※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」へ「ロマンティスィズム」(その1)(295-296 頁)
(72)C 「道徳性」は、A「古代の人倫」と異なり、「近代の人倫」であり、「より内面的主体的な道徳」だ!
★「教養の世界」の「自己疎外」は克服され、「精神」は「自己疎外」から「自己確信」に移る。(295頁)
☆即ち、(BB)「精神」のA「真実なる精神、人倫」は、B「自己疎外的精神、教養」を通じて、C「自己確信的精神、道徳性」に到達した。(295頁)
Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄):(BB)「精神」A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)
《参考》「テロリズム」が体験させる「絶対否定」(※「個的自己」の「絶対的」な否定)によって、「『個別』と『普遍』とが絶対的に帰一」し、「絶対否定が絶対肯定」(※「個的自己」の「絶対的」な否定は、「個的自己」の「絶対的」な肯定だ)となり、「非連続の連続」ということも今や可能になり、「『教養』(※エスプリorガイスト)の世界」の特徴であった「自己疎外」はここに克服される!(294頁)
★このC 「道徳性」は、A「人倫」とむろん似ているが、同じではない。A 「人倫」は「人倫そのもの」ではなく、「直接に真実なる」、いいかえれば「まだ『自然性』をまぬがれえぬ『精神』に支えられた」ものとして「古代の人倫」だった。(295頁)
☆これに対しC「道徳性」は、「近代の人倫」であり、「より内面的主体的な道徳」だ。(295頁)
(72)-2 「近代の人倫」であるC 「道徳性」は、a「道徳的世界観」、b「ずらかし」、c「良心、美魂、悪とその赦し」の3段階からなる!C 「道徳性」の段階は歴史的には「ロマンティスィズム」を頂点とする「ドイツ観念論」の時代だ!
★さて「近代の人倫」であるC 「道徳性」は、a「道徳的世界観」、b「ずらかし」、c「良心、美魂、悪とその赦し」の3段階からなる。(295頁)
☆C 「道徳性」の第1段階(a「道徳的世界観」)は「カントの倫理学」、第2段階(b「ずらかし」)および第3段階(c「良心、美魂、悪とその赦し」)は(ドイツの)「ロマンティスィズム」が材料としてヘーゲルにより使われる。(295頁)
☆要するにC 「道徳性」の段階は歴史的にはあきらかに「ロマンティスィズム」を頂点とする「ドイツ観念論」の時代だ。(295頁)
☆ヘーゲルにとっては、B「教養」の時代を担う主役が「フランス人」であったのに対して、C 「道徳性」の時代ン場合は「ドイツ人」だ。(295頁)
(73)C「道徳性」の第1段階:a「道徳的世界観」(カント)!「抽象的」で、いろんな矛盾はまぬがれないため、「神の存在」、「霊魂の不死」を「要請」せざるをえない!
★C「道徳性」の第1段階は、a「道徳的世界観」(カント)である。(295頁)
☆人間は「個別者」でありながら、「絶対否定」を介して、「普遍」と相通ずるものになるが、これは「道徳的義務」を実践しうることにほかならない。この立場から「道徳的世界観」(カント)がいだかれる。(295-296頁)
★しかし「道徳的世界観」(カント)はまだ「抽象的」で、いろんな矛盾はまぬがれない。(296頁)
★「道徳的世界観」(カント)の矛盾の第1は、「道徳」が「内面的精神的」なものにすぎないので、それには「自然界」が対立する。そこで「道徳」と「自然」との一致、とくに「道徳」と「幸福」との一致、かくて「神の存在」が「要請」されざるをえない。(296頁)
★「道徳的世界観」(カント)の矛盾の第2は、内面的主体的なもので、「理性」と「感性」とが対立して一致をみず、分裂するということだ。そこで「理性」と「感性」との一致、かくて「霊魂の不死」が「要請」されざるをえない。(296頁)
★「道徳的世界観」(カント)の矛盾の第3は、「義務」には「道徳法則」そのものが示す「ただ一つの義務」があるだけでなく、それぞれの「状況」に応じて「多数の義務」があるから、「義務」の「『絶対性』と『相対性』」、「『単一性』と『数多性』」とに関して矛盾が生じる。かくてこれを調停するために、第1、第2の場合と同じく、やはり「統一」、かくて「神の存在」を「要請」せざるをえない。(296頁)
☆「道徳的世界観」(カント)においては、「汝の意志の格率がつねに同時に普遍的(※誰にもあてはまる)立法の原理として妥当しうるごとく行為せよ」という「道徳法則」そのものはよくわかっていても、「具体的状況」に臨んでなにが自分の「義務」であるかということになるとよくわからない。わかっているのは「道徳法則」という「抽象的」法則だけであって、「個々の場面」に臨んでどうしたらよいかは「神」ならぬ身にはわからない。(296頁)
《参考》カントは、「理論理性」による認識によっては肯定的にも否定的にも論証不可能な「自由」、「霊魂の不死」、「神」を実践的行為がそれなしには成り立ちえない欠くべからざる前提という意味で、「実践理性」の「要請」と名づけた。
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」へ「ロマンティスィズム」(その1)(295-296 頁)
(72)C 「道徳性」は、A「古代の人倫」と異なり、「近代の人倫」であり、「より内面的主体的な道徳」だ!
