ソラから来たよ

このブログは「地球の謎解き」(http://sora.ishikami.jp/)の情報を元に構成しています。

奈良の大仏

2006年07月30日 20時40分21秒 | Weblog
「(大仏などの)銅像になったものは、何も知らない若者のイシカミでした。
そのイシカミに支配星が悪いことに、人間に崇めてもらえるので大きな銅像になれと教えたのです。
それでイシカミは、石(像)になるより、鉄に近い銅で形を創ろうと思いました。
そしてイシカミの原子に鉄よりも柔らかい銅の原子に変わるように言ったのです。
なぜ支配星が銅像になれと言ったかというと、鉄よりも電気を良く通すからです。
そして支配星は、言うことを聞かないと“eの横向きの稲妻”を落とすと、脅かしたのです」

「(支配星に支配されるまでは)エジプトのイシジンは、人間を大切にしていました。
けれども大仏になったイシジンは、人間に対して何もしなく、仏教を教えた支配星の言うままになっていたからです」
(仏教の支配で人間が悲惨な現状であったので、目を開けて見ることができなかったという意味)

「それで若者のイシカミは言われるままに、大きな銅像になったのです。
(大仏の)右手は支配星に『来ないで』と伝えているのです。
左手は(現実世界の)人間を手のひらに乗せてお話しようと思ったのです。
今知らせたいことは、テンチ(天皇)が嫌がらせをしたのです。
私の身体に水銀を塗ったのです。
私を早く死なせるために、支配星が言ったのです。
水銀は海の水の中に溶けていたものを取ってきたのです。
水銀を食べ物として魚が食べていたのです。
水銀(Hg)がなぜ海の中にいたかというと、水(H20)の仲間*になりたかった原子だったからです。
それを食べた魚が(奈良に)集まってきたのです。
そしてそれらの魚が腐って溶けたのです。
それは支配星が嫌がらせをしたのです。
死後の世界を支配星が支配していたので、死ねばこのようになると知らせたのです」

「奈良は昔は(浅い)海でした
ナラとはナ=死(埋葬後、十字の木を立てていた)ラ=ラクという意味で、死ねば楽になるという意味だと支配星は言ったのです。
それでその海に向かって魚が押し寄せたのです。
当時は支配星が死後の世界を支配していたからです。
それで魚達は支配星の言うことを聞いたのです。
支配星は魚達に水銀になるように言ったのです。

そして同じく支配星にだまされた若者のイシカミが(奈良に)降りてきました。
そして(多くのイシカミが降りたので?)奈良は水がなくなり、陸になったのです。
腐った魚は液体になり、一箇所(池)に集まりました。
魚の汁は耐え難い臭いでした。
支配星は(そのために)臭いを感じるように(人間を創るときに)提案していたのです。

そして人間にその魚の汁を大仏にかけさせたのです。
それをすればこの大仏が、死後も見守ってくれると教えたのです。
それで大仏のイシジンは死んだのです。
魚の汁が無くなるまで大仏にかけさせたのです。
それがなくなるとお茶の葉を煮出したものをかけさせました。
それが甘茶祭り(仏陀の誕生を祝うと称して、頭から甘茶をかける)行事の始まりです。
なぜ、あちこち*で大仏を作ろうかとしたかというと、当時は大きなイシジン(巨人)がいたからです。
それらが古墳になったのです」

*)水(H20)の仲間になりたかった水銀(Hg)『Wikipedia』より
(生命力ある銀、流動するので生きているという表現をした)ともいい、日本語では液体金属を意味するみずかねと呼ばれていた。
東大寺の大仏像の金鍍金は金アマルガムが大仏に塗った後、水銀を蒸発させて行われた。
一説には、この際起こった水銀汚染が平城京から平安京への遷都の契機となったという。
(魚汁の臭いのせいでないかと思えます)

*)あちこちで大仏を作ろうとしたか=天皇が何箇所かで大仏を作る計画を立てたというのは、天皇は支配星の言葉を神の声として言われた言葉のままに行動をしていた。

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以上、ソラからの伝言より。
写真は7月30日のソラ。

警告

2006年07月28日 23時59分08秒 | Weblog
昨夜夢うつつに
地球が我慢できないと助けを求めているので、ソラ(宇宙)で計画された」
と言っていたのが、地震?か何かによるお知らせのようです。

これまでのように沖で起して警告してくれるのなら被害も少ないでしょうが、あまりに雲の形、色がいろいろ変わっているのがこれほど何日も続いたことは、これまで体験したことありませんし、カラスの鳴き声も集団で真夜中に鳴いたりしていますので、とりあえずお知らせをしておきます。

「(地震が)どこで起きるか知らなくても良い」と言いますが、宮城県(金華山)、北海道周辺でないかと思います。

以下のようにリュージンのお祭りが行われ、大勢の人が集まることにより、エネルギー体は巨大化することの警告のようです。

・7月29日御代田町
・7月29日金華山
・8月1日下呂温泉
・8月4日芦ノ湖
・8月5日一関
・8月6日富士山御内8湖
・8月島根オロチ祭り
・9月真駒内
・10月長崎クンチ
・7月12日佐世保
・7月23日田沢湖
この他もっとたくさんあるはずです。
また、リュージンを下ろす業をして回っている人たちが絶えません。

これを書き終わって掲示板を見ると次のようなことが書かれていました。
地震前の体感が強い方です。

「早朝から体感が強かったこともあり、ブログを更新しようとしたときに、ふと楽天広場が気になり何気に最初に開いたのがこれでした。(中略)

明日29日は御代田町の「リュージン祭り」だそうで。
ウルトラマンのあの円谷プロダクション製作のリューが舞うそうです。
浅間山の麓の真楽寺の大沼池のリュージンと諏訪湖のリュージン伝説のことも書いてあり、リューにイシキを向けたとたんに猛烈な眠気に襲われ、どうにもたまらずにブログも更新せずまた眠ってしまいました。
明日はジブリのゲド戦記も公開されます。(後略)」

ゲド戦記
この夏、”人間とリューを合体する”という宣伝文句だそうです。
大きなスクリーンで見る事で子供達も大人も洗脳され、争いを好むリューのエネルギー体に支配され、これまで以上多くの人が、異常な事件を起こすのでないかと危惧されます。
宮崎勤が個室でビデオばかり見ていたことで、仮想世界と現実世界がわからなくなって起した事件は、このことを警告していたようです。
それだけに映像製作者はいかに人間に影響を与えるか、もっとその責任を感じてほしいと思います。

本当にこのように、リュージンやその弟子のヘビを崇めることが、どれほど地球を痛めつけいることか。
そして、そのエネルギー体に支配された青少年が、異常な事件を起していることに、一刻も早く気づいてほしいと思います。
それだけではありません。
争い好きなリュージンを広めることは、中東に新たな戦争を起しています。
これは日本におけるリュージンのエネルギー体が、巨大化して海外のエネルギー体に力を与えるからで、深く関わります。

