シェイクスピアの戯曲「オセロ」のヒロイン、デズデモーナは、貞淑な妻だが、その美貌ゆえ、夫オセロを憎むイアーゴの奸計により、あらぬ不貞の疑いを掛けられ、夫に殺される。
だいぶ昔の話だが、この「デズデモーナ」について、坂東玉三郎の解釈が目を惹いた。玉三郎は、このデズデモーナを、「ただ清純なだけの女性というのとは、少し違うのではないか」というような示唆をした。
”ただ清純で貞淑な女なら、殺されるほど夫に疑われるだろうか?”というなげかけで、これは目から鱗だった。
確かに、そう言われてみると、ここまでの話になるのには、それなりに官能的な女性というか、多少そういう風に見える所のある女性、と考えた方が説得力があるような気がしてくる。
「女形」。半生かけて、「女」を演じていく職業。男性が女を演じる。それにあたって、「女」とは何か、また、女を見る男の眼差しとはどういうものか、あれこれ考えるのが属性の職業だから、この美形でならした女形は、こんな事を思いついたのではないかと思った。
だいぶ前に、まだ若かった時のV6の森田剛が、「人妻、っていいですね。人妻っていう、響きがいいですね」とか言ってた時があって、ふ~ん、年頃のぎらぎらした男の子には、そういう風に見えるものかと思ったことがある。
デズデモーナは、この「人妻」に「美しい」という形容詞がつく。
「美しい人妻」、そしてオセロには「不釣合いな結婚」。
この不安定さと危うさ。
彼らを見る世間の側の、集団的想像力もまた、負のエネルギーとなって悲劇を促進したような気がしてくる。
勿論、悲劇の原因を、差別、社会性に求めるのが、原作の順当な解釈かもしれないが、それを超えて、美貌の人妻を巡る人々の怪しい集団的想像力や、そして、そもそも彼女は何者か、どういう女性なのか、洗いなおしてみる玉三郎の視点は、新鮮だった。
これを知ってしまうと、世界フェスのノイマイヤー振付のバレエ「オテロ」の解釈は、平板に思えた。
なんとな~く、世界の中に3人しかいないような気がする。オテロと、デズデモーナと、イアーゴ。そして、オテロもデズデモーナも悪くないみたいだったけど、なんだか、冗長で退屈だった。オテロもデズデモーナも何も悪くなかったら、こんな悲劇が起こるものかなと。恋愛や夫婦の関係はフィフティフィフティで、妻を信じきれない夫も、夫を理解しえない妻も、欠けたものがゼロってわけじゃないのが、一般的な夫婦の場合の、関係性の問題だと思うんだけど。
デズデモーナが、第三者の妄想をくすぐるような、どこか色っぽい所のある女性だったりすると、話が複雑で一筋縄ではいかなくなり、面白いような気がする。
どちらかというと、ルジマートフの「オテロ」の方が、エレーヌ・プシェらの「オテロ」より、「オテロ」っぽいように思った。ルジは色気過多、かつストイックで、両義的に見えるから。
だいぶ昔の話だが、この「デズデモーナ」について、坂東玉三郎の解釈が目を惹いた。玉三郎は、このデズデモーナを、「ただ清純なだけの女性というのとは、少し違うのではないか」というような示唆をした。
”ただ清純で貞淑な女なら、殺されるほど夫に疑われるだろうか?”というなげかけで、これは目から鱗だった。
確かに、そう言われてみると、ここまでの話になるのには、それなりに官能的な女性というか、多少そういう風に見える所のある女性、と考えた方が説得力があるような気がしてくる。
「女形」。半生かけて、「女」を演じていく職業。男性が女を演じる。それにあたって、「女」とは何か、また、女を見る男の眼差しとはどういうものか、あれこれ考えるのが属性の職業だから、この美形でならした女形は、こんな事を思いついたのではないかと思った。
だいぶ前に、まだ若かった時のV6の森田剛が、「人妻、っていいですね。人妻っていう、響きがいいですね」とか言ってた時があって、ふ~ん、年頃のぎらぎらした男の子には、そういう風に見えるものかと思ったことがある。
デズデモーナは、この「人妻」に「美しい」という形容詞がつく。
「美しい人妻」、そしてオセロには「不釣合いな結婚」。
この不安定さと危うさ。
彼らを見る世間の側の、集団的想像力もまた、負のエネルギーとなって悲劇を促進したような気がしてくる。
勿論、悲劇の原因を、差別、社会性に求めるのが、原作の順当な解釈かもしれないが、それを超えて、美貌の人妻を巡る人々の怪しい集団的想像力や、そして、そもそも彼女は何者か、どういう女性なのか、洗いなおしてみる玉三郎の視点は、新鮮だった。
これを知ってしまうと、世界フェスのノイマイヤー振付のバレエ「オテロ」の解釈は、平板に思えた。
なんとな~く、世界の中に3人しかいないような気がする。オテロと、デズデモーナと、イアーゴ。そして、オテロもデズデモーナも悪くないみたいだったけど、なんだか、冗長で退屈だった。オテロもデズデモーナも何も悪くなかったら、こんな悲劇が起こるものかなと。恋愛や夫婦の関係はフィフティフィフティで、妻を信じきれない夫も、夫を理解しえない妻も、欠けたものがゼロってわけじゃないのが、一般的な夫婦の場合の、関係性の問題だと思うんだけど。
デズデモーナが、第三者の妄想をくすぐるような、どこか色っぽい所のある女性だったりすると、話が複雑で一筋縄ではいかなくなり、面白いような気がする。
どちらかというと、ルジマートフの「オテロ」の方が、エレーヌ・プシェらの「オテロ」より、「オテロ」っぽいように思った。ルジは色気過多、かつストイックで、両義的に見えるから。
もう、十数年前か、もっと昔か。玉三郎が、オセロのデズデモーナ役(商業演劇か、新劇系か。歌舞伎以外)で出た時の、宣伝の新聞記事か何かだったような。うろ覚え失敬。
(坂東玉三郎氏が、もっと若かった頃、歌舞伎以外の、普通の商業演劇(西洋風のドレスを着て出てくるような)で、「サド侯爵夫人」(三島由紀夫脚本))とか、「マクベス夫人」(シェイクスピア)とか、色々出演していて、その一連の歌舞伎以外出演の中で、「オセロ」のデズデモーナ役もやったことがあった。)この時の舞台を私は見てなくて、宣伝の写真を見ただけでした。宣伝写真は、とてもきれいでした。
なお、私が当時の舞台を見たのは、「サド侯爵夫人」。
様式的な感じの演技で、やや歌舞伎の女形っぽい、新劇の役者さんとは違う演技でした。
また、「マクベス夫人」の演技は、手に付いた血を「取れない、取れない」と嘆いていたシーンだけ、記憶に残ってます。身体が細い柳腰の女性の印象。
余談ですが、その後、彼は、ベニサンピット(小劇場)の芝居に出てたことがあって、この劇評は褒めて書いてあって、それを読むと、ちょっと見たくなったけど、未見なので、想像の域を出ず。
玉三郎の演じる女性は、自分には、ちょっと、空気の精みたいで、女性が演じる生々しい女性像とは異質な感じが、いつもある女優(?)さんかな、と思ってました。
って、私、坂東玉三郎氏に全く詳しくないので、勘案してお読みください。万一参考になりましたら、望外です。
坂東玉三郎さんのこの発言はどちらでお読みになったのかぜひ教えていただきたいと思い、突然ですがコメントを残させていただきました。