DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

「鶯を雀歟(カ)と見しそれも春」、「うぐひすの啼(ナ)くやちいさき口明て(アイテ)」他:『蕪村俳句集』尾形仂(ツトム)校注・岩波文庫(1989)

2024-09-10 10:45:26 | 日記
★「鶯を雀歟(カ)と見しそれも春」(『蕪村句集』7)
のんびりした春。木の枝に「雀」がいた。ところがホーホケキョと鳴いた。「そうか鶯だったのだ。」蕪村はのんきだ。

★「うぐひすの啼(ナ)くやちいさき口明(アイ)て」(『蕪村句集』12)
鶯は小さな鳥だ。少し離れた位置から見ている。口が小さい。鳴いている時、その小さな口があく。かわいい。よく観察している。

★「梅咲(サイ)て帯買ふ室(ムロ)の遊女かな」(『蕪村句集』29)
春の始まり。どこか心浮き立つ。「帯」が華やか。「遊女」もハレの世界に属す。「室」は播州室の津で港の遊女町として知られた。

★「古寺(フルデラ)やほうろく捨(スツ)るせりの中」(『蕪村句集』45)
古寺の春。せりが青い。割れた古いほうろくが捨ててある。古さと新しい春の対照。「ほうろく」は物を煎るのに使う素焼の平たい鍋。

★「折釘(ヲリクギ)に烏帽子(エボシ)かけたり春の宿」(『蕪村句集』51)
春ののんびりした感じ。日常的な緩慢さと安心。

★「薬盗む女やは有(アル)おぼろ月」(『蕪村句集』55)
「薬盗む女」は中国の伝説における羿(ゲイ)の妻・嫦娥(ジョウガ)。羿(ゲイ)が西王母から請い得た不老不死の薬を盗み月へ逃げ月の仙女となった。(淮南子(エナンジ))蕪村はおぼろ月に、月の美しい仙女をさがす。蕪村も美人に弱い。Cf.1 月岡芳年「月百姿(ツキヒャクシ)嫦娥奔月(ジョウガホンゲツ)」(1886) Cf.2 月面探査機「嫦娥6号」が月の裏側で岩石などのサンプルを採取し地球に帰還したと中国政府が発表(2024)



★「橋なくて日暮(クレ)んとする春の水」(『蕪村句集』55)
川が流れるが橋もなく広々している。春の夕暮れ。Cf. 蘇東坡「春宵一刻値千金」(『詩集』春夜)
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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(or道徳)」、へ「ロマンティスィズム」(その6):ヘーゲル『精神現象学』のこれまでの経過の回顧!

2024-09-10 06:56:42 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」へ「ロマンティスィズム」(その6)(304-305頁)
(79)ヘーゲル『精神現象学』のこれまでの経過の回顧:(A)「意識」(「対象意識」)→(B)「自己意識」→(C)(AA)「理性」(「理性の確信と真理」)→(C) (BB)「精神」→(C)(CC) 「宗教」→(C) (DD)「絶対知」!
★ヘーゲル『精神現象学』のこれまでの経過を回顧してみよう。(304頁)
★段階①《「感覚」→「知覚」→「悟性」》の運動によって「対象意識」が「自己意識」に転換すること。(304頁)
Cf. 《『精神現象学』目次》(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界

★段階②「自己意識」に《「欲望」→「主奴」→「自由」》の運動のあること。(304頁)
Cf. 《『精神現象学』目次》(B)「自己意識」orⅣ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」

★段階③「自由」(※「無限性」)によって「自己意識」が再び「対象意識」に転換して、「理性」の「あらゆる実在である」という「確信」のえられること。(304頁)
★段階④この「確信」を「実証」すべく、「理性」は「観察」し「行為」すべきであり、そうすることによって「社会」のうちに安住しうるようになること。(304頁)

Cf. 《『精神現象学』目次》(C)(AA)「理性」orⅤ「理性の確信と真理」A「観察的理性」(※「観察」)、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(※「行為」)(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(※「社会」)(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、

