Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

第11回講義「現代と人権」(2013.12.06.)

2013-12-07 | 日記
 第11回 現代と人権   日本の超国家主義――昭和維新の思想(その2)

(5)北一輝の出発点
 北一輝の思想は、明治時代の伝統的国家主義と決別し、昭和の時代において新たな国家主義を作りあげるための原型ともいえる思想です。北一輝という人は、どのような人でしょうか。彼は、1883(明治16)年に新潟県の佐渡島に生まれ、1906年、23才のときに『国体論および純正社会主義』という書物を自費出版し、日本における社会主義と革命思想に関して大胆な理論を提起しました。日本に社会主義の思想が入ってきて間がない頃に、しかもロシア革命が成功する10年ほど前の時期に、北一輝が社会主義と革命を論じたことは興味深いことです。
 北一輝がその思想を書物にしたのは、どのような時代だったのでしょうか。それは、日露戦争において日本が勝利をおさめた時期です。戦争に勝利した日本は、敗れたロシアと講和条約を結ぶために、その調停をアメリカに依頼しました。アメリカの当時の大統領ルーズベルトは、ロシアを説得して、朝鮮半島における日本の支配権を認めること、ロシアが当時の清国の旅順、大連に持っていた租借権、長春と旅順の間の鉄道、それに付随する権利を日本に譲り渡すこと、また樺太の南半分を日本に譲り、沿海州沿岸での日本の漁業権を認めることを確認させました。これがポーツマス条約の主な内容です。このように聞くと、日本は日露戦争に勝って、ロシアから多くの戦利品を獲得したと思ってしまいます。当時の日本国民も「勝った、勝った」と浮かれていたようです。しかし、日本は日露戦争で使った軍事費をロシアに対して賠償請求する権利は撤回させられました。樺太の北半分を含む全体を日本の領土にできると思っていた国民は、ポーツマス条約には納得がいかないと不満をもらしていました。その不満のエネルギーが1905年に爆発し、新聞社、教会、大臣官邸などが襲撃され、東京には戒厳令が敷かれるほど、治安が乱れました。これが「日比谷焼打ち事件」です。北一輝は、この事件で示された国民のエネルギーを、どのようにすれば社会主義に結びつけれるか、戦利品に不満をもらす好戦的な国民の世論をどのようにすれば社会変革の世論に変換できるかを考えました。その思索の結果が、『国体論および純正社会主義』です。しかし、この書物は出版後、直ちに発禁処分を受け、その全体を読むことはできなくなりました。久野さんと鶴見さんによれば、1950年代の半ばの時点では、その第4編「国体論の復古的革命主義」を読むことしかできなかったため、その部分の分析しか行われていません。
 北一輝は、国体論と社会主義の関係について、社会主義は国体論に反する思想なのかと問題を投げかけます。これは社会主義に限られた問題ではなく、あらゆる新しい思想が日本に取り入れられたときに常に問題になります。もし新しい思想が国体にそぐわない場合には、その思想は禁止されてしまします。たとえ良い思想であっても、国体に反するならば、政治評論家はそれを自由に紹介できませんし、新聞記者もそれを自由に報道できません。社会主義を論じている人の側では、社会主義と国体の関係について全く語らないとか、たとえ何かを語っても、社会主義は国体には反していない、一致していると言うしかありません。北は、このように新しい思想を押しつぶす国体論に対して非常に批判的です。というのも、世界のどこを見ても、このように国体論を大前提にして、学問研究の正しいあり方を否定している例はないからです。新しい思想が国体論によって抑圧されている限り、国体と日本の歴史の未来はありません。北は、日本の国体と歴史を発展させるために、社会主義を目指そうとしているのです。
 では、国体と日本の将来のために、どのようにすれば社会主義を実現することができるのでしょうか。北は、社会主義と日本のナショナリズムを結びつけることを論じました。1900年頃、日本には社会主義を目指す政治組織がありましたが、国体に合わないとして、政府や警察によって厳しく弾圧されていました。北は、そのような社会主義者に対して同情していましたが、それは社会主義が国体に沿わないだけでなく、社会主義者が日本のナショナリズムを重視していないからだと考えていました。多くの社会主義者が語る社会主義は、フランスやドイツから直輸入された個人主義の思想、つまり外来の思想でした。