懐かしのバレエ

バレエ、パフォーミングアーツ等の感想、及び、日々雑感。バレエは、少し以前の回顧も。他、政治、社会、競馬、少女マンガ。

書店のスター

2013-04-27 00:55:24 | Weblog
立ち寄った都心の書店にて。

別冊太陽と、もう1つ別の雑誌が、寺山修司の特集だった。

この人も何年かサイクルで、ブームが来るのか(?)、時々、こんな風に本屋さんで何かの雑誌で見かける。
今回は、没後30周年だったっけかな。

一時のブームが去っても、復活、再浮上が周期的にあるような気がするのが、面白い。

自分にとっては、亡くなった後も、本屋さんに行くと出会えるような人、みたいな。
ファンだったので、雑誌の特集内容はだいたい既知事項が多そうなんだけど。

横尾忠則の話が、目新しかったかな。
天井桟敷の演劇公演のポスター制作した時の、エピソード。

実は、「劇の内容詳細を、そんなに知ってたわけじゃない」んだって。これは、聞かなければ分らなかった。

あの独創的なポスター、横尾の奇才の発露と天井桟敷の劇への誘いと、両方の機能を見事に果たしていて、横尾と、彼を使った寺山の双方の才能に圧倒される。

一方、そんな天才たちの間で、板ばさみで苦労していたらしき、東 由多加のことも。

今回は、天才・横尾サイドの話だったけど、
昔、逆に、当時の演出助手だった東由多加が、「天井桟敷からの遁走」という一文で、東の立場から当時のことを語ってるのを読んだ事があり、今回横尾側のコメントを見ながら、ちょいほろ苦い気持ちになった。

公演の舞台美術を横尾が作ったら、東が「大きすぎて入らない、作り直せ」と言った、とかって話。
公演が迫った日々の、気ぜわしい状況の中でのことなのだろうけど。
きっとテンパってたであろう東と、一生懸命作った美術を否定されて、むっときてたであろう横尾。第三者から見れば、どっちも理解できるけど、その劇場の舞台からはみ出しそうなほど大きかった横尾美術、見てみたかったな、と思う。

東自身は、この当時のことを、横尾や丸山明宏とか、天才たちに囲まれて、大変だったみたいに素直に回顧してたけど、一方、その後、東京キッドブラザーズを立ち上げ、もっと自分に等身大の表現が、若者受けして、そちらで伸びやかに咲いた。
その劇団からは、今もゴールデンタイムの俳優として活躍する柴田恭平らも輩出した。

そういった活躍ぶりから見て、東自身も、別の才があったということなのだろう。
東の語った、「桟敷をやめて、東京キッドを作ったいきさつ」の文には、

マルチに才能を発揮した寺山修司の、知られざるエピソードもあった。
東が桟敷を辞めると告げた時。
「今まで誰にも言わなかった。あの時、寺山さん、泣いたんだよ」って書いてあった。

私は、そんな寺山修司が、大好きです。
ファンですから、もちろん。

東にその時、誰にも言わない気にさせるような人だったことも。
その時、意外と泣いたりする面もある所も。

才能ある人々が好きで、それが開花するのを見るのが好きだった寺山さん。
天井桟敷にわらわらと人が集まり、そしてそこからまた出て行った人も、それぞれ咲くべき場所で咲いた。自分は寺山のファンだから、そんなこともまた、寺山の魅力の一部のように、受け止めてやまない。

本屋に行くと、会える人。
亡くなってから随分時間がたって、さすがに私も寺山修司のことを忘れていると、思い出せと催促するように、本のタイトルと出会う。

★寺山追悼イベント関係で、全く出てこなかった作品に、田中未知さんの作った「質問」というドキュメンタリーの映像がある。これは、寺山修司を知る上で、ぜひ見ておいてほしい興味深い作品なのだけど、死後からずっと、これだけは見たことがない。
どこかで保管されているようであれば、これも出して欲しいと思ってる。

ところで、私が競馬ファンになったのは、寺山修司が競馬の話をよく書いたせい、ということもある。さて、今年の天皇賞はいかに。






  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする