ソラから来たよ

このブログは「地球の謎解き」(http://sora.ishikami.jp/)の情報を元に構成しています。

保釈されたホリエモン

2006年04月30日 11時42分56秒 | Weblog
4月27日夜、TVで保釈された堀江貴文さんのをみて驚いた。
髪が長くなり、さっぱりした顔、若返って青年の顔、になっていた。
ライブドア社長時代、頻繁にTVに出ていた時は、不規則な生活やストレスからか暗くむくんだ顔をしていたのに。
この変化は何なのか。
このブログで既にソラからの伝言として、「ライブドア事件の真相」、「ライブドア事件の真相2~故野口さんより」を取り上げていますが、彼個人の部分に絞って再掲します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2006年1月26日 真夜中 右足甲にきついサインあり。

「ホ*の付く者(ホリエ)が降りています。
ホのつく名前のものは、本当の仕事をしなければならないのに、お金のことばかりしていました。
この情報も聞いたのですが、、、、、。
夢で見たとを拘置所に送ってくれるとうれしいです」
細木を信じたというようなことを言っていましたが、個人のことはメモしないので忘れました)

*)ホ=十字は死をあらわし、死後、星に戻るか又、地球に戻ってくるか別れる。星の戻れるものは、生まれ変わることもできる。

「(拘置所の)塀の中に入り、門が閉じられると細木の声が聞こえなくなりました。
そしておしいものを食べたくなりました。
欲しい物が全て手に入ったのに、心が満たされなかった・・・・。
地球の・・・・・・・」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
自宅に戻ると缶ビールに巻きずしを食べたらしいが。
細木数子は「ライブドア株は将来5倍になる」などと発言していた人だが、最近『細木数子の黒い真実』(内容:「六星占術は盗用」「ヤクザと強い繋がり」「老人をダマして結婚」「島倉千代子を借金奴隷に」等)という本が出る。
顔が変わっていたのは、「細木の声が聞こえなくなりました」というように、細木数子からつけられた富を追求する支配星リューやヘビを送り込んだ星)からの影響がなくなったからだと思う。
ソラからの伝言でも、支配のされ方を書いています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

《ビジョン》
1)“正面を向いた、青年の割と大きな顔の鼻の周りに、黒い点がたくさんある”
「脳の中にこのようにエネルギー体が入り込んでいるのです」
と、リュージンのエネルギー体に、支配されたことをあらわすそうです。

2)“大きな半楕円の岩と、小さな半楕円の岩があり、その横に、太い線だけで描いた人間が手をあげて、岩から離れていく”
イシカミ分身と巨人かイシジンが、親であるイシカミから離れて、仕事をしに行くことをあらわしています。
これまでから山であるイシカミから、何10kmから何00km離れた小山や岩などが、巨人とか言ってきていました。
デエダラボッチの民話などはそれを伝えています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
堀江さんのイシキは、阿蘇山と関係があるようで、彼の勾留中、熊本で地震が起きています。
・発生時刻:2006年2月4日 0時12分頃
・震源地:天草灘 深さ10km M5.1 震度4:熊本県
阿蘇には的岩があり、出身地の福岡県八女市には古墳が幾つかあります。
作ったのは阿蘇山の巨人か。
彼が“ホリエモン”と呼ばれるのは、ドラエモン=ドザエモンよろしく最後は亡き者にしようとしたからなのか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

再度、きついサインが右足にあり。

阿蘇のイシカミです(堀江さんが関係?)。
これが作業だったのです。
悪を呼び込む作業だったのです」
(細木が堀江さんのことを予言した、全く当たらなかったということを証明した?)

「ホリエモンはスケープゴートなのです。
陰で操っていたのは、タケナカ(竹中平蔵)とアベ(安倍晋三)です。
アベはクラマ教の教祖と関係があるのです。
クラマ教はこれまで見たことのない巨大な黒い影(エネルギー体)があります。
(ライブドアの)野口は殺されたのです。
カプセルホテルには嫌なのに入れられたのです。
それでせめてもの抵抗に、ホリエモンの住所(出身地?)を書いたのです。
アベにつながる悪い人に殺されたのです。
一番悪いのがその人(税理士?)で、サク、サク・・・策略を教えたのです。
教えるように言ったのが、アベの子分です。
アベに教えたのが、自民党(にい)ながらヘイ、ヘイ・・・・・・・(なかなかわからなかった)塀の中に蔵を作る人です。(タケナカヘイゾウ?)
(見えない世界で)クラマ教が人間を操ったのです」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上、ソラからの伝言より。
逮捕され、これから裁判になるが、これでブラック・マネーと係わる仕事とも縁が切れるのだから結果的に良かったと思う。
独房では歴史書・小説から百科事典まで100冊?の本を読んでいたという彼、今何をしているのだろうか。
裁判の準備も仕事としてもちろんだが、独房では出来なかった事、インターネットか。
自分も旅行などでネットを見れない場合、家に帰ったらまず最初につなげて見るから。
写真は羊蹄山。

仁徳天皇(その3)

2006年04月29日 01時08分10秒 | Weblog
仁徳天皇陵に代表される古墳。
その成り立ちが、ソラからの伝言で知らされています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

イシカミの分身は石冠のような身体をしていました。
イシカミの分身が亡くなって横になると前方後円墳の形になったのです」

綾部市には小さな古墳が1000? 近くあるのはなぜか聞いてみました。

「私はトヨウケです。 私(が作った巨人に)が作らせたのです。
なぜ作らせたかというと未来のわかる私は、必ずその事(古墳が多い)に気づいてくれると思ったからです。平野に作らなかったのは(ヤマトに)壊されると思ったからです」