社会主義がそのような日本の国体や伝統・文化に対して異質な存在である限り、日本において広がり、国民の心をつかむことはできない。従って、それを日本のナショナリズムと結合させなければ、普及できないと考えたのです。日本のナショナリズムというのは、日本の国民意識、国家や社会、天皇について抱いている意識や感情の全体です。前回お話ししましたが、伊藤博文が中心になって作りあげた明治憲法の国家システムは、天皇が一方で政治の権力を掌握し、他方で宗教的・道徳的な権威のシンボルでもある国家です。天皇は、議会を通じて法律を制定し、それによって国民の行動を規制し、また教育を通じて国民の思想を規制する存在であり、国民の外的な行動と内的な思想を管理・統制する絶対的な主体です。そのために国民は天皇に対しては絶対的な客体の立場にあります。確かに、天皇の政治を翼賛し、輔弼するために政治の世界に参加でき、国家や社会に主体的に関与できますが、精神的な世界においては、天皇が絶対的な主体であり、国民は絶対的な客体のままです。北は、日比谷焼打ち事件において表された国民のエネルギーを主体的な変革のエネルギーへと変えるためには、このようにな国家システムを変えなければならない、世俗の政治の世界と道徳の精神界にまたがる万世一系の天皇の権威を前提とする国体論を変革しなければならないと主張します。
 北の主張は、次の通りです。学者、とくに憲法学者は、天皇は万世一系であって、2500年以上にわたって日本の国を支配し統治してきたというが、伊藤博文も言っているように、明治維新は天皇の親政制度を復活させ、天皇の主権を回復させたのではなかったのか。回復というのは、一度失われたものを復活させるという意味である。従って、かつて天皇は国を治めていたが、その後はその座から降りたということである。明治維新が天皇の主権の回復であったということは、天皇が日本の国家を一貫して統治していたわけではないことを表している。国体論者は、天皇の存在や主権は歴史において普遍的であるというが、それは史実に合わない。歴史の様々な時代に存在した天皇や主権の意味を、国体論でいうところの天皇や主権の意味にすりかえて、そのすりかえられた天皇と主権を過去の歴史にさかのぼらせるアナクロニズムの歴史認識の手法でしかない。天皇がどのような地位にいたのか、どのような主権を有していたのか。この問題は、日本史の発展の個々の段階において具体的に捉えねばならない。北はこのように論じて、万世一系の天皇が日本の国家を一貫して統治してきたと主張する国体論を批判します。
 では、日本の国体や天皇の存在は、実際にはどのようなものだったのでしょうか。北は、次のように言います。日本の国体は、万古不易ではない。日本の古代においては、天皇は家長・君主として日本全体を統治していた。しかし、中世の貴族時代に入って、複数の家長・君主がそれぞれ統治者として振る舞うようになった。そして、現代は、天皇は国民も一緒になって全体としての国家の維持・発展のために行動する「機関」となり、天皇と国民が全体として国家を統治する公民国家の時代である。天皇は、国家機関の一部分である。国民もまた同じである。天皇は、国民が持たない大きな特権を有しているだけである。従って、天皇は君主・国王のように国土と人民を所有しているわけではない。国民もまた、天皇の所有物ではない。国民は、国家の国民である。このように特権を持った天皇と国民が国家を組織する。天皇は、国家のために、国家の統治権を行使する最高機関である。これが明治憲法の国体の内容であり、国体論者が言うような天皇を神として崇拝する国家ではない。社会主義は、この明治憲法の国体の内容や天皇の地位を否定するものではない。国王や君主が独裁者として君臨し、国家と人民の財産を一人占めする国家のあり方を否定するのが社会主義である。その財産を国家に帰属させ、国家の生存進化のために使う国家へと変革するための思想が社会主義である。従って、明治憲法の国体は、国王や君主による独裁国家ではないので、社会主義は明治憲法の国体とは矛盾しない。北はこのように主張しました。
 ようするに北が主張した明治憲法の国体論は、主権は国家にあるという意味での国家主権論であり、天皇は国家の最高機関として、この主権を行使する地位にあるという意味での天皇機関説です。つまり、明治憲法において「申し合わせ」として認められた考えです。北は明治憲法の国体論、天皇の地位を前提にしますが、天皇を宗教・道徳の最高権威として扱う国体論、天皇への服従を求める崇拝思想を否定しようとしたわけです。天皇崇拝が続いている限り、天皇は道徳的権威であり、絶対的主体です。そうすると、国民は絶対的な客体にとどまり、そのエネルギーを主体的に行使することはできません。確かに、国民のエネルギーは官僚になるなどして立身出世して政治機構を通じて行使できますが、それは天皇主権を上から行使するだけで、国民の大多数は政治の世界においても客体でしかありません。北は、このような状況を変革して、天皇と国民が協力して国家を担う国家体制を実現しなければならない、そのためには経済的な側面での社会主義を実現しなければならないと主張したのです。
