※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」へ「ロマンティスィズム」(その2)(296-297頁)
(73)-2 C「道徳性」の第2段階:b「ずらかし」!それは「道徳的世界観」(カント)が矛盾の巣窟であるという真相を暴露する!だがおのずと「統一をつかむ意識」が出てくる、これがC「道徳性」の第3段階c「良心」にほかならない!
★「道徳的世界観」(カント)は矛盾だらけだから、それが「具体的」に働くときにはb「ずらかし」という C「道徳性」の第2段階が生ずることになる。(296頁)
《参考》「道徳的世界観」(カント)はまだ「抽象的」で3つの矛盾がある。①「『道徳』と『自然』」あるいは①-2「『道徳』と『幸福』(※「自然」に由来する欲求)」との矛盾。(「神の存在」の要請!)②「理性」と「感性」との矛盾。(「霊魂の不死」・「神の存在」の要請!)③「道徳法則」が「抽象的」なので「具体的状況」のもとでの「多数の義務」の間の矛盾。(「神の存在」の要請!)(296頁)
★「ずらかし」(Ver-stellung)とは「物を置くべきところに置かず、置きちがえる」ことである。(296-297頁)
★C「道徳性」の第2段階のb「ずらかし」とは、「一度こうだと言ったのに、すぐにそうではないと言って、反対から反対へずるずる動かすこと」をさす。(Cf. ①「『道徳』と『自然』」あるいは①-2「『道徳』と『幸福』」との矛盾。②「理性」と「感性」との矛盾。③「具体的状況」のもとでの「多数の義務」の間の矛盾。)(297頁)
☆つまりb「ずらかし」とは、「道徳的世界観」(カント)の3つの「要請」における3つの「対立」・「矛盾」( ①②③)において、一方から他方へ、他方からもとの一方へと、ずるずる動くことを指す。(297頁)
★さて「道徳的世界観」(カント)とb「ずらかし」との関係は、大体、「ストア主義」と「スケプシス主義」との関係にあたる。(Cf. (B)「自己意識」B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」!)(297頁)
☆つまり「ストア主義」の実相が「スケプシス主義」によって示されたのと同じように、b「ずらかし」は「道徳的世界観」(カント)が矛盾の巣窟であるという真相を暴露する。(297頁)
《参考1》ストア派は「アパテイア」(非情)(※「心の平安」)を強調する。即ち情欲的のものにとらわれず、「思慮」をもって行動し「理性」をもって事に当たるべしという。「アパテイア」(非情)を強調するストア学派は、「個別的なものはどうでもよい」というのだから、ストア主義の「自由」は「抽象的」にすぎない。つまり「ストア主義」の「自由」は、「普遍性」は実現しているが、その「普遍性」は「個別的なもの」を捨象し、どうでもいいとする態度、即ち「アタラクシア」(無関心)の態度に基づいている。したがって、現実的なことでは、「ストア派の自由」が「自由」でない場面が多々でてくる。(147頁)
《参考2》②「スケプシス主義」(「懐疑主義」)は、①「ストア主義」がないがしろにする「個別的特殊的のもの」に目をそそぎ、これを「否定」し、もっと「自由」を「現実的」に実現しようとする。(147頁)
《参考2-2》②「スケプシス主義」はいつもすべてを「否定」してゆく。しかし「否定」してゆくには、「否定せられるもの」がなくてはならないわけで、「否定せられるもの」がいつも「向こうから現れて」くれねばならない。(148頁)
☆そこで②「スケプシス主義」は、「絶対の自由」すなわち「アタラクシアの自由」に到達したようでありながら、じつは「個別」や「特殊」にやはり依存する。(148頁)
☆すなわち②「スケプシス主義」は「感覚を否定」し、「知覚を否定」するといいながらそれに依存し、「支配隷従のおきては相対的のものにすぎぬとして否定」するといいながらそれに依存する。かくてここに②「スケプシス主義」が「アタラクシア」(無関心)(「心の平静」)を完全に実現しえぬゆえんがある。(148頁)
