Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

刑法による過去の清算と法の復権(1)

2023-03-23 | 旅行
 刑法による過去の清算と法の復権
 本田 稔


 一 アウシュヴィッツ裁判後の過去の清算
 二 フリードリヒ・エンゲル事件--『コリーニ事件』は告発する
 三 ナチス犯罪の公訴時効論争と秩序違反法施行法の制定
 四 戦前と戦後の「間」――歴史の時計はリセットされなかった
 五 「1968年」--激動の時代の陥穽
 六 永続する過去の清算--どこに向かうのか?


 一 アウシュヴィッツ裁判後の過去の清算
 それは1通の告発状から始まった。アウシュヴィッツ強制収容所におけるユダヤ人の大量殺人を実行犯の実名入りで告発した手紙が、ヘッセン州検事局に送られた。告発状はすぐに検事長フリッツ・バウアーのもとに転送され、告発内容の信憑性が検討された。第二次世界大戦中、ポーランドのアウシュヴィッツ(ポーランド正式名オシフィエンチム )で何があったのか。検事長を中心に調査と捜査の体制が整えられ、アウシュヴィッツ強制収容所元所長ロベルト・ムルカら24名の被疑者のうち、23名が謀殺罪の共同正犯などの罪でフランクフルト州裁判所に起訴され、1963年12月20日、その第1回公判が行われた。ここにフランクフルト・アウシュビッツ裁判が始まった。
 被告人の数と弁護団の規模などから、市街中心地にある州裁判所の建物では手狭であることは明らかであった。国内外の生存者、歴史家・研究者、ジャーナリストだけでなく、外国の新聞記者やテレビの報道関係者なども裁判を傍聴することが予想された。そのため、市内のガルラス市民会館のホールを陪審法廷として改装して、そこで裁判が行われ、筆舌に尽くし難い過去の不法と野蛮が現代に呼び戻された。それは決して時間の経過とともに過ぎ去り、消失する事実ではなかった。歴史の時計は1945年5月8日にリセットされなかった。歴史の過去は、今なお現存していた1)。
 被告人らが行った行為が刑法の何罪の構成要件に該当するのか、行為時に被告人らに責任能力があったのか、それ以外の適法な行為を選択することが期待可能であったのか。不法を裁くために用いられたのは、刑罰権の濫用および恣意的行使を制約する法治国家の刑法原理と刑法学説であった。1965年8月10日 、フランクフルト州裁判所は、被告人らの行為は謀殺罪の幇助(共同幇助)にあたると認定した。謀殺罪の正犯は、ユダヤ人問題の最終的解決を協議、立案、計画し、その実行を命令したヒトラーを最高責任者とするナチ党の幹部であり(すでにニュルンベルク国際軍事裁判で審理済み)、強制収容所で勤務し、直接の実務的作業に従事した被告人らは、その幇助犯と認定された。ムルカら被告人は、アウシュヴィッツ強制収容所の設置目的、政策課題、自身の任務を了解していた。ヒトラーら謀殺罪の正犯の心情と動機を理解していた。ユダヤ人をガス室に閉じ込め、ガス噴射のスイッチを押した自身の行為からユダヤ人収容者が絶命することを承知していた。バウアーは被告人らを謀殺罪の共同正犯として起訴したが、たとえ幇助犯(正犯の故意のある幇助的道具)であっても、ドイツの裁判所がアウシュヴィッツの過去を裁いたことの意義は小さいものではなかった。審理の対象は、直接的には被告人らの個々の行為であったが、それによって第三帝国の歴史の事実を浮き彫りにし、ユダヤ人問題の最終的解決という党綱領の実像を明らかにできたからである。ただし、被告人らを「正犯の故意ある幇助的道具」とした裁判所の認定は、その後行われた同種の裁判を意外な方向へと転回させることになった。
 アウシュヴィッツ裁判の過程において、検事長のフリッツ・バウアーは、助手の検事に指示を出して、次なる裁判を準備した。被疑者は、障害者などに対する安楽死作戦を計画・立案・遂行した専門家たちであった。その中心には、1931年10月以来、司法大臣フランツ・ギュルトナーのもとで事務次官を務め、1941年1月にギュルトナーが死去した後、その後任として司法大臣代行となったフランツ・シュレーゲルベルガーがいた。シュレーゲルベルガーは、1947年、占領下のニュルンベルク国際軍事裁判の継続として行われた法律家裁判において、戦争犯罪、平和に対する犯罪、人道に対する犯罪を理由に終身刑を言い渡された(健康状態ゆえに受刑能力なしを理由に1951年に仮釈放)。バウアーは、安楽死作戦はそれらの罪とは別個のものであるとして、謀殺罪の幇助犯に該当するとして起訴した。しかし、裁判所は、シュレーゲルベルガーの行為はすでに法律家裁判において審理済みであるとして、一事不再理を理由に手続を打切った。法律家裁判は、ニュルンベルクで行われたとはいえ、ニュルンベルク国際軍事裁判所規程に基づいて、占領国であるアメリカ合衆国の軍政府によって行われた外国の裁判である。第三帝国の不法国家を司法省において支え、不法に奉仕した最高級の官僚法曹の責任は、戦後ドイツにおいて問われなかった。また、他の被告人らにも、別の理由から同様の措置が講じられた。謀殺罪の幇助犯のうち身分のない者の刑を必要的に減軽する1968年10月1日施行の秩序違反法施行法に伴う刑法の一部改正によって、その公訴時効は1960年5月8日(正確には5月9日零時)に完成していたことになり、手続が打切られた。ハノーファー大学の政治学者ヨアヒム・ペレルスは、この公訴時効完成のトリックを「恩赦のための裏口」と酷評した2)。


 二 フリードリヒ・エンゲル事件--『コリーニ事件』は告発する
 1944年5月14日、イタリアのジェノバにあるドイツ軍専用の映画館「オデオン」でヴィリー・ビンゲル主演の映画「叛逆者」が上映された。上映開始直後、イタリアの反ファシズム・パルチザンが観覧席に秘密裡に設置した爆発物が爆発し、少なくとも5人のドイツ兵が死亡し、15人が重傷を負った。「オデオン」の暗殺事件から5日後の5月19日、ドイツ海軍の実行部隊が報復措置として、人質として取ったイタリア人捕虜59名をジェノバ近郊のトゥルキーノ峠で射殺した。この措置を命じた人物が2002年5月にハンブルク州裁判所に謀殺罪で起訴された。それがフリードリヒ・エンゲルである。
 フリードリヒ・エンゲルは、1909年1月3日にヴァルナウの学校教師の家庭に生まれ、商学を学んだ後、キール大学で体育学、歴史学、ドイツ語学、哲学を学び、文献学で学位を取得した勤勉な学生であった。その一方で、ナチ党キール大学学生細胞の指導的活動家でもあった。1936年に親衛隊に入隊し、国家保安本部で勤務し、1940年にはノルウェーに配属され、1943年からはイタリア・ジェノバの保安警察および国家保安本部司令官として勤務した。1995年にイタリアのトゥーリン軍事裁判所の軍検事局がエンゲルを捜査し、彼がジェノバ勤務中に246人のイタリア人パルチザンと民間人の殺害に関与していたとして、彼をトゥーリン軍事裁判所に起訴した。裁判所は、1999年11月15日、59人を射殺した事実を認め、戦争犯罪としての謀殺罪の成立を認定して、被告人不在のまま終身刑を言い渡した。イタリアはドイツに対してエンゲルの引き渡しを求めたが、ドイツは基本法16条2項(引渡禁止条項)を理由にこれを拒んだ(この条項は2000年11月29日に改正され、引渡しが可能になった)。しかし、エンゲルの行為はドイツの裁判所の手続にまだかけられていなかったので、ハンブルク検事局はすでに1998年9月から捜査を開始し、2000年には謀殺罪の嫌疑での捜査を進めていた。そして、トゥルキーノ峠の事件から58年が経過した2002年5月7日、93歳のエンゲルをハンブルク州裁判所に起訴した。
 ハンブルク州裁判所は、2002年7月5日、トゥルキーノ峠の射殺については、59名のイタリア人を射殺した事実は明白であり、さらにその残虐性の点につき、エンゲルが明らかに非情で冷酷な心情に基づいていたこと、被害者に精神面での苦痛を負わせ、その苦痛の程度も、それを負わせた時間的長さも、殺害に要する程度を超えていたことを踏まえ、殺害方法の残虐性を認め、エンゲルもまたその認識があったとして、謀殺罪の正犯の成立を認めた。ただし、科されたのは法定刑として唯一定められた終身刑ではなく、それが減軽された7年の自由刑であった。
 ハンブルク州裁判所は、1993年にベルリン州裁判所がエーリヒ・ミールケに言い渡した6年の自由刑の判断を連邦通常裁判所が是認した1996年10月10日の判例に基づいてエンゲルの行為の量刑を判断した。ミールケ(1907-2000年)は、1921年にドイツ共産主義青年同盟に加盟し、1925年にドイツ共産党に入党し、「赤旗」の記者として活動した。1931年にベルリンのビューロー広場で2人の警察官を謀殺し、1人の警察官に重傷を負わせ、ベルギーに逃亡後、ソ連に亡命した。敗戦後のドイツに帰国後、1949年のドイツ民主共和国の建国と同時に設立された国家保安省(シュタージ)の事務次官を務め、1957年に同長官に就任した。ベルリンの壁崩壊と東西ドイツの統一後にビューロー事件で起訴され、1993年10月26日、ベルリン州裁判所は、2名の警察官に対する謀殺罪と1名の警察官に対する謀殺未遂罪の成立を認め、刑法49条1項1号を適用して、6年の自由刑を言い渡した。ハンブルク州裁判所は、このベルリン州裁判所の判決を是認した連邦通常裁判所の判断を判例として位置づけ、エンゲルに7年の自由刑を言い渡した。ミールケ事件は1931年に行われ、それが裁かれたのが、行為から62年が経過した1993年であった。ハンブルク州裁判所は、行為から裁判までの間に長期の年月が経過した点にミールケ事件とエンゲル事件の共通性があることを理由に連邦通常裁判所の判断を判例として適用したのである。ハンブルク州裁判所は、責任と刑罰の比例原則は「どのような個別的事案においても」考慮されねばならないと強調して、第三帝国の国家保安本部司令官エンゲルに科されるべき刑もイタリア人の射殺命令に比例したものでなければならないと述べて、事件から58年の年月が経過していることを踏まえて、次のように述べた。
 「ベルリン州裁判所で審理されたミールケ事件の場合と同様に、犯行と裁判の間には相当長く、また想像し難いほどの時間の経過がある。本法廷において判断を言い渡すべき事案については、刑事訴追機関(ここではとくにイタリアの刑事訴追機関)が、被告人に罪責を負わせる資料が存在していたにもかかわらず――もっともミールケ事件については東独の時代に刑事訴追することは不可能であったのだが――、また1947年以降はいつでも捜査を行うことができたはずであったにもかかわらず、およそ50年も活動を起こさなかったという点を付け加えることができる。この捜査がなぜおよそ50年も行われなかったかについて、確信をもって確認することはできなかった。しかし、おそらくそれは承知の上でのことなのではないかと考えざるをえない。国家刑罰請求権の消滅の思想は、このようなことを想定していなかったわけではない。いずれにせよ、裁判所は、たとえ犯行から時間が経過した点に着目しようとも、刑法211条にそれ自体として定められている終身刑を言い渡さなければならないというならば、それは耐え難いと感じざるを得ない」。
 ハンブルク州裁判所は、犯行から時間が経過したにもかかわらず、法律が定めた刑しか言い渡してはならないなら、それは「耐え難い」と述べた。刑法は犯罪と刑罰を定める法律である。その法の要件を満たし、犯罪にあたることが認定された以上、刑法によって定められた刑罰を科さなければならない。たとえ「耐え難い」と感じられようとも、法律に忠実であることが裁判官の責務である。戦後のドイツ司法は、法律実証主義の形式論理がナチの法律に対する抵抗力を裁判官から奪い去ったと指弾したグスタフ・ラートブルフのテーゼを羅針盤にして、ナチスの悪しき法律実証主義を超えることを課題として追求してきた。ハンブルク州裁判所は、そのテーゼの論理を持ち出して、あろうことかナチの謀殺犯に刑法49条1項1号を適用して、7年の自由刑を言い渡した。この判決に対して、弁護人は破棄・無罪を主張して上告し、検察官は破棄・終身刑を主張して上告した。2004年6月17日、連邦通常裁判所は、エンゲルが謀殺罪の主観的要件である「残虐性」を備えていたことをハンブルク州裁判所が十分に審理していないことを理由に、上告を破棄し、エンゲルの年齢と行為時から年月が経過ことを理由に刑事訴訟法349条4項に基づいて手続を打切った3)。