 しかし、北の主張は注目されましたが、支持されませんでした。反対に、天皇の権威を失墜させる危険思想として監視されました。時代はすでに、天皇を国家主権の行使機関としてではなく、宗教的・道徳的権威として、神として崇拝する事態に入っていたようです。世俗的な世界における政治的権威と宗教・道徳の世界における精神的権威とを二分すべきとする考えの必要性は、森鴎外の「かのように」のなかでも触れられています。たとえ天皇が世俗の社会において政治権力と精神的権威を掌握していても、二つの権威はあたかも別の次元にあるかのように理解することが必要だと述べられていますが。しかし、時機を失したような感じがします。それをが北がこの考えを、1900年代の初めころではなく、それより20年前の憲法制定の頃にされた時期に主張していたならば、日本の現代史は違った方向に向かったかもしれません。鴎外は、日本が歩みえた「もうひとつの道」を回顧しながら、「かのように」を書いたのではないかと思います。

(6)吉野作造の民本主義
 吉野作造もまた国家の現実が明治憲法を十分に実現せず、国体論が横行していることをはっきりと指摘し、この現実を憲法の完全実施にむかって改革することを主張しました。目の前では、経済の財閥と政治の官僚・軍人が政治を食い物にしています。腐敗した、堕落した、汚れた政治が行われています。その横では、多くの国民が社会の根底からエネルギーを発揮し始め、官僚・軍閥政治との間に緊張関係が生じています。吉野は、この緊張関係を欧米の政治革命の方法ではなく、立憲政治の徹底化、明治憲法の完全実施の方法で解決しようとします。これを達成するための理論が民本主義です。北一輝の超国家主義とは内容的に異なりますが、明治憲法の国家システムと天皇の地位を重視するところに共通性があります。
 吉野は、憲法にもとづく政治、立憲政治は憲法に形式的に従うだけの政治にとどまらず、より実質的に憲法の精神を実現する政治でなければならないといいます。憲法の精神とは、人民の権利の保障、三権分立の原則、民選議員制度の3つの制度です。近代社会の目的は何か。それは人民の、国民の権利を保障することです。そのために国家が作られたわけです。従って、国家は人民の権利保障のために憲法や法律を作り、それをしっかりと運営していく必要があります。法律を制定するのが立法府、議会であり、それを執行するのが行政府です。議会が人民の権利保障のための法律を制定していないとか、また制定したとしても、政府がその法律にもどついて政治を行わないならば、議会も政府も存在する意味はありません。従って、議会と政府をチェックする第三者機関が必要になります。この役割を担うのが司法、裁判所です。このような国家の統治原則が三権分立です。これを本当に実現するためには、人民、国民のことをよく理解している人で議会を構成し、法律を作ることが肝心です。貴族だけで議会を運営していてはだめです。庶民の7代表が政治家として、議員として議会に進出する必要があります。これが民選議員制度です。これらの政治制度は、一般に国王や君主のいない共和制の民主主義国家において実現されていますが、吉野の民本主義は民主主義とは異なります。民主主義の国では主権は国民にありますが、日本では主権を持っているのは天皇です。ただし、民本主義は主権が天皇にあるからといって、君主による独裁政治が正当化されるわけではありません。重要なのは、天皇の主権の運用の目的や対象が人民、国民であるということです。その意味で、民主主義に比べると妥協的で中途半端な感じがしますが、吉野は天皇を主権者とする日本においても、人民の権利を保障する三権分立の政治制度、民選議員制度は可能であると考えていたようです。
