが、刑務所の中においても、信念を曲げずに、共産党員としての誇りと姿勢を貫いていた限りでは、その姿は非合法に活動している共産党員にとって生きた指針でした。しかし、1933年には佐野も鍋山も「転向」します。転向というのは、共産党員がその信念を放棄して、天皇制を頂点とする国体を認めることです。それまで共産党は、天皇制は絶対的な存在であり、大都市における強欲な資本主義(資本家と労働者の関係)と農村部における古い封建的な身分制(地主と小作農の関係)に支えられ、同時に天皇制が日本資本主義と半封建的身分制を維持・強化していると考えていましたので、日本を民主主義的な社会に作り変えていくためには天皇制の廃止は避けて通れないという主張を持っていました。従って、佐野と鍋山の転向は、最高幹部の転向であっただけに、共産党員だけでなく、社会にとっても非常に大きな衝撃を与えました。その衝撃によって、多くの共産党員が転向し、運動家から離れていきました。そして、太平洋戦争が始まる1941年頃までに、戦争に反対する組織や運動は、根こそぎ検挙され、弾圧されました。その間にあって、「生活綴り方運動」が、それらの運動に勝るネットワークをつくり、着実な成果を上げたことに注目すべきことだと思います。会長、総裁、幹事長などのようなワンマンな指導者を持つことなく、地方都市の教師1人1人が小学生に対するリーダーとして活動したことは、今日においても非常に大きな教訓ではないかと思います。白樺派の運動に集まった文学青年の多くは、武者小路実篤にあこがれて、「新しき村」に移住し、共同生活という形態の運動に参加しました。日本共産党の活動家は、コミンテルンや幹部の指導のもとに強固な組織をつくり、それを拠点に活動しました。「生活綴り方運動」は、そのような運動とは違い、1人1人が主人公で、それゆえ息の長い活動を続け、着実な成果を作り出すことができたのです。これが、私たちがくみ取るべき歴史の教訓ではないかと思います。当時の当事者の1人である寒川道夫さんが、1955年の時点で、その当時の体験を語っていますが、それを見ても、「生活綴り方運動」のスタイルは、現代に適しているのではないかと思われます。
 寒川さんの体験談によると、「生活綴り方運動」の主体、担い手は、誰なのかがはっきりしなかったようです。そのほとんどが、地元の田舎文士であって、分散していたので、誰が中心になって運動をリードしていたのかははっきりしない。そして、地方の農村漁村の教師は、貧乏で、お互いに会いに行くこともできなかった。だから、中心的なリーダー格の教師の名前は知ってはいても、会ったことがない。その代わりに、手紙のやり取りは頻繁に行われ、一週間に一回くらいは手紙を書いて、連絡を取り合っていた。自分のクラスではこんな作文を書いた子がいる、その作文はこのように素晴らしいものだ、と「教室文化の交流」を行っていた。寒川さんは、このように言います。互いの顔も知らない教師たちが、手紙や作文集の上で、「ガリ版文化」と言われている子どもの文集の上で交流していたといいます。この体験談を読んでいると、ネットやメール、ラインほどスピーディーではないにしても、関心のある事、興味のあることで、人々とつながり、そのつながりを生かして仕事に取り組んでいる姿を想像することができます。現代では、自由にアクセスできるホームページを立ち上げて、そこに自由に投稿できるような対話のコーナーを設けて、それを趣味や仕事のための集合場所にするという方法が実践されていますが、「生活綴り方運動」は、現在につながえる活動を80年前に実践していたとも言えます。インターネットを利用した人との交流の基礎が、80年前の「生活綴り方運動」の見られます。

(11)生活綴り方運動の特質――(2)思想の発展方式
 明治時代以降、日本における近代思想の形成や社会運動の担い手は、多くが学者やインテリゲンチャーでしたが。科学・技術が発展している外国の理論を取り入れ、それに依拠しながら運動を進めるという場合が多かったといえます。その典型が、日本の社会主義・共産主義運動に見られます。例えば、日本共産党の福本和夫さんは、東京大学を卒業した後、地方の旧制高校の教授になります。文部省の海外留学生としてドイツに行き、そこでマルクス主義の理論を学びます。今では外国の学校に留学したり、会社で仕事をしたりすることはめずらしくありませんが、当時は選ばれたごく少数の人にしか、そのようなチャンスは与えられていませんでした。そのチャンスを活かして理論を学んで帰って来た人は、日本ではその理論の第一人者となり、その人の考えたこと、書いた文章が絶対視されることは稀ではなかったようです。理論が絶対視されたがゆえに、組織も運動も絶対視され、硬直化、動脈硬化を起こした可能性があります。
