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牧野信一(1896-1936)『ゼーロン』(1931、36歳):ゼーロンは「宙に舞い、霞を喰らいながら、変梃な身ぶりで面白そうにロココ風の『四人組の踊り』(カドリール)を踊っていた」! 

2024-05-25 11:58:06 | 日記
(1)
「私」は「新しい原始生活」に向かう。(※「経済破綻」した主人公がそれを「新しい原始生活」と見立てている。)「私」は一切の所有物を整理したが、唯一「一個のブロンズ像」の始末に困った。それは経川槙雄の「マキノ氏像」なるブロンズの等身胸像だ。私はそれを若き芸術家たちのパトロン役を引き受けていた藤屋氏の許に運んで保存を乞おうと考えた。私は大型の登山袋にブロンズ像を収め、登山姿で出かけた。新宿から急行電車に乗り終点の4駅ほど手前の駅でおり、一里歩いて塚田村の知り合いの水車小屋で馬車引き馬のゼーロンを借りた。藤屋氏のすむ住居「ピエル・フォン」は山峡の森陰にあり、馬に乗って一日かかる山奥だ。

《注》「藤屋八郎」氏は「ギリシャ古典から欧州中世紀騎士道文学」の研究家。住居「ピエル・フォン」の屋敷内には、幾棟かの「丸木小屋」が点在し、それらは「シャルルマーニュの体操場」「ラ・マンチアの図書室」「P・R・B(プレ・ラファエレ・ブラザフッドすなわちラファエル前派)のアトリエ」「イデアの楯」「円卓の館」となどと名付けられ、貧しい芸術家のために寄宿舎としている。
《注》「経川槇雄」は「P・R・Bのアトリエ」の食客。2年もの間、「私」をモデルにして、ブロンズの等身胸像「マキノ氏像」を作った。経川の作品には、莫大な価格をもって売約を申込む希望者(Ex. 村長、地主など)もいる。 
《注》「私」はストア派の吟遊作家。「ピエル・フォンの吟遊詩人」と自称する。東京に居住。2年ほど前は、神奈川県足柄上郡の藤屋八郎氏の食客として「ピエル・フォン」に居住していた。父親は10年前に他界。小田原町の実家には亡き父親の肖像画がある。
《注》「ゼーロン」は水車小屋の馬車引き馬。栗毛の牡。「私」がたびたび借りていた愛馬。以前は、村の居酒屋で酔いつぶれた「私」をちゃんと背中に乗せて、深夜の道を、手綱を執る者もなくても住家まで送り届ける親切で優秀な馬だった。今はすっかり愚物となり、「図太い驢馬」のような性質になり、「打たなければ決して歩まぬ」ようになったりする。