 弁護士で作家のフェルディナント・フォン・シーラッハは、エンゲル事件を素材にして『コリーニ事件』を書き、そこにフリードリヒ・エンゲルに替えて親衛隊大隊指導者のハンス・マイヤーを登場させた。1944年5月16日、イタリアのパルチザンはジェノバを占領するドイツ軍と兵士に対して爆弾戦を敢行し、多数の死傷者を出した。ジェノバのドイツ国家保安本部は直ちに「断固たる措置」をとることを決定し、見せしめとして収容所の20人の収容者を射殺した。その命令を下したのがハンス・マイヤーであった。ただし、物語ではマイヤーはエンゲルとは異なり、謀殺罪の正犯ではなく、その幇助犯として、下劣な動機や残虐性などの謀殺罪の身分のない幇助犯として扱われている。しかも、射殺された父親の仇をとる被告人コリーニによって謀殺された被害者として描かれている。マイヤーの謀殺罪の幇助の公訴時効は、秩序違反法施行法による刑法50条改正によって1960年5月8日に完成したことになったため、すでに捜査が打切られていたことが検察官から報告され、それを聞かされたコリーニは判決公判の前日に自殺を図った。裁判官は、判決公判の法廷において、被告人不在を理由に裁判の打切りを宣言した4)。


 三 ナチス犯罪の公訴時効論争と法秩序違反法施行法の制定
 ナチスの崩壊と第二次世界大戦の終結によって、第三帝国の時代の数々の不法が明らかにされ、法による裁きにかけられるようになった。それらは米・英・仏・ソの連合国による占領下において、戦争犯罪、平和に対する罪、人道に対する罪として、連合国の管理委員会が定めた管理委員会法やニュルンベルク国際軍事裁判所規程などに基づいて裁かれた。占領状態が解消され、ドイツ連邦共和国とドイツ民主共和国が建国されて以降、ドイツ連邦共和国は戦前までのドイツの継承国として、過去を清算するために1871年刑法を適用した5)。
 第三帝国の時代に人種憎悪から行われたユダヤ人殺害や優生思想から行われた障害者の安楽死は、謀殺罪に該当する。その他の殺人は、故殺罪に該当する。両罪は、人命の侵害の惹起という外部的・客観的側面の点において共通しているが、それを行った行為者の動機・目的、方法・態様という内心的・主観的事情の点において異なる。人間の行為が主観・客観の一体不可分な現象であることを考えると、両罪は本質的に異質な犯罪類型であり、共通性はない。人は誰でも状況や機会によっては他人に害を加え、ときにその生命をも奪ってしまうことがある。故殺罪とはそのような殺人罪である。それゆえ故殺罪は、不真正身分犯である。これに対して謀殺罪は、謀殺者(Mörder)という特殊的な人間類型にあたる者だけが行う殺人である。それゆえ謀殺罪は、身分犯ではない。謀殺罪の法定刑は終身刑であり、その公訴時効は20年であり、故殺罪の法定刑は15年以下の自由刑であり、その公訴時効は15年である。正犯が謀殺罪の身分を有していることを知りながらそれを援助するなどした場合、謀殺罪の幇助犯が成立するが、その処断刑は謀殺罪の法定刑である終身刑であるため、その公訴時効も謀殺罪の正犯と同じ20年とされてきた。
 公訴時効の起算点は、まずは第二次世界大戦が終結した1945年5月8日とされた。そのため、故殺罪の公訴時効は1960年5月8日に完成することとされた。しかし、故殺罪の公訴時効の完成を前に、ドイツ連邦議会において社会民主党からナチ犯罪の追及がまだ十分ではなく、公訴時効の完成を延長すべきとする提案が出された。これに対しては、キリスト教民主同盟などから反対され、それは被疑者・被告人に不利な刑罰権の行使を認める罪刑法定主義違反の措置であり、またナチ犯罪の被疑者の公訴時効だけを延長するならば、それは法の前での平等に反するとして斥けられた(第一次公訴時効論争)。次いで、謀殺罪の公訴時効が完成する1965年5月を前に社会民主党が、犯罪に対して行使される刑罰権は一般にドイツ連邦共和国の刑罰権であり、それは建国によって確立したものであるから、公訴時効の起算点はアデナウアーが連邦共和国建国の翌年の1950年1月1日とし、それが完成するのは1969年12月31日とすべきであると提案し、それが議会で承認された(第二次公訴時効論争)。しかし、そのように公訴時効の起算点をずらしても、謀殺罪やその幇助犯の公訴時効は1969年12月に完成することは避けられなかったため、謀殺罪の公訴時効を30年とする刑法改正が行われ、それによって10年延長することが認められた(第三次公訴時効論争)。さらに、10年後の1979年には謀殺罪の公訴時効そのものが廃止された(第四次公訴時効論争)6)。
 ドイツ刑法は1871年に制定され、100年を迎えようとしていた。国内外の社会情勢の推移、犯罪と刑罰をめぐる国民感情の変化などを背景に刑法改正作業が進められ、1962年に刑法改正政府草案が作成された7)。そこでは謀殺罪と故殺罪の規定はそのままであったが、政府草案の身分犯の共犯に関する33条に、不真正身分犯のみならず、真正身分犯に関しても共犯の規定が設けられ、真正身分犯の共犯のうち、身分のない共犯の刑を必要的に減軽する一般規定が設けられた(刑法〔現〕28条と同じ)。つまり、刑法〔旧〕50条には、謀殺罪のような真正身分犯に関与した共犯のうち、下劣な動機や残虐性などの身分のない者の刑を減軽する規定がなかったために、それも謀殺罪の法定刑である終身刑で処断されざるをえなかったが、刑法改正案は身分のない共犯の刑を減軽し、15年以下の自由刑で処断するとした。ただし、共犯の公訴時効については、身分の有無にかかわらず、真正身分犯の正犯の法定刑を基準にして算定するとした。したがって、謀殺罪の幇助犯のうち身分のないものであっても、その公訴時効は正犯と同じ20年である。刑法改正草案が作成された1960年代には、それとは別に秩序違反法施行法の制定作業が進められていた。それらを一括して担っていたのが、エドゥアルト・ドレーアーである。

1)ヘッセン州検事長フリッツ・バウアーが進めたアウシュヴィッツ裁判については、Vgl. Irmtrud Wojak, Fritz Bauer und die Aufarbeitung der NS-Verbrechen nach 1945, Blickpunkt Hessen Nr. 2/2003.(その邦訳は、イルムトゥルード・ヴォヤーク〔本田稔・朴普錫共訳〕「フリッツ・バウアーと1945年以降のナチ犯罪の克服」立命館法学337号〔2011年〕559頁以下参照); Ronen Steinke, Fritz Bauer oder Auscheitz vor Gericht, 1. Auflage, 2015.(その邦訳は、ローネン・シュタインケ〔本田稔訳〕『フリッツ・バウアー アイヒマンを追いつめた検事長』〔2017年〕; Helmut Ortner, Keine Stunde Null - Warum NS-Juristen in Deutschland straffrei ausgingen und all damit einverstanden waren.(ヘルムート・オルトナー〔本田稔訳〕「時間はリセットされなかった--ドイツでナチの法律家が罪を問われないまま出発でき、多くの人々がそれに理解を示した理由』龍谷法学51巻1号〔2018年〕787頁以下。なお、邦訳のもとの論文は、2017年12月17日、刑事司法及び少年司法に関する教育・学術研究推進センター主催第5回講演会「司法の戦後責任--ドイツと日本の比較」のオルトナー講演「現存する過去、記憶する義務」にオルトナー氏自身が加筆したものであるため、ドイツの学術誌などには掲載されていない)。拙稿「過去の克服とフリッツ・バウアー」立命館法学369=370号(2016年)607頁以下、拙稿「法と正義の狭間に立つアウシュビッツ裁判」季刊・戦争責任研究90号(2018年)93頁以下、拙稿「甦る法律家フリッツ・バウアー--ナチの過去の克服をめぐる近年のドイツの法事情」法の科学49号(2018年)161頁以下、拙稿「フリッツ・バウアーとアウシュヴィッツ裁判--『刑法による過去の克服』が提起する理論的課題」立命館法学387=388号(2020年)339頁以下参照。
2)フリッツ・バウアーがアウシュヴィッツ裁判後に計画した裁判については、Vgl. Michael Förster, Jurist im Dienst des Unrechts - Leben und Werk des ehemaligen Staatssekretärs im Reichsjustizministerium, Franz Schlegelberger(1876-1970), 1995., ders, Rechtsschütz für Behinderte im Dritten Reich? - Wie die führenden Köpfe der Justiz den Massenmord an den Behinderten decken, in: Hanno Loewyn/ Bettina Winter (Hrsg.), NS- >>Euthanasie<< vor Gericht - Fritz Bauer und die Grenzen juristischer Bewaltigung, 1996, S. 59 ff.; Joachim