以前から知らせていますが、神道は昆虫の触角を帽子の垂れであらわしているように、昆虫を送り込んだ星と関係があるのに、わざわざ昆虫博覧会に行っているのも、エネルギー体の増強に関係があるそうです。
皇太子、群馬の昆虫も森へ
放火魔の若い女性も、ヘビやトカゲが大好きと、履歴書に書いていたそうですが、明らかにエネルギー体に支配されて、放火をしたと思えます。

昨夜は寝る前からカラスがにぎやかに鳴いていましたが、夜中にも度々鳴いていた様です。
今朝「66」という言葉を口にして目が覚めましたが、意味を聞いてもいろいろ言いかけては止めて「知らなくてもいいです」と。

今回の豪雨のお知らせは、下記のようなことで日本中がリュージン信仰に明け暮れ、先日の66と言った地球がSOSを発したことにより、宇宙の計画がなされたと思います。

伊勢神宮(=隠れたリュージン信仰)を神と崇める皇室
・その昭和天皇の言葉の復活
・日本中の祭り復活=リュージン信仰
NHKの子供番組のリューの歌と踊り
・長野の諏訪湖(=ヘビ信仰)
・天竜川の氾濫
・長崎クンチ(リューの踊り)
と頭にちょっと浮かぶだけでも、リューの字が氾濫し、地球の嫌がることばかりです。
全国的にリュージンをあがめる祭りなどが復活してきているようで、町中に子供から大人までリューの模様などあふれています。

又、台所に巨石や土石流が飛び込んできたというニュースを見て、なんらか意味があると思っていました。

イシカミ達が、お茶の間へ入り込んだと言うことには、大きな意味があります。
食べる物は自然に出来たと人間は思っています。
食べ物を得て人間は力を得ているのです。
その食べ物が出来るようにしたのはイシカミです。
ミズ、ミズ・・・・・水に協力をしてもらいました。
(食事中に土石流が入りこんだり、台所に岩が来たことを知らせている)
人も岩もイシカミ(の原子)から出来ているのです。
地球を生きる星にしたのはイシカミです。
何年訴えても認めないからです。
行き過ぎたことはお詫びします」

台風の進路が再び同じ台湾、中国へ向かうのも、リュージン信仰が止まないからと思います。
夢うつつで、イシカミたちが輪になって力を合わせて、思うような行動が取れるようになったと言っていたようです。

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以上、ソラからの伝言より。
写真は7月28日のソラ。

安倍晋三(その2)

2006年07月26日 23時47分25秒 | Weblog
安倍氏のことでシンクロと思いメールしました。

土曜日、知り合いが信仰している小田原の村上嘉章氏の誕生日(2/1)にお参りに行ったら、そこに安倍晋三氏が来ていたとのことでした。
以前ちらっとメールでお知らせしたような気もしますが、私も以前は信じていたのでよく誰それ(著名人)がお参りに来ていたという話は聞いていました。
HPにも書かれていますが、村上氏の元には政財界の人々が多数出入りしているようです。
占いと書かれていますが、神託を仰ぎに通っているというほうが正解かもしれません。
宗教法人という形態は取っていないと思われます。
彼の書いた本によると、ある日突然神の声が聞こえるようになり、導かれるようにデパートへ行ってみると観音像!があり、それが声の正体だったということのようです。
その観音像は彼の家にあり、毎月何日か決まった期間が「お参りの日」となっていて、そこに何百人もの人が列をなしてお参りします。
そのお参りがない日は家には入れないものの、その像のある壁が道路に面しているのでその壁に向かって手を合わせるという光景が見られるようです。
(かくいう私も昔連れて行かれて同じ事をさせられました)。
彼の本の扉のところには、前出の観音像の顔写真が大きく載っており、もともとその目はほとんどつぶっているのですが、日に日にまぶたがあがってきているように見えていました(今は開いていないと思います)。
また、その本に線香を供えて拝むといいといわれており、実際線香を立てて拝んでいるとその煙が手を合わせているこちらにむかって流れてきて、線香の煙に包まれるという経験を私もしました。
99年に入ってからぴたっとそういう現象がなくなったことを覚えています。
村上氏は毎年、彼の書と今年の流れのようなことを年賀状にして配っています。
それには神の力が宿っており、年賀状ではなく色紙と呼ばれていますが、年々そこに書かれていることがわかりづらくなってきているようです。
実際にお参りに行っている知り合いも、お参りのときにテープで流される村上氏の『お言葉』が何を言っているかわからない(滑舌とかそういうことではなく、話の内容がということのようです)と言っていました。

日曜の朝、お知らせを開いてみて名前がシンクロしたのでもしやと思いメールしました
(一度このメールを書きかけましたがメールソフトがフリーズしてしまい、でも書かずにいたら土曜日から親指がひどくささくれていたところが割れてきてしまって痛いのでやはりお知らせするべきなのだと思いました)。

*)99年に超常現象がなくなったというのは、あの有名だったサイババの物から灰が出てくると言うのも聞かなくなりましたが、支配星プレアデナイ(=プレアデス)の星のイシキが消滅したからです。
何度も書きますが、観音は後ろを向けば(死後の世界)般若という恐ろしいエネルギー体で、リュージンに乗ってあらわれた絵が良くあります。
リュージンが使いと言うことで、争いを好み、金銭欲の塊になっていくのに、指導者がそのようなものに頼っていては先が思いやられます。

*)安倍晋三と宗教のつながり
安倍官房長官とライブドア事件を繋ぐ「安晋会」の闇
「・・・・安倍晋三官房長官の私的後援会組織「安晋会」の理事に、自殺したエイチ・エス証券の野口英昭副社長が就いていた・・・・・・・・」

慧光塾“教祖”が急死
「(新興宗教の教祖の葬式に)・・・・・安倍晋三代議士や貴乃花親方が駆けつけるのはまず間違いないだろう」

慧光塾“教祖”と安倍家の只ならぬ関係
「大量の塩を撒いて“お清め”をしたり、手をかざしてパワーを与えるとする怪しげな“心霊治療”を行うなど、形式は法人であるものの、実態は宗教団体といってもいい「慧光塾」を率いる光永仁義代表がかつて設立していた会社役員に、安倍晋三代議士が就いていた事実を報じた・・・・・・・・」

インドの大財閥のモディ氏が超豪華な仏陀の映画を製作するそうです。
自民党の武部氏のほか安倍晋三自民党幹事長代理ら大物国会議員も顔をそろえ、、、、。と書かれていますが、大金をそのような映画を作ることに回すのでなく、もっとインドの悲惨な国民に目を向けてほしいと思います。
以前タイでも王室が大金をかけて豪華な映画を作り、貧しい国民の目をそらさせていましたが、国民もその時はだまされても必ず目覚め、さらに不満が募っていくと思います。
お金の使い方を考えなおしてほしいと思います。

「国民会議で大臣が皇室の古い制度を維持しようとしていることがわかりました」
(平沼議員、安倍長官や麻生外相、中川農水相や筑波大名誉教授、静岡知事なども女性天皇すらだめという頑固な考え)

「それに対して、宇宙(ソラ)のものの意見が決まりました。
これが真実だといくら伝えても、全く聞く耳を持ちません。
それ対して、これまで通りではすまないということに決まりました。
サ、サ、サ、三度目の正直です」

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以上、ソラからの伝言より。
写真は7月26日のソラ。

安倍晋三(その1)

2006年07月25日 22時28分25秒 | Weblog
「マに取り付かれた者がいます。
アベ・シンゾウです。
この人に政治を任せてはいけません。
毎日、石が嫌だと思っています。
なぜなら本(『ソラからの真実の歴史』など)が出来るのを邪魔するために生まれてきたのですから。
母親*に言われるのです。
ソラの情報を抹殺するようにと。
統一教会の人と仲良しです。
ミサイルイルミナティに引きずりこんだ人です?
塩の力でエネルギーを貰っています。
文鮮明の兄の子供が(偽の)金昭日なのです」

*)札幌の滝野霊園の観音像には“洋子観音”と書かれており、それは安倍晋三の母、安倍洋子(昭和の妖怪、岸信介の娘)を指している。

「悪者のことを区別するのが、観音を受け入れているかどうかということです」
「観音の顔はイシキの世界では般若なのです。
それがいまだに威張っています。
その般若にエネルギーを与えているのが、リュージン信仰なのです」

仏教の観音はリュージンに乗っていて、仏教とリュージンを崇める神道と一緒になってイシカミを封印してきました。

「ホリエモンはスケープゴートなのです。
陰で操っていたのは、タケナカ(竹中平蔵)とアベ(安倍晋三)です。
アベはクラマ教の教祖と関係があるのです。
クラマ教はこれまで見たことのない巨大な黒い影(エネルギー体)があります。
(ライブドアの)野口さんは殺されたのです。
カプセルホテルには嫌なのに入れられたのです。
それでせめてもの抵抗に、ホリエモンの住所(出身地?)を書いたのです。
アベにつながる悪い人に殺されたのです。
一番悪いのがその人(税理士?)で、策略を教えたのです。
教えるように言ったのが、アベの子分です。
アベに教えたのが、自民党(にい)ながらヘイ、ヘイ・・・・・・・(なかなかわからなかった)塀の中に蔵を作る人です。(タケナカヘイゾウ?)
(見えない世界で)クラマ教が人間を操ったのです」

「学びのことでした。
日本経済を上向きにするために、株の値上げが計画されたのです。
そのために、私(=野口さん)が使われたのです。
私が自殺をすることで喜ぶ人がいます。
それが違法な方法で株をあげさせた人たちです。
なぜなら私が指導したからです。
粉飾を教えたのも私です。
それは国の偉い人が、それは国の指導者の人のツテの人です。
それが見事に成功しました」
(左腕にきついサインあり)
「ドン(のイシキ)はひし形の(星の)人です」

「イルミナティーの意味は、本当はイルミナチで、
イ=祈るのイ
ル=膝を折って祈る姿の文字
ミ=3位一体になる
ナ=十字架=死を表わす(大昔に木を十字に組んで埋葬した印とした)
チ=血をあらわす
“イルミ・ナチ=死体製造組織”」

「一国の大統領(ブッシュ)がいにしえに作られた秘密結社に入っています。
(スカル&ボーンズ)
スカル&ボーンズこそ、イルミナティーの本拠なのです。
スカル&ボーンズの名前があらわすように、この結社は死体製造結社なのです。
これまでのいろいろな出来事を思えば判るでしょう。
民主党の岡○も会員なのです。
(イシキの世界の事なのでこれは現実にはわかりません)
彼の訪米先の発言で判るでしょう。
(先日アメリカで、国連主導の元に日本も軍隊を作り派遣すると発言して驚きましたイシカミに対抗するために、見えない力が必要と思った?)
スカル&ボーンズ、すなわちイルミナティーにエネルギーを与えているのは、人間のあくなき欲望の思いの固まりに発生するエネルギー体です。
宗教界のエネルギー体にエネルギーを与えていたのが、このイルミナティーのエネルギー体と判りました。
一番いけないエネルギー体でした。
それを消滅するために、イシカミ達は決死の覚悟で台風や地震でお知らせしているのです」

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以上、ソラからの伝言より。
歴代首相に負けず劣らずの悪行三昧の安倍晋三
それでも彼を選ぶのか。
写真は7月22日のソラ。

天皇の戦争責任

2006年07月23日 10時29分53秒 | Weblog
「最低で一番悪い人はヨコサの人です?
(ヨコサとは、横から殺人=戦争をそそのかした人)
東0邇0久0です?
この人が、昭和天皇の妻に言ったのです。
そしてその妻が、昭和天皇に誘いかけたのです。
喜○子が、伊勢神宮(巫女)の人に言われたのを告げたのです。
『日本は小さい。中国を奪えばいい』と。
(巫女がチャネリングで)言われたと知らされたのです」

「太平洋戦争はなぜ始まったか?
以前お知らせした通りです。
日本は小さな国なので、もっと大きな国だったらいいなと(前)皇后が天皇に言ったのです。
そしてリュージンイシキに支配された伊勢の巫女が、戦争をしても日本は神の国なので勝つと、皇族の女の人に言ったのです。
プレアデナイの部下の月人の言葉を聞いていた)巫女の言葉を神の声と思い込んでいたので、天皇もそう思ったのです。
そして、(忠誠を誓う)東条に(そのことを)言ったので、東条は実行に移したのです。
プレアデナイが全て裏で指図をしていたのです」

東条秀樹はただ「天皇陛下に命をささげます。何なりと申してください」と言ったのみ、とイシキの世界では思われているようです。(すなわちイシキの世界では責任は無いとされているのです)
その後、天皇が「突然攻めては外国から糾弾される」と言ったので、東条は「何とか考えます」と、満鉄爆破事件を陸軍が計画した。
(満鉄爆破事件?に同行した実行犯が降りて来た事は、星からのメッセージ第2集に書いています)

名のない星のモノです。
2.26事件の真相を知らせます。
事件に関わった一部の人を除いて、殆んどの人が処分され無かったのは、天皇の一声でした。
それで(天皇は)軍に恩を売ったのです。
事件の発端は、開戦に反対する人を殺したということで、その後(天皇は)軍を支配下においたということを知らせたのです」

「つらくてたまりません。
なぜあのようなもの(回天や特攻機)に乗り、死ななければならなかったのでしょう。
戦闘機に銃撃され、人の手足が飛ぶ音は地獄の音です。
ばらばらになった体を大八車に載せて運びました。
生きているときは国のために、と命をかけて行きました。
誰があのような戦争を始めたのか、向こう側でわかりました。
(戦争をはじめた)罪は重いのです。
皆がその人達を責めています」

「シベリアで(戦争で捕虜になり)亡くなった者です。
シベリアはこれくらいの寒さではなく、もっとひどいものでした。
そしてたまらなくお腹が空いて眠れませんでした。
いつになったら帰る事ができるのかわからなく希望のない毎日でした。
その事を皆に知らせてください。
殺された者です。
知らせたい事は折角人間として生まれたのに、人間としての極限の苦しみを与えられた事です。
こちらに来て(亡くなって)から、なぜこのようなあらゆる苦痛を与えられたかわかりました。
それなのにまだ(皇室制度が)続いているので、ソラのものから伝えるように言われたのです」