「トヨウケです。
その意味(小さな古墳が多い)を知りたいと思う星述べがあらわれると思ったからです。
(所々にある前方後円墳の)大きな塚は私の子供(巨人)なのです。
その子供たちが沢山の小さな盛り土をして、星たちをあらわそうと思ったのです。
そこ(綾部)はホシノミナの近くだからです。
丘の上に作ったのは、(平野に作ったのでは)ヤマトに気づかれ壊されると思ったからです。
二つ(ヒジリ塚とショウブ塚)を平らな所に作ったのは、そこの場所(綾部市多田町)は、(イシカミの事を守ってくれる人たちの所なので“おっぱい”のつもりで作りました。
なぜ二つの塚が四角いかというと、その土地はヤマトに取り上げられ、苦労すると思ったからです。
(この地方に大きな古墳=私市円山古墳が一つだけなのは)多くのイシカミが降りていなく、イシカミの分身が少ないからです。
それに比べ、(奈良地方は)大きな古墳がたくさんあるのは、ツボの形の半島(紀伊半島)にするためたくさんのイシカミが降りて、たくさん分身がそこに集まったからです。
そして(紀伊半島が)ツボの形に出来たので、海の浅瀬であった(奈良盆地の)海水を、イシカミの分身たちが飲み干して、それから横になったからです。
それでイシカミの分身の亡骸が大きな古墳(前方後円墳)の形になり、それをヤマトの人が自分たちのお墓にしたのです。
水を沢山飲んだので(分身の遺体が)岩にならなく土になったので、お墓にしやすかったのです。
それに比べ(綾部の古墳が)小さいのは、トヨウケの巨人がイシカミの(遺)体を切り取って、盛り土にしていったので小さな古墳があたくさんるのです」

*綾部には小さな古墳が、1000近くあります。 
(30cmから7mの高さで、円墳径5mから20mまで) 

古墳は考古学では人間が盛り土をしてお墓を作ったとされていますが、鍬だけで土を掘りそれを運んで小高い所に盛る事で、これ程多くの塚を作ることは到底不可能と思われます。
そして私市円山古墳のトンネル部分はやわらかい岩だったそうで、人間が運んだのではないと思われます。
巨大な小山を人間の力で盛り上げる事は、到底不可能と思いますし、人間が盛り上げたとしたら、雨で流されて崩れてしまうと思います。
又、 奈良盆地が海であったということも情報と合っています。
亀石が西を向けば奈良盆地は海になるというのは、亀はイシカミをあらわすので、
イシカミの事に気づいたら、かつて奈良盆地は海であったことがわかるという事と思います。
古墳時代はブームのように去ってそれ以後作られなかったというのは、巨人が作った塚の数が限られ、使い切ったので古墳を作りたくても出来なかったと思います。
又大切な農地の土を、お墓の為に労力を使ってわざわざ盛り上げたくなかったからと思います。
仁徳天皇が亡くなりその人柄を偲んで、回りの人たちが Ω (オーム)の形に似せようと周りをきちっと形作ったので、立派なお墓として残されたそうです。
後の天皇はそれを真似て、イシカミの分身の遺体をお墓にしていったのだと思います。

「キ、キ、キフネのことです。
貴船とは・・・・」
「これまで一度も知らせたことのないものです。
仲間が呼んでくれたのです。
(貴船の)船の石を作ったものです。
人間*が船に乗って(大阪に)行くとわかっていたからです」
(その後、巨人は歩いて大阪に行って、仁徳天皇陵になったようです)

*)一寸法師が船に乗って大阪のイスキリの養子になり、仁徳天皇になったこと。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上、ソラからの伝言より。
写真は羊蹄山。

仁徳天皇(その2)

2006年04月28日 00時42分12秒 | Weblog
「わらべのうちは、いつも世の末になれば良いと思っていました。
それが私、仁徳の子供の頃の思い出でした。
それほど貧しく、まともな暮らしではありませんでした。
ニントクとは忍徳でそれから名前がつきました。
私(仁徳)がローマの人(イスキリ)に呼ばれて行きましたが、そこでは何人もの人が私の世話をしてくれました。そして何事も言われるままにしていました。
それを見ていてローマの人(イスキリ)は、“星述べの者”は決して上に立とうと思ってはならない、そうすれば恐ろしい星のものが取り込んで、私のようになるから、と磔にされるために(ゴルゴタの)坂を歩かされた事を詳しく話してくれました。
それから私は、自分に厳しくするようにしました。
周りの人たちにさせないで自分でするようにしました。
民衆が納める物を少なくしました。
そして人々の暮らしが楽になったのは、ひとえに食べ物を与えてくれたイシカミのお蔭だと皆に知らせました。
そしていつもイシカミに感謝をするように言いました。
以前言っていた、御所車に乗っていて小野妹子に殺されたのは、(後世の)生まれ変わりの仁徳です」

古代の律令体制を確立した天武、持統両天皇の宮殿「飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)」(672―694年)の中心施設「正殿
ここには同じような大きさの石を敷き詰めた庭があります。
この丸い石は、イシカミの穴から出た涙と以前知らされています。

(日本の岩山ではあまりわかりませんが、アメリカ、オーストラリアなどの岩山では、その穴がとてもよくわかります。
丸い石は川の水で削られたと言われますが、同じような大きさの丸い石が山の上でもたくさん土に埋まっている事は、川の水で削られたので丸くなったとは言えないと思います)