《参考2-3》②「スケプシス主義」において、「人間」は「自己矛盾」を痛切に自覚し、一方で「普遍的」でありながら、他方で「個別的」のものに纏綿(テンメン)される(からみつかれる)という「矛盾」を自覚する。(148頁)
《参考3》しかしこの②「スケプシス主義」の「矛盾」、すなわち一方で「普遍的」でありながら、他方で「個別的」のものに纏綿されるという「矛盾」は、「同一の自己意識」に属するから、これを「統一」づけようとする新しい段階が生じる。これが③「不幸なる意識」(クリスト教的意識)だ。(148頁)
☆「不幸なる意識」(クリスト教的意識)とは、「個別的可変者」(人間)と「普遍的不変者」(神)との「分裂」からおこる「不幸」を克服していない意識だ。(150頁)
★b「ずらかし」は歴史的にいうと、フリードリヒ・シュレーゲル(1772-1829)に代表される「ロマンティスィズム」の「アイロニー」だ。(297頁)
《参考》「浪漫的イロニー」(die romantische Ironie):ドイツ・ロマン派のフリードリヒ・シュレーゲル(1772-1829)が、「アイロニー」を芸術家の創造的意識態度の中核に置いた。これがいわゆる「浪漫的イロニー」である。芸術家は、そのつど特殊で制約された現象としての作品を創造し、その限りで自己およびその創造行為を肯定する。他方で、これら芸術行為やその所産たる美ないし作品は、いずれも精神や美の理念の普遍絶対性に照らし、単にそのつど特殊で経験的な現象であり、自体的には無価値な仮象として否定される。この「無限と有限」、「普遍と特殊」の間の「解消しがたい矛盾の感情」、「逆説の形式」が「浪漫的イロニー」とよばれる。しかし「浪漫的イロニー」によって芸術家は、自己の創造した美しい作品にとらわれることなく、つねに無限なる普遍的理念へと超出する自由を獲得する。「浪漫的イロニー」は「いっさいを見下し、条件づけられたもののいっさいを、《自己の芸術、徳、さらには天才》さえをも超えて無限に高まろうとする気分」である。(参照:『日本大百科全書ニッポニカ』西村清和)
★C「道徳性」の第2段階、b「ずらかし」はもちろん「虚偽」を含む。(297頁)
☆しかしヘーゲルは、「『知覚』のまぬがれえぬ『錯覚』」、「『事そのもの』についての『誠実』が陥らざるをえぬ『欺瞞』」の場合と同じように、C「道徳性」の第2段階のb「ずらかし」にもやはり積極的意義を認めている。(297頁)
☆すなわち、b「ずらかし」によって、「対立」の一方から他方へ、他方からもとの一方へと動くのは、「対立したもの」が「切り離されえない統一したもの」であることを自覚させるゆえんとなるからだ。(297頁)
★かくてC「道徳性」の第2段階、b「ずらかし」においておのずと「統一をつかむ意識」が出てくるが、これがC「道徳性」の第3段階c「良心」にほかならない。(297頁)
《参考1》「『知覚』のまぬがれえぬ『錯覚』」!Cf. 「(A)「意識」or「対象意識」Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚」!
☆「知覚」という意識(対象意識)が「物」をとらえる(受けとる)にあたり、知覚は「Wahr-nehmung」として真理をつかまえるが、しかしそれは「感覚」との比較の上においてのことであって、より高次の(意識の)段階と比較すれば、「知覚」の段階でも真理をつかむということが、じつはつねに「錯覚」だ。(104-105頁)
《参考1-2》「普遍者における個別者」が掴まれて初めて「個別者」は「真理」として掴まれる:「感覚」の段階から「知覚」(Wahrnehmung)の段階へ!単なる「このもの」から 「物」という概念への移行!(98-99頁)
☆「普遍者における個別者」しかないのであって「単なる個別者」はない。すなわち①「意識」(対象意識)自身は最初は「このもの」を掴む。②「意識」は「このもの」が「対象の真理」だと思っていたのに、③じつは「このもの」はなく、それは「マイヌング(私念)」で、④「普遍者におけるこのもの」しかないんだということになる。(98頁)
☆「普遍者における個別者」が掴まれて初めて「個別者」は「真理」として掴まれる。すなわちWahr-nehmung(真理捕捉)となる。このようにして「感覚」の段階から「知覚」(Wahrnehmung)の段階に移って行く。(98頁)