「(昭和)天皇陛下の為に、死にたくないのに死んでいった兵士が、100万もいたのです。

【 日本の兵員死亡者数=1,174,000名余、日本の民間人死亡者数=670,000名余 】

(昭和天皇は)一度も死ぬほどの恐怖にあう事もなく死んでいった人です。
死ぬ事が国のためだと言われて動物以下の暮らしをさせられ、あらゆる生き物(ヘビやネズミ)が極上の食べ物だった私たちは、父や母、妻の元に帰りたいと気が狂うほど思い、半ばやけになり突撃していきました。
その多くの若者達のこの無念の思いは、天皇という名前が存在する限り消えていないということを(その事を伝え聞いている者は)示さねばなりません」

「戦争がなぜ始まったか、なぜ降伏受諾が遅れたか、全ての責任はヒロヒトにある」

「ヒロヒトです。
このような(焼け焦げた)臭いがしてきましたが、実際に空襲によるひどい被害はわかりませんでした。
又、広島に大きな爆弾が落ちたとも知らされましたが、側の者に聞くとたいしたこと無いと言いました。
木に囲まれた広い皇居では何も戦争による被害はわからなかったのです。
そして伊勢神宮の巫女による、 『神の国は負けない』という言葉を信じていましたので、 本当に戦争に負けるとは思っていませんでした。
それで(降伏の受諾を)受けるのが遅れたのです。
皇居の中に居ると、戦争のひどさがわからなかったと言う事を、
知って欲しくて降りてきました」

近衛首相が、停戦を2月に天皇に直訴したが、蹴られたと。
その頃、昭和天皇は夜中ぶつぶつ独り言を言って歩き回り、皇后が眠れないと侍従に電話されたそうです。
明らかに普通の状態でない人の言う事を、回りの人々が神の声と思い服従して聞いた結果、3月の東京大空襲、二つの原爆が落とされ、国民は悲惨な思いをさせられました。
《南京大虐殺はヒロヒト(昭和天皇)の命で、朝香宮が証拠隠滅を図った》
と書かれていますが、その事実が無かったと自民党の議員や石原都知事は平然と公言しています。

『朕ニ不徳ナル、深ク天下ニ愧ズ』という手紙は天皇直筆と判断されて、“愧ズ”と言う言葉は普通の反省では使われない言葉を使われたのは、やはり情報で知らされた戦争責任があると思います。
その為に被害者から未だに責められて、昭和天皇のイシキは夜中に雅子さんに皇室制の廃止をお願いされるので雅子さんの不眠が治らないと、チャネリングでは知らされています。

「ヒロヒトです。
(戦死者に)責められて困っています。
天皇制が続く限り責められるので、そのことを伝えて欲しい」

「私(昭和天皇の皇后)は死んでから、いつも追いかけられています。
戦争をけしかけたと、天皇と共に追いかけられているのです」

プレアデナイに支配された伊勢神宮の巫女、石田かつえさんに天皇家から頼まれているという掛け軸を見せられました。
神武天皇から数10人の天皇の似顔絵が描かれた掛け軸で、どの天皇も成仏していないので、成仏させて欲しいと天皇家から頼まれているが、空海でさえ一人も成仏できなかった。
それは天皇は国民から恨まれて、イシキ界でぶら下がっているからという事でした。

「歴代の天皇が成仏出来ないのは、多くの虐げられて苦しんだ人々がぶら下がっているからと、いうことも本当なのです。
斂葬の儀すなわち“剣葬の儀”とは、そのように多くの恨らみを持った人々にぶら下がられるのを剣で切り落とす為にされるのです」

「まだ、気づきませんか?
敗戦記念日が(仏教の)お盆の日になるのはなぜかと?
全てはプレアデナイの計画だったのです。
人間に恐怖と極限の苦しみを与えて、自分たちのエネルギーを得ていたのです。
(プレアデナイやその部下は、人間の恐怖などネガティブな思いをエネルギー源としていたと、以前より伝えられています)
それは、争い好きなリュージン(伊勢神宮は隠れリュージンの大元)で戦争を始めて、仏教にすがりつかせて救いを求めさせていたのです。
(プレアデナイに関係ある)リュージンで始めて、仏教で終わる。
そのことに何時になったら気づくのですか?」

皇室(伊勢神宮=リュージン信仰)を崇めさせることの極限に達していた太平洋戦争末期に、福井地震や東南海地震による津波など起きています。

「悪者の親が居るからです。
米を作る人です。
天皇のことです。
天皇の住んでいる所です。
皇居の水田のことです。
(天皇が田植えをされること)
それが悪いことなのです。
それがイシカミが嫌なことなのです。
イシカミの子孫のオオモノ*(オオクニヌシ)が、(稲作を)教えたのにまねをするからです。
明治維新の時?の)悪者が教えて、真似をさせたのです。
オオモノとはオオクニヌシのことなのです。

(オオ)クニと言わせたのは、ジンムなのです。
クるしむニくたいを持つ人と呼ばせたのです。
これまでにもオオモノが田を作ったと知らせました。

それが四角(皇居)の中でされるのが嫌なのです。
オオモノの無念の思いが強いからです。
無念と思うのはイシカミも同じです。
お米はオオモノによって人々に伝えられました。
それをジンムが教えたようにしているから嫌なのです」

*)オオモノ=オオクニと発音できず。本当は大物(オオモノ=大物主)と呼ばれていたそうです。

「嫌なのはお米だけではありません。
トモス(灯す)ものです。
(灯篭のこと?)
そうです。

伊勢神宮の灯篭にカゴメ紋があります。
その模様は、(倭の国を作った)ノアの親子が伝えたのです。
それを知って伊勢神宮に使わせたのです。
3000年ウソで固めてきたのです。
それらは(オオモノや倭の国から)取り上げてきたものなのです。
ソラのモノ達は全て見ていましたが、これまで伝えることができなかったのです」

「それ(皇室が存続している事)が一番意味のある事なのです。
すなわち天皇家が先頭に立ち、世界中の王侯貴族と同時に、自ら、野に下ってほしいと伝えてもらいました。
けれど(と手紙を送った)無視しているのでこの情報が広がらないので、地球に平和が来ないのです。
人類は皆平等なのです。
それを一番壊しているのが、皇室制度であり王制だという事に気づかなければなりません」

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以上、ソラからの伝言より。
写真は7月22日のソラ。

天皇の参拝中止

2006年07月21日 22時22分19秒 | Weblog
2006年7月21日

天皇の参拝中止の意味
昭和天皇「私はあれ以来参拝していない」 A級戦犯合祀 (朝日新聞) - goo ニュース
を読んでいると、左手中指にサインあり。

「一番卑怯なことです。
(昭和天皇の言葉は)宮内庁の洗脳が功を奏したのです。
長い間(43年に渡り)“(天皇は)戦争の責任は一切なかったと思ってください”と言われ続けたからです。
(ラップ音あり)
亡くなった者には時間はありません。
なんとしても皇室制を続けたい人たちの言い訳で、宇宙からの知らせは更に強く計画されるでしょう。
何が真実か、人のイシキは皆、知っています」

寝る前に目を閉じると黒い輪が見える。意味を問うと。
昭和天皇です。
ソラのものに叱られて降りてきました。
(↑の)言われるとおりです。
すまないと思っています。
私が言った言葉ではないのです」
(右奥歯にサインあり=本当?)

