King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

ダリアの咲く丘と人気のない中学校

2009年09月15日 13時39分58秒 | ジョギング
暑さもようやく去って今までのような
速度で走れるようになりました。

今までどおり汗は滝のように流れますが、
苦しさが違います。

でも昨日気がついたのですが、いつものように
走れたと感じたなら、当然結果もいつものタイム
であり、ピッチを上げるか、ストライドを広げるか
しないとタイムは縮まらないのです。

今日は調子がいいなと感じてもタイムがよくない
こともありますが、段々慣れてくれば風を切る
音や景色の流れで速度感覚は身についてきます。

タイムを縮めるには、やはり無理をすることから
はじまります。

そうすれば、どこか痛い所とか走れないように
なったりします。

となれば、何でタイムなんか計るのかということに
なってしまいます。

しかし、これは自分への挑戦であり、コースでの
適正な時間を導くことになもなります。

気持ちよく走れている時は、色々考えることも
できます。

今までの暑いなかでは、走り終わって飲むスポーツ
飲料のこととか、走り終わった後が如何に気持ち
いいかとか、後どのくらいかだとかそんなことばかり
考えています。

ふと自分の書いた今頃の走った記録を読んだら、
意識を走る側に保つことというのがありました。

走り終わったらどうしようとか残りの距離のことなど
考えずに常に走る側に意識を集中することが重要だと
書かれています。

以上のことを踏まえて、故障を抱えず、無理をせず
タイムを向上するにはどうしたらいいかという
ところに問題の要があるといえます。

走ることを考える前に一番の改善点があるのです。

いつも走り出すときの呼吸が改善するまでが問題
で、パーマネントコースで言えば影森中学のあたり
までです。

そういえば昨日は、平日なのに人気がない中学校に
週末には万国旗が飾られラインの白い色もあざやか
でした。

土曜か日曜に運動会があり、その振り替えで休み
なのだと考えました。

つまりは、普通に色々な事が考えられる意識状態で
あれば、まだ余裕があるといえます。

走り始めの時期に、庭に咲いたダリアを見て先日まで
日経の文化欄にコラムを書いていた丸山健二の庭と
絵の内容を思い出していました。

その内容とは、ダリアを庭に植える人と植えない人が
作庭をする人にはあり、自分は植えない人なんだという
ことで、その時にはそんなの勝手なことでそんな人の
庭のことと自分の庭のことなど比べてああだこうだいうなよ
とその時には思考を中断していました。

それより、ダリアを見るたびにこの丸山健二のことが
頭によぎるのです。

そのコラムは、一枚の絵や写真を紹介してああだこうだと
述べるのですが、その時にはその記事の内容に絵のことが
あまり関係なく、絵の印象もなくただダリアを植えちゃあ
いけないのかとかその分類は正しいのかとか考えたもの
でした。

走っていて人の庭にダリアが今も咲いているうちは多く、
庭に植える草木もはやり廃りがあり、そんなどこにでも
あるダリアに何の意味があるのか。

もちろん走り出して間もない時には、丸山健二が書いていた
なあと、いうところまでで、次の思考につながりません。

この時期は、中学校の横を通り過ぎる時のように頭が働いて
おらず、人気のない中学校を通って即座に振り替えで人が
いないのだと気がついたのにダリアをみてもなんだよ
丸山健二って偏屈な作家だなで終わっているのです。

これは実に興味深いことです。
コメント
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