この丸い石を敷き詰めたという事は、物部氏の巨石(=イシカミ)信仰を押さえたという意味で、酒船石に対する仕打ちや、ヤマト近辺の全てのストーンサークルの破壊などと同時に、巨石信仰から仏教に変わった事をあらわしているのです。

500年代に小惑星が衝突し、地軸の異常が起こり天地異変が続いたことで、それまで信じられていた巨石、イシカミ信仰が急速に失われました。
それに便乗してプレアデナイに支配された仏教の思想が広まっていき、イシカミを抑えたと思わせるために石を敷き詰めたのです。
仁徳天皇はイシカミを信じ巨石や塚を大切にしていたのと、イスキリから伝えられていた最後の文字であり、 イシカミに似たオーム ( Ω ) の文字を真似たお墓にしたいと言っていたので、仁徳天皇を慕う人により前方後円墳が作られたのです。

仁徳天皇にあやかって後の権力者が自分も崇めてもらおうと、仁徳天皇の真似をしてイシカミが作っておいた塚や小山を自分のお墓としていったが、イシカミが作った塚や小山には限りがあり無くなってしまったので、古墳時代は急速に消えていったのです。
古墳から遺品が出てくるとその時代に作られたと思われていますが、以前にイシカミによって作られていた塚、小山、巨石の古墳を、後の権力者が借用してお墓を作ったのに過ぎないのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上、ソラからの伝言より。
写真は、雲の上の雲。

仁徳天皇(その1)

2006年04月27日 03時58分10秒 | Weblog
世界最大の墓といわれる仁徳天皇陵で有名な仁徳天皇
日本にたどり着いたイエス=イスキリに育てられ、血筋が途絶えた天皇家に代わり選挙によって天皇になった、と『ソラからの伝言』では知らされました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「天皇家に伝わることは、仁徳天皇が伝えたことなのです。
それで仁徳天皇のお墓(堺市の仁徳陵)に堀を築いて、人が入れなくしたのです。
(明治に作られた?)
かつては自由に入る事が出来て、仁徳天皇を偲んでいました。
いつの日か仁徳天皇の素性が知れる時、意味が解かれると分かったからです。

あのお墓の形はギリシャ文字のオームの形と言いましたが、それはイエスが日本に来た(イスキリと名乗った)ことと繋がるからです。
【オームの文字は“最後”と言う意味の記号である】と、白い木の子供(仁徳)がイエスから教えられ、“亡くなった後はこの形にして欲しい”と頼んでいました。
仁徳天皇の亡き後に、仁徳天皇を偲んだ人々により、あのような大きなお墓が作られたのです」

「仁徳天皇のお墓の中には女性の品物があります。
仁徳天皇陵はヒミコのお墓にしようと作ったお墓で、そこに仁徳天皇とヒミコを偲んで女性の品物(櫛?)が入っているのです。
仁徳天皇がお願いしていたのです。
(私が)亡くなったらイスキリから教えられた Ω (オーム)の形にして欲しいと。
それで仁徳天皇を慕っていた人たちが、あのような形にしたのです。
ヒミコの話は大国主を慕う人(出雲の人)たちから聞いていたのです。
仁徳天皇は一番良い天皇でした」
(足にサインがあり)

「私はお姫様に可愛いがられた一寸法師と呼ばれた者です。
(以前、一寸法師が仁徳天皇になったと知らされた)
私が知らせたことは真実の事です」

【イメージ】
“車のオートロックの情景が浮かぶ”
「車のオートロックはドアを閉めると自然にロックされますが、人間の脳も同じようにされている事が分かりました」(この情報が受け入れられない人たち?)

「そのロックを解くのにカギが必要です。
(そのロックを解除する)鍵穴が、“仁徳天皇の前方後円墳”なのです。
仁徳天皇のお墓が、なぜ途中から“開かずのお墓”になったか、今の踏み切りで表しています。(小金井の踏み切り?)
(仁徳天皇陵が)なぜ途中から埋め戻されて閉じられたか、宮内庁が知っています?
仁徳天皇のお墓の中が知られないことは良くない事です。
仁徳天皇のお墓の中には、男性の品物の他に女性の品物が入っています。
その事が国民に知られると困るので、“開かずのお墓”にしたのです」

「仁徳天皇は一寸法師だったと以前にお話しました。
そして自分の祖先であるヒミコのことを出雲の人に聞きました。
それで自分が亡くなれば、ヒミコをあらわす櫛(=鳥居の原型)を一緒に入れるようにお願いしたのです。(足にとても強いサイン)
その事はイシカミのことが分かるので支配星の嫌がるものです」
(ヒミコはイシカミの言葉を聞いて文字を書いていた)

「ツマ、ツマ…(言葉がなかなか出てこず)妻の勤めを書いた言葉=ホツマツタエのホツマ文字? カタカナ? がお墓の石に書かれているのです。
ホツマツタエはヒミコが妻としての勤めを書いたものなのに、権力者の都合のよいように書かれた物語(古事記や日本書紀)を裏付けするように訳されました。
そしてホツマツタエはヒミコが書いた目的とは違う意味で解釈され世に出ました。
そして意味を悟られないように、現実には無いミカサフミの2、3巻を探す事に意識を向けさせたのです。
ホツマツタエがなぜ宇和島から出たかと言うと、世間に知られないように隠れて違う意味で解釈されていたのです。(強い足のサイン)
それが地球の秘密を開くカギなのです。
ホツマツタエは、イシカミのことが書かれていると受け継がれて来ました。
その意味を、神の言葉として?解釈させてきたのが神道です」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上、『ソラからの伝言』より。
お墓の石にカタカナが書かれているという仁徳天皇陵。
写真は、オーストラリアのマールロック(Devils Marbles)の入り口。