《参考1-2》「自然的意識」は同一律・矛盾律を厳密に守ろうとする。普通の「自然的意識」が、それ(同一律・矛盾律)を墨守せんとしながら、じつは「そうはできないのだ」ということを証明しなければ、ヘーゲルの「弁証法的知識」すなわち「絶対知」、言いかえれば「実体は主体である」という証明はできない。がまさにそれを実行しようとするのがこの(「知覚」における)「錯覚」の段階だ。(金子武蔵氏)(105頁)
☆「物」は「一」と「多」の両方向を含む。「物」が「一にして多である」とすれば「矛盾律・同一律」を否定することになる。そこでこの「一」と「多」のいずれか一方を捨てて他方を認めるとするとどうなるか?一方では「一」を真理として「多」を錯覚とするとう態度が出てくる。例えば「塩」はそれ自身としては「一」であるが、感官の相違によって「多」(Ex. 舌で舐めれば辛い、眼で見れば白い)として受け取られる。かくて「物」は「一」であって、「多」とするのは「錯覚」だとされる。(105頁)
☆それと正反対に、他方では「多」を真理として「一」を錯覚とするとう態度が出てくる。例えば「塩」は本当は「多」(Ex. 白い、辛い、立方形、比重)であって「一」とするのは間違い(「錯覚」)とされる。この場合、①「物」の「性質」を分離する。(Ex. 塩は白くある「限りにおいて」辛くなく、辛い「限りにおいて」白くない。)あるいは②いろんな「素」という概念(Ex. 物が光を発するのは光素、色をもつのは色素、香をもつのは香素、熱を持つのは熱素による;この「素」をヘーゲルは「自由な質料」と呼ぶ)をもってきて、「多くの」素材から「物」ができていると考える。かくて「物」を「一」と考えるのは「錯覚」で、本当は「多」であるとされる。(105-106頁)
☆「知覚」の段階で、こうして相反した態度がこもごも取られる。即ち「知覚」は「物」について、一方では「一」を真理とし「多」を錯覚としておきながら、いつのまにか「多」を真理とし「一」を錯覚とする。なぜこのような別々の態度がとられざるをえないかというと、そもそも「物」それ自体が「矛盾」しているのに、しいて「矛盾律・同一律」を守ろうとするからだ。「物」について「一」を正しいとして「多」を錯覚としたり、あるは「多」を真理とし「一」を錯覚としたりするのは、「真理」そのものが「矛盾」したものであるからだ。「同一律・矛盾律」こそ正しくないのだ。(106頁)
《参考1-3》「知覚」の段階を以下3つに分けてみてゆく。イ「物」、ロ「錯覚」、ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」。(100-101頁)
☆「物」は本来「矛盾」したものだ。それを「綜合」した立場がとられなくてはならない。しかし「矛盾の綜合」は「感覚(or知覚)を超えた叡知」にしてはじめてできる。真の真理は「感覚」(or「知覚」)を超えた「叡知」にしかつかめないが、それが「悟性」だ。(107頁)
☆「物」の矛盾(「知覚」の段階)は、すでに述べたように、「一でありながら多くの性質をもつ」という意味において「一と多との矛盾」だ。(107頁)
☆さらに「物」の矛盾(「知覚」の段階)は、「自と他との矛盾」でもある。「一つの物」は「一つの物」だが、その物がその物であるのは、なにかの「限定」による。その限定はその物のもつ限界だ。しかし「一つの物」だけでは「限定」はありえない。「他の物」があって、それとの関係において初めて「限定」は成立する。それゆえ「一つの物」は「他の物」との関係を含む。ここに「即自」と「対他」との矛盾がある。(107頁)
☆「一つの物」といってもその物だけでは「一つの物」とはいえず、「他の物」があって初めてその物であるから、「即自」と「対他」とはどこまでも「同一物」に帰属する。ある「物」は「即自的」であるが、まさにそのかぎりにおいて同時に「対他的」だ。けっして「即自」と「対他」は切り離すことができない。(107頁)
《参考1-4》「物的な普遍性」に対して、「物」を超えて背後に、その奥にあるもの、「内なるもの」(「無制約的普遍性」)をつかまなくてはならない!「知覚」の段階から「悟性」の段階へ!