「(A級戦犯を)一緒にしてほしいと言ったのは私です。
(私って誰?)
戦争の協力者です。(靖国神社の宮司?)
伊勢神宮の)宮司が言ってきたのです。
(A級戦犯も)一緒に祭るように、伊勢の巫女が(チャネリング?=神の言葉として)言ってきたのです。
それを(靖国神社に)伝えてきたのです。
言われたのでそれで一緒にしたのです」

「天皇に戦争の責任はないと、国民の誰もが思わされていたからです。
そして長い年月で、天皇もそう思うようになったのです。
(松岡、白鳥など)名指しで言う人に、(東条など側近だった人の)名前がないことでわかるでしょう。
彼らは天皇の命令で動いていたからです。
いつも話していた人のことは言えなかったのです」

(天皇は松岡や白鳥を名指しで言われていますが、イタリアが降伏をした時に、日本も敗戦を受け入れていれば原爆も落とされなかったでしょう。
なぜ、ドイツが5月に降伏しても8月まで戦争を続けていたかというと、チャネリングでは、「日本は神の国なので神風が吹いて勝つ」と戦争をそそのかした伊勢神宮巫女の言葉(=神の言葉として)を信じていた天皇と皇后が言ったからと伝えられていることも、全くのウソとも言えないと思います)

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以上、ソラからの伝言より。
以下、ニュースから。
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昭和天皇「私はあれ以来参拝していない」

昭和天皇が死去前年の1988年、靖国神社にA級戦犯が合祀(ごうし)されたことについて、「私はあれ以来参拝していない それが私の心だ」などと発言したメモが残されていることが分かった。当時の富田朝彦宮内庁長官(故人)が発言をメモに記し、家族が保管していた。昭和天皇は靖国神社に戦後8回参拝。78年のA級戦犯合祀以降は一度も参拝していなかった。A級戦犯合祀後に昭和天皇が靖国参拝をしなかったことをめぐっては、合祀当時の側近が昭和天皇が不快感を抱いていた、と証言しており、今回のメモでその思いが裏付けられた格好だ。
 メモは88年4月28日付。それによると、昭和天皇の発言として「私は 或(あ)る時に、A級(戦犯)が合祀され その上 松岡、白取(原文のまま)までもが 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」と記されている。
 これらの個人名は、日独伊三国同盟を推進し、A級戦犯として合祀された松岡洋右元外相、白鳥敏夫元駐伊大使、66年に旧厚生省からA級戦犯の祭神名票を受け取ったが合祀していなかった筑波藤麿・靖国神社宮司を指しているとみられる。
 メモではさらに、「松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々(やすやす)と 松平は平和に強い考(え)があったと思うのに 親の心子知らずと思っている」と続けられている。終戦直後当時の松平慶民・宮内大臣と、合祀に踏み切った、その長男の松平永芳・靖国神社宮司について触れられたとみられる。
 昭和天皇は続けて「だから私(は)あれ以来参拝していない それが私の心だ」と述べた、と記されている。
 昭和天皇は戦後8回参拝したが、75年11月の参拝が最後で、78年のA級戦犯合祀以降は一度も参拝しなかった。
 靖国神社の広報課は20日、報道された内容について「コメントは差し控えたい」とだけ話した。

《「昭和天皇独白録」の出版にたずさわった作家半藤一利さんの話》
メモや日記の一部を見ましたが、メモは手帳にびっしり張ってあった。天皇の目の前で書いたものかは分からないが、だいぶ時間がたってから書いたものではないことが分かる。昭和天皇の肉声に近いものだと思う。終戦直後の肉声として「独白録」があるが、最晩年の肉声として、本当に貴重な史料だ。後から勝手に作ったものではないと思う。
 個人的な悪口などを言わない昭和天皇が、かなり強く、A級戦犯合祀に反対の意思を表明しているのに驚いた。昭和天皇が靖国神社に行かなくなったこととA級戦犯合祀が関係していることはこれまでも推測されてはいたが、それが裏付けられたということになる。私にとってはやっぱりという思いだが、「合祀とは関係ない」という主張をしてきた人にとってはショックだろう。(話終り)

 靖国神社への戦犯の合祀は1959年、まずBC級戦犯から始まった。A級戦犯は78年に合祀された。
 大きな国際問題になったのは、戦後40年の85年。中曽根康弘首相(当時)が8月15日の終戦記念日に初めて公式参拝したことを受け、中国、韓国を始めとするアジア諸国から「侵略戦争を正当化している」という激しい批判が起こった。とりわけ、中国はA級戦犯の合祀を問題視した。結局、中曽根氏は関係悪化を防ぐために1回で参拝を打ち切った。だが、A級戦犯の合祀問題はその後も日中間を中心に続いている。
 昭和天皇は、戦前は年2回程度、主に新たな戦死者を祭る臨時大祭の際に靖国に参拝していた。戦後も8回にわたって参拝の記録があるが、連合国軍総司令部が45年12月、神道への国の保護の中止などを命じた「神道指令」を出した後、占領が終わるまでの約6年半は一度も参拝しなかった。52年10月に参拝を再開するが、その後、75年11月を最後に参拝は途絶えた。今の天皇は89年の即位後、一度も参拝したことがない。
 首相の靖国参拝を定着させることで、天皇「ご親拝」の復活に道を開きたいという考えの人たちもいる。
 自民党内では、首相の靖国参拝が問題視されないよう、A級戦犯の分祀(ぶんし)が検討されてきた。いったん合祀された霊を分け、一部を別の場所に移すという考え方で、遺族側に自発的な合祀取り下げが打診されたこともあるが、動きは止まっている。靖国神社側も、「いったん神として祭った霊を分けることはできない」と拒んでいる。
 ただ、分祀論は折に触れて浮上している。99年には小渕内閣の野中広務官房長官(当時)が靖国神社を宗教法人から特殊法人とする案とともに、分祀の検討を表明した。日本遺族会会長の古賀誠・元自民党幹事長も今年5月、A級戦犯の分祀を検討するよう提案。けじめをつけるため、兼務していた靖国神社の崇敬者総代を先月中旬に辞任している。

《靖国神社に合祀された東京裁判のA級戦犯14人》

【絞首刑】(肩書は戦時、以下同じ)
東条英機(陸軍大将、首相)
板垣征四郎(陸軍大将)
土肥原賢二(陸軍大将)
松井石根(陸軍大将)
木村兵太郎(陸軍大将)
武藤章(陸軍中将)
広田弘毅(首相、外相)

【終身刑、獄死】
平沼騏一郎(首相)
小磯国昭(陸軍大将、首相)
白鳥敏夫(駐イタリア大使)
梅津美治郎(陸軍大将)

【禁固20年、獄死】
東郷茂徳(外相)

【判決前に病死】
松岡洋右(外相)
永野修身(海軍大将)