マリア、イエス、ユダ(その6)

2006年04月21日 23時56分54秒 | Weblog
「イエスはいつも支配星に言われる言葉に対して、『イエス、イエス』と言っていました。
けれども日本に来てからは『イ(ェ)スキリ』と名乗ったのは、
“イエスを切る”という意味で、支配星の言う事を聞かないという意味でした。
日本へ来る迄の事はあまりに辛く忘れたいので、イエスと言わないでください。
日本では(立派な仕事をして)人々に慕われたので、これからは十字架を見たら《イスキリ》と言ってください」

「イスキリです。
オオサカにいた時の事を話します。
大坂とは、決して忘れる事の出来ない(ゴルゴダの)坂を、言葉として残しておこうと付けた名前です」
注):大坂=大阪。以前は“大坂”と書かれている。

「(私が)横になっていると付き人が、ノアの息子の話をし出しました。
その話は何度も聞いていましたが、その村に星述べをする子供がいると聞きました。
その子供を(ここに)連れて来て欲しいと頼みました。
そしてイシカミの謂れを聞きました。
私もイシカミに導かれて日本に来ることが出来ました。
そして支配されないように(声が聞こえないように)茨の冠をかぶりました。
(強力な支配星は、聞きたくないと思っても強い力で言葉で命令する)

茨の冠をかぶる事で、支配星の言葉をさえぎる事が出来、イシカミに助けられたのでした。
小さな子供は星述べの家に伝わる事を話してくれました。
それは星述べの家に女として生まれると、星述べをしないと喉の病気になると言う事でした。
星の言葉を世に出す事で、喉の病気は治っていくということでした。
星の知恵を授けられた子供はいつも傍にいましたが、次第に背が高くなり生長していきました」

「少年は沸かしたお湯のそばにいて、付き人が作ってくれた食事を持ってきてくれました。
少年は傍にいたので、ユダヤのことなどいろいろなことを教えました。
少年はイシカミの教えや、ユダヤの教えを守り立派な大人になりました。
天皇家の跡取が途絶えた時に、選挙の形で天皇になり仁徳天皇となりました。
それはイシカミに教えられた知恵を教える事で、より沢山の食べ物が得る事が出来るようになったからです。
なぜ今も(日本で)ユダヤの風習に似たものがあるかと言うと、私イスキリが教えていたからです。 
仁徳天皇のお墓の形が変わっているのは、ギリシャ文字のオーム( Ω )の形を真似たからです」

「仁徳天皇と呼ばれた者です。
ソラのものに降りて伝えるように言われました。
私が一寸法師の話の元になった者です。
私は仕事をする事が好きでした。
大きなお屋敷で何もせずに座っている事はとても苦痛でした。
何もかも付き人がしてくれる事も苦痛でした。
(人々が)多くの物を持って来てくれましたが、イスキリに教えられたように、お返しをするように言いました。
人間は生まれる所が違うだけで、これほど差があるとは驚きました。
“イカサズコロサズ”という政りごとで、農民からは厳しい取立てをしている事がよくわかりました。
仏教の教えに国民は震え上がり、なんでも言われるままにしていました。
そして、多くの貴族と僧侶が贅沢をしている事もわかりました。
私がまずしたことは、(年貢の)取立てを止めることでした。
そして田畑の開墾をするようにすすめました。
誰も言わないので、次の年も取り立てをやめようと言ったので殺されたのです。
私が言いたい事は、まず国民のお蔭で暮らせているという事をしっかり思って欲しいのです。
取立てばかり厳しくしても国は豊かにはならないと言う事です」

「私はイエス(=イスキリ)です。
私がどうしても言いたいことは、
(ユダヤでは)プレアデナイに支配され、とても辛かったことです。
ローマと戦争をすると言わなければ、永遠の地獄に落とすと絶えず言われました。
その他いろいろな事を言われた通りにしなければ、同じように言われ続けました。
(私が、ローマと戦争をすると言った事は)全て消し去られ、私の遺体がなくなった事だけが生き返った事として、まことしやかに伝えられて行きました。
なぜローマの兵士が私の身体を少ししか槍で突かなかったかと言うと、ピラトから、殺してはいけないと言われていたからです。
ピラトに無実にして欲しいと裁判の前に、マリア(母)がお金を持って行っていたからです。
 
お知らせしたように、私は支配されたチャネラーに過ぎません。
その事を、どうしても伝えて欲しかったので起きてもらいました」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

復活祭の法王(ベネディクト16世)のこの帽子が気になり、何をあらわすか聞きました。
失礼ながら即座に「ヘビの口」と言葉になりましたが、衣装の派手な宗教=支配星が作ったということをあらわしていると思えます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上、ソラからの伝言より。

マリア、イエス、ユダ(その5)

2006年04月19日 23時58分02秒 | Weblog
磔になった十字架から降ろされ、エルサレムを弟、ユダ、バー・ソロ・ミューらと脱出し、日本に船で来て、最後は生駒山に葬られたイエス(日本に来てからはイスキリ)。
それから幾年月。『ユダの福音書』のことが最近、話題となりました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

