Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

藤原保信『自由主義の再検討』ノート(11)

2020-12-13 | 日記
 現代の人権(第11回)
 藤原保信(ふじわら やすのぶ)『自由主義の再検討』(岩波新書・1993年)ノート

第Ⅲ章 自由主義のどこに問題があるか
 自由主義のどこに問題があるか。第3章は、このような表題になっています。これまで、藤原さんは、古代ギリシアの古典的世界から中世キリスト教世界を経て、イギリスやフランスなどの近代の市民社会へとつながる哲学・社会思想を振り返ってきました。しかもこの問いは、社会主義の思想によって投げかけられてきた問いでもあります。
 社会主義の思想は、自由主義の問題を指摘し、その根源にある要因を解明し、そして新たな経済社会を探究するために、社会主義の思想を身につけた組織と集団が様々な取り組みを行ってきました。自由主義の問題は、この社会主義を実現する運動によって解明され、克服されると考えられてきました。しかし、その実践は残念ながら、現在までのところ「失敗」に終わったと言わざるを得ません。あくまでも「現在のところ」です。藤原さんは、社会主義の実践がそのような意味で「失敗」に終わった後に、なおも自由主義の問題がどこにあるのかと問題提起しています。しかも、藤原さんの問題提起は、自由主義の問題性に限定されていません。自由主義に問題を克服できると自己主張してきた社会主義の問題性にも目を向けています。とりわけ過去の歴史において実際に取り組まれた社会主義の運動、それによって成立した社会主義の体制をも批判の対象としています。社会主義の実践は、今のところ失敗に終わっていますが、その後においても、なおも自由主義の問題を解明しようとする藤原さんには、自由主義だけでなく、社会主義をも超える新たな理論を切り開こうとする姿勢がかいまみられます。
 いま述べたように、自由主義に内在する問題を指摘し、それを告発し、それに代わる主義・主張を体系化したのは、最初は社会主義の理論でした。したがって、自由主義のどこに問題があるのかという問いに対して一定の理論的解明と実践的取組を行ってきたのは、社会主義の理論であり、またその理論を身につけた組織・集団による革命運動でした。本書の冒頭に書かれているように、藤原さんが若い頃に読んだラスキの『ヨーロッパ自由主義の台頭』やカーの『西洋正解に対するソヴィエトの衝撃』では、自由主義の思想と現実が厳しく批判されていました。自由主義は、自らを普遍性の思想と定義していました。自由主義は、特定の国家や社会において成立した思想でもなく、またその思想を社会に定着させる政治的な取り組みは、特定の民族、人種、階級によって行われるものでもないと言われてきました。自由主義は、あらゆる国家、社会、に共通する普遍的な思想だというのです。それを社会制度へと活かす取り組みは、あらゆる民族、人種、階級を超えた人々、すなわち自由、平等で、かつ独立した近代的な人間によって担われるはずでした。そのような社会は、非合理な経済制度を改革し、人々に経済的な豊かさと幸福をもたらしてくれると期待されていました。ホッブスやロックの自然法思想も、スミスの国民経済学の理論も、またベンタムの功利主義の思想も、そのように主張していました。しかし、自由主義は、「実際には中産階級が政治的支配を握るためのイデオロギーにすぎなかった」。つまり、自由主義の「自由」は、国家、社会、民族、人種、階級を超えた普遍的な「自由」ではなかった。それは、中産階級、すなわち資本と生産手段を手に入れ、労働者を搾取・収奪する資本家による支配と統治のための自由でしかなかった。それが歴史の事実です。「それゆえ自由主義は、それ自身の没落を運命づけられており、やがて来るべき社会主義にとって代わるべきものであった」。藤原さんの若いころは、そのように考えられていたようです。自由主義、その経済的側面である資本主義経済と政治的側面である議会制民主主義は、社会主義的の計画経済とその計画を立案・執行する政府によってとって替えられると信じられていたようです。しかし、それは現実にはなりませんでした。なぜなのでしょうか。社会主義の実践が「失敗」に終わったのは、なぜでしょうか。自由主義を再検討する前に、また自由主義のどこに問題があるのかを考える前に、自由主義にとって代わるべき社会主義が「失敗」に終わった要因を明らかにし、その要因をも踏まえて自由主義を批判的に検討しなければ、社会主義の実践の二の舞に終わるだけでしょう。若き頃の藤原さんの社会主義神話は、あまりにも素朴で牧歌的であったといわなざるをえません。そのような神話をいかにすれば乗り越えることができるのでしょうか。藤原さんの問題提起は、私たちに向けられていると同時に、藤原さん自身にも向けられています。

 1社会主義の失敗
1後進国に起こった社会主義
 マルクスは、『経済学・哲学草稿』において人間疎外を論じ、その原因が市民社会にあること、それを克服するために共産主義の実現が必要であることを述べました。そして、そのために経済学研究に取り組みましたが、その対象は市場経済が発達し、労働者の賃労働が広く行われていたイギリスの経済社会でした。マルクスによる国民経済学批判は、従って資本主義の最も進んだ国の社会経済を対象にしたものであり、そこから導き出される社会主義革命もまた資本主義の最も進んだ国で起こりうるものとして考えられていました。資本主義的生産様式が支配的になっている社会において、その矛盾が最も集中しているのは、資本主義国のなかでも最も生産力と生産性が高い国です。生産力と生産性が高いということは、労働者が過酷な労働現場で働かされているということであり、その分だけ搾取と収奪が最も深刻であることを示しています。その矛盾のしわ寄せを最も受けて、苦しめられているのは、資本家によって支配されている労働者です。スミスの国民経済学の理論やベンタムの功利主義の思想は、資本主義の過酷な現実を隠蔽するものでしかありませんでした。それゆえ、労働者が搾取と収奪の過酷さを告発すると同時に、人間疎外を克服するために労働者としての自覚を強め、そのための組織を作り、運動を強化したのも、資本主義の最も進んだイギリスでした。マルクスがイギリスを経済学研究の対象としたのは、イギリスの資本主義がその当時最も発達し、かつイギリスの国民経済学がその過酷な現実を覆い隠していからであり、さらにはイギリスの労働者がそれを告発し、労働運動に取り組んでいたからです。マルクスの研究の立場は、常に労働者とともにあたっと言えます。
 しかしながら、社会主義革命、すなわち資本主義から社会主義への移は、マルクスが主張したように、高度に発達した資本主義国においては起こりませんでした。実際の社会主義は、まずは1917年に資本主義の発達の遅れたロシアにおいて起こり、それが第二次世界大戦を経て、同じく資本主義の遅れた東ヨーロッパの諸国、アジアにおいては中国、北朝鮮、ヴェトナム、そして北アメリカ大陸ではキューバなどにおいて起こりました。社会主義の現実は、マルクスの予測とは異なる経路をたどりましたが、それには理由があったようです。藤原さんは、第二次世界大戦後における占領や戦後処理の過程において、「上からの革命」が進められた事実を指摘しています。第二次世界大戦は、日本・ドイツ・イタリアのファシズム枢軸国とそれに対抗するアメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中華民国などの反ファシズム諸国の間で戦われ、反ファシズム諸国の勝利に終わりました。その後の戦後処理は、この5大国によって担われ、この5大国はその後設立された国際連合の安全保障理事会の常任理事国になります。しかし、戦争の終結は直ちに平和の到来をもたらしませんでした。とくにアメリカとソ連の間で「冷戦」(核兵器を使用した熱戦ではなく)が表面化し、アメリカは西側資本主義陣営を堅め、ソ連は東側社会主義陣営を固め、世界は戦前の対立関係とは異なる新たしい対立構造再に引き込まれました。このような戦後政治の基本構造のなかで、ソ連は社会主義陣営を確立・拡大するために東ヨーロッパの諸国に介入し、社会主義体制を構築するための「上からの革命」を手がけました。それは一方で強健的な方法で進められましたが、他方でそれを受け入れる素地がその国々にあったのも事実です。藤原さんは、東ヨーロッパの諸国はまだ近代化を達成しておらず、封建的な共同体が残存していたことが、社会主義への移行をスムーズにしたのではないかと言います。社会主義は、発達した資本主義から生まれ出るものであるはずでした。しかし、資本主義の発達が遅れた国において、つまり市民社会の形成と労働者階級の成長が遅れた国において起こりました。それはなぜだったのかというと、資本主義が発達していなかったということは、労働者労働者を支配・抑圧し、搾取・収奪する資本家階級もまた成熟しておらず、その支配体制も強固に確立していなかったということであり、そのため存している封建主義勢力を実力で排除し、それに代わる政治体制を構築しやすかったということであり、しかもそれを理論的に正当化するために「プロレタリア独裁」と称することができたということ、つまり封建主義から資本主義へ、さらに発達した資本主義から社会主義へと法則的かつ段階的に移行するというのではなく、発達した資本主義を経ることなく一気に社会主義体制を築けるかのような土壌があったということ、このような事情があったからだと思います。また、社会主義の理論と思想は、第1次世界大戦の終結を契機にロシアにおいて実践され、戦争による困窮や殺戮を克服していったという世界史的な事実もあり、それは第2次世界大戦後、社会主義を多くの人々に平和と繁栄の象徴として認識させたという事情もあったようです。マルクスが予測した科学的で法則的な道筋を辿らなかったとしても、多くの人々は社会主義に資本主義を乗り越えていく力、搾取と収奪を解決する道徳的な力を体感したのではないかと思います。
 しかも、発達した資本主義ではなく、資本主義の遅れた国においても社会主義革命の可能性があること、すなわち後進国革命の可能性については、すでにロシア革命が起こる前にそれなりに理論化されていました。それはマルクスの経済学理論の応用・発展でもありました。マルクスは、1国において資本主義が発達していけば、それが他の国にも波及し、その結果として諸国民を不可避的に世界市場網へと組み込み、資本主義が国際化せざるをえないこと、国際的な資本主義市場が形成されることを主張していました。資本主義が国際化するというのは、どのような意味でしょうか。国際的な資本主義市場が形成されると、各国の資本主義は、どのようになるのでしょうか。マルクスは、1国における資本主義の発達、つまり剰余価値の生産、資本家による労働者の搾取と収奪によって進められていくことを指摘しました。それは同時に、資本家間の競争の激化し、多くの資本家が1人の資本家によって追い込まれて廃業し、敗北した資本家が労働者へと転落していく過程でもありました。すなわち多くの資本家による資本主義的競争が激化した結果、1人の資本家への資本の集中、1人の資本家による資本の独占という新たな段階へと進み、資本主義は独占資本主義の段階へと移行します。この独占資本主義は、国内の経済だけでなく、外国の経済にも進出し、労働生産物の販売経路を拡大します。これが資本主義の国際化であり、国際的な資本主義市場の形成です。ロシアの革命家であるレーニンは、このような世界資本主義の運動を解明し、資本主義の遅れた国における社会主義革命の可能性を『帝国主義論』においてまとめました。