 これに対して、「生活綴り方運動」を思想運動として見た場合、それは非常に折衷的な性格を持っています。折衷的な性格というのは、唯一の絶対的な思想ではなく、異なる思想が融合していることを意味しています。政治的な運動や宗教的な運動を想像すると分かると思いますが、一つの運動を進めていくうえで、その基礎にある理論は一つであり、その運動に携わっている人々も、その理論が正しいから、その理論が有効であるから、その理論を信じて運動に携わっています。そのような運動をするときに、異なる複数の思想が参考にされることはあっても、それを織り交ぜることはあまりないだろうと思います。しかし、プラグマティズムはそれを可能にします。都会の知識人や文化人の思想運動が、社会情勢の変化や政府の弾圧によって崩されたのは残念なことですが、現在の時点から見て、それは避けられなかったのは、もし「何か」の措置を講じていたならば、それを避けることができたのではないかと考えることもできます。崩された運動は、のなかには基礎にある思想を絶対視して、他の思想を寄せ付けないものもありましたが、他の思想を参考にするものもあえりました。しかし、主軸になる思想が絶対視されたために、運動そのものが停滞したのではないか。久野さんと鶴見さんは、このように見ているようです。これに対して、「生活綴り方運動」の思想は折衷ではあったが、それは創造的な折衷性であると評価しています。久野さんと鶴見さんは、この折衷的な性格が、白樺派の「新しき村」の運動や日本共産党の福本イズムのように、組織が崩れると、思想も運動も崩れるという事態を防いだといいます。
 小学校の教師は、よい意味でも、悪い意味でも、地元の小さな社会のなかにいるものです。彼らは、大きな組織のある東京に出向いて、そこで「大前提」を変えるような活動には関わりません。あくまで、地元の小学高のクラスを基盤にして、作文指導を行い、よい作文を書くために生徒に必要なものは何であろうか、どうすればそれを理解してもらえるだろうか、他の学校の先生はどんな努力や工夫をしているのだろうかと考えていたのだろうと思います。今自分が抱えている目の前の「小前提」の問題を解決するために、少しでも意味のあるもの、プラスになるものがあれば、それを取り入れていく柔軟さがここにあります、これが日本のプラグマティズムと呼ばれるゆえんです。創造的な折衷性というのは、目の前にある「小前提」の問題を解決のために、様々な工夫を行う柔軟性です。唯一の絶対的な思想や理論にもとづく運動は、プラグマティックな考え方は絶対的な思想や理論を修正するといって非難しましたが、その結果、情勢に即応する柔軟性がなくなり、組織も運動も衰退していきました。「生活綴り方運動」が、様々な思想や理論の影響を受け入れるプラグマティックな性格を持っていたことは、それが優柔不断な理論であったというのではなく、それらを積み重ねて独自の性格を作りあげていったことを意味します。この運動を最初に始めた芦田さんが自分の考えを身につけるために参考にしたのが「岡田静座法」でした。それを受け継いだ鈴木さんは、「生活綴り方運動」を芸術至上主義的な運動として進めました。それ以外にも、1930年代にこの運動に関わった野村さんは無政府主義でしたし、国分さんはマルクス主義でした。彼らの思想は、「大前提」の問題としては、相互に相いれない性格を持っています。しかし、彼らは互いに批判しあうようなことはしませんでした。クラスの子どもが実感のこもった生活の綴り方を身につける「小前提」の問題のために協力したのです。この点を日本の思想運動の公共遺産として継承しなければならないと、久野さんと鶴見さんは強調しているのです。

(12)生活綴り方運動の特質――(3)その理論