“ユダは裏切ってない、1700年前の【ユダの福音書】写本解読”
『ユダが裏切っていない』ことは、98年夏から知らされているソラからの情報と一致します。
ただ『ユダの福音書』はグノーシス派の思想が反映されており、それよると肉体は下等な創造神のつくったものとみなし、善の究極の神は物質世界の外側(=イシキの世界)にあるということは、支配星が自分たちを神と思わせ、今も続いている思想=アセンションと同じです。

この文はユダの言葉でなく、300年後、支配星に支配されたグノーシス派の者によって書かれており、現代の一連のカルトの集団自殺や、即身仏の僧侶と同じで、イシキだけを重要視させたのです。

チャネリングで知らされたことは、ユダは確かにイエスの教えを一番理解していたと伝えられています。
ユダは弟と一緒に、磔からイエスを降ろし、生きていたイエスをかくまい、元気になったイエスと共にエルサレムを脱出、インドで下船しています。
イエスは日本に来ていますが、いろいろな足跡が地名などで残されています。

(【ソラのイエス物語】参照)

昨夜(4月9日)、ナショナル・ジオグラフィックで、【ユダの福音書】をしていました。
この内容については先日少し触れましたが、知らないことがいろいろとわかりました。
まず見つかったのが、エジプトの砂漠の中の岩穴

福音書はぼろぼろになって8割しか解読できなかったそうです。
何よりも知らなければならないのは、イエスについての福音書は初期には約30種類もあったのは、全て弟子が亡くなってから書かれたそうで、権力者にとって都合の良い内容で、わかりやすいのだけが、正しい聖書として伝えられてきたようです。

なぜ、4人(マルコ、ヨハネ、など)だけの福音書となったかというと、担当のエイレナイオスが、方位(東西南北)が4つだから4つだけの福音書にしたそうです。
(ソラの情報では4という数字は、何度も四足動物として、穀物模様で知らせています)

一番古いマルコの福音書では、ユダは悪者とは書かれていなく、それから後の新しいもの(ヨハネ) ほど、ユダがアクマに乗っ取られたように書かれていて、ヨーロッパでのその後のユダヤ人迫害につながっていき、ヒットラーもその影響があるそうです。

もっとも大切な、なぜイエスは仲間であるユダヤ人に嫌われ、磔までの極刑にさせられたか?
そして、イエスを信じたのは異邦人を中心に増えていったかという場面は、丁度他の番組を見ていて見なかったのですが、それに対する新しい情報はなかったようです。

遠くに離れた人たちが噂だけを信じて、一番人間にとって知りたいこと、死後の行き先を知っているというので、尾ひれがついた噂が広まっていったというのは、ブッダと同じと思います。

(【ソラの釈迦とブッタ物語】参照)

この情報ではイエスがローマに対して反乱を起すように扇動したからと伝えられています。
それでユダヤ人はイエスを救世主とは思っていないで、ユダヤ教を信じているそうです。

もちろん反乱を起すようにとは、イエスが支配星に支配され、イエスが嫌がっても言わされたからですが、そのことはもちろん全て、教会の権力者にとっては都合が悪いので消し去り、ひたすらローマ人が残酷だったことを強調しています。
「今と同じです」
と言う言葉になりましたが、初期のローマ人はそれほどひどくなかったのは、ネロが伝えてきています

ローマ人が残酷だったとは、恐怖をあおってエネルギー源にしていた、支配星が言い伝えさせたそうです。
(もっともその後の同じキリスト教同士のカソリックのプロテスタントへの虐殺は、証拠も残っていて本当のようですが、いずれも支配されていたからです)

初期のキリスト教の多様さが、今回のことでよくわかったと思いますが、2000年も昔のことが、どれだけ真実性があるかということです。

日本の神話でも全く同じで、それなのにその神話に元づいた天皇制が未だに続き、貧しい庶民の税金で一部の人を崇めるというのは、どう考えてもおかしいのに、それを維持しようと80人もの国会議員が働きかけているのを、もっとしっかり見ていかなければと思います。

【なぜ、それを信じるのですか?】
という問いかけを、全ての宗教などに対してもしなければと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上、ソラからの伝言より。
写真は、ウインクする雲。

マリア、イエス、ユダ(その4)

2006年04月15日 20時22分31秒 | Weblog
十字架からおろされたイエスは、ガリラヤ湖そばのマナミの家で静養し、ホシノミナがおりた日本を目指すことにしました。
途中、ユダはインドで下船。
日本の東北の十三湊についたイエスたちは茨城などに立ち寄りながら、日本を南下していきました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

イスキリたちはさらに南下して大阪に着きましたが、噂でこの近くにホシノミナがいると聞いたので、そこで(大阪の十三で)落ち着くことにしました。
十三=ジュウソウと呼ばせたのは「ジュー=ユダヤ人、ソウ=思う」という意味もありますが、イエスの大人の弟子が12人であったのと、バー・ソロ・ミューも大きくなっていたので、それに一人を加えた数字で13人になったからです。

イスキリはそこでも病人を治したり、石切りを教えたり、イシカミの教えを広めていましたが、大昔ノアの洪水の時にユダヤ人の親子が日本に流れ着いて、その生まれ変わりの子孫がいるという噂を聞きました
それでその親子の生まれ変わりの子孫を探し出して養子として迎え、ユダヤのいろいろなことや争いがいけないことなどを教えました。

そして、イスキリはバー・ソロ・ミューやその養子に看取ってもらい、晩年には生駒山の麓の石切に移り住み、自分が死んだら生駒の岩山のイシカミのそばに葬って欲しいと遺言をしていたので、亡くなった後その希望は叶えられました。
また13人の弟子がいたことを伝えるために、お墓の横に十三重の石塔も作って欲しいと、イスキリは意識として後年の人に降りて作ってもらいました。
イエスの本当のお墓は生駒山にあり、その横にバー・ソロ・ミューのお墓もあります。