 レーニンによれば、帝国主義とは、その経済的な側面においては、独占段階に達した資本主義のことです。独占資本主義の段階においては、複数の資本家が所有していた資本と生産手段は、少数の資本家に集中し、独占されます。それと同時に、商品を生産する産業資本がそのための資金を銀行から調達するシステムが確立し、産業資本と金融資本が融合し、金融寡頭制が成立します。これは、いわゆる「財閥」であり、戦後の日本では戦後処理の過程において「財閥解体」が実行されましたが、それは「系列」という形をとって残っています。特定の金融資本(例えばイオン銀行)が、その系列の産業資本・民間企業(イオンモール)に融資し、自社製品の生産・販売を後押しし、その売り上げから利息を得るシステムと考えれば分かりやすいと思います。このような自由自在に資金調達をして、商品生産を行い、さらに技術革新によって労働生産性を向上させれば、短期間の内に大量の商品を生産することが可能になり、その分だけ多くの利潤を獲得できます。しかし、1国あたりの人口は急激には増えず、消費も極端に喚起できなければ、生産した商品は余り、それ以上生産しても過剰過剰になるだけです。資本主義が独占段階に達し、過剰なほど生産力が向上すると、国内ではインフレーションが起こりますが、それを解消するために外国にも販路を求めて商品を輸出し始めます。さらに、国内の労働者を搾取・収奪する一方で、さらに賃金水準の低い外国に資本を輸出し、その地で工場を建てて現地の人々を労働者として雇いいれ、搾取・収奪をして、利潤を求めます。この場合の外国は、資本主義の発達が遅れた国であることが多く、そこは商品生産のための原材料の供給地であり、やすい労働力を買い入れる労働市場でもあります。これがいわゆる植民地政策です。発達した資本主義国の資本家と資本主義の遅れた国の労働者との間で激しい対立が生じますが、それを弾圧・抑圧するために、発達した資本主義国の政府は軍隊を派遣し、そこを占領します。これがいわゆる侵略戦争です。侵略戦争は、発達した資本主義国の軍隊と資本主義の遅れた国の軍隊との間で戦われますが、資本主義の遅れた国に対して資本主義の発達した国が加勢し、発達した資本主義国間で戦争が激化することもあります。これがいわゆる帝国主義戦争です。
 このような帝国主義の時代状況は、マルクスの経済学において十分に予見できていませんでした。その時代における社会主義革命の可能性と道筋は、レーニンの研究に委ねられました。マルクスは、資本主義の経済の様々な矛盾は、発達した資本主義国、しかも1国の労働者や農民のところで最も深刻な形で現れ、それゆえ自国の資本かによる搾取と収奪の餌食にされた労働者の自覚的な運動こそが、資本主義を社会主義へと変革する原動力であると予見しました。これに対して、帝国主義の時代においては、資本主義の経済の様々な矛盾は1国内において激化しながら、同時に発達した資本主義国と資本主義の遅れた国との間でも激化します。帝国主義の時代において、多くの国は資本主義の経済システムを採用していますが、各国の間での資本主義経済の発展度合いは均等ではなく、不均等であるため、経済力に強い資本主義国の資本家と政府が、自国の経済力をさらに強化するために、経済力の弱い資本主義国を支配しようとします。そうすると、資本主義の経済的矛盾は、マルクスの時代のように1国内における資本家階級と労働者階級の対立という形ではなく、資本主義諸国間における対立という形で現れ、その矛盾は資本主義の遅れた国、経済力の弱い資本主義国に集中的にしわ寄せされ、それがその国における革命運動を飛躍的に前進させる契機にもなります。レーニンは、資本主義諸国の競争と対立の連鎖のなかで、最も弱い環であるロシアにその矛盾がしわ寄せされている現実を踏まえながら、ロシアにおける社会主義革命の可能性と道筋を模索しました。20世紀初頭のロシアにおいて、「帝国主義戦争を内乱へ、そして革命へ」という社会主義運動のスローガンが掲げられていましたが、これは20世紀初頭のヨーロッパにおいて資本主義が独占段階に移行し、さらに資本主義諸国間において競争と対立が激化し、それが帝国主義戦争という形をとって現れ、その矛盾が資本主義が遅れて発達したロシアにおいて集中的に現れているために、社会主義革命を達成するためには、その戦争を契機にして、自国ロシア政府を打倒するための運動を強化し、前進させ、それによって内乱状態を作り上げる以外になかったからです。
