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山白朝子(1978-)「〆(シメル)」(2009年):魔術的世界には、物理的原因と別に、超/非科学的・魔術的原因がある!(なぜ人面魚が存在するかの問題)

2018-06-12 22:52:57 | 日記
(1)
友人・和泉蠟庵の供(トモ)をして、「私」は旅行した。
(2)
その途中、1羽の鶏に偶然出会い、それに餌をあげたところ、そのあとずっと私たちの後をついてきた。白くきれいで可愛い鶏だ。鶏が歩くのが大変そうなときは、私が抱えたり、自分の持つ袋に鶏を入れて、運んでやったりした。私は、その鶏が好きになった。この鶏に私は「小豆」という名前を付け、かわいがった。
(3)
ある時、私たちは、険しい山道を上った。上まで登り切ったら、そこは海だった。おかしいと思ったが、蠟庵は、地理感覚に疎いせいか、「気のせいだろう」と不思議とも思わない。
(4)
夜、村はずれの空き屋に泊まる。私は、多くの者たちから見られている気配がして、いやな気分だった。よく見ると、板戸、天井、柱、木の床の木目に、「人の顔の模様」(パレイドリア)があった。蠟庵は、「模様だ」と言って、全く気にしない。
(5)
翌日、村人が魚の干物を分けてくれたが、魚の顔が、まるで人の顔のようだった。怖くて自分は食べられなかった。海で生きた魚を捕れば、それらの魚も人間の顔だ。(人面魚!)生えている木にも、石ころにも、家の壁にも、野菜にも、あらゆる物に人の顔がある。蠟庵は、やはり、「そういう模様・形だ」と気にしない。
(6)
私は病気になった。怖くて何も食べられない。生きた魚の調理は、小さな生きた人を、切り裂き、ぶつ切りににして、煮るようだった。この時も、蠟庵は、「人の顔でなく、模様・形にすぎない」と全くとりあわない。
(6)
ついに私は飢餓状態となり、意識がもうろうとし、死ぬ、一歩手前になる。そのとき、はたと気づく。「小豆」(鶏)がいたではないか。私は、「小豆」の首を絞めて殺し(「〆(シメル)」)、調理して食べる。私は、飢え死にをまぬかれ、病気も治った。蠟庵は、「小豆」がかわいそうだと、その骨を拾い集め袋に入れ、持って行くことにした。
(7)
すぐ、私たちは、その村を立った。途中、私は、「小豆」が不憫(フビン)になった。私は「小豆」の骨の袋を、蠟庵から渡され、その骨を見て泣いた。

《感想1》
魔術が支配的な社会or時代だったら、人の顔の模様や形(パレイドリア)は、単なる物理的世界(自然)の偶然でなく、超物理的・魔術的な原因が探されるだろう。
《感想1ー2》
魔術的世界では、木目の人の顔は、模様でなく、まさしく人の顔だ。模様が、叫んだり泣いたりしてもおかしくない。魔術的世界には、物理的原因と別に、超/非科学的・魔術的原因があるからだ。
《感想1ー3》
その場合、人面の魚は、超/非科学的・魔術的に、例えば死んだ人間の生まれ変わりとされる。
《感想1ー4》
「私」は、超/非科学的・魔術的見解に影響を受けるが、蠟庵は科学的・非魔術的だ。蠟庵は、「この世」つまり物理的世界の外にでない。「この世」的な物理的原因と別に、「あの世」的な、超/非科学的・魔術的原因があると考えない。
《感想2》
あの可愛い白い鶏「小豆」は、優美な少女の生まれ変わりだったかもしれない。超/非科学的・魔術的見解に惹かれる「私」は、人間の生まれ変わりを食べたかもしれないと、自己嫌悪し、かつ謝罪する。
《感想2ー2》
あるいは、「小豆」を食べた「私」は、《かわいがっていたペットの例えば犬を、自分の飢餓を満たすため食べた》のと同じだと思い、自己嫌悪し「小豆」(ペット)に謝り泣く。
《感想2ー3》
参考:大岡昇平の小説『野火』は、飢餓状態で日本兵が戦友の肉を食べる話だ。武田泰淳『ひかりごけ』も食人事件を描く。
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