☆しかし矛盾を矛盾としている立場はまだ感覚的(or知覚的)だ。「矛盾対立の彼方にある『内なるもの』」をつかんで初めて我々は本当の「真理」をとらえることができる。それはもう「感覚」(or「知覚」)のよくするところではない。それは「無制約的普遍性 unbedingte Allgemeinheit」、もはや「物」的でないところの普遍性だ。「知覚」はまだ「物的な普遍性」を離れえない。あるいは「性質」はまだ「感覚的な普遍性」だと言っても同じことだ。(108頁)
☆「知覚」段階の「物的な普遍性」に対して、「物」を超えて背後に、その奥にあるもの、「内なるもの」(「無制約的普遍性」)をつかまなくてはならない。だがそれは、それはもはや「知覚」のなし得るところではない。そういう「超感性的なもの」をつかむのは「悟性」だ。そういうわけで「知覚」が「悟性」に移って行く。(108頁)
《参考1-5》「知覚」の段階において「個別と普遍」、「一と多」、「即自と対他」、「自と他」といった対立が、互いに他に転換して切りはなすことのできないものであることが、明らかになった。(109頁)
☆それら諸対立なかで、「一と多」という対立は、両者が切り離せないから、「一」の方もすぐ「多」になり、「多」の方もすぐ「一」になるという「相互転換」を意味した。したがって「一」というものは「多」となっておのれをあらわすべきものであり、「多」もまた「一」が外にあらわれて呈する姿にほかならないので「一」に還帰する。かくて「一と多との対立」は、「力」と「その力が外に現れた『外化あるいは発現』」の対立にほかならない。(109頁)
☆この意味で「一と多とが切りはなせない」というのは、「物」がもはや「物」でなく「力」になったことだ。「知覚」段階では「物」を知覚していたのに対して、「一」が「多」と互いに他に転換するという点から見れば、そこには「物」的でない、「制約されない普遍性」すなわち「力」がある。このような意味で、「物」とはじつは「力」なのだ。(109頁)
《参考2》「『事そのもの』についての『誠実』が陥らざるをえぬ『欺瞞』」Cf. 「(C)(AA)「理性」」C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」a精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」!
☆「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」(「誠実なる意識」)は、同時に「欺瞞」である。すなわち「仕事」(「事」)という言葉で「誠実」で「客観的・普遍的・公共的」な成果だけが意味されているかと思うと、実はそうではなく例えば「単なる自己満足としての主観的活動」であってもいいし、「他人にキッカケを与えるだけのもの」でもいいし、また自分の「優越欲」を満足させたり、自分の「寛大さ」を他人に「見せびらかす」という「主観的動機」を含んだものでもあるのだから、「ゴマカシ」のあることは明らかだ。(211頁)
《参考2-2》 (C)(AA)「理性」C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(「社会」)a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」において、「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」(「誠実なる意識」)が、同時に「欺瞞」であることが明らかにされた。(211頁)
☆しかし今度は逆に「欺瞞」が積極的意義をもつことになる。なぜなら例外なく皆が皆お互いに「ごまかしあい」をしているということは「事そのもの」(「仕事」)が①単なる「成果」(「客観的・普遍的・公共的」な成果)でもなければ、単なる「活動」(「自己満足としての主観的活動」)でもなく、②単に「個人的なもの」にすぎぬのでもなければ、単に「公共的なもの」にすぎぬのでもなく、③単に「客観的なもの」でもなければ、単に「主観的なもの」でもなく、すなわち「事そのもの」(「仕事」)は、このように対立する(①②③)両面を含んだものであり、「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」(「誠実なる意識」)において、同時に例外なくみながみなまぬがれえぬ「欺瞞」は、「このような対立(①②③)を越え包む」ところに「真の現実」の成立することを暗示しているからだ。(211頁)
☆「みながみな欺瞞をまぬがれえぬ」ということは、「一段と高まり深まるべきこと」を「意識」に要求している。それはちょうど(A)「対象意識」において「『知覚』が同時に『錯覚』なることをまぬがれえないのは、『一と多』、『自と他』などの対立を越えた無制約的普遍性をとらえる『悟性』にまで高まることを要求した」のと同じだ。(212頁)
☆「対立したもの」のどちらも「切り離してはいけない」のであって、それらをある「全体的なもの」の「契機」として捉えなくてはならないことに気づくことができるようになると、そこに「実体的全体性」が「主体化」されつつ「恢復」されることになる。(212頁)
☆かくて(C)(AA)「理性」C「社会」(「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」)a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」において、「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」と「欺瞞」は「切り離してはいけない」のであって、いまや「実体的全体性の回復」に向かっている。(212頁)
Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」へ「ロマンティスィズム」(その2)(296-297頁)
(73)-2 C「道徳性」の第2段階:b「ずらかし」!それは「道徳的世界観」(カント)が矛盾の巣窟であるという真相を暴露する!だがおのずと「統一をつかむ意識」が出てくる、これがC「道徳性」の第3段階c「良心」にほかならない!
