ソラから来たよ

このブログは「地球の謎解き」(http://sora.ishikami.jp/)の情報を元に構成しています。

天皇家の存続(物部と蘇我)

2006年12月01日 23時09分02秒 | Weblog
物部の守屋
「物を述べる」から来た名前。
モノとはイシカミヤマタイコクの物語を言い伝えていた。
イカルガ(=何鹿)物部村から出た人で、仏教を強制する蘇我氏聖徳太子と戦った。
星延べの子供の後見人であったので、守屋という名前。
綾部私市円山古墳には大小の遺体があったが、これが物部氏と、星延べの子供。
星述べ=いて座のイシカミからいろいろと農業や日常生活のアドバイスを受けていた人。
特に子供や女性。

2002年10月5日
「面白い事を思い出しました。
生まれ変わっていたのです。
物部の守屋はイスキリの生まれ変わりだったのです。 
幸せな思いで亡くなったイスキリは、何としても星述べをしている“白い木の者”を守ろうと生まれ変わったのです。
そして白い木の者を守って亡くなったのです。(私市円山古墳の遺体)」

2004年1月31日
「私は物部守屋です。
私は、星述べの者が何か知らせてくれる事を、皆に知らせる役でした。
知らせる事は農業の事で、仲間に教えていたのです。
いつ種を蒔いて、いつ何をするかという事を知らせていました。
それは星述べの者が、君山に教えてもらっていたのです。
そして皆仲良く暮らしていました。
ある日の事仲間が、こちらに軍隊が来ると知らせてきました。
見るとたくさんの人がこちらに攻めて来るのがわかりました。
けれども星述べの者は殺し合いをしないでと言いました。

星述べの者は信貴山に用事があるから出かけると言いました。
それで仲間の人と一緒に、信貴山に向かいました。
けれどもそれを知ったた聖徳太子は知らせる事無く、突然星述べの仲間を殺し始めたのです。
それで私達はそこを逃げ出し川(大和川?)の船に乗り逃げ出しました。
神戸に着きそこからは追っ手に見つからないように、僧の姿をして逃げました。
(“神戸”とは、仏教に反対していたが仕方がないので僧の姿をしたということで、神の戸を閉めてもらったという意味です)

けれども追っ手は春日富士まで追ってきて、物部守屋を殺してしまいました。
仲間は遺体をイカルガまで運び、私市円山古墳に葬りました。
星述べの者はホシノミナジンジャの前で亡くなり、守屋と一緒に葬られました。
そして仏教の勢力が広まりその古墳を祭る事を禁止し、長い年月で忘れ去られたのです」

2004年8月17日
「物部の娘です。
ようやく降りることができました。
(物部が滅ぼされた後)物部一族の男達は石を信じる人たちによって匿われ、散り散りになりました。
女はいつしか(蘇我の)言われるままになりました。
それで(物部の)血は残されたのです。
それでも石を信じることは禁じられました」

(それ迄平和な国として治めていた物部を慕う人が多い反面、朝鮮から来て仏教を強制する蘇我を嫌い、その後のヤマトの権力者は思うようにならなかったので、物部の力を利用した)

「それは悲しいことでした。
仏の教えを信じないと倭の都も、“オオーイ アマノヒト”(オオシ・アマノヒト)と呼ぶようになると言われたのです。

オオシ・アマノヒト(=凡海郷)とは、倭の国の海辺の平野の村の人たちのことです。
倭の国の海辺の人たちは、山の上のヒルイ・マナ(ヒルイ=リュージンの子供に祈る人)に支配された人たちに責められ、悲惨な毎日を送っていました。
逆らう者は土の入れ物(埴輪)の中に入れられたのです。
(丹後の資料館には、人が入れるくらいの埴輪がある)
(海辺の人たちの悲惨な状態を見て)イシカミが怒って沈めたのです。
ムーと同じで、人間の苦しみを止めさせた)
父(物部守屋)の最後は以前お知らせした通りで、いつもお参りをしていた山、丸山(=私市円山古墳)に埋葬することで最後とされ、いつしか忘れ去られていったのです。
(埋葬はさせるが拝ませないという意味?)
そして倭の国の宝物は全て、ヤマトに運ばれ、誰も“石”のことを言わなくなり忘れさられていったのです」

倭の国は海辺の者と、イカルガの者と仲良く暮らしていました。
(今も残っている綾部のミナツキサンの祭りは、由良川を遡ってイカルガまで来ていたので、“海の皆さんが着きましたよ”という交易の名残だそうです)

けれどもリュージンは、イ=猪の者(福知山の3段池のそばの権力者?)も支配し、ヒルマナイの者と一緒になったので、平和な倭の国も争いの好きな国となり、ヤマトと結びつきました。
星原や君山などあちこちに山城の跡があるのは)イシカミである山の神を祭らせないように監視するためです。
それは(物部の人たちが集まって勢力を盛り返さないように)見張りをするためでもあったのです」