《参考1》(C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」の段階の目標は次の通りだ。(156頁)
☆「精神」をその「現象」に即して、「本来の『精神』」にまで高めようとするものがヘーゲル『精神現象学』である。このさい①「現象」が「認識」の段階であるところからしては、『精神現象学』は「絶対知」に到るまでの「意識経験の学」として「認識論」であり、また②「絶対知」の出現が「時代」に媒介せられているところからしては、『精神現象学』は「歴史哲学」を含む。(156頁)
☆「精神」は本来的にはⅧ「絶対知」であるが、それに比較的近い段階(Ⅵ「精神」)では、「精神」は「我なる我々」あるいは「我々なる我」として、広い意味における「社会的」なものである。つまりそれは「人倫の国」において成立する。(157頁)

《参考2》さて当面の段階たる(C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」の段階は、「対象意識と自己意識の統一」であり、この意味において「あらゆる実在」でありながら、これがまだ「確信」たるにとどまって「真理」となっていない状態にある。この状態が「始点」である。(157-158頁)
☆そして「確信」を「真理」にまで高めるところに、この段階の運動が成立する。(158頁)

《参考3》「自己としての内なるもの」(「主体的なるものとしての内なるもの」、「実体はじつは主体である」という場合の「主体」)、すなわちこの「自己」・「主体」は、ヘーゲルでは「概念」とも言われる。(111頁)
☆この「主体」としての「概念」に、「対象」の側において対応するものが「法則」だ!(111頁)
☆ヘーゲルは「法則」とは「互いに対立した二つの契機をつねにふくむ」と考える。(Ex. 「引力と斥力」、「陰電気と陽電気」、「空間と時間」など。)即ち「法則」の内容は「弁証法的に対立したもの」とヘーゲルは考える。(111頁)
☆さて「弁証法」とは「対立したもの」が「区別され分離されている」と同時に、「相互に転換し統一をかたちづくる」ことだ。「弁証法」的に考えると「対立」は「静的」なものでなく「動的」なものだ。(111頁)
☆ところが「法則」では、そういう「動的」な点がはっきりしていない。そもそも「法則」は「主体」としての「概念」(「動的」な「内なるもの」)を、「存在的なもの」・「対象的なもの」・「静的なもの」として定立することによって成り立つものだからだ。「法則」の立場は「対象的存在的」だ。(111頁)
☆かくて「法則」では「互いに外的のもの・没交渉のもの」が関係づけられる。この関係づけは「量」の見地からからのみなすことができる。(111頁)

《参考4》「法則」は「対立するものの統合」として本来的には「概念」だが、しかし「概念」自身ではなく、「観察的理性」の「対象的」把握によって「対象」化されたものだ。「対象」化されるから「概念」の諸「契機」は、生命を失い固定される。そこで「法則」においては、「固定された契機」の「綜合」、したがってそれら「固定された契機」の「数量的関係」のみが問題になる。(167-168頁)
☆「観察」とは、「記述」が「標識の指示」(本質的なもの)を通じて「法則」を得ることだが、①「記述」の段階では、たとえば、陽電気はガラス電気、陰電気は樹脂電気というようにイメージを描いて「表象」されるが、②「標識の指示」(本質的なもの)をへて、③「法則」が定立されるようになると、かかる「表象」から純化されて、「概念」的に思考せらるべき陰電気と陽電気となり、これらの相対立した「契機」の間に「法則」が立てられる。(168頁)
☆また「自由落下の法則」(落下距離=時間の2乗×重力加速度×1/2)では、「時間」と「空間」という相対立した「契機」の間に「法則」的関係が定立せられる。(168頁)
☆さてこのさい、「法則」がじつは「概念」であるところからすれば、「陽電気と陰電気」、「空間と時間」など「対立した契機」は相互に他に転換して帰一し、そうして「統一」がまた「対立」に分裂するという「無限性」の生ける精神的運動が行われるべきはずだ。(168頁)
☆だが「観察的理性」なるものは、「理性」が「対象意識」の形式をとったものであるために、それぞれの「項」がそれぞれ「独立のもの」として固定せられてしまい、したがって「内面的な質的な規定」がではなく、ただ「量的な規定」だけが問題になり、かくて「数量的関係」を提示することが「法則」定立の課題となる。(168頁)
☆ヘーゲルは、「近代科学」における「法則」が、諸契機の間の「数量的関係」を規定することをもって課題とするという事実を、以上のように解釈している。(168頁)