★「道徳的世界観」(カント)は矛盾だらけだから、それが「具体的」に働くときにはb「ずらかし」という C「道徳性」の第2段階が生ずることになる。(296頁)
《参考》「道徳的世界観」(カント)はまだ「抽象的」で3つの矛盾がある。①「『道徳』と『自然』」あるいは①-2「『道徳』と『幸福』(※「自然」に由来する欲求)」との矛盾。(「神の存在」の要請!)②「理性」と「感性」との矛盾。(「霊魂の不死」・「神の存在」の要請!)③「道徳法則」が「抽象的」なので「具体的状況」のもとでの「多数の義務」の間の矛盾。(「神の存在」の要請!)(296頁)
★「ずらかし」(Ver-stellung)とは「物を置くべきところに置かず、置きちがえる」ことである。(296-297頁)
★C「道徳性」の第2段階のb「ずらかし」とは、「一度こうだと言ったのに、すぐにそうではないと言って、反対から反対へずるずる動かすこと」をさす。(Cf. ①「『道徳』と『自然』」あるいは①-2「『道徳』と『幸福』」との矛盾。②「理性」と「感性」との矛盾。③「具体的状況」のもとでの「多数の義務」の間の矛盾。)(297頁)
☆つまりb「ずらかし」とは、「道徳的世界観」(カント)の3つの「要請」における3つの「対立」・「矛盾」( ①②③)において、一方から他方へ、他方からもとの一方へと、ずるずる動くことを指す。(297頁)
★さて「道徳的世界観」(カント)とb「ずらかし」との関係は、大体、「ストア主義」と「スケプシス主義」との関係にあたる。(Cf. (B)「自己意識」B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」!)(297頁)
☆つまり「ストア主義」の実相が「スケプシス主義」によって示されたのと同じように、b「ずらかし」は「道徳的世界観」(カント)が矛盾の巣窟であるという真相を暴露する。(297頁)
《参考1》ストア派は「アパテイア」(非情)(※「心の平安」)を強調する。即ち情欲的のものにとらわれず、「思慮」をもって行動し「理性」をもって事に当たるべしという。「アパテイア」(非情)を強調するストア学派は、「個別的なものはどうでもよい」というのだから、ストア主義の「自由」は「抽象的」にすぎない。つまり「ストア主義」の「自由」は、「普遍性」は実現しているが、その「普遍性」は「個別的なもの」を捨象し、どうでもいいとする態度、即ち「アタラクシア」(無関心)の態度に基づいている。したがって、現実的なことでは、「ストア派の自由」が「自由」でない場面が多々でてくる。(147頁)
《参考2》②「スケプシス主義」(「懐疑主義」)は、①「ストア主義」がないがしろにする「個別的特殊的のもの」に目をそそぎ、これを「否定」し、もっと「自由」を「現実的」に実現しようとする。(147頁)
《参考2-2》②「スケプシス主義」はいつもすべてを「否定」してゆく。しかし「否定」してゆくには、「否定せられるもの」がなくてはならないわけで、「否定せられるもの」がいつも「向こうから現れて」くれねばならない。(148頁)
☆そこで②「スケプシス主義」は、「絶対の自由」すなわち「アタラクシアの自由」に到達したようでありながら、じつは「個別」や「特殊」にやはり依存する。(148頁)
☆すなわち②「スケプシス主義」は「感覚を否定」し、「知覚を否定」するといいながらそれに依存し、「支配隷従のおきては相対的のものにすぎぬとして否定」するといいながらそれに依存する。かくてここに②「スケプシス主義」が「アタラクシア」(無関心)(「心の平静」)を完全に実現しえぬゆえんがある。(148頁)
《参考2-3》②「スケプシス主義」において、「人間」は「自己矛盾」を痛切に自覚し、一方で「普遍的」でありながら、他方で「個別的」のものに纏綿(テンメン)される(からみつかれる)という「矛盾」を自覚する。(148頁)
《参考3》しかしこの②「スケプシス主義」の「矛盾」、すなわち一方で「普遍的」でありながら、他方で「個別的」のものに纏綿されるという「矛盾」は、「同一の自己意識」に属するから、これを「統一」づけようとする新しい段階が生じる。これが③「不幸なる意識」(クリスト教的意識)だ。(148頁)