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写真は、恵庭岳。

源義経

2006年07月18日 23時20分48秒 | Weblog
「義経のイシキ(霊)です。
私は星述べの子孫でした。
星原では幸せに暮らす事が出来なく、小さい時にお寺にやられました。
そして今も知らされているように、とても武術にたけていたのは、(金星のものに)支配されていたからです。
なぜ源の家に養子にやられたかと言うと、今伝えられている事と違うのです。
星述べの私(義経)が、源氏の始まりなのです。
私はお寺に行った時(ひこばえ?の)模様の描かれた着物を着ていました。
そのことを思い出しました。
弁慶は、イシカミ(を真似て作られた=遺伝子操作された?)に似た大きい人でした。
それで、今も伝えられているように強かったのです」

「ホシノベ(義経)が降りてきました。
別れる言葉を伝えられました。
“ホシノベは死ぬしかない”と、世に悪者と言われた村人達が言いました。
仲間が呼ばれて治める物(年貢)が、他所の倍にすると言われたからです。
それで(義経は)家を出て鞍馬山の寺に行ったのです。
皆も嫌になっていたので追い出されたのです。
そして家には誰もいなくなりました。
0木と名前を付けたのは静御前なのです。
静御前もホシノベをしました」

山彦の生まれ変わりが義経なのです。
何とか名前(白い木の者=源氏)を残しておこうとしたのです。

(源の)サンズイ=シ=3つ星をあらわすのです。
そして、ハラ=(ホシ)原をあらわすのです。
【源】と言う漢字は、白い木の者の子孫の義経が考えたもので、ミナモトをあらわしました。
【氏】=ジは、完全に隠された白い木の者のことを、 シ=死を強調することで“ジ”と呼んだのです。(矛を隠しているとも)

かって星原を訪れた柿の本人麻呂が、“名前はその謂れを表わす”と言っていたと人づてに聞き考えたのです。

「私(義経)は、リュージン(のイシキ)の人の養子になりました。
その人(父)は、ジンムの血を引く人でした。(聖和天皇?)
後で、源氏の名前を名乗ったのです。
父が伊豆にいたのは、巫女の言葉で行かされていたのです。
そして同じく、リュージンの血を引く兄(頼朝)が生まれたのです。
(義経に)人気があったのは、イシカミを大切にしていたからです。
ジンムの子孫は地方では嫌がられていたのです。
それで地方を治めるために伊豆に来ていたのです。
静(御前)は年上でした。 
静(の言葉)が脅かしの材料にされました。
そして戦いに行かされ、追われるようになったのです」

(義経がイシカミの事を人々に伝えた事。安宅の関を越えて北陸地方に逃げてイシカミの話をしたので物部氏を祭る神社が多くなった?)

「ささリンドウとは、嫌な言葉です。
死にたいと思いました。 
義経です。
なぜ、こんな悲しい思いをしなければならないのか、死んだ方がましだと思いました。
ささリンドウとは 、“ササビンボウ”と言う意味なのです。
笹が生えてくると山も畑もやせてしまいます。
笹は竹の子として食料にもならず、又竹細工にもならなく、土の栄養をひたすら取って増えていきます。
その嫌な紋を、家紋にしたのは天皇でした。
イシカミを信じる人を、笹に譬えたのです。
そしてサス(=殺す)からきた“サ”を強調した名前にしたのです。
義経の隠されたナゾのひとつです」

襟裳岬ではイシカミが伸びたようになっているのは、未来にイシカミの子孫?の義経が渡ってくることがわかったので、上陸場所を見つけられやすいようにちょっとでも長く伸びたそうです。
襟裳岬付近の長く伸びた付近は岩場で、大きな船は付けることが難しく、アポイ岳の麓の砂浜に上陸したそうです。
襟裳岬の先端の岩場にはアザラシがたくさん休むそうですが、アザラシはイシカミの巨人を真似た動物です。
(アザラシのお乳は穴が開いていてそこから飲む)

北海道の平取(ピラトリ)町の義経神社のパンフレットを見ていると、

「オキ・クルミ・カルイと呼ばれた者です。(カムイとは発音できない)
ササ・リンドウ*(義経の家紋)の事を言ったので、アイヌの人は信じてくれたのです。
ここに来た時には、食べるものがありませんでした。
それで、これをあげるから食べ物を欲しいと言いました。
それが鎧です。
鎧を差し出し、食べ物が欲しいと、口に手を持って行きました。
すると干した木の実(クルミ)をクマの毛皮から取り出してくれました。
何度もお礼をしました。
弁慶はいませんでした。
それだけしか思い出せないのです」

「義経も星述べでした。
イシカミが導いて(北海道へ逃げて)きたのです。
オキ・クルミ・カルイとは、“沖から来て、クルミを食べた(身の)軽い人”と言う意味です。
(義経は身体が軽く飛び跳ねる事が出来たから?)

義経はイシカミを信じていたので、ストーンサークルを作り、食べ物を恵んでくださいと、イシカミに頼むようにアイヌの人たちに教えました。
稗や粟の作り方も教えました」

アイヌの伝説に“オキクルミカムイ”と言う神様は、人間の姿をして現れると伝えられていたので、義経がそう思われたようです。
ストーンサークルは山の上などにありますが、アイヌの伝説にはストーンサークルは出てこないようで、情報通り義経が伝えたとも考えられ、都から遠かった北海道には今もあちこちに残されていると思います。

義経神社は平取町の小山の上にありました。
イシカミの巨人が義経を呼び寄せたようで、義経はその土地に住み着いてキビや粟の栽培を教えたと言う伝説がありますが、これまでの情報と合っていると思いました。
あちこちに義経伝説が有るのは、追っ手をくらますために噂を流したそうです。

平取は「ピラトリ」と読みますが、笛のピーという音を表すと共に、イスキリがピラトの追跡を恐れ、「ピラトがやってきたら討ち取って欲しい」(ピラトを討ちトル)という意味で、「ピラトリ」と呼ばせたそうです。

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以上、ソラからの伝言より。
写真は7月15日、恵庭岳の上のソラ。

静御前

2006年07月17日 22時08分54秒 | Weblog
「吉野山峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき」
「しづやしづ賤のをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」

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「吉野の者です。(静御前?) 
吉野の里のことをお知らせします。
私達の本当の意味をお知らせします。
私は本当はお姫様なのです。
思い出すのも辛く、並みのことではありませんでした。
足の長い人とはイスキリのことで、イスキリのことを足の長い人(長髄彦?)と呼んでいました。
吉野に逃れてきた訳は、、、」

「吉野の者のお話です。
私は“静御前”と呼ばれた者です。
私がイシカミのことを源の義経に知らせたのです。
義経はなぜ“”と言うかと言うと、
星述べをする村の白い木のものだからです。
いつものように星述べの者はいじめられ、義経も苦労させられました
鞍馬山には金星のモノが降りていたのです。
それで義経は大きな力をもらったのです。
吉野のことは辛くて思い出しても涙が出ます。
私が頼りにしていた義経は遠くへ行かされました。
小さな我が子は取り上げられました。
その時の辛さは言葉ではあらわせません。
私達がなぜこのような辛い目に合わされたかと言うと、八幡様のことを言ったからです。
八幡様は大国主の本当の家来で殺された人達だ、と言ったので怒られたのです。
(以前、嘘を教えられたタケルノミコトが大国主の家来を8人殺した・・と伝えられた)
(八幡様を拝むのでなく)イスキリという人のことを一生懸命言ったので、朝廷ににらまれたのです。
足の長い人(イスキリ=イエス)が病気を治す本当の神様だと知らされていましたから、、、」