《参考5》「理性」は、「対象意識」と「自己意識」の「綜合」であり「統一」である。(187頁)
☆そこでおのずから「理性」自身が、一方では「対象意識」に即して展開される。そこに「観察」の問題が生じる。(A「観察的理性」!)(187頁)
☆これに対して、他方で「自己意識」の側面においても、「理性」は展開されなくてはならない。そうしなくては「理性」のもっている「確信」を「真理」にまで高めることはできない。かくて「行為」の問題が出てくる。(187頁)

《参考6》「精神」(「理性」)は、「対象的に見られる」ものでなく、むしろ「働きとしてのみ存在する」から、1「観察」(A「観察的理性」)に対して、さらに2「行為」(B「理性的自己意識の自己自身による実現」)が問題となる。(193頁)
☆「行為」即ち「行為的理性」は(イ)「快楽(ケラク)」(個別態)→(ロ)「心胸(ムネ)」(特殊態)→(ハ)「徳」(普遍態)と運動(展開)する。これ(個・特・普)はヘーゲルの「考え方、論理の運び方」でもある。(193-194頁)
☆論理的にいうと、(A)「対象意識」における《「感覚」→「知覚」→「悟性」》という運動、および(B)「自己意識」における《「欲望」→「承認」→「自由」》という運動が、(C)「理性」2「行為」(B「理性的自己意識の自己自身による実現」)においては、《 (イ)「快楽(ケラク)」(個別態)→(ロ)「心胸(ムネ)」(特殊態)→(ハ)「徳」(普遍態)という運動(展開)》となってくりかえされている。(193-194頁)

《参考7》さて(A)「意識」、(B)「自己意識」の段階を経て、(C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」の段階が生じたそのとき、「理性」は「あらゆる実在である」という確信を持っており、そのかぎり「観念論」の立場をとる。(283頁)
☆だがこの「理性」はまだ「確信」にすぎず、「無内容」で、「『内容』を『対象』から受け取る」ほかはないところからしては「経験論」の立場をとる。したがって「理性」は最初には「観察」に従事せざるをえない。(「観察的理性」!)(283頁)
☆「観察的理性」に「実践面」において相応ずるものが「純粋透見」だ。(283頁)
☆即ち「観察」の段階((C)(AA)「理性」orⅤ「理性の確信と真理」のA「観察的理性」)では、ルネッサンス以後の「近代科学」において働く「理性」が問題として取り上げられたが、ここ(B「教養」の世界)では現実の「実践的生活」において働く「理性」(「純粋透見」)が問題とされている。(283頁)

★段階⑤「社会」のうちに安住しえたとき人間は「人倫の国」に住むが、これはやがて「法的状態」に移行して「教養」の苦悩が到来すること。(283頁)
★段階⑤-2 しかしこの「教養」の苦悩を通じて「道徳的確信」のえられること。(283頁)
★おおよそこのようなこと(①②③④⑤⑤-2)によって、すでに「絶対知」が成立している。(283頁)

《参考》ヘーゲル自身の「良心的道徳」(※(BB)「精神」C「自己確信的精神、道徳性」c「良心、美魂、悪とその赦し」における「赦し」or「やわらぎ」)にあっては、その展開は不十分ではあるが、すでに「絶対精神」が顕現し「絶対知」に到達している。(304頁)

Cf. 《『精神現象学』目次》((C)「理性」)(BB)「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)

★段階⑥しかしまだ「宗教」(※(CC)「宗教」A「自然宗教」、B「芸術宗教」、C「啓示宗教」)が残っている。そのかぎり「意識」(※(A)「意識」、(B)「自己意識」、(C)(AA)「理性」・(BB)「精神」)がまだ「神という超越者」、したがってまた一般に「他者」を負うていることは否定できない。そこでヘーゲルは((C)「理性」)(CC)「宗教」において宗教の諸形態についての展開を行い、それらの完成であるところの(CC)C「啓示宗教」が(BB)Cc「良心道徳」(「悪とその赦し」or「やわらぎ」)と実質において同じであることを証明し、もって「啓示宗教」を「良心道徳」のうちに摂取し、かくして(DD)「絶対知」が真に成立することになる。(304-305頁)
★この(DD)「絶対知」の成立こそは、ヘーゲルにとっては「現代」の「時代精神」が渇望している課題だ。(305頁)

Cf. 《『精神現象学』目次》((C)「理性」)(CC)「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」
Cf. 《『精神現象学』目次》((C)「理性」)(DD)「絶対知」

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」
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