★「教養の世界」の「自己疎外」は克服され、「精神」は「自己疎外」から「自己確信」に移る。(295頁)
☆即ち、(BB)「精神」のA「真実なる精神、人倫」は、B「自己疎外的精神、教養」を通じて、C「自己確信的精神、道徳性」に到達した。(295頁)
Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄):(BB)「精神」A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)
《参考》「テロリズム」が体験させる「絶対否定」(※「個的自己」の「絶対的」な否定)によって、「『個別』と『普遍』とが絶対的に帰一」し、「絶対否定が絶対肯定」(※「個的自己」の「絶対的」な否定は、「個的自己」の「絶対的」な肯定だ)となり、「非連続の連続」ということも今や可能になり、「『教養』(※エスプリorガイスト)の世界」の特徴であった「自己疎外」はここに克服される!(294頁)
★このC 「道徳性」は、A「人倫」とむろん似ているが、同じではない。A 「人倫」は「人倫そのもの」ではなく、「直接に真実なる」、いいかえれば「まだ『自然性』をまぬがれえぬ『精神』に支えられた」ものとして「古代の人倫」だった。(295頁)
☆これに対しC「道徳性」は、「近代の人倫」であり、「より内面的主体的な道徳」だ。(295頁)
(72)-2 「近代の人倫」であるC 「道徳性」は、a「道徳的世界観」、b「ずらかし」、c「良心、美魂、悪とその赦し」の3段階からなる!C 「道徳性」の段階は歴史的には「ロマンティスィズム」を頂点とする「ドイツ観念論」の時代だ!
★さて「近代の人倫」であるC 「道徳性」は、a「道徳的世界観」、b「ずらかし」、c「良心、美魂、悪とその赦し」の3段階からなる。(295頁)
☆C 「道徳性」の第1段階(a「道徳的世界観」)は「カントの倫理学」、第2段階(b「ずらかし」)および第3段階(c「良心、美魂、悪とその赦し」)は(ドイツの)「ロマンティスィズム」が材料としてヘーゲルにより使われる。(295頁)
☆要するにC 「道徳性」の段階は歴史的にはあきらかに「ロマンティスィズム」を頂点とする「ドイツ観念論」の時代だ。(295頁)
☆ヘーゲルにとっては、B「教養」の時代を担う主役が「フランス人」であったのに対して、C 「道徳性」の時代ン場合は「ドイツ人」だ。(295頁)
(73)C「道徳性」の第1段階:a「道徳的世界観」(カント)!「抽象的」で、いろんな矛盾はまぬがれないため、「神の存在」、「霊魂の不死」を「要請」せざるをえない!
★C「道徳性」の第1段階は、a「道徳的世界観」(カント)である。(295頁)
☆人間は「個別者」でありながら、「絶対否定」を介して、「普遍」と相通ずるものになるが、これは「道徳的義務」を実践しうることにほかならない。この立場から「道徳的世界観」(カント)がいだかれる。(295-296頁)
★しかし「道徳的世界観」(カント)はまだ「抽象的」で、いろんな矛盾はまぬがれない。(296頁)
★「道徳的世界観」(カント)の矛盾の第1は、「道徳」が「内面的精神的」なものにすぎないので、それには「自然界」が対立する。そこで「道徳」と「自然」との一致、とくに「道徳」と「幸福」との一致、かくて「神の存在」が「要請」されざるをえない。(296頁)
★「道徳的世界観」(カント)の矛盾の第2は、内面的主体的なもので、「理性」と「感性」とが対立して一致をみず、分裂するということだ。そこで「理性」と「感性」との一致、かくて「霊魂の不死」が「要請」されざるをえない。(296頁)
★「道徳的世界観」(カント)の矛盾の第3は、「義務」には「道徳法則」そのものが示す「ただ一つの義務」があるだけでなく、それぞれの「状況」に応じて「多数の義務」があるから、「義務」の「『絶対性』と『相対性』」、「『単一性』と『数多性』」とに関して矛盾が生じる。かくてこれを調停するために、第1、第2の場合と同じく、やはり「統一」、かくて「神の存在」を「要請」せざるをえない。(296頁)
☆「道徳的世界観」(カント)においては、「汝の意志の格率がつねに同時に普遍的(※誰にもあてはまる)立法の原理として妥当しうるごとく行為せよ」という「道徳法則」そのものはよくわかっていても、「具体的状況」に臨んでなにが自分の「義務」であるかということになるとよくわからない。わかっているのは「道徳法則」という「抽象的」法則だけであって、「個々の場面」に臨んでどうしたらよいかは「神」ならぬ身にはわからない。(296頁)
《参考》カントは、「理論理性」による認識によっては肯定的にも否定的にも論証不可能な「自由」、「霊魂の不死」、「神」を実践的行為がそれなしには成り立ちえない欠くべからざる前提という意味で、「実践理性」の「要請」と名づけた。