2004年3月12日
「お知らせします。ソラのものは見ていたのです。
一番最初に巨石 (石舞台?)を自分のお墓にしたのが、蘇我氏なのです。
イシカミの子供が昔に作った石室を、自分のお墓にした人です。
そして土をかぶせさせたのです」

「蘇我の秘密です。
蘇我氏とは、イカルガ(旧綾部)の名前を、ヤマト(奈良)へ持って行った人です。
【イ(祈ると)カ(力がもらえ)ル(膝をついて)ガ(力がたくさんもらえる)】
イカルガとは、そう言う意味です。
そして本当にプレアデナイ(仏教)に祈る事で、大きな力を得たのです。

奈良で(蘇我氏の)住居跡が出てきましたが、その大きさでいかに民衆から搾取していたかわかるでしょう。
それまではあまり貧富の差が無かったのに、自分たちだけが贅沢な暮らしを始めたのです。
イシカミをいじめた人で、地球の贈り物を貢がせ贅沢をした人です。

(物部守屋を滅ぼし、その)娘を略奪し子供を無理やり生ませ、物部の人気を得ようとしました。
見つかった邸宅跡は、その娘を閉じ込めていた家でもあるのです。 
ヒミコの娘と同じ悲劇が行われた家なのです。
そしてその間に、(蘇我氏は)あらゆるストーンサークルを壊してしまったのです。
ヤマトが都として益々栄えたのは、お供えすると死んでから良い所に行けると信じさせ、貢物をさせていたからです。

それでも仏教が嫌な人達は、秘かに大国主や物部氏の神社を建て、作物が良くできるように頼んでいました。
そして何よりもそれまでのことを語り伝えたい、といろいろな形で隠れ伝えてきました。
その一つが“ヤタガラス=八田ガラス”です。
八田とは、大国主の家来が“8人”だった事大国主が“田”を作ることを教えた事をあらわします。
イシカミを、地球へ先導をしてきたカラスが3本足(三位一体を表わす)に描かれています。
  
1.一つは“トヨウケを祭った真名井神社=マナイ”への道
2.一つは“オオシアマノサト(凡海郷)=舞鶴”への道
3.一つは“由良川沿い=倭の国”への道

それが一つに交わる所にある道路で、三柱神社近くの三叉路(綾部JCの近く上八田辺り)が、ヤタカラスの3本足を表す所なのです。
それが八田カラスの3本足をあらわす所なのです。
未来の見えたイシカミが名づけさせたのです」

(八咫烏のことはこれまで何度も尋ねられ、聞いてみましたが答えがありませんでした。ヤマトによって後から当て字をされた)

注:【八咫烏】
記紀、風土記に見えるカラス。神武天皇東征の途中、熊野から大和への道に迷 った時に天上から派遣されて案内をした。 [新辞林 三省堂]

2005年9月9日
2005年9月9日0時4獣神にカビの記事を見ていると目に違和感あり。
「一番の悪者でした。
昨日の地震がそれを知らせたのです。
・2005年9月8日 震源地 兵庫県南東部 M2.9 震度1 
4獣神を描かせた者のことです。
どれだけ悪かったかというと、農耕のために各家にいた馬を全て殺させた*人だからです」

* )馬を殺す=蘇我は宿敵の石を信仰する物部の守屋が馬で逃げたために、在来の馬を殺させ食べたと伝えられた。物部は兵庫南東部から川に沿って倭の国丹波へ逃げ帰ったと伝えられている。

「蘇我は海を渡って(朝鮮から)きた人でした。
(高松塚の)壁に(朝鮮の)絵を描かせた人です。
馬殺しという言葉を含めるために、蘇我の子供を蘇我の馬子と名前を付けたのです。
スイコ天皇とその愛人の蘇我の馬子の子供が聖徳太子です。
それで聖徳太子は厩戸皇子とさげすんで呼ばれるのです」

2006年8月21日
先日渋を飲まされてイシジンが固まったこと、柿渋の着物を着せられたことなど、ヤマタイコクと渋の関係が出ていましたが、蘇我と物部の戦いが、渋柿の戦いとチャネリングで言ってきていました。

2004年5月11日
「シブガキの戦いなのです。
(物部と蘇我の戦いは“渋河の戦い”と言われている)
猿かに合戦で、カニが育てた柿を猿が取り上げて、渋柿だけをカニに投げつけることからきているのです。
猿=蘇我、カニ=イシカミをあらわし、それを大切にした倭の国のものに名前を付けこれまで大切にしていた物を取っていったことから名づけました」

2005年1月13日
藤原は蘇我かと思います。

2006年9月28日
・停電で京葉線全線ストップ 東京駅構内のぼやが原因(2006/9/28付ニュース)
千葉県蘇我発が不通というのに意味があるようです。
蘇我が物部や倭の国を滅ぼし、今の天皇家を存続させてきた?ことと、宗教まみれでタカ派の新内閣の出発を警告しているようです。

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以上、ソラからの伝言より。
写真は、11月25日のソラ。