(2)
経川の「マキノ氏像」は不評で「あんな碌でなしの馬鹿野郎の像」と村人たちから言われた。他の像を経川氏が作れば高く買う者もいるはずなのに「マキノ氏像」は売れない。経川のアトリエの窓に、経川の債権者たちが怒って石を投げたりした。かくて経川槙雄の「マキノ氏像」なるブロンズの等身胸像を、「私」は「若き芸術家たちのパトロン役」を引き受けていた藤屋氏の許に運んで保存を乞うほかなかった。
(3)
さてゼーロンはろくに歩かない。途中、勝手に「草を喰み」、ビクとも動かない。ゼーロンはもはや、かつてのような「僕のペガサス」、「勇敢なロシナンテ」ではない。しかもゼーロンは「跛(ビッコ)」でまた、気まぐれだ。急に止まり、急に走り出す。このようにいうことをきかぬゼーロンを苦労して「私」は進ませるほかない。
(3)-2
途中に私を待ち受ける多くの障害があった。①ピストルを撃ってライター代わりにする盗賊団長。②豪胆者坂田金時、新羅三郎でなければこえられないような深い森、③野火に襲われたら無残な横死を遂げるしかない荒野、④昼間でも狐狸の類が出現する暗い「貧乏坂」、⑤しかも「村人」たちは借金まみれの「私」を捜しているから「村人」に発見されてはならない。「村の連中に捕縛される」恐れがある。
(4)
ゼーロンはまたも「打たなければ歩かぬ驢馬」のようになる。鞭がなかったのでゼーロンを腕でたたいたが、ゼーロンは動かず「両腕は全然感覚を失って」しまった。ゴリアテを殺したダビデのように石をゼーロンの臀部に当てると、今度はゼーロンは、急に猪突猛進。やがて足並みを緩めたゼーロンに「私」が今度はアッパーカットを食らわすとゼーロンはピョンピョンと走り出す。「私」は地をすって行く手綱を拾い、ゼーロンに飛び乗る。そして「進め、進め・・・・・・・・」と連呼した。
(5)
「私」とゼーロンはついに降り坂にさしかかった。バッタのように「奇態な跛馬」がピョンピョン駆ける。背中の袋の中の重いブロンズの「マキノ氏像」が背なかではね、血だらけになる。ゼーロンは「宙に舞い、霞を喰らいながら、変梃な身ぶりで面白そうにロココ風の『四人組の踊り』(カドリール)を踊っていた」。
(5)-2
「私」はその時、「マキノ氏像」をカネに替える名案を思いついた。「実家に売れ!」「十年前に亡くなった父の像」として売れば文字通り「マキノ氏像」として売れる!「得も言われぬ怖ろしい因果の稲妻」に「私」は打たれた。
(5)-3
ゼーロンと「私」は「沼の底に似た森」を走っていた。「樹々の梢が水底の藻に見え、『水面』を仰ぐと塒(ネグラ)へ帰る鳥の群が魚に見え、ゼーロンにも私にも鰓があるらしかった。」

《参考1》牧野 信一(1896-1936):神奈川県足柄下郡小田原町(現・小田原市)出身。自然主義的な私小説の傍流とみなされることが多い。「ギリシャ牧野」とも呼ばれた中期の幻想的な作品で新境地を拓いたが、最後は小田原の生家で縊死自殺を遂げた。牧野信一の文学は、初期「自然主義的」私小説、中期「幻想」小説、後期私小説への復帰、と通常大まかに分類されている。

《参考2》『ゼーロン』は、「ギリシャ牧野」と呼ばれる中期の牧野文学の代表作だ。「小田原」の村の風土に古代ギリシャや中世ヨーロッパのイメージを重ね合わせる。怠惰な駄馬に堕した愛馬「ゼーロン」との騎馬行を夢と現実が交錯する趣向で描く。

《参考3》牧野信一は1928年頃から、プラトン『ソクラテスの弁明』・『クリトン』、アリストテレス『詩学』、セルバンテス『ドン・キホーテ』、ゲーテ『ファウスト』、スウィフト『ガリバー旅行記』、スターン(1713-1768)『感傷旅行』(A Sentimental Journey)などを愛読。

《参考4》三島由紀夫は「二人(梶井基次郎、中島敦)のストイックな生き方と作品形成に比べると、ヴァガボンド的要素に富み、私小説の系統ながら、独自の幻想とどす黒いユーモアに溢れ、文章も他二人に比べれば破格で、それだけに他の二人よりも読者の好悪のある作家である」と述べる。(三島由紀夫「解説 牧野信一」『日本の文学34 内田百閒・牧野信一・稲垣足穂』)

《参考4》1924年父親の急死以降、牧野の生家は父の残した借金や負債を抱え、信一名義となった家屋敷や土地も親類に詐取される。1927年春頃から牧野は神経衰弱に陥り、またプロレタリア文学の進出に押されつつ、小田原で静養生活をしながら、東京へも上京し雑誌編集に携わる往復生活を送る。1930年、井伏鱒二、小林秀雄、河上徹太郎らと知り合い交流し、そんな中、1931年『ゼーロン』が発表された。