 レーニンの研究は、帝国主義の時代のロシアにおいて、現実の革命運動に一定の理論的基礎を提供しました。その後の社会主義革命を目指す運動は、とりわけ第2次世界大戦後の帝国主義の時代において、ロシア革命の経験を理論化し、それを普遍化しながら続けられてきたといってよいでしょう。社会主義の思想を実践し、それを現実の体制へと築き上げた経験は、何にもまして重く受け止められました。しかし、社会主義革命が、資本shぎの遅れた国において成功したという歴史的な事実は、社会主義の思想と理論そのものに、また社会主義を目指す各国における組織のあり方、さらにはその運動の方法に対して、1つの不幸をもたらしたといわなければなりません。それは今日、私たちが中国共産党や朝鮮労働党による現実の政治のなかに見ている事柄でもあります。もしも、帝国主義の時代においても、発達した資本主義国において社会主義革命が実現していたならば、その高度に発達した生産力を背景にして経済的に豊かさが、社会主義的計画経済のもとにおいて、さらに開花したことでしょう。自由主義の政治的側面である議会制民主主義と普通選挙制度の経験、言論の自由・表現の自由などの基本的人権の保障の重要性などを踏まえて、政治的にも自由と民主主義が開花した社会を築き上げることができたでしょう。しかし、現実はそうはなりませんでした。資本主義経済が発達し、生産力が高度化した社会においては、労働者・市民の生活が一定程度保障され、かつ市民の基本的人権もまた認められています。第2次世界大戦後の東ヨーロッパの経済状況や人権状況とは比べものにならないほど、保障されています。つまり、発達した資本主義国では、東ヨーロッパの諸国において道徳的な力として映った社会主義の理念は、すでに自由主義思想によって実現され、先取りされていたともいえます。そうすると、そのような発達した資本主義国において社会主義の必然制と実現可能性の問題は、今日的には新しい問題として受け止めていかなければなりません。つまり、マルクスが予見したように、社会主義が資本主義の発達した生産力と発達した個性を継承するためには、社会主義の理論もそれに相応しく創造的に発展しなければなりませんし、それを目指す組織のあり方もレーニンの時代とは異なったものであらねばならないでしょう。その組織の運営方法もまた新たに考える必要があるでしょう。現代世界において自由主義の思想を再検討するためにも、少なくともソ連や東ヨーロッパにおいて社会主義の実践が「失敗」に終わった要因を明らかにする作業は必要でしょう。また、中国共産党や朝鮮労働党による統治と支配の原因などについても、厳しい批判を向ける必要があるでしょう。

2計画経済の問題
 20世紀において試みられた社会主義の実験とその成果、現実に成立した社会主義の体制がもたらした結果について、様々な評価ができるでしょう。ただし、それは歴史の現時点における評価であり、史実と史料が様々に明らかになるにつれて、それも変わりうるものである限り、相対的なものでしかないでしょう。ツァー帝政下における農奴の状態と革命ロシアにおける農民の状態を比べたとき、革命直後の土地の所有形態や農業生産の状況と農業における社会主義政策であるコルホーズ・ソホーズが導入されて以降と比べたとき、社会主義の名のもとにおいて実施された政策の実績をつぶさに調べ、それを総合的に評価しなければならないでしょう。また、現在でも「社会主義」を名乗り、日本においてもそのような評価されてきた中国の政府と中国共産党による実践についても、革命前の中国における半封建的・半植民地的社会における労働者・農民の状態と革命後の中国における労働者・農民の生活実態とを比べた場合、また改革開放政策以降の経済発展の要因と経済格差の克服方法、自由と民主主義の定着、チベット、ウイグルにおける宗教・民族弾圧、香港における言論の自由の抑圧などについても、様々な時代的な状況を考慮に入れて評価しなければならないでしょう。多少なりとも改善された点が見出されようとも、そのことによって現実の社会主義体制を肯定的に評価することもできないでしょう。歴史の評価とその認識、しかも長きに渡って続いていた国家の政治・経済の体制のトータルな評価は、一時的な肯定的な現象があったからといって、容易にくだすべきものではありません。
 ソ連、東ヨーロッパにおいて建設され失敗に終わった社会主義体制、また中国や北朝鮮において取り組まれている社会主義体制の建設の歴史的な評価は、様々な分野の研究と調査に委ねられざるをえませんが、避けて通ることのできない理論問題があります。それは、マルクスやエンゲルスの学説の今日的評価に関わる問題です。マルクスが『経済学・哲学草稿』や『資本論』において説いた人間疎外の克服や資本主義の搾取と収奪の解決は、歴史において成立した社会主義体制において取り組まれましたが、その体制が崩壊し、社会主義体制を建設する「実践」が「失敗」に終わったからといって、マルクスの理論それ自体を否定的に評価し、誤った理論として葬り去ってはなりません。さらには、マルクスの理論は間違ってはおらず、ソ連における実践が間違っていた、とくに1930年代以降のスターリンの独裁的な支配、それを戦後においても継続したブレジネフの強健的な支配に問題があったのだと、社会主義の理論それ自体に批判的な分析のメスを入れるのを避けることも許されません。社会主義を理論・運動・体制に分類し、運動と体制が間違っていたのであって、理論は健在だと言えるのは、マルクスとエンゲルスなどが創設した理論とその後の実践の相互関係を厳しく総括し、それでも理論には問題はなかったと判断しうる場合だけでしょう。藤原さんはその点について、次のように述べています。

 現実の運動に参加した多くの人々の真摯な努力にもかかわらず、実際に成立した社会主義体制がマルクスの意図したものからおおいき離れてしまったことは否めない。それをほんらいのマルクス主義からの逸脱、あるいは体制化の過程における「手段」の「目的」からの乖離と糾弾することはやさしい。しかしわたくしはその原因はマルクスの立論そのもののうちにも内在していたように思われる。ここではそれに関連してとくに3つのことを指摘しておきたい。

