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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(三)「理性」1「観察」(その10-2):「骨相術」は「精神の自由」を無視している!ヘーゲルは「精神物理学」的立場や「唯物論」にも意義を認める!

2024-07-01 16:20:18 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(三)「理性」1「観察」(その10-2)(185-187頁)
(40)-3 「外は内の表現である」という命題:(ト)「骨相術」!ヘーゲルによれば「骨相術」も「精神の自由」を無視した見方だとされる!
★「表情」(「顔つき」とか「ものごし」とか)において、「外は内の表現である」ということが成り立つだろうというわけで、ヘーゲルは「人相術的法則」を取り上げる。「外は内の表現である」ということの成立は、そこでも一応、認められるにしても、本当には、すなわち「概念」的には成立しないと、ヘーゲルは言った。(184-185頁)(既述)
★かくてヘーゲルは「頭蓋骨論」(「骨相術」)を取り上げる。「人相術」(「観相学」)がうまくいかないのは「顔つき」・「態度」・「物ごし」などは「動き」であって、明確さを欠きなかなかとらえ難いからだ。(185頁)
☆そこで「もっと固定した表現」なら間違いなかろうというわけで、「頭蓋骨論」が出てくる。(185頁)
☆人間がものを考えるとき、「大脳」をもってするが、大脳にいちばん近いのは「頭蓋骨」で、それによって包まれているから、大脳に興奮が生じたりすると、頭蓋骨にも影響を及ぼす。そこで「骨相」で人の「性格」を判断することが可能だというわけだ。(185頁)

《参考》ガルの「骨相術」(「骨相学」)Phrenologieによれば、脳は「色、 音、言語、名誉、友情、芸術、哲学、盗み、殺人、謙虚、高慢、社交」などといった精神活動」に対応した27個の「器官」の集まりとされ、各「器官」の働きの個人差が頭蓋の大きさや形状に現れるとされた。初期の脳機能局在論である。

★しかし「骨相術」も「精神の自由」を無視した見方だと、ヘーゲルは言う。「精神」も、「物」によって、「脳髄」によって、また「頭蓋骨」によって束縛され、「物」・「脳髄」・「頭蓋骨」においておのれ(「精神」)を「表現」しもするが、しかし同時に「精神」は「もっと自由なもの」であるというのが、その理由だ。(185頁)

★かくてヘーゲルは「無限判断」というものを、ここで提出してくる。(185頁)
☆「無限判断」は一般的には「A is non-B」という形式であらわされる。「無限判断」は、形の上では「肯定判断」だが、意味の上では「否定判断」だ。(185頁)
☆ヘーゲルはこれをたくみに使って、「無限判断」は「肯定」(※「is」)において「無限」であるとともに、「否定」(※「non-B」)においても「無限」であると考える。(185-186頁)
☆つまり「精神は物である」という判断、あるいは(このさいの「物」をもっと特殊化して)「精神は頭蓋骨である」という判断は、「肯定的にも否定的にも無限である」とヘーゲルは解する。(186頁)

Cf.  ヘーゲルは「無限」について、「真無限」と「悪無限」という二つを考える。それからそれへと「無限」に続いて、どこまでいっても「対立」や「他者」が残るのが「悪無限」だ。これに対して、自分に対する「他者」が一つも残らないのが「真無限」だ。したがって、根柢に「統一」があって、その「統一」がおのれを分けて二つの「対立」を生じ、また相互転換によって一つに帰るという運動は「真無限」だ。(121頁)

(40)-3-2 「観察的理性」:「理性が物であり、物が理性である」!ヘーゲルは「精神物理学」的立場や「唯物論」にもその意義を認めようとしている!「唯物論」(or「頭蓋骨論」or「精神や理性が物である」)は「結合」の一面だけを見て、「分離」の面を全然、忘れている!
★「『観察的理性』は『頭蓋骨』において『精神』の表現をみる」。「頭蓋論」(「骨相術」)は、根本的にいうと「理性が物であり、物が理性である」ということにその根拠を持つ。この根拠によって立つものが「観察的理性」にほかならないのだから、「頭蓋論」は「観察的理性」の極限であり完成だ。(186頁)
★「理性が物であり、物が理性である」というときの「物」は、「からだ全体」であってもよいし、また「物質的生産力」のごときものであってもよい。ここでヘーゲルは「精神物理学」的立場や「唯物論」にもその意義を認めようとしている。(186頁)

★しかし「精神や理性が物である」のは「無限判断」の「肯定面」において成立することにすぎない。「無限判断」には、もう一つ「否定面」がある。「無限判断」は「肯定判断」であると同時に「否定判断」だ。(186頁)
☆しかも「結合」においても「分離」においても「無限」だ。(186頁)

☆「否定面」からすると、「精神・理性・自己」に対する「物」、その極限としての「骨」は、「分離」したものだが、この「分離」の面を「頭蓋骨論」(「骨相術」)は忘れていると、ヘーゲルは言う。(186頁)
☆即ち、たしかに「唯物論」(or「頭蓋骨論」or「精神や理性が物である」)も成り立ちはするが、それは「結合」の一面だけを見て、「分離」の面を全然、忘れている。(186頁)

(40)-4 「精神」は「生き動く」時にのみ存在する:「観察」の段階から「行為」の段階へ!
★それでは「客観や物」に対して、「主観や精神や自己」がどういう違いをもっているかというと、それは「自由に働き活動する」ものであることに存すると、ヘーゲルは言う。(186-187頁)
☆「活動」(「自由に働き活動する」こと)をやめるならば、「人格」は「人格」として存在しない。また「精神」は「生き動く」時にのみ存在する。(187頁)

★したがって「相違点」をも考えた上で、「主観や精神や自己」と「客体」との「統一」をはらなくてはならないが、これは「行為」に現れてくる。そこで「観察」の段階から「行為」の段階へ移ってゆく。(187頁)

《参考1》「肯定判断」とは主語に述語を付加する判断であり(「S は P である」)。「否定判断」とは主語に述語を付加することを否定する判断であり(「S は P ではない」)。「無限判断」とは 主語に否定的述語を付加する判断である(「S は非 P である」)。

《参考2》カントは「無限判断」について次のように言っている。「もし私が魂について、それは『死すべきものではないもの』であると言うのならば、或る一つの否定的な判断(※無限判断)を通じて私は少なくとも一つの誤りを防いだことになるであろう。というのも、この魂は『死すべきものではないもの』であるという文によっては、私は魂を『死すべきものではないもの』という無制限(※無限)の領域に置いたわけだから、たしかに論理的な形式からは実際に肯定したのである。」(訳参考:伊野連)

《参考3》「質」の観点からの判断の第一は、「肯定判断」である。たとえば、(1) 「The soul is mortal.」(魂は可死的である。)は「肯定判断」だ。これに並ぶ、第二の判断は「否定判断」である。(2)「 The soul is not mortal.」( 魂は可死的ではない。)判断はすべてこの二種類のどちらかに振り分けられるはずで、これ以外の判断はありえないように思える。ところが、カントによると、もうひとつ、「無限判断」と名付けられる判断がある。(3) 「The soul is not-mortal.」( 魂は非‐可死的である。)「否定判断」(2)と「無限判断」(3)は、形式論理的には同値であって区別できない。しかしカントの超越論的論理学の立場からは「否定判断」と「無限判断」は異なる。「無限判断」では、非‐述語(非‐可死的である)が肯定される。「無限判断」では存在の不可能性が、逆説的にも、積極的な対象性を獲得し、一個の実体として存在する。(参考:大澤真幸)

Cf.  石川 求『カントと無限判断の世界』(2018年):「和辻哲郎文化賞」(学術部門)。「世界は与えられているのではなく課せられている」──そう唱えて、自由の権利より義務を、主権より権力の分立を、世界共和国より諸国の連盟を、そして同胞愛より外国人への尊敬を説いたイマヌエル・カント。不世出の哲学者の思索のすべては「無限判断」に貫かれていた。プラトン以来、連綿と受け継がれながら、近代のとば口で蹉跌を抱えて今日に至る西欧思想の裏面史を跡づけながら明らかにされる、前人未到の系譜学。

《参考4》石川求『カントと無限判断の世界』によれば「無限判断」は、「プラトンからゆうに2000年を超えてヘーゲルまでを貫いている一条の光線」だと言われる。あるいはパルメニデスから始まり、カントが重視し、「無限判断」は西洋哲学の中心的な問題である。しかし「カントが論証もそこそこに言い放っただけの文章の前提条件を、ヘーゲルの省察は根底から解き明かす」。ヘーゲルの「無限判断」論を評価することこそが、カント研究に資する。(2018/08/09 高橋一行)