Perels, Der Mythos von der Vergangenheitsbewältigung - Die rechtliche Aufarbeitung von Hitlers Verbrechen ist überwiegend gescheitert oder folgte sogar der Logik des NS-Rechts, in: Fritz Bauer Institut Newsletter Nr. 28 2006, S. 17 ff,; Michael Greve, Amnestie von NS-Gehilfen - Die Novellierung des $ 50 Abs. 2 StGB und desssen Auswirkung auf die NS-Strafverfolgung, in: Einsicht 04 Bulletin des Fritz Bauer Instituts Herbst 2010, S. 54 ff.ペレルス論文とグレーヴェ論文の邦訳として、本田稔訳「刑法によるナチの過去の克服に関する3つの論考--ヨアヒム・ペレルス、ミヒャエル・グレーヴェ、トム・セゲフ」立命館法学379号(2018年)308頁以下参照。
3)フリードリヒ・エンゲルとその事件については、Vgl. Ingo von Münch, Geschichte vor Gericht - Der Fall Engel, 2004.エンゲル事件のハンブルク州裁判所の判決要旨は、Münch, a.a.O., S. 116 ff., その連邦通常裁判所2004年6月17日判決は、BGHSt 49, 189. エーリヒ・ミールケについては、Vgl. Klaus Bastlein, Der Fall Mielke - Die Ermittlungen gegen den Minister für Staatssicherheit der DDR, 2002.ハンブルク州裁判所が参照したビューロー広場事件のベルリン憲法裁判所1993年12月2日判決は、NJW 1994, Heft 7, S. 436 ff., その連邦通常裁判所1995年3月10日判決は、NStZ 1995, Heft 8, S. 394 ff., 連邦通常裁判所が参照したカイアッツォ事件の連邦通常裁判所1995年3月1日判決は、NJW 1995, Heft 19, S. 1297 ff.
4)フェルディナント・フォン・シーラッハ(酒寄進一訳)『コリーニ事件』(2017年)の訳者あとがき(195頁以下)参照。また、松竹株式会社配給の映画「コリーニ事件」(マルコ・クロイツパイントナー監督)の紹介は、拙稿「映画『コリーニ事件』が問いかけるもの」立命館ロー・ニューズレター89号(2020年9月)16頁以下参照。
5)ニュルンベルク国際軍事裁判と継続裁判については、Vgl. Klaus Kastner, "Der Dolch des Mörders war unter der Robe des Juristen verborgen" Der Nürnberger Juristenprozeß des Jahren 1947, in: Journal der Juristischen Zeitgeschichte, Jahrgang 1 Heft 3, 2007, S. 81 ff.(その邦訳は、クラウス・カストナー〔本田稔訳〕「謀殺者の短剣は法律家の法服の下に隠されていた--1947年ニュルンベルク法律家裁判」立命館法学325号〔2009年〕63頁以下参照); Klaus Bästlein, Der Nürnberger Juristenprozeß und seine Rezeption in Deutschland, in: Lore Maria Peschel-Gutzeit (Hrsg.), Das Nürnberger Juristen-Urteil von 1947, S. 9 ff.(その邦訳は、クラウス・ベストライン〔本田稔訳〕「ニュルンベルク法律家裁判とドイツにおけるその継承」立命館法学329号〔2010年〕350頁以下参照)。拙稿「ナチスの法律家とその過去の克服--1947年ニュルンベルク法律家裁判の意義」立命館法学327=328号(2010年)795頁以下参照。