 藤原さんは、このように述べています。社会主義の理想と目的は、何だったのでしょうか。資本主義社会における人間の疎外と労働者に対する過酷な搾取・収奪を目の当たりにして、これをなんとかしなければならない、人間性を取り戻せる社会を築かなければならない、あらゆる暴力から解放しなければならない、そのような怒りと憤りがあったと思います。そして、それを感情に終わらせず、それを実現する理論を築いたのが、マルクスやエンゲルスだったのです。彼らの理論に感化され、その実践に多くの人々が関わりました。その中には、革命運動の過程において犠牲を余儀なくされた人もいますし、命を失った人もいます。そのような人々のことを思うと、ソ連や東ヨーロッパにおいて社会主義の実践が失敗に終わったことは申し訳なく思いますし、中国共産党や朝鮮労働党による野蛮な政治的支配は、怒りをもって糾弾したくなります。本来の目的からお大きくかけ離れていることを声を大にして言いたくなります。しかし、それだけで社会主義本来の目的が実現できるわけではありません。社会主義本来の目的は、人間疎外の克服と搾取・収奪からの解放ですが、問題として検討されるべきなのは、理論と実践はどのような関係にあるのか、理論が実践されるとはどういうことなのか、社会主義の理念と目的を説いたマルクスの理論の実践とはどのようなものなのか、マルクスの理論の中にその実践を失敗に終わらせる契機が果たしてなかったのか、このような問題が検討されねばなりません。そのためには、マルクスの理論に代わる巨大な理論体系を構築する作業が必要なのかもしれませんが、藤原さんは差し当たり3つの点関して、そのヒントを述べています。第1は経済システムそのものに関する問題、第2は人間理解と権力の問題、そして第3はマルクス主義の歴史観に関する問題です。
 第1は、経済システムそのもの関する問題です。アダム・スミスをはじめとする国民経済学は、私有財産を基礎に置く市場経済には、自動調整メカニズムの機能があることを説いていました。市場を通じて生産と消費、供給と需要が調整され、社会的な富は資本家に独占されず、多くの労働者のところにも配分されると考えられていました。しかも、自由競争のもとにおいては、資源がもっとも有効に利用され、市場価格が法外につり上げられることはなく、公正価格になること、それゆえ労賃も公正価格が支払われ、人々の能力も正当に評価されると説明されていました。資本家による搾取と収奪は自ずと抑えられ、人間疎外といった問題も生じないのが資本主義の市場経済だと言われていました。これに対してマルクスは、私有財産を基礎に置く市場経済、そのもとに成り立つ市民社会こそが人間疎外の元凶であり、搾取と収奪のメカニズムによって成り立っていると指摘しました。しかも、資本主義が続く限り、労働者は労働生産物から疎外され、労働そのものからも疎外され、日々の労働が幸福を実感できない強制労働となる。そして、そのような資本主義が労働者を貧困へと追い込み、資本家と敵対的な関係に立たせる。さらには、資本主義を続けることが、逆に資本主義を崩壊に導く要因になる。労働者は、資本による搾取と収奪にあえぎ、窮乏化し、それが恐慌の引き金になる。さらに恐慌のために賃金の引き下げと解雇のしわ寄せを受け、資本主義そのもの対して敵対的な意識を持ち始める。労働者は組織化され、新たな経済社会を模索する。それがすなわち社会主義である。マルクスはこのように考えていました。
 社会主義の経済システムとは、どのようなものでしょうか。資本主義の市場経済システムの問題性を克服した経済システムであることは明らかですが、その具体的な内容とはどのようなものでしょうか。私有財産は廃止され、資本と生産手段が社会化・公有化されれば、労働生産物は交換価値を重視して生産されることはなくなります。市場において売れるか売れないか予測できない状況において生産するといったリスクはなくなります。売れる物だけを生産し、売れない物は生産しないという考えのもとに、売れ筋の商品は大量に生産しても、流行が過ぎ去れば売れ残り、やがては廃棄されます。社会主義においては、そのような不経済な生産はもはや行われません。マルクスは、経済活動が「人々の意識的なコントロール」のもとに置かれる社会を構想してました。社会において、どのような物が必要とされているのか、その量はどれくらいか、それをいつまでに生産すればよいのか、生産活動全体を「人々の意識的なコントロール」のもとに置くというのは、まさしく計画経済であり、計画化された労働過程のことです。これによって疎外と搾取は克服されます。アダム・スミスの経済理論にあった市場の指導調整メカニズムは、資本主義をあまりにも牧歌的なものとして甘く見ていたと言わざるを得ません。フランスの思想家P・ロザンヴァロンは、そのような資本主義は歴史的にも成立していない事実を踏まえて、「ユートピア資本主義」(空想的資本主義)と揶揄しました。その資本主義を変革する社会主義の理論は、マルクス以前にサン・シモンやロバート・オウェンなどによって考案され、実践されましたが、上手くいきませんでした。エンゲルスは、そのような実践は理論に基づいていなかったことから、「空想的社会主義」(ユートピア社会主義)と批判し、マルクスの剰余価値学説と史的唯物論によって社会主義は科学になったと述べました。エンゲルスがマルクスの理論は正しく、社会主義運動がそれを踏まえている限り間違いはないと考えていたのであれば、失敗に終わった社会主義の体制は、理論を踏み外した運動、理論を誤って理解した運動に原因があることになりそうです。しかし、藤原さんは、アダム・スミスの構想した資本主義が「ユートピア資本主義」であったのと同じように、「マルクスの社会主義に裏返しになったユートピア性を見るのは間違いであろうか」、「マルクスの社会主義は経済システムの完全な組み替えのうえに成立する未来社会であった。ここにユートピアが逆ユートピアに転ずる危険性が秘められていたといえる」と述べて、マルクスの社会主義経済システムの構想のなかに社会主義の運動を実践に導く要因があったと示唆しています。ここは非常に重要な点であると思います。藤原さんの意見に耳を傾けてみましょう。藤原さんは、主要にはソ連における計画経済を念頭に置きながら、次のように言います。