ソラのものが降りて話すように言いました。
私が(頼朝に)一番嫌がられたのは、病気を治すといわれるイスキリをお祭りする神社にお参りするようにと、(義経に)言ったからです。
私は浜辺の国の姫でした。(日本海丹後?)
それなのになぜ白拍子(舞姫)になったかと言うと、家にいた者から星述べのことを聞かされたからでした。
そして当時ときめいていた義経様が、 なぜ立派な家に行かれたかと言うと、武術にたけていたので養子として行かれたと聞きました。
私は姫の白拍子ということで招かれたのです」

「私は星延べのものでした。
当時の星原はとても貧しく、星延べが出来るということで(歌がわかる??)養女にもらわれて丹後に行き、白拍子になりました。
それから義経さんと出会いました。
年下でしたが、りりしく素晴らしい人と思いました。
そして、あの事が起こって、私は吉野で心臓を一突きにされて殺されました」

「吉野の里に降る雪は、、、私の愛する妻と子の血に染まっていきました。
義経です。
吉野の里で、静(御前)と子供は殺されました
なぜ殺されたかと言うと、静がイシカミの言葉を伝えたからです。
“8まん”さまとは、 イシカミを信じる人(=大国主の家来)が8人殺されたことを知らせています。
その(8人の)人たちから伝えて欲しいと言われたことが、“8まんだいぼさつ”と言わないで、“8まん”とだけ言って欲しいと言うことです。
それを聞いてお寺の人が、“菩薩に文句をいう”と怒ったのです。
そして最初に子供が殺され、次に静が殺されたのです。
静かな吉野の里に慟哭の声が流れました。
大きな身体の弁慶が泣いていました。
意味を知ることなく私達(義経と弁慶)は追われることになったのです。
私と弁慶は、その日のうちに吉野を抜け出しました。
それから有名な“安宅の関”を抜け出し、東北を目指しました。
東北なら、未だ仏教の支配がされていないと思ったからです。
けれどもそこで待っていたのは、 仏教に支配された若者でした。
弁慶は殺され、その後に金色堂が建てられたのです。
ようやく全てをお知らせでき、安心して眠れます」 

北条政子は「マルコメミソです」と言うのは、CMに小僧が出てくる事で仏教に支配された人という事をあらわし、以前知らされた情報とあっていました。
すなわち支配星に支配された政子は、熱心な仏教徒で頼朝を陰で操って次のような理由で静御前を殺させたそうです。
静御前が、「八幡とは大国主の殺された8人の家来の事なので八幡様とだけ言いたい、八幡大菩薩と唱えるのは嫌」と言ったことで殺され、義経も同じ思いで静御前をかばったためには追われる身となったと、これまでに知らされていた事と一致しました。

足の指が痛くなり、
「イシカミです。
皆本当のことでした。
かわいい子供も殺されたのです。
私たち吉野のものは怒りに震えました。
星延べのものはいじめられ続けました。
イシカミを知るというのみで、ここまでひどいことをされてきたのです。
そのことを隠し通そうとしては、嫌がらせを今もしています。
どれほどこの人がイシカミを悪く思わせようとさせられたか、苦しく思わされては泣いたことを知っていましたが、イシカミも一生懸命にお手伝いをしてきました」

「静です。
私も恨みの気持ちが取れませんでした。
長く子供の事が忘れられず、意味なく泣いたままでした。
あの子はどこに行ったかと探し続けましたが、ようやく今手の中にいます。
イシカミの子供でした。
かわいい丸い子供でした。一緒に生きていくことを決めました。
私はやっと生まれ故郷のことを見る事ができ、姿のないものとしてでなく、一人の人間として生きると決めました」

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以上、ソラからの伝言より。
冒頭の歌は、鶴岡八幡宮で頼朝をはじめ並みいる武士たちの前で舞った時に歌った歌といわれています。
写真は7月17日のソラ。

物部の娘

2006年07月14日 21時59分35秒 | Weblog
物部の娘です。
ようやく降りることができました。
(物部が滅ぼされた後)物部一族の男達は石を信じる人たちによって匿われ、散り散りになりました。
女はいつしか(蘇我の)言われるままになりました。
それで(物部の)血は残されたのです。
それでも石を信じることは禁じられました」

(それ迄平和な国として治めていた物部を慕う人が多い反面、朝鮮から来て仏教を強制する蘇我を嫌い、その後のヤマトの権力者は思うようにならなかったので、物部の力を利用した)

「それは悲しいことでした。
仏の教えを信じないと倭の都も、“オオーイ アマノヒト”(オオシ・アマノヒト)と呼ぶようになると言われたのです。

オオシ・アマノヒト(=凡海郷)とは、倭の国の海辺の平野の村の人たちのことです。
倭の国の海辺の人たちは、山の上のヒルイ・マナ(ヒルイ=リュージンの子供に祈る人)に支配された人たちに責められ、悲惨な毎日を送っていました。
逆らう者は土の入れ物(埴輪)の中に入れられたのです。
(丹後の資料館には、人が入れるくらいの埴輪がある)
(海辺の人たちの悲惨な状態を見て)イシカミが怒って沈めたのです。(ムーと同じで、人間の苦しみを止めさせた)

父(物部守屋)の最後は以前お知らせした通りで、いつもお参りをしていた山、丸山(=私市円山古墳)に埋葬することで最後とされ、いつしか忘れ去られていったのです。(埋葬はさせるが拝ませないという意味?)
そして倭の国の宝物は全て、ヤマトに運ばれ、誰も“石”のことを言わなくなり忘れさられていったのです」

「倭の国は海辺の者と、イカルガの者と仲良く暮らしていました。
(今も残っている綾部のミナツキサンの祭りは、由良川を遡ってイカルガまで来ていたので、“海の皆さんが着きましたよ”という交易の名残だそうです)

けれどもリュージンは、イ=猪の者(福知山の3段池のそばの権力者?)も支配し、ヒルマナイの者と一緒になったので、平和な倭の国も争いの好きな国となり、ヤマトと結びつきました。
星原君山などあちこちに山城の跡があるのは)イシカミである山の神を祭らせないように監視するためです。
それは(物部の人たちが集まって勢力を盛り返さないように)見張りをするためでもあったのです」

「お知らせします。ソラのものは見ていたのです。
一番最初に巨石(石舞台)を自分のお墓にしたのが、蘇我氏なのです。
イシカミの子供が昔に作った石室を、自分のお墓にした人です。
そして土をかぶせさせたのです」