青森にあるイエスのお墓と言われているものは、イエスの弟と船頭のお墓で、その地で結婚して子孫もいたので、東北地方には白人のDNAを持った人がいるのです。
また東北地方にはヘブライ語が由来と思われる歌や風習が残されています

イスキリの養子はイスキリからいろいろなことを教えられ、立派な大人になり皆に信頼されて、初めて選挙の形で天皇に選ばれました。
それが仁徳天皇で、イシカミを大切にして国民を治めたために、亡くなった後もイシカミの巨人の亡骸である前方後円墳に手厚く葬られました。
ギリシャ文字の最後の文字Ωはこの形を真似て作られましたが、イシカミの形でもあるのです。

クリスマス・ツリーの先端には大きな星が飾られて、その下にいろいろな星が飾られますが、それは先端の星を支配星と見立てて、その下のいろいろな他の惑星を支配したということをあらわしています。
またイタリアでは、「東方の三博士」がキリスト誕生を祝ってベツレヘムを訪れる際に、誘われながら多忙を理由に断り、その後ほうきに乗って空を飛びイエスを探す老婆ベファーナの話が伝わっており、この老婆がイエスを支配した支配星のプレアデナイの女王なのです。
このように現在でも、支配星の呪縛から多くの人が逃れることが出来ないでいます。

マグダラのマリアは、イエスと同じ星に支配された女性です」と。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上、ソラからの伝言より。

マリア、イエス、ユダ(その3)

2006年04月14日 23時27分47秒 | Weblog
十字架から降ろされたイエス。
その後、行った先はイエスの子供を生んだマナミの家でした。
そこで元気になったイエスたちが向った先は...
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

マナミはマリアのお手伝いをしていた女性で、イエスが好きになりイエスとの間に女の子が生まれましたが、イエスが弟子に女性と一緒になることを禁止していたのに子供が出来たと分かると困るので、マリアはマナミにそのことは隠させました。
マナミは仕方なく、一人故郷のガリラヤ湖そばの家に帰り、イエスの金銭的援助の元に子供を産んで育てていました。
ユダ達はそのマナミの家でイエスを匿うことにし、マナミが懸命に看病したお陰でイエスは元気になることができました。

一方、イエスの遺体が無いのでイエスが逃げたことが分かり、同じ仲間と思われた弟子達は殺され、マナミも命を狙われたので、当時イタリアのコロッセオには神がいると言われていたので、そこに逃げ込みました。
けれどもコロッセオでは、支配星に支配された者が中でライオンを飼っていたので、そのライオンに襲われて死んでしまいました。
マナミの子供は強欲な夫婦に引き取られて、こき使われた後にポーランドの農家に売られて行きました。
その後、支配星は人々を支配するために、人間の想像の付かない強力なエネルギーでイエスの幻影などを見せ、あたかもイエスが天に昇った神の子供であると思わせて、いろいろな奇跡を起して多くの人々を信じさせてきました。

イエスが元気になると、イエスと弟とユダはいつまでも逃げ切れないと思い、相談して日本に行くことにしました。
イエスは亡くなったマリアの霊から、本当の神様は日本にいるので東の果ての日本に行くようにと聞いていたのです。
また、イエスたちが日本に行こうと思ったのは、次のこともあったからです。
つまりイエスはいろいろな見えない存在の言葉を聞いていましたが、その中には亡き母親、イス座のものの声、かすかなイシカミの声、それ以上に命令的な強い支配星の声などがありました。
命令的な強い声が戦争をするようにと言わせたので、イエスは強い声が聞こえないようにするには茨の冠をかぶると良いと教えられたのでその通りにしました。
何故なら支配星はヘビに関連する星だったので、茨の冠をかぶることでヘビの言葉を頭に侵入させることが防げたのです。
それから強い声は聞こえなくなり、かすかなイシカミの声と亡き母親の声だけが聞こえるようになり、伝えてくることが真実のことであると思ったためです。

それでイエスとその弟、ユダ、船頭と、まだ少年だったバー・ソロ・ミューなどが密かにエルサレムを脱出しました。
そして以前に仲が良かったマホメットの所に行き、追われているので船を譲って欲しいと頼んだので、心やさしいマホメットはイエスの困っている様子を見て船を譲ってあげました。
彼らはまずインドに渡りましたが、航海が耐え切れないユダはインドで下り、イエスの知り合いだった人の所に身を寄せました。

イエスは茨の冠を付けた時点で支配星の支配から離れたので、名前をイスキリに変えてイシカミの声だけを聞くようにして、その声に導かれて日本の東北の十三湊に到着しました。
十三湊の人たちは初めて見る外人の風貌に驚きましたが、同じイシカミを信じていたのですぐに打ち解け、イスキリは病人の対応に慣れていたので地元の人は大切にもてなしました。
その後、弟と船頭は東北に残りその土地の人と結婚しましたが、イスキリとバー・ソロ・ミューは人々に請われるままに、またイシカミの声に呼ばれてあちこち立ち寄りながら南下していきました。
今の茨城辺りの人はイシカミを信じていたのでイスキリと話しがよく合い、支配星の声を断つには茨の冠をかぶったと話したことから、茨のことなどイスキリの体験をキロクしたという意味から、地名をイバラキと名付けました。
イスキリたちは病人を診たり石切りを教えたりしながら移動していきましたが、そのイスキリを慕って人々は“アラハバキ”を祭るようになりました。
“アラハバキ”とは、アラー=太陽に感謝すること、ハバク=ほうき星に乗って悪い意識がやって来るので注意をするように、ということを教えていたからです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上、ソラからの伝言より。
写真は、支笏湖とソラ。