 理想としてはともかく実際においては、市場の調整メカニズムにかえて、供給と需要の調整を人為に委ねるということ自体が容易ならぬわざであるといわなければならない。とりわけ分業が多様化し、複雑化すればするほど、企業と企業、生産と消費のさまざまな場面に齟齬をきたさざるをえないものをもっていたといえる。もちろん、そのためには巨大な官僚組織を必要とする。そしてそこにおける生産が、上からの計画を下が実行するという形をとるかぎり、人民所有は名ばかりのものとなり、新しい疎外状態が生みだされる危険性があたっといえる。「公的財産から完全に疎外された人民の無権利状態」(渓内謙『歴史の中のソ連社会主義』16頁)といわれても仕方nない状態すら存在したといえる。もちろんそこには、上下の所得格差という単純な数字的計算によっても得られる搾取の構造もあった。

 マルクスが構想した社会主義経済は、計画経済でした。計画経済とは、社会において、どのような物が必要とされているのか、その量はどれくらいか、それをいつまでに生産すればよいのかを調査し、その調査内容を踏まえて生産活動全体を「人々の意識的なコントロール」のもとに置くことによって成り立つ経済です。計画経済は、計画化された労働過程のことです。意識的なコントロールを行う人々とは、誰でしょうか。藤原さんによれば、それは「巨大な官僚組織」です。この官僚組織が経済活動を計画し、人々がそれを実行するというのが計画経済です。しかし、藤原さんは、「上」からの指令を「下」が実行するという経済システムをとる限り、生産手段の社会か・公有化は、「名ばかり」のものになり、そこに「新しい疎外状態」が生まれると言います。官僚組織が、経済活動を計画化するということは、経済活動に従事する人々=労働者を管理・統治することを意味します。必要な物はこれである。従って、これを生産しなさい。このように「上」から指令を出します。「下」にいる労働者は、なぜそれが必要とされているのか、なぜその日までに生産しなければならないのか、十分な説明を聞かされることなく、計画である以上、それを生産しなければなりません。しかも、計画は経済活動全体に及び、ある部品の生産は他の部品の生産へと連動するため、その足並みをそろえなければなりません。遅れをとることは、計画経済を機能不全に陥れることになりかねません。このような労働が果たして人間的な労働になるでしょうか。労働そのものから疎外された気分になるのではないでしょうか。資本主義経済における人間疎外とは異なりますが、社会主義においても疎外が生ずるのではないでしょうか。藤原さんは、それを「新しい疎外状態」と言ってます。現にソ連においては、社会主義の計画経済の名のもとにおいて、新しい疎外状態の原因となる指令・統制経済が官僚組織によって押しつけられていました。そのようなソ連における計画経済は、マルクスの計画経済の構想と無関係に行われたのでしょうか。マルクスの計画経済構想によれば、経済活動全体を意識的にコントロールする人々はどのような人々だったのでしょうか。また、その経済活動に従事する人々はどのような人々だったのでしょうか。その間にどのような関係があると考えられていたのでしょうか。垂直的な関係でしょうか。それとも水平的な関係でしょうか。上下関係でしょうか。それとも対等平等な関係でしょうか。藤原さんは、マルクスの理論的態度そのものの向けられています。

3権力悪の問題
 藤原さんが指摘する第2の問題は、社会主義の人間理解と権力の問題に関わります。
 マルクスが「人間」を定義した言葉に、「人間は社会関係の総体である」という言葉があります。これはどのような意味かというと、人間の存在形態は社会的な形態であり、その社会的意識は社会的な存在形態によって規定されるということです。マキアヴェリやホッブスの人間理解によると、人間は本質的に利己的な存在であると見られていましたし、ルソーやカントによれば、人間の本性には憐憫や道徳性が備わっていると見られていました。人間を取り巻く環境やその社会的存在とは無関係に、人間には「利己性」や「道徳性」という性質が備わっていると考えられていましたが、マルクスの理解は異なります。マルクスは、人間の存在形態も、その意識も、それが取り持つ社会的な様々な関係によって規定されると考えます。したがって、人間を取り巻く環境やその社会的存在とは無関係に、人間には「利己性」や「道徳性」という性質が備わっているとは考ええません。「利己性」も「道徳性」も、人間の存在形態によって規定されます。人間は、資本主義経済において疎外され、競争関係や敵対的な関係に置かれますが、それは人間の本質に敵意があるからではなく、私有財産という制度のためです。人間は、資本主義のもとにおいて「人狼」のように利潤獲得に狂奔しますが、それは人間が利潤を好む性質を持っているからではなく、利潤を獲得し、剰余価値を増やそうとする資本の運動法則によって人間の行動が規定されているからです。資本主義の社会的諸関係に代えて、社会主義の社会的諸関係によって人間の存在形態が規定されるならば、その社会的意識も変わることになります。マルクスは、「愛」が「愛」と、「信頼」が「信頼」と交換される社会が実現すると期待したのです。果たしてそうなのでしょうか。