☆「不幸なる意識」(クリスト教的意識)とは、「個別的可変者」(人間)と「普遍的不変者」(神)との「分裂」からおこる「不幸」を克服していない意識だ。(150頁)
★b「ずらかし」は歴史的にいうと、フリードリヒ・シュレーゲル(1772-1829)に代表される「ロマンティスィズム」の「アイロニー」だ。(297頁)
《参考》「浪漫的イロニー」(die romantische Ironie):ドイツ・ロマン派のフリードリヒ・シュレーゲル(1772-1829)が、「アイロニー」を芸術家の創造的意識態度の中核に置いた。これがいわゆる「浪漫的イロニー」である。芸術家は、そのつど特殊で制約された現象としての作品を創造し、その限りで自己およびその創造行為を肯定する。他方で、これら芸術行為やその所産たる美ないし作品は、いずれも精神や美の理念の普遍絶対性に照らし、単にそのつど特殊で経験的な現象であり、自体的には無価値な仮象として否定される。この「無限と有限」、「普遍と特殊」の間の「解消しがたい矛盾の感情」、「逆説の形式」が「浪漫的イロニー」とよばれる。しかし「浪漫的イロニー」によって芸術家は、自己の創造した美しい作品にとらわれることなく、つねに無限なる普遍的理念へと超出する自由を獲得する。「浪漫的イロニー」は「いっさいを見下し、条件づけられたもののいっさいを、《自己の芸術、徳、さらには天才》さえをも超えて無限に高まろうとする気分」である。(参照:『日本大百科全書ニッポニカ』西村清和)
★C「道徳性」の第2段階、b「ずらかし」はもちろん「虚偽」を含む。(297頁)
☆しかしヘーゲルは、「『知覚』のまぬがれえぬ『錯覚』」、「『事そのもの』についての『誠実』が陥らざるをえぬ『欺瞞』」の場合と同じように、C「道徳性」の第2段階のb「ずらかし」にもやはり積極的意義を認めている。(297頁)
☆すなわち、b「ずらかし」によって、「対立」の一方から他方へ、他方からもとの一方へと動くのは、「対立したもの」が「切り離されえない統一したもの」であることを自覚させるゆえんとなるからだ。(297頁)
★かくてC「道徳性」の第2段階、b「ずらかし」においておのずと「統一をつかむ意識」が出てくるが、これがC「道徳性」の第3段階c「良心」にほかならない。(297頁)
《参考1》「『知覚』のまぬがれえぬ『錯覚』」!Cf. 「(A)「意識」or「対象意識」Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚」!
☆「知覚」という意識(対象意識)が「物」をとらえる(受けとる)にあたり、知覚は「Wahr-nehmung」として真理をつかまえるが、しかしそれは「感覚」との比較の上においてのことであって、より高次の(意識の)段階と比較すれば、「知覚」の段階でも真理をつかむということが、じつはつねに「錯覚」だ。(104-105頁)
《参考1-2》「普遍者における個別者」が掴まれて初めて「個別者」は「真理」として掴まれる:「感覚」の段階から「知覚」(Wahrnehmung)の段階へ!単なる「このもの」から 「物」という概念への移行!(98-99頁)
☆「普遍者における個別者」しかないのであって「単なる個別者」はない。すなわち①「意識」(対象意識)自身は最初は「このもの」を掴む。②「意識」は「このもの」が「対象の真理」だと思っていたのに、③じつは「このもの」はなく、それは「マイヌング(私念)」で、④「普遍者におけるこのもの」しかないんだということになる。(98頁)
☆「普遍者における個別者」が掴まれて初めて「個別者」は「真理」として掴まれる。すなわちWahr-nehmung(真理捕捉)となる。このようにして「感覚」の段階から「知覚」(Wahrnehmung)の段階に移って行く。(98頁)