《参考5》カントにおいては、「魂は不死である」というのが「無限判断」の例になる。ヘーゲルは、「魂は不死である」という判断においては、主語と述語は徹底的に乖離していて、「魂」と「死」の間にある無限の差異を肯定的に表したものなのである。つまり形式的には肯定だが、実質は否定である。ヘーゲルにとって、「無限判断」では、主語と述語は全く結び付けられることはない。主語と述語は媒介や架け橋を拒絶する。カントが理解し、ヘーゲルに伝えた「無限判断」論の要点は、主語(Ex. 「魂」)が何(Ex. 「死」)でないかを果てしなく、かつ虚しく語る似非判断だということである。「無限判断」の述語は述語の形式を採ってはいても、何も述定しない。(2018/08/09 高橋一行)
《参考5-2》ヘーゲルは「無限判断」論において主語と述語の「分裂」を論じておいて、しかしその後結局は同一へ、つまり主語と述語の「結合」に向かうと、石川求はまとめる。高橋一行の見解でも、ヘーゲルにおいては、「無限判断」論の発想がその哲学の基本となっていて、つまり「結び付けられそうもないものが強引に結び付けられ、その結び付きは不安定なまま、事態は進行する」のがヘーゲルの論理である。(2018/08/09 高橋一行)
《参考5-3》石川求氏は、カントの論理ではヘーゲルと違って、「悪無限」から「真無限」に移行せず、その「無限判断」は「悪無限」的なままである。すなわち「Sは非Pである」のだが、さらにそれは「非Q」でもあり、「非R」でもある。それは「真無限」に回収されず、主語と述語の対立は「区別」の関係を続ける。
(2018/08/09 高橋一行)

《参考6》「現象」と「物自体」の区別について、カントは「フェノメノン」と「ヌーメノン」の区別として論じる。「ヌーメノン」とは、「フェノメノンでないもの」としか定義できない。つまりそれは「無限判断」においてしか扱うことができない。「現象」の外の広がり(「物自体」)は空虚な無限だ。(2018/08/09 高橋一行)
Cf. 「ヌーメノン」は、ギリシャ語の「ヌース」(精神)に由来する。「フェノメノン」すなわち「現象」と対照を成す語。カント哲学においては、「物自体」とほぼ同義で用いられる。

《参考7》カントは『純粋理性批判』「超越論的論理学」「超越論的分析論」の「判断表」で、判断の「質」に関して、「肯定判断」と「否定判断」加えて、第三の「無限判断」の意義を強調している。カントの原典では次のようになる。
「もし私が魂について、それは《死すべきものではないもの》であると言うのならば、或る一つの否定的な判断を通じて私は少なくとも一つの誤りを防いだことになるであろう。というのも、この『魂は《死すべきものではないもの》である』という文によっては、私は魂を《死すべきものではないもの》という無制限(※「無限」)の領域に置いたわけだから、たしかに論理的な形式からは実際に肯定したのである。」またカントは「[否定的述語によって排除された]この残余の領域が無限であるがゆえに、この判断は無限判断と呼ばれる」と述べる。(伊野連)
《参考7-2》ランベルト曰く、「『AはBではない』(A ist nicht B)、『Aは非Bである』(A ist nicht-B)。前の命題(『AはBではない』)において、命題は否定的である。後ろの命題(『Aは非Bである』)においては非B(Nicht-B)が全体が一つであり、命題は肯定的である。そして、非Bとは、その述語あるいは指標(Merkmal)にはBは属さない、と言いうるような概念を表している。しかしだからといってこの概念は、まだ積極的な(positive、具体的)あるいは一定の仕方で明らかになっているわけではないゆえに、論理学においては非Bは無限述語と呼ばれている」(ランベルト)

《参考6-3》カント、(フィヒテ、)シェリングそしてヘーゲルへと正統の「無限判断」論は継承されている。「無限判断」は、「主語と述語との間にいかなる合理的な関係も無いような命題」にほかならない。(伊野連)
《参考6-3-2》例えば「ピカソは非凡である」という「無限判断」について、〈ピカソは天才である〉と解釈するのならば、それは「主語」の意味を事前に定めてから「述語」の意味と照らし合わせるという〈論点先取(petitio principii)〉の誤謬に陥っている。なぜならその解釈には〈二〇世紀最大の天才画家パブロ・ピカソ〉という〈過去の歴史的事実〉、つまり我々にとって〈予備知識〉ないし〈先入観〉、あるいは〈教養〉が前提になっているからだ。(※「無限判断」は、「主語と述語との間にいかなる合理的な関係も無いような命題」なのだ。かくて「主語」の意味を事前にいかようにも定めることができる!)(伊野連)
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