懐かしのバレエ

バレエ、パフォーミングアーツ等の感想、及び、日々雑感。バレエは、少し以前の回顧も。他、政治、社会、競馬、少女マンガ。

絵画「飛べなくなった人」石田徹也

2008-04-27 15:28:11 | Weblog
たんにTV付けてたら、知らない絵が目に飛び込んできた、のだけれど。

ここ10年以上、まったく絵画の世界から遠ざかっている自分には、この画家のことも、今書かなければ、すぐに日常性の中で忘れ去ってしまうだろう、そんなわけで、書いておく。

TV番組で紹介された、石田徹也の絵画群。

優れた絵にも色々あるが、「一見してすぐ注目される、非常にインパクトのある絵」の部類。

ボキャ貧かますと、素晴らしいけれど、「素晴らしい」なんて、安直に自分が言っていいのか、躊躇するような、絵。

バレエ板やブログで「素晴らしい」とは、よく見る表現だ。けれどこんな絵を前にすると、「素晴らしい」と言う事は、なんと簡単に言える言葉なんだろうと・・。

この描き手は、ただ絵が巧いだけじゃない、ただ美術に才があるだけじゃない、世の中に、自分自身の腰のすわりごごちに、同じことを感じている人は世に何割かいる、そういう頭の中の世界を、なんとも言葉に翻訳したくないような、独創的な絵の世界で表していく。

この絵を、「まるで自分を見るようだ」と思ってみる人もいるだろう。魂の共振。私はそういう方の人間ではないが、作者とは違う目で世の中をみている人間だから、その視点で、この絵群を「凄いな」と言っておきたい。こういう絵をかける人の心の中の世界を、私はすべて判るわけじゃない。理解できるといったら、嘘になる。

精神性も、表現手法も、私とはかけ離れたものを持っている画家だから、私もたくさんアートで贅沢した「観る」ことで遊んでいきていた者の「カン」として、あえて分析しすぎず直感的に、「凄い」と、いっておきたい。

この画家は、一枚の絵を描くのに、とても自分を追い込んでいるし、身を削るようなエネルギーを使ってる。

それに対し鑑賞者の私が、何も支払わずに一番楽な所で、「素晴らしい」と言ってしまうのが憚られる、そんな気分になる絵だった。

私にもかつて、よくわからないなりに、アートが、美術が、いくばくか心を捉えた時期もあった。絵は今、そういうものではなくなっている気がしていた。

石田徹也の絵画自体は、社会性を持ったものから自己の内へと向かったようだけど、(どっちの絵も面白い)私らのような、普通に働いて、芸術家業をやってるわけでもないワーカーの、心を捉えるためには、最初ある程度の社会性は、必要だ。

業界内で目の肥えた人が、専門的に見れば価値ある芸術でも、仕事や生活や遊びや趣味や恋愛etc.で疲れた目と心には、どうでもよく思えてしまうアートは、ままある。

石田徹也の「飛べなくなった人」からの一連の作品群の持つ、抜けた社会性は、自分のような身から見れば、「金、暇のある人の道楽」に見えてしまいがちな美術界、あるは商業広告のプロの世界に見えたものから、「アートを身近なものに引き戻す」越境効果、越境力に溢れて余りあった。

自分の場合は、芸術というと、一部を除いて、どうしても、こういう越境力を持ったものに惹かれてしまう。

その点と、自己の内部へ視線が変わったかと思われる、後半の作品群も、その感性と知性、独創性に、見るこちらの言葉が追いついていかないままに、圧倒される。

繰り返しになるが、巧い絵だけど、ただ巧いだけの絵じゃ、ないんだ。

無意識の意識化。普段、人が識域下に漠然と感じて、意識で切ってるような部分を、あえて見せて、人間について、自分について、人体、細胞、意識について、あたらしい知的アプローチの道を、閃きのように示唆する「絵の訴え」。

本人は、思ったことを割と素直に描いているのかもしれないが、知性と感性に優れた、並一通りでないものを感じるのは、衆目の一致する所だろう。

”自分の絵を見て、怒っている人、笑っている人、泣いている人が、同時にいるようなのが、理想”だとかなんとかコメントしていたとか。
いいことを言う。

今時珍しい、芸術の真価を認識させるアート体験。
もっと深く絵を見る人には「こういう絵を描く人は嫌いだ」という人もいるだろう。それでいいと思う。自分は、あえてそこまで踏み込まず、深読みしずぎず、この強いインパクトの絵から感じる、素朴な「おおっと」感を、しばし大切にしたい。

こんな美術の世界が、まだ、あったんだ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする