懐かしのバレエ

バレエ、パフォーミングアーツ等の感想、及び、日々雑感。バレエは、少し以前の回顧も。他、政治、社会、競馬、少女マンガ。

「オテロ」デズデモーナ考

2009-09-18 01:25:31 | バレエ
シェイクスピアの戯曲「オセロ」のヒロイン、デズデモーナは、貞淑な妻だが、その美貌ゆえ、夫オセロを憎むイアーゴの奸計により、あらぬ不貞の疑いを掛けられ、夫に殺される。

だいぶ昔の話だが、この「デズデモーナ」について、坂東玉三郎の解釈が目を惹いた。玉三郎は、このデズデモーナを、「ただ清純なだけの女性というのとは、少し違うのではないか」というような示唆をした。

”ただ清純で貞淑な女なら、殺されるほど夫に疑われるだろうか?”というなげかけで、これは目から鱗だった。

確かに、そう言われてみると、ここまでの話になるのには、それなりに官能的な女性というか、多少そういう風に見える所のある女性、と考えた方が説得力があるような気がしてくる。

「女形」。半生かけて、「女」を演じていく職業。男性が女を演じる。それにあたって、「女」とは何か、また、女を見る男の眼差しとはどういうものか、あれこれ考えるのが属性の職業だから、この美形でならした女形は、こんな事を思いついたのではないかと思った。

だいぶ前に、まだ若かった時のV6の森田剛が、「人妻、っていいですね。人妻っていう、響きがいいですね」とか言ってた時があって、ふ~ん、年頃のぎらぎらした男の子には、そういう風に見えるものかと思ったことがある。

デズデモーナは、この「人妻」に「美しい」という形容詞がつく。

「美しい人妻」、そしてオセロには「不釣合いな結婚」。
この不安定さと危うさ。
彼らを見る世間の側の、集団的想像力もまた、負のエネルギーとなって悲劇を促進したような気がしてくる。

勿論、悲劇の原因を、差別、社会性に求めるのが、原作の順当な解釈かもしれないが、それを超えて、美貌の人妻を巡る人々の怪しい集団的想像力や、そして、そもそも彼女は何者か、どういう女性なのか、洗いなおしてみる玉三郎の視点は、新鮮だった。

これを知ってしまうと、世界フェスのノイマイヤー振付のバレエ「オテロ」の解釈は、平板に思えた。
なんとな~く、世界の中に3人しかいないような気がする。オテロと、デズデモーナと、イアーゴ。そして、オテロもデズデモーナも悪くないみたいだったけど、なんだか、冗長で退屈だった。オテロもデズデモーナも何も悪くなかったら、こんな悲劇が起こるものかなと。恋愛や夫婦の関係はフィフティフィフティで、妻を信じきれない夫も、夫を理解しえない妻も、欠けたものがゼロってわけじゃないのが、一般的な夫婦の場合の、関係性の問題だと思うんだけど。

デズデモーナが、第三者の妄想をくすぐるような、どこか色っぽい所のある女性だったりすると、話が複雑で一筋縄ではいかなくなり、面白いような気がする。

どちらかというと、ルジマートフの「オテロ」の方が、エレーヌ・プシェらの「オテロ」より、「オテロ」っぽいように思った。ルジは色気過多、かつストイックで、両義的に見えるから。
コメント (2)
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