蘇我の秘密です。
蘇我氏とは、イカルガ(旧綾部)の名前を、ヤマト(奈良)へ持って行った人です。

【イ(祈ると)カ(力がもらえ)ル(膝をついて)ガ(力がたくさんもらえる)】  
イカルガとは、そう言う意味です。
そして本当にプレアデナイ仏教)に祈る事で、大きな力を得たのです。
奈良で(蘇我氏の)住居跡が出てきましたが、その大きさでいかに民衆から搾取していたかわかるでしょう。
それまではあまり貧富の差が無かったのに、自分たちだけが贅沢な暮らしを始めたのです。
イシカミをいじめた人で、地球の贈り物を貢がせ贅沢をした人です。
(物部守屋を滅ぼし、その)娘を略奪し子供を無理やり生ませ、物部の人気を得ようとしました。見つかった邸宅跡は、その娘を閉じ込めていた家でもあるのです。 
ヒミコの娘と同じ悲劇が行われた家なのです。
そしてその間に、(蘇我氏は)あらゆるストーンサークルを壊してしまったのです。
ヤマトが都として益々栄えたのは、お供えすると死んでから良い所に行けると信じさせ、貢物をさせていたからです。

それでも仏教が嫌な人達は、秘かに大国主や物部氏の神社を建て、作物が良くできるように頼んでいました。そして何よりもそれまでのことを語り伝えたい、といろいろな形で隠れ伝えてきました。その一つが“ヤタガラス=八田ガラス”です。
八田とは、大国主の家来が“8人”だった事、大国主が“田”を作ることを教えた事をあらわします。
イシカミを、地球へ先導をしてきたカラスが3本足(三位一体を表わす)に描かれています。
  
1、一つは“トヨウケを祭った真名井神社=マナイ”への道
2、一つは“オオシアマノサト(凡海郷)=舞鶴”への道
3、一つは“由良川沿い=倭の国”への道

それが一つに交わる所にある道路で、三柱神社近くの三叉路(綾部JCの近く上八田辺り)が、ヤタカラスの3本足を表す所なのです。
それが八田カラスの3本足をあらわす所なのです。
未来の見えたイシカミが名づけさせたのです」

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以上、ソラからの伝言より。
写真は7月8日のソラ。

タケルノミコト

2006年07月13日 21時40分04秒 | Weblog
「私がお知らせします。
挙母神社の者です。(昨日同じく豊田の八柱神社に行った)
私がヒミコの息子のタケルノミコトです。
何とか伝えたいと思っていました。
私はあの地で住んでいたのです。
嫌な人 (ジンム)の元を離れて皆に助けて貰っていました。
そしてサルカニ合戦の物語を作ったのです。
(サル=ジンム。 カニ、臼=イシカミ
*)八柱神社の紋章はカニに似ている。

私とウネメは一緒に暮らしていました。
それでジンムは、嫌がらせのために騙して私を出雲に行かせたのです。
(出雲の8人に、イソナ=朝鮮のイシキが乗り移って悪い事をしているので、わからないようにして殺すようにとジンムはタケルノミコトに命じたが、本当は出雲にいる8人は、実の父・大国主の部下だった)

私は、父(大国主)の刀(=稲刈鎌)を持って行きました。
その刀(=稲刈鎌)が、見た刀の元だったのです。
熱田神宮で展示してあったのが 2.2m、重さ4kgの巨大な刀であったそうです)

私も父に似て大男だったのです。(大国主もヒミコもとても大きかったと以前伝えられた)
これが本当の草薙の剣の元の刀の作り変えられた物なのです。
(大国主の持っていたのは魚の背骨の様であったと言うので、稲刈り鎌のようにノコギリの刃のような物だった)

私は、巨人が平戸橋の岩を作ってくれるのを見ていました。
(水が汲み易いように作ったと思われる自然岩)
イシカタヤマ(=猿投山)になった巨人は、生きている時はあれほど大きくはありませんでした。
その巨人は鬼岩公園のお汁を飲んで生きていました。

私は巨人と話すことが出来ました。
イシカタヤマの巨人の子供が(鞍が池公園の近くに)岩のある山です。
私は出雲の人たちを殺した後、八柱神社を作りました。
イシカタヤマが見える(平井町)に作ったのですが、後で山奥に移され今の所になったのです。
私が伝えたい事は父(大国主)は私より本当に大きかったと言う事です。
それであの刀が(作り変えられる前の)草薙の剣なのです。
なぜ岡山で作られたように書かれているかというと、広島の(宮島の頂上の巨石がある)イシカミをやっつけたと思わせるためです。
ヤマトはイシカミ同士争わせたと思わせるためです。(左人差し指が痒い)
その事で皆騙されて来たのです。(左膝が急に痛くなる)
そのように私も出雲に行く時に膝が痛かったのは、騙されていることを私のイシキが知らせていたのですが、それを信じる事無く出雲に行きました。
その事を知らせたのです。(書くと痛みがなくなる)

今その事を悔いて悲しみにくれています。
私は出雲に着いてから“大国主の息子だ”と呼び出し一人ずつ殺していきました。
そして8人全部殺したのです。
ジンムから8人はイソナ(=朝鮮)のイシキに取り付かれていると知らされたからです。

私は自分の仕事が終わったと思いジンムの元に(報告に)行きました。
着くなりジンムは、笑いながら言いました。
“あの者たちはお前の本当の父親の家来だった。よく始末してくれた”と。
 
コロモ(挙母)に帰ると、ウネメはジンムの怒りをかって殺されていました。
(以前8柱神社の横の“香ら須(カラス)神社”に葬られたと知らされた)

そして人間の為に働いてくれていた巨人(イシカタヤマ)も死んでいました。
私は (5m?の) 巨人の胸で思いっきり泣きました。
すると私の涙でイシカタヤマはドンドン大きくなっていったのです。
そして私もそこで死にました。

草薙の剣は本当はあの形ではなかったのです。
稲を刈るための鎌の形だったのです。
それで猿投神社では鎌を供えるのです」

熱田神宮にて。
「本当の事を伝えます。
私(アツタ=ジンムの姪)がここにいるのです。
アツタです。
この地において葬られました。
叔父(ジンム)が大切に守るように伝えてくれたので、このように大切に守られて来たのです。
私はタケルノミコトを(大人になってから)(奴隷)にしないように頼みました。
オシナマエ(刺青)をしないようにして欲しいと言ったのです。
(大国主とヒミコの子供のタケルノミコトはジンムに売られた。ヤマタイコクの人達は刺青をされて奴隷としてヤマトへ連れてこられた)
(熱田の)隣にある金山で昔は製鉄をしていたのです。
ジンムが製鉄を教えてくれた(ユダヤ人の)ムウラを殺したので、お詫びの為でもあったのです。
ウネメは私の妹でした。
タケルノミコトが自殺したイシカタヤマ(=猿投山)の傍(8柱神社の横の“香ら須(カラス)神社)に埋めて欲しいと頼んだのです」

マカルカエシノタマ(=私の好きな人が生き返って欲しいとおまじないをしたのです)
・・・とは私が言いました。
私は、女性でウネメです。
私は、イシカミを神と思っていた人です。
マカルとは、負けないで帰って欲しいとお願いしていました」

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以上、ソラからの伝言より。
写真は7月9日のソラ。