 吉野が民本主義を主張した時代は、まだ白樺派の「新しき村」の運動も、日本共産党の社会主義運動も行われる前でした。日本には、欧米の思想が入ってきていましたが、国体論と一致しないものは、厳しい取り締まりの対象とされていました。それは社会主義だけでなく、民主主義の思想も同じでした。国民の多くは、小学校教育のなかで天皇を宗教的・道徳的な権威として教え込まれ、精神生活の基本において、天皇を信奉することを受け入れていましたので、国体論にそぐわないと判断された主義・思想を一般の国民が支持するというのはありえないことでした。従って、このような時代だからこそ、民衆の心をつかみ、民衆を動かすためには、民衆が支持する天皇の主権を認め、それを軸にしながら、明治憲法のシステムを立て直し、政党政治を国民のものにすることが必要であると考えられたのです。吉野の民本主義の主張は、明治憲法の3つの精神をするために、憲法の擁護・完全実施と普通選挙制度の実現という二つの理論において具体化されました。明治憲法を作った伊東博文がなくなったあとは、大臣、枢密院、貴族院は財閥と官僚の牙城となってしまいましたが、それでも憲法上は天皇が主権者であり、内閣と官僚機構がそれを翼賛し、輔弼する制度は変わってはいないので、なんとかして内閣を政治の中心にして、憲法通りの政治を行うことが目指されました。それと同時に、内閣は政党と議員によって構成されているので、民衆の代表である議員を選出するために、普通選挙制度の実施と民選議員制度が目指されました。民選議院である衆議院を中心にして、責任ある内閣制度を作り、それを妨害する軍部、枢密院、貴族院を改革することが重視されていました。とくに軍部が政府から独立して統帥権を保持している状態の改革は重大な課題でした。軍部は、独自の情報機関を持ち、外務省とは別に外交を行い、二重外交を行っている。経済や産業にも口を出している。科学や学問の内容にまで介入している。このようなことを止めさせるためにも、天皇の主権を輔弼する内閣の機能を強化して、それを民選議員によって支えることが主張されたのです。
 吉野の民本主義は、新聞、言論界や国民の支持を受けました。このような事情を背景にしながら、政党内閣と普通選挙権が実現しました。普通選挙制度は、まだ様々な制限があったとはいえ、一般の国民の意見を政治に反映する一つのきっかけを作りました。その改革によって、天皇は民選議院である衆議院と政党内閣に支えられ、明治維新以来の国家は、上からの管理・統制によってではなく、国民の主体的なエネルギーと政治参加によって支えられるようになりました。天皇は「国民の天皇」になり、日本は「国民の日本」になったと受け止められました。後に首相となり、1932年3月15日の事件で軍部によって暗殺された犬養毅が行った1920年当時の演説は、この時期の模様を端的に表しています。普通選挙制度が導入される前の演説ですが、そのなかで政党政治と政党内閣の必要性と現実可能性が強調されています。軍閥、藩閥、官僚といった明治憲法のシステムを壊し、政治の腐敗の温床になっていた集団は今日つぶれている。非常に大きな力を持っていたが、そのような集団は今どこにあるだろうか。軍人が政治に口出ししているだろうか。軍人は今では純粋な軍人になっているではないか。官僚は首領がいないため、統一されないため実体はないではないか。今あるのは政党だけである。政党が政治の中心にいる。犬養は、このように述べていました。原首相もまた、同じように軍部に対して批判的な見解を述べていました。明治天皇の時代は、皇室中心で、政治の全ての権限が天皇にあることが主張されていたが、大正天皇の時代になって状況は変わってきている。政治に責任を持って国政にあたっているのは政党である。そうでなければ皇室に悪い影響が及ぶ。それにもかかわらず軍部の参謀は、天皇に直属しているという理由で、あたかも自分たちが政府の外にあるかのように考え、天皇の統帥権ということを言っているが、それは間違っている。このような勢力を一掃するのが国家のため、皇室のためである。原首相もこのように述べて、軍部の台頭を抑え、政党政治と政党内閣を中心にして政府を運営すべきことを論じていました。大蔵大臣の高橋是清もまた、軍国主義の普及をやめさせるために、軍の参謀本部と文部省の廃止を訴えていました。しかし、犬養、原、高橋はその後どのような運命をたどったでしょうか。犬養は、いなくなったはずの軍閥によって1932年5月15日に暗殺されました。原も、高橋もそれを追うように、1936年2月26日に暗殺されました。
 吉野の民本主義は実現されませんでした。それは何故でしょうか。「天皇の国民」、「天皇の日本」という考えを変革して、「国民の天皇」、「国民の日本」を実現できなかったのは何故でしょうか。明治憲法の国家システムの通り日本を実現できなかったのは何故でしょうか。次回は、この問題を考えたいと思います。テキストの160頁から170頁までを読んできて下さい。