マリア、イエス、ユダ(その2)

2006年04月13日 22時42分08秒 | Weblog
【地中海沿岸のイシジンたちは、アトランティスの人間でもあり、石像として残りました。
それがバチカンなどにある石像です】
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

アトランティス時代のイシジンの双子の1人のミネルバは大きくなって, アトランティスの女王と一緒になり、子供もできて幸せに暮らした人生でしたが、その後、長い年月を経てエルサレムでイエスとして生まれ変わりました。

イエスが人間として生まれる変わることを知った支配星は、イエスを支配して意地悪をしようと計画を立て、その意識の固まりは大きな彗星として地球に降りてきました。
その彗星には支配星の仲間であった、北極星、ヘビ使い座、ヘビ座の意識の塊が乗ってきて、それぞれの化身が「マタイによる福音書」にある東方の三博士となり、イエスの誕生日にあらわれてイエスをしっかりと捕まえ支配していきました。

また、当時のローマを治めていたネロは、暴君で幼児を惨殺したと伝えられていますが、実際のネロは皇帝ではなくイシカミを信じてローマの人々を平等に治めて、孤児など手厚く保護し、民衆に信望のあった人でした。
けれども支配星に支配された後年の権力者たちは、人々がイシカミを信じるのを止めさせるために、幼児殺しの暴君ネロという噂をまことしやかに流して、今日まで人々に信じさせてイシカミを封印してきました。

ローマから離れた中東地域は、男性が権力を持ち女性は子供を生む使用人のように軽んじられる社会でした。
そして大柄なイエスの父ヨセフも他の男性と同じで、子供のマリアを奴隷のように扱い、その身体を自由にしていました。

そのうちマリアはお腹が大きくなるのに気が付きましたが、自分が妊娠しているとは知りませんでした。
他の人たちも、まさか子供のマリアが妊娠しているとは思ってもいないのに、突然マリアから子供が生まれたので驚きました。
そこへ東方の三博士が訪れ、イエスは神の子供だと言って宝石をたくさん持ってきたので、マリアが本当に処女のまま子供を生んだと周りの人は思ってしまいました。

イエスは何時も見えない何者かの言葉を聞いている子供で、いつも「イエス(はい)」と返事をしていたので、イエスと名づけられました。
イエスが聞いていた声は、支配星の部下であったイス座の星座の意識からのもので、その声に言われるままインド人の商人の手伝いとして、インドに行かせてより強く支配し、支配星はイエスが成長するのを待っていました。
そしてその道中の国を治めている人の息子マホメットと知り合い、お互い手の平に同じ傷があるのに気付き、二人ともやさしい性格でお互いが似ていると思い、イエスが何度かインドに行くうちに友情をはぐくむようになりました。

生長したイエスは父親の元で石大工として働くようになりましたが、父親は大酒飲みで小さな母親のマリアに暴力を振るうので悩んでいました。
母親思いのイエスは、母親が暴力を振るわれるのを見るに忍びなく、ある夜外に出て夜空の流星群を見ていました。
すると突然、それまで聞こえていた声よりもはるかに大きくはっきりと、威厳のある声が暗闇から聞こえてきて、その声は自分を神と名乗り病気を治す力をイエスに授けるから、これからはこの声に従うようにと言ってきたのです。
その声は支配星であるプレアデナイの意識からのものでした。

次の日からイエスは手を当てるだけで、本当に病気を治すことが出来るようになり、その力は日増しに強くなっていき、その噂を聞いた人々は次々とイエスの元にやって来て、病気を治してもらうようになりました。

またマリアもやさしく、親に捨てられた子供を育てていましたが、ある時金持ちの子供らしい子供が泣きながらイエスの弟子に連れられて来ました。
けれども言葉が分からない異国の子供で、名前を聞いても答えないので、みんなはバー・ソロ・ミューと呼びました。
すなわち“異国の、一人の、ちいさき者”と言う意味です。
バー・ソロ・ミューはイタリア商人の子供のようで、親とはぐれてしまったようでした。
初めは泣いていたバー・ソロ・ミューも、やさしいマリアや同じ様な子供がいるのですぐに慣れていき、イエスに特に可愛がられて一緒に行動をしていました。
そしてやさしいイエスは、イタリアにまでバー・ソロ・ミューの親を探しに行きましたが、どうしても親は見付かりませんでした。
バー・ソロ・ミューは腕白でしたが、賢かったためにイエスの弟子となり、イエスがいろいろな病人を治していくのを見て、その手伝いをしていました。

他の大人たちもイエスの弟子にして欲しいとやって来たので、次第に集団で生活をするようになりました。
けれども集団生活をしているうちに、いろいろな問題も起きてきたのでイエスは規則を作りました。
その規則が厳しいと弟子は文句を言っていましたが、ユダだけはいつもイエスの言うことをよく聞いてイエスを助けていました。
またイエスにいろいろな問題が起きた時には、ユダが一番の相談相手になり、イエスはユダを最も信頼していました。