《参考1-2》「自然的意識」は同一律・矛盾律を厳密に守ろうとする。普通の「自然的意識」が、それ(同一律・矛盾律)を墨守せんとしながら、じつは「そうはできないのだ」ということを証明しなければ、ヘーゲルの「弁証法的知識」すなわち「絶対知」、言いかえれば「実体は主体である」という証明はできない。がまさにそれを実行しようとするのがこの(「知覚」における)「錯覚」の段階だ。(金子武蔵氏)(105頁)
☆「物」は「一」と「多」の両方向を含む。「物」が「一にして多である」とすれば「矛盾律・同一律」を否定することになる。そこでこの「一」と「多」のいずれか一方を捨てて他方を認めるとするとどうなるか?一方では「一」を真理として「多」を錯覚とするとう態度が出てくる。例えば「塩」はそれ自身としては「一」であるが、感官の相違によって「多」(Ex. 舌で舐めれば辛い、眼で見れば白い)として受け取られる。かくて「物」は「一」であって、「多」とするのは「錯覚」だとされる。(105頁)
☆それと正反対に、他方では「多」を真理として「一」を錯覚とするとう態度が出てくる。例えば「塩」は本当は「多」(Ex. 白い、辛い、立方形、比重)であって「一」とするのは間違い(「錯覚」)とされる。この場合、①「物」の「性質」を分離する。(Ex. 塩は白くある「限りにおいて」辛くなく、辛い「限りにおいて」白くない。)あるいは②いろんな「素」という概念(Ex. 物が光を発するのは光素、色をもつのは色素、香をもつのは香素、熱を持つのは熱素による;この「素」をヘーゲルは「自由な質料」と呼ぶ)をもってきて、「多くの」素材から「物」ができていると考える。かくて「物」を「一」と考えるのは「錯覚」で、本当は「多」であるとされる。(105-106頁)
☆「知覚」の段階で、こうして相反した態度がこもごも取られる。即ち「知覚」は「物」について、一方では「一」を真理とし「多」を錯覚としておきながら、いつのまにか「多」を真理とし「一」を錯覚とする。なぜこのような別々の態度がとられざるをえないかというと、そもそも「物」それ自体が「矛盾」しているのに、しいて「矛盾律・同一律」を守ろうとするからだ。「物」について「一」を正しいとして「多」を錯覚としたり、あるは「多」を真理とし「一」を錯覚としたりするのは、「真理」そのものが「矛盾」したものであるからだ。「同一律・矛盾律」こそ正しくないのだ。(106頁)
《参考1-3》「知覚」の段階を以下3つに分けてみてゆく。イ「物」、ロ「錯覚」、ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」。(100-101頁)
☆「物」は本来「矛盾」したものだ。それを「綜合」した立場がとられなくてはならない。しかし「矛盾の綜合」は「感覚(or知覚)を超えた叡知」にしてはじめてできる。真の真理は「感覚」(or「知覚」)を超えた「叡知」にしかつかめないが、それが「悟性」だ。(107頁)
☆「物」の矛盾(「知覚」の段階)は、すでに述べたように、「一でありながら多くの性質をもつ」という意味において「一と多との矛盾」だ。(107頁)
☆さらに「物」の矛盾(「知覚」の段階)は、「自と他との矛盾」でもある。「一つの物」は「一つの物」だが、その物がその物であるのは、なにかの「限定」による。その限定はその物のもつ限界だ。しかし「一つの物」だけでは「限定」はありえない。「他の物」があって、それとの関係において初めて「限定」は成立する。それゆえ「一つの物」は「他の物」との関係を含む。ここに「即自」と「対他」との矛盾がある。(107頁)
☆「一つの物」といってもその物だけでは「一つの物」とはいえず、「他の物」があって初めてその物であるから、「即自」と「対他」とはどこまでも「同一物」に帰属する。ある「物」は「即自的」であるが、まさにそのかぎりにおいて同時に「対他的」だ。けっして「即自」と「対他」は切り離すことができない。(107頁)
《参考1-4》「物的な普遍性」に対して、「物」を超えて背後に、その奥にあるもの、「内なるもの」(「無制約的普遍性」)をつかまなくてはならない!「知覚」の段階から「悟性」の段階へ!