《参考5》堀切直人の解説(『ゼーロン・淡雪』岩波文庫1990年所収):①中期の牧野は「小田原での身ぐるみ剥されるような経済的窮乏化」のため「自分の足場が崩れ去るような心理的な遍迫感」に悩まされながら、その一方で「東京では優れた文学的才能を秘めた友人たちに取り巻かれて、生涯でおそらく最も意気軒昂としていた時期」だった。②牧野が「禍に押しつぶされまいとして、禍を転じて福となすような文学的な転換装置を苦心の末に発明工夫し、これをもって窮地を精神的に切り抜けることにみごとに成功した」。③「東京での有為な若者たち」との交遊の自信をもった牧野は、「失われた物質的富を精神的富に変換させて作品世界のなかに転生させるという、一種の錬金術的作業に従事した」。かくて「所与のマイナスの生活条件が、幻視者としてのプラスの条件へまるごと一挙に逆転する」という「幸運」に恵まれた。これが『ゼーロン』を「筆頭」とする中期の牧野文学が「驚異的に開花」した要因だ。

《参考5-2》堀切直人の解説(続):④牧野信一の家系は、牧野自身が『気狂ひ師匠』などで語るように、代々気狂いの血筋だといわれ、医師であった叔父も発狂し座敷牢に軟禁された。牧野の母親は「今度はきっとお前の番だ」と息子に言った。⑤「牧野信一の文学にはまぎれもなく狂気の気配がつねにつきまとっている」。発狂への危惧や不安を、牧野が「終生捨て去ることができなかった」。(Cf. 牧野は最後は1936年39歳、小田原の生家で縊死自殺を遂げた。)⑤-2 牧野の精神は「均衡の破れやすい、不安定で脆弱な性質を帯びていた」。この性質は大正期の牧野の私小説において「肉親との愛憎のしがらみ」や、狭い対人関係の場での「過敏な神経のエクセントリックともいうべき反応のドキュメント」となった。

《参考5-3》堀切直人の解説(続々):「ギリシャ牧野」といわれる中期(1927-1932)には、「悪夢的な軟禁状態が影をひそめ、抱腹絶倒の、賑々しい道化的カーニバル的世界がそれに取って替わる」。この時期の幻想的な作品では、私小説的な「退屈で陰湿な自然主義的文学風土」を脱し、明朗、軽妙、痛快な作風で、「ファンタジーとフモール」が合わさった夢幻の世界が創造される。

《参考6》牧野の多くの作品の舞台である足柄上郡の架空の村「鬼涙村」について三島由紀夫は、そこは生涯転居を繰り返した牧野にとっての「精神的故郷」であり、「そこに住む異邦人としての知識人牧野は、教養によつてのみ現実離脱を成し遂げ、その愛馬にすら『ゼーロン』と名付けて、中世騎士道や古代ギリシャの幻想へ、日本のドン・キホーテとして旅立つよすが」にしたと解説する。「ドン・キホーテの自己諷刺と、その幻影の完成とは、小説『ゼーロン』をして、現実の幻滅と現実の壮麗化の二重操作を可能ならしめる。この日本の私小説のドン・キホーテは、一瞬の幻の中で、緋縅の鎧を着てゐるのだ。」(三島由紀夫「解説 牧野信一」)

《参考7》佐藤泰正は主人公が、①背中の「重荷」である「マキノ氏像」と、自分の父親とが「寸分違はぬ」ものであることを知らされ、「得も云はれぬ怖ろしい因果の稲妻」に打たれることや、②騎馬行の間に背中にぶつかる「重荷」の「猛烈な苦悶」に殉じる点などに触れ、「重荷」の存在は、「寓意をこえて作者の心肉に喰い入」り、牧野の夢の背後で、「見えざる血は流れつづけていた」と考察し、「宿命の血につながる『重荷』を背部ににない、己の夢を運ぶ無二の従者ゼーロンにまたがる主人公の姿は、夢を抱く作者を等身にそのまま切りとって、まことに比喩ならぬ一個の象徴と化する」とまとめる。(佐藤泰正「牧野信一の文体の問題――ゼーロンものをめぐって」國文學 1974年6月号)。
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