マリアの元で育てられた孤児のエマは、美しいけれどふしだらな娘で売春婦になってしまいました。
エマはイエスを誘惑しましたが、イエスはエマの行状を知っていたのと、マナミという手伝いをする女性と深い仲になっていたので、エマの愛の告白を受け入れませんでした。
嫉妬にかられたエマは、他人の子供を宿していたのをイエスの子供だと嘘の噂を売春の相手に広めていきました。
その噂に困ったマリアは、当時は信者からたくさんのお金をもらっていたので、手切れ金をエマに渡してイエスの元から遠ざけました。

一方支配星は、神と名乗る声でイエスを支配していましたが、次第に厳しいことを言うようになりイエスはとても悩んでいました。
神と名乗る声は、ローマの支配から立ち上がって反乱を起すようにと言い、しばらくすると今度はイエスに「ユダヤの王様になると言え」と言い、言うとおりにしないと地獄へ落ちると脅かし、更に「ローマに戦いを挑み独立しよう」と、皆の前で言わせました。

イエスが戦争をけしかけているのを知ったマリアは、イエスが裁判にかけられて殺されるのでないかと思い、当時のエルサレムを支配していたローマの総督ピラトに、イエスの命を助けて欲しいと宝石などをたくさん渡して頼みました。
けれども宝石が無くなったことを知った大男の夫ヨセフは、マリアのわき腹を蹴って殺してしまいました。

イエスが皆にローマの支配から独立するために戦争をしようと触れ回っているので、戦争になると困ると思った人たちはピラトに相談し、イエスを裁判にかけるようにと頼みました。
ピラトは自分の娘ニアスから、イエスはとてもやさしく、病人を治しているだけと聞いていたのと、マリアからたくさんの宝石が届きイエスを無実にして欲しいと頼まれていたので、困ったピラトは自分で判決を出さないで人々に決めさせました。
それで、人々は平和に暮らしているのに戦争をするのが嫌なので、イエスが王となってローマと戦争をするということに反対をして、イエスを磔にするようにピラトに頼みました。
ピラトは人々の言うままにイエスを磔にするようにしましたが、磔に立ち会った兵士にはイエスを殺さないように言っておいたので、兵士はイエスのわき腹を槍でちょっと突付いただけでした。
けれどもイエスは磔の苦痛と恐怖で気を失い、それを見て皆はイエスが亡くなったと思い帰っていきました。

夜になりイエスの弟とユダはイエスの身体を十字架から降ろす時に、イエスが生きているのに気付きびっくりしましたが、死んだ振りをさせてお墓まで運びました。
お墓にいた皆が帰ってから弟とユダだけが残り、イエスの体力が回復するのを待って闇に隠れてマナミの家にイエスを連れて行きました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上、ソラからの伝言より。
写真は支笏湖とソラ。

マリア、イエス、ユダ(その1)

2006年04月12日 21時06分07秒 | Weblog
「ユダは裏切ってない、1700年前の【ユダの福音書】写本解読」というニュースが4月7日に発表されました。
ソラからの伝言では、イエスの真実の物語が知らされています。
その中から、いくつか紹介していきたいと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

レオナルド・ダ・ビンチの初期の作品、マリアの幼い顔と、白い窓の絵です。

98年後半に、チャネリングでマリアが最初に言ってきたのは、夫は大男でマリアの身長は夫の腰までしかなく、酒乱の夫に暴力を振るわれ(少女だった?)ということなどいろいろでしたが、その後さらに詳しく知らせていた記録がありました。

生きながら火に焼かれて》 を読み終わって、この本の舞台がシス・ヨルダン=ヨルダン川西岸で、イエスの物語もここに近いので、この女性のような思いをマリアもしていたのでないかと思っていたら右小指にサインありました。

「本当の事なのです。
(以前知らされたマリアが夫から暴力を受けて亡くなったこと)
現在も続いている女性虐待は2000年も昔はもっとひどい事でした。
ナ、ナ、泣いている人がいます。
(未婚の人の子供は)守らなければ子供も殺されました。
マリアは小さな身体で、子供のうちから犯されイエスを生んだのです。
イエスも同じだったのです。(私生児だったという事)
ただ父親が認めて責任を果たした(結婚していると言った)ので母子とも殺されずにすんだのです。
イエスが男の子だったので助かったのです」

「周りが白くなるまでぶたれていました。
それでも良いと思っていました。
一人になるのを恐れたからです。
(本の主人公が)まるで私が生きている頃のようでした。
(イエスが)かわいそうな子供になるといけないと、部族の者達は相談しました。
(現在でも私生児は生きていくのに過酷な運命が待っている)
それで(神のお告げがあり、処女で受胎したと)ウソの話をまわりにしたので、噂が広まったのです」

絵の白い窓は「決して外から見えない=他の人には知らせないが、マリアは子供であったことを隠している。ダ・ビンチは当時のこの噂を知っていて、このように描いた」
と夢うつつに知らせてきました。
又、公開はしていませんが、マリアは子供が生まれることがわからなく、お尻から何か出てきたと思ったら子供が生まれていてびっくりしたと言っていました。
大男で大足で蹴るのが特技?だったジャイアント馬場が亡くなった頃に、マリアは“夫に蹴られて亡くなった”と腹部の痛みのサインと共に伝えてきていました。

イエス関係は2000年までに多くが知らされ、忘れているのもありましたが、ユダの母親は召使で、父親は雇い主だったのでとても辛い目にあっていたので、イエスに出合い死後の世界を教えられ、希望を持って素直に従っていたようです。
(詳しくは【星からのメッセージ】に書いています)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上、ソラからの伝言より。
写真は、オーストラリア、アデレードのヘンリー・ビーチから。