☆しかし矛盾を矛盾としている立場はまだ感覚的(or知覚的)だ。「矛盾対立の彼方にある『内なるもの』」をつかんで初めて我々は本当の「真理」をとらえることができる。それはもう「感覚」(or「知覚」)のよくするところではない。それは「無制約的普遍性 unbedingte Allgemeinheit」、もはや「物」的でないところの普遍性だ。「知覚」はまだ「物的な普遍性」を離れえない。あるいは「性質」はまだ「感覚的な普遍性」だと言っても同じことだ。(108頁)
☆「知覚」段階の「物的な普遍性」に対して、「物」を超えて背後に、その奥にあるもの、「内なるもの」(「無制約的普遍性」)をつかまなくてはならない。だがそれは、それはもはや「知覚」のなし得るところではない。そういう「超感性的なもの」をつかむのは「悟性」だ。そういうわけで「知覚」が「悟性」に移って行く。(108頁)
《参考1-5》「知覚」の段階において「個別と普遍」、「一と多」、「即自と対他」、「自と他」といった対立が、互いに他に転換して切りはなすことのできないものであることが、明らかになった。(109頁)
☆それら諸対立なかで、「一と多」という対立は、両者が切り離せないから、「一」の方もすぐ「多」になり、「多」の方もすぐ「一」になるという「相互転換」を意味した。したがって「一」というものは「多」となっておのれをあらわすべきものであり、「多」もまた「一」が外にあらわれて呈する姿にほかならないので「一」に還帰する。かくて「一と多との対立」は、「力」と「その力が外に現れた『外化あるいは発現』」の対立にほかならない。(109頁)
☆この意味で「一と多とが切りはなせない」というのは、「物」がもはや「物」でなく「力」になったことだ。「知覚」段階では「物」を知覚していたのに対して、「一」が「多」と互いに他に転換するという点から見れば、そこには「物」的でない、「制約されない普遍性」すなわち「力」がある。このような意味で、「物」とはじつは「力」なのだ。(109頁)
《参考2》「『事そのもの』についての『誠実』が陥らざるをえぬ『欺瞞』」Cf. 「(C)(AA)「理性」」C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」a精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」!
☆「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」(「誠実なる意識」)は、同時に「欺瞞」である。すなわち「仕事」(「事」)という言葉で「誠実」で「客観的・普遍的・公共的」な成果だけが意味されているかと思うと、実はそうではなく例えば「単なる自己満足としての主観的活動」であってもいいし、「他人にキッカケを与えるだけのもの」でもいいし、また自分の「優越欲」を満足させたり、自分の「寛大さ」を他人に「見せびらかす」という「主観的動機」を含んだものでもあるのだから、「ゴマカシ」のあることは明らかだ。(211頁)
《参考2-2》 (C)(AA)「理性」C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(「社会」)a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」において、「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」(「誠実なる意識」)が、同時に「欺瞞」であることが明らかにされた。(211頁)
☆しかし今度は逆に「欺瞞」が積極的意義をもつことになる。なぜなら例外なく皆が皆お互いに「ごまかしあい」をしているということは「事そのもの」(「仕事」)が①単なる「成果」(「客観的・普遍的・公共的」な成果)でもなければ、単なる「活動」(「自己満足としての主観的活動」)でもなく、②単に「個人的なもの」にすぎぬのでもなければ、単に「公共的なもの」にすぎぬのでもなく、③単に「客観的なもの」でもなければ、単に「主観的なもの」でもなく、すなわち「事そのもの」(「仕事」)は、このように対立する(①②③)両面を含んだものであり、「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」(「誠実なる意識」)において、同時に例外なくみながみなまぬがれえぬ「欺瞞」は、「このような対立(①②③)を越え包む」ところに「真の現実」の成立することを暗示しているからだ。(211頁)
☆「みながみな欺瞞をまぬがれえぬ」ということは、「一段と高まり深まるべきこと」を「意識」に要求している。それはちょうど(A)「対象意識」において「『知覚』が同時に『錯覚』なることをまぬがれえないのは、『一と多』、『自と他』などの対立を越えた無制約的普遍性をとらえる『悟性』にまで高まることを要求した」のと同じだ。(212頁)
☆「対立したもの」のどちらも「切り離してはいけない」のであって、それらをある「全体的なもの」の「契機」として捉えなくてはならないことに気づくことができるようになると、そこに「実体的全体性」が「主体化」されつつ「恢復」されることになる。(212頁)
☆かくて(C)(AA)「理性」C「社会」(「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」)a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」において、「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」と「欺瞞」は「切り離してはいけない」のであって、いまや「実体的全体性の回復」に向かっている。(212頁)
Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」