 大学でゼミを担当していると、学生から論文やレポートの書き方について質問されることがあります。自分が書きたいことは、おおまかに決まっているんだけれども、それをどのように書いていったらいいのかが分からない。とくに最初の書き出しで行き詰ってしまう。このような相談を受けることがあります。本屋さんに行けば、『論文・レポートの書き方』というタイトルの本も売られているようなので、そのようなものを参考にするのも良いと思いますが、それを読んでも、いざ書くとなると、やはり難しいようです。「生活綴り方運動」の場合、生活の唯一の正しい綴り方というものはないようです。芦田さんは「テーマは自由に選びましょう」と言っていました。鈴木さんの場合は、「実感をもって書き表そう」というものでした。野村さんは「芸術作品としてだけでなく、生活改善の方法として、綴り方を使おう」、小砂丘さんは「芸術意識だけでなく、社会意識、階級意識をも作文のなかに取り入れていきましょう」、「概念だけでできあがる文章だけでなく、概念をかみ砕いた表現を工夫しましょう」と述べていました。生活の綴り方の方法について、このような変化が見られえるのは、日本社会が変化していること、大都市だけでなく農村漁村でも生活綴り方運動が進められたことに原因があると思いますが、綴り方が定式化されていないことが特徴です。定式化されると、教師は状況の変化や子どもの実情を考えずにその通り教えようとしますが、「生活綴り方運動」の理論が定式化されず、画一化を免れたのは、クラスや子どもの実情に即した作文指導を行うという目の前の課題が重視されていたからだと思います。
 久野さんと鶴見さんは、1950年代の半ばの時点で、「生活綴り方運動」の理論の発展方向について、「感情と認識の未分に関する混乱の整理」という言葉で表しています。日本には昔から、自分の身の回りのことを日記風で書き表す習慣があり、それが短歌風の感情表現と結びついて発展してきました。『土佐日記』、『更級日記』、『枕草子』などがそうです。このような短歌や俳句の形式による感情表現が民衆の中にも広がっていき、明治時代に入ってから、このような生活記録が国民的行事として行われてきました。「生活綴り方運動」は、このような流れの影響を受けています。自分だけの日記であれば、長い文章でも、短い文章でも好きなように書けばいいのですが、作品として書く場合には、短歌、俳句のような形式・定式で書き表す必要があります。また、新聞や雑誌などの読者の投稿欄に贈られる一般の人の文章は、雑誌の編集上の都合に合わせて、500字以内とか、2000字以内とされています。それは、短歌や俳句とはことなりますが、限られた文字数で感情を表現するという点では共通しています。その共通性とは、感じたままを表現するというのではなく、感じたことを、それに相応しい形式で表現するということです。自然の美に対する感情であれ、社会の世相に対する感情であれ、一定の形式で、また一定の文字数で表現するためには、感情をありのままに表現するのではなく、それを観察・認識して表現することが求められます。しかし、人間の感情には複雑な側面があるので、それを短い文章で定式化するのは、多様なて触りを持つ人生をいくつかのタイプにはめ込んでしまうことになります。それは複雑な問題を単純化してしまうことになります。やはり重要なのことは、複雑な側面を持ちながらも、それを説き明かした説得力のある感情表現だと思います。感情から観察へ、感覚的認識から了解的認識への歩みを一体的に表現することが必要です。ただし、感情と認識を区別すると、画一的な感情表現になってしまう危険性があるので、画一化・単純化に陥らないような感情表現の方法とはどのようなものかを考えることが、「成果中綴り方運動」を発展させる重要なきっかけになるということでしょう。久野さんと鶴見さんは、「生活綴り方運動」は、やはり第1に私的な生活を表現する文章として、長さの決まりなく書かれるべきだと主張しています。私も、論文やレポートを書く場合には、まず下書きとして、自由に書けばいいと思います。結論を先に書いてもいいです。論点が前後してもいいです。自由に下書きして、あとは整理すれば、よいのです。そのような下書きの作業をせずに、いきなり論文を書こうとしても無理です。生活綴り方運動の理論は、私たちにとっても重要な教訓を残してくれていると思います。

(13)生活綴り方運動の特質――(4)他の思想流派との今後の結びつき
 私たちの日常生活において、毎日、大量の情報がテレビ、ラジオ、新聞、インターネットを通じて洪水のように流れてきます。そのなかから、正しい情報を選び出すこと、また自分にとって必要な情報を選び取る必要があります。いろんな情報を持つこと、いろんな知識を身につけることは重要ですが、それらの情報が事実に裏付けられた客観的な情報なのか、それが自分にとってどのような意味があるのか、また社会や人間にとってどのような意味があるのかを知ることが大切です。従って、私たちに求められるのは、情報の読み方です。アメリカのプラグマティズムは、読み方の理論として発展してきましたが、日本の「生活綴り方運動」は、自分の生活の書き方の理論として発展してきました。「生活綴り方運動」の今後を考える上で、また私たちが書物を読んだり、文章を書いたりするうえで、生活の書き方だけでなく、書物の読み方の両方を重視し、それをどのように結び付けていくかが大切だろうと思います。