 社会制度の改革が必ずしも人間の意識変革を伴うものでないことは、様々なところで確認されていることです。藤原さんは、1960年代の中国を引き合いに出して述べています。1960年代以降の中国では、中国共産党による政治支配が確立し、社会主義的計画経済が進められましたが、中国人民の意識はそれに照応したものにはなりませんでした。中国共産党の指導者・毛沢東は、中国人民の意識を改革するために、プロレタリア文化大革命という手段に訴え、思想、文化、風俗、慣習の変革、さらには政治、法律、芸術などをも含めて、イデオロギー全体に渡って意識の変革を進めました。それは成功したでしょうか。それとも失敗したでしょうか。それは失敗に終わりました。しかも、その意識革命のための運動は、中央政府から地方政府を通じて「権力闘争」という形をとり、ときには幹部の利己的な目的のために利用されるようなことさえあったようです。人間は社会的諸関係の総体であるという定式がマルクスの人間定義であると理解されたために、社会制度を変えれば、社会主義の計画経済を実行する人間、その計画と立案を担う人間を創造することができると考えられたとすれば、それはあまりにも楽観的でした。制度改革を行う政治集団と官僚組織、共産主義のエリート幹部とエリート官僚による権力行使に対して無防備であったと言わなければなりません。それは、ソ連においても、また中国においても、そして朝鮮労働党においても、幹部組織による権力行使を社会主義の名のもとに正当化し、その不正を隠蔽したのではないでしょうか。
 しかも、指摘しておかなければならないのは、資本主義から社会主義へと向かう過渡期の統治形態は、「プロレタリア独裁」と呼ばれるものでした。「独裁」(ディクテイターシップ、ディクタトゥア)は、ヨーロッパ政治思想史において見られた統治形態であり、必ずしも正当性が否定されるものではありませんでした。ただし、過渡期における一時的・例外的な統治形態であるので、社会が安定化すれば、もとの状態に戻ることが予定されていました。つまり、資本主義において成立した三権分立や議会制に戻ることが予定されていました。マルクスは、『フランスにおける内乱』において、社会主義へと向かう政治形態をコミューン型とし、資本主義国の常備軍を人民軍に置き換え、すべての官僚を完全な選挙制と解任制のもとにおくことを考えていました。さらに、官僚の賃金を労働者の水準に引き下げ、かつて官僚に認められていた交際費などの特権を廃止することを主張していました。ロシアの革命家レーニンも『国家と革命』のなかで、プロレタリア独裁がロシアの資本家を抑圧し、社会主義建設に敵対する勢力を排除する過渡的なものでしかないと力説していました。しかし、実際にはそうはなりませんでした。とりわけ、レーニンが死去して以降、指導者の地位についたスターリンは、プロレタリア独裁をプロレタリアートの党である共産党独裁に変質させ、さらに過渡的であったはずのこの統治形態を強化しました。社会主義革命後であっても、ソ連は資本主義諸国の敵によって取り囲まれている。しかも資本主義の敵は、ソ連の内部にそのスパイを侵入させる。したがって、社会主義革命によってロシアの資本家を抑圧した後においても、資本主義国との間の国際敵な階級闘争は続き、しかもよりも激化する。ゆえに、社会主義建設に敵対する国際敵な勢力を排除するためには、「プロレタリア独裁」は継続する。このような理屈をつけて、ソ連共産党による一党支配を正当化しました。ソ連共産党は、「プロレタリア独裁」と国際的な階級闘争を口実にしながら、強大な官僚組織によって計画経済を強化し、警察組織、治安部隊によって人民を管理・統制しました。
 資本主義から社会主義へと向かう過渡期というものを想定し、その間において一時的・臨時的であっても「独裁」による統治形態を認めたのは、ソ連のレーニンやスターリンではありません。マルクスです。マルクスは、19世紀半ばのフランスにおける階級闘争を状況を分析して、資本主義から社会主義へと向かう過程において「過渡期」があること、それは平時の議会制民主主義による統治ではなく、臨時的・一時的であれ「独裁」による統治であること、しかもそれが立法・行政・司法の三権が分立した統治形態ではなく、三権がコミューンという1つの機関に集中する統治形態であることを説きました。ルソーによる人民主権が唱えられてきたフランスにおいて、「プロレタリア独裁」を主張したのです。人民を政治の主人公とする議会制度ではなく、労働者階級による独裁制を優先させたのはなぜでしょうか。ソ連において階級闘争が激化し、「プロレタリア独裁」の統治形態が長期に及んだのは、スターリンに原因があったと思いますが、そもそも資本主義から社会主義へ向かう過程において「過渡期」のようなものがあること、それは資本家階級を抑圧・排除するためであったこと、そしてその統治形態は「プロレタリア独裁」という独裁制であること、このように構想したマルクスに問題はなかったのでしょうか。藤原さんの指摘は、マルクスの構想そのものに向けられています。

4科学とユートピア