 また、アメリカのプラグマティズムと異なって、日本の「生活綴り方運動」には「階級」という政治的・思想的な概念が現われていたことに注目する必要があります。この「階級」という概念は、マルクス主義が用いた概念です。それが「生活綴り方運動」にも取り入れられたことは、「生活綴り方運動」が、様々な思想的な潮流に影響を受けながら、発展してきたことの証だと思います。しかし、それはマルクス主義の側からは、「生活綴り方運動」はマルクス主義の科学的な世界観にもとづいて、改めて作りあげられるべきだということを意味します。それは戦後においてだけでなく、1930年代にすでに現われていました。日本プロレタリア同盟という組織は、その影響下にある小学校の教員に対して、次のような生活綴り方の教授方法を示していました。階級的教師は、芸術至上主義的な態度をとってはいけない。一切の活動を階級闘争、政治闘争へと集中しなければならない。「生活綴り方運動」もまた、この立場から行わなければならない。お正月に新しい下駄を買ってもらえなかったという作文を書いた生徒に対しては、なぜかと問え。父親が失業したためだと生徒が答えると、ではなぜ父親は失業したのかをさらに問え。そして、社会組織の問題、そこにある矛盾、人々を不幸にする原因に関心をもたせていけ。このようなことが必要だと書かれています。このような「生活綴り方運動」の方針にもとづいて実際に生徒が書いた「満州の兵を想いて」という作文に対する講評を見てください。生徒は、中国大陸への日本軍の進出のために派遣されている兵隊さんが大変だろうという気持ちで作文を書いています。そして、中国の東北部、満州が日本のものになれば、日本が栄え、兵隊さんたちの苦労も、また軍隊の派兵のために使われた税金も報われるという気持ちで書いています。それに対して、教師はどのような指導をしたのでしょうか。そんなことに税金と労力を使うよりは、北海道の飢餓のために死にそうになっている日本人の命を救うために使ったほうが良いのではないか、と論評しています。理屈でいえば、教師の言う通りですが、子どもが書く作文には、世論や世相の限界が現われているのです。したがって、その限界を超えた教師の認識とそれを超えていない子どもの認識とのあいだには、大きな溝があります。教師の作文指導は評価できても、マルクス主義の階級という概念が生活綴り方運動に入ってきたために、生徒に対する押し付け的な指導になっているようなきがします。生徒に対して社会問題に関心を向けさせることは重要なことですが、教師の世界観、物の見方、考え方を生徒に押し付けても、生徒はその意味が十分に分からないまま、教師に言われた通り作文を書くことになると、自由な作文ではありません。このあたりが、プラグマティズムとしての生活綴り方運動とマルクス主義の実践活動との境目だろうと思います。
 「生活綴り方運動」の基本は、自分の実生活のを実感のこもった表現にあります。自分で自由にテーマを選んで、自分で考えながら、書くのが基本です。そうすると、どうしても自分を中心とした作文になってしまい、社会との関わり、世界との関係などは後から付け加えられがちになります。もしも、社会や世界を中心に生活を綴るとどうなるか。そのような綴り方では、もはや「私は」という一人称では書かれないと思います。「日本国民」とか、「世界の人々」とか、「」貧しい人々」、「戦争で苦しめられている子どもたち」といった表現になり、それに応じて、自分の生活体験の実感は薄まってしまい、教師に求められた作文をすることになってしまうでしょう。それは世界観の体系のなかに組み込まれ、社会問題や社会矛盾を自覚するという長所もありますが、個人が埋没するという短所もあるように思います。個人が社会や世界に埋没することなく、「私」として自立しながら、同時に社会観や世界観にもとづいた生活を実感を持って行いうるには、どうすればよいか。この問題は、政治や経済が複雑に揺れ動いている現代の日本において、自分自身の確かな生活と職業を模索する私たちにとって突き付けられた課題であると思います。私は、「生活綴り方運動」の歴史からその問題を解くヒントをつかみだせるのではないかと思っています。

 以上で、3つ目のテーあである日本のプラグマティズム、生活綴り方運動の歴史と理論を見てきました。次回は、日本の超国家主義について考えたいと思います。118頁から 頁を読んできてください。