 第3は、マルクス主義の歴史観に関わる問題です。マルクスの歴史観、すなわち史的唯物論は、マルクス主義の歴史観です。史的唯物論によれば、1つの国の社会は、経済的な生産様式と生産関係を土台にして、その上に成り立つ政治制度、法制度、そして社会的な観念形態によって構成されます。これを社会構成体または経済的社会構成体といいます。一定の生産力の伸張を背景にして、それを維持・強化する生産様式が確立されますが、それに伴い生産関係が形成されます。資本主義的生産様式においては、資本家と労働者の生産関係が形成され、その経済的土台に照応した政治制度・法制度が形成されます。社会構成体が大きく変化するためには、経済的土台が変化し、それが政治制度や法制度の変化を引き起こすものでなければなりません。このような説明だけだと、マルクス主義の史的唯物論は、社会の歴史的発展は経済によって一元的に規定され、政治制度や法制度などの上部構造による経済的土台への反作用のようなものはありえないことになりますが、そうではありません。人間は社会的諸関係の総体であると定義し、人間は歴史的に成立した社会の政治的・経済的・イデオロギー的な諸関係によって規定されながらも、その人間が社会に働き掛け、歴史を創造していくことは認められていました。人間の社会的意識や歴史認識は、政治や経済によって規定され、制限されながらも、それを超えて次の段階を模索するという流動的な視点は、マルクス主義の史的唯物論にはあったと思います。しかし、それにもかかわらず、歴史が法則的に発展する、資本主義は社会主義に必然的に以降する、それは歴史の必然であるという考えは維持されていたように思います。しかも、それを科学によって解明された法則的発展であるとしてユートピアとは区別してきました。しかし、それには「逆ユートピア」を生みだす危険が伴っていたと藤原さんは言います。
 ユートピアという言葉は、もともとはギリシア語の「u」(無い)と「topos」(場所)の2つの語の合成語であり、「どこにも無い場所」を意味します。現実の社会があまりにも過酷であるため、そこから逃れたいのですが、どこにも逃れることができない。だから、「どこにも無い場所」を夢見るわけです。それが宗教によるものであれ、メルヘンやおとぎ話によるものであれ、人々はユートピアを夢見ることがあります。それは、現在のところ実現できない理想郷であり、実現の可能性があってもまだ実現されていない社会を意味します。それゆえ、ユートピアは空想的な社会を意味することもあります。社会主義の社会は、資本主義の過酷な搾取に苦しめられている労働者にとっては理想郷でした。まだ実現されていないユートピアでした。しかし、それは実現可能である、しかもその発展の道筋は科学的に解明されていると、労働者たちに言えば、彼らはどのように思うでしょうか。その科学的理論を学び、社会主義の実現に向かって行動するのではないでしょうか。そのための組織を作り、社会主義の実現を自己の人生に重ね合わせ、それに人生を捧げようと思うのではないでしょうか。また、資本主義から社会主義へと向かう過程が、非常に厳しく困難であっても、その法則的な発展を加速させようと努力するのではないでしょうか。辛い日々があろうとも、社会主義へと向かっている自負によって堪え忍ぼうとするのではないでしょうか。社会主義運動に辛さや理不尽さが伴おうとも、それはやむを得ないことであり、また社会主義の実現によって報われると信じて努力するのではないでしょうか。そのような人は数多くいたと思います。
 社会主義の理念と目的は、それに相応しい方法・手段によって実現されるはずでしたが、逆に手段が目的によって正当化されてしまいました。とりわけソ連、東ドイツ、東ヨーロッパの諸国において、「プロレタリア独裁」の政治支配と強大な官僚組織によって厳しい労働者の管理・統制が行われました。それを正当化したのは、歴史の発展法則を解明した科学です。それによって社会主義の目的を実現するあらゆる手段が正当化されました。それに批判する者は、反社会主義、反共産主義のレッテルが貼られ、政治的に弾圧されました。その結果、たとえ社会主義への発展が法則的であろうとも、そこへと向かうことに躊躇を感じざるを得なくなるでしょう。社会主義でなくてもよい、いや社会主義でないほうがよい、どこかに別の理想郷はないのだろうかと、考える人が出てきてもおかしくありません。藤原さんがいう「逆ユートピア」とは、社会主義運動と社会主義体制によって苦しめられている人々がそこから逃れようと思うあまり目指した理想郷、社会主義とは真逆のユートピアのことでしょう。
 それでも藤原さんは、「理念としての社会主義は、その(私有財産と資本主義の悪のこと)克服の目標として永久に光を放ちつづけるだろう」と述べて、今なお社会主義の理念は、自由主義がもたらした私有財産と資本主義の経済制度を批判する指針であると言い続けています。マルクス主義が理想として描いたものと、ソ連や東ヨーロッパにおいて現実化した社会主義の体制との間には大きな差があります。だからといって、マルクス主義や社会主義を、忌まわしい過去の遺物として葬り去り、歴史の過去にしてしまうことにはなりません。マルクス主義や社会主義の理論のどこに誤りがあったのか、それを克服するためには、どのような研究が必要なのか、そのことが問われているように思います。マルクス主義、社会主義は、自由主義がもたらした過酷な資本主義を批判する理論です。現在のところ歴史的に成立した社会主義の体制は、自由主義を批判し乗り越えるどころか、過酷な現実を生みだしてしまいました。それを批判するためには、社会主義の理論が原点に立ち返って、自己変革を遂げる必要があります。そのためには、批判の対象であった自由主義のどこに問題があるのかを今一度明らかにして、それを自由主義批判としての社会主義の理論の自己変革の第一歩としなけれならないでしょう。