想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

ビクター犬、みたいな~

2008-11-11 08:52:22 | Weblog

   ベイビー、プーちゃんがちょっと小首をかしげて、眉間が寄ってる。
   この顔が好きなのである。
   プーちゃんの目線の先は、うさこの左手がつっこんである上着のポケット。
   なんか出てこないかなー、出てくるぞー、たぶん、来るぞーという目線
   なのである。

   残念、出てきませんよー。
   その顔を撮りたかったから、ポッケに手を突っ込んでいたのである。
   ベーっだ、って犬に向かってあかんべーをして喜ぶうさこ。
   あんた、いくつ? って年齢は関係ありませーん。
   「みんなちがって、みんないい」と金子みすずも言ってるし~。
           (教育テレビ子ども番組からちょいパクリ)

   十人十色、プー色、うさこ色。おっと、ねずみ色も輝いている。
   森の落ち葉の色もみんなちょっとずつ違ってグラデーション、
   天才織り師も真似できないような模様をみんなで作ってる。
   違うのが集まって、美しい。
   錦秋とはよく言ったものだ。



   落ち葉の道を歩くと、ふかふかしてます。
   ざっざっと、プーちゃんが走ります。
   今日は元気なよう、明日はたぶん足痛い痛いでしょうけど、今はごきげん。
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六年経過

2008-11-10 15:41:46 | Weblog
  家も年々、古くなります。
  六年が経ち、そろそろ塗るか、ということで、職人さんに来てもらいました。
  あちこち相談の末、この塗り本職の親子にお願いしたのです。
  早い! 仕事が早い! おまけにユニークでした。
  ネタの宝庫のような二人にウケまくりですが、その話はおいおい‥。

 
 
  人が亡くなった日を命日といい、年を追ってその日(祥月命日)がやってくると、
  年忌という仏事を行う風習がありますね。
  これはキマリ事だと思って、必ずやる家と、そうでもないわ、もういいわいな、と
  一年、三年まではやっても七年にはもういいかとしている家も近年は少なくないですね。

  「三十三回忌」が最後でその後にやると障りがある、と母が言います。
  母に何度、供養は坊さんに頼むもんではないですよ、日々想い偲ぶことなので
  お寺へ行かなくていいです、と言っても「しきたり」とか言います。

  「しきたり」もいいでしょう。
  なのに今年は何年目なのかよくわかっていないので母は過去帳を取り出して‥。
  ちょっと複雑な思い、うさこは父さん子なのであります、母さん今年は三十三回忌よ。
  あなたのいう打ち止めの年ではありませんか?

  でも障りはありませんよ、毎年想っていても。
  永遠に想ってもいいのです。
  忘れないほうがいいのです。忘れるというのがなかったことにすることならば。

  鎌倉時代に盛んになった日本の仏教は、儒教や道教を内に含み、
  日本では本地垂迹説という考えのもとでさまざまなキマリ事、
  つまり制度を作っていったのですね。
  仏教を浸透させていくには有効な方法だったと思います。
  年忌もその一つで、三十三年(32年目の祥月命日)を弔い上げといいます。
  それ以降は行わないという決め事があるのはありますが、これは宗派や土地に
  よってさまざまです。
  母の育った土地では、その後はやると障りがあるというそうな。
  いったい誰がなんのために言ったことなのでしょうか。
  迷信ですねえ、困ります。
  母は、みんながそう言ってる、意味など知らぬと言い張ります。

  昔の、因習に縛られた田舎で育ち、何を言われよう説明されようが、
  聞き入れない頑固者な母さんに、障りはないよ、と言いました。すると、
  「まあ、毎日拝んでるからだいじょうぶ」
  だそうです。
  それでいいと思います。
  嫌なことは忘れなさい、なんて言う人もいるけれど、嫌でなくなるまで
  思い考えるという方法もある。
  諦念はそこからしか始まらないと思います。

  仏教は本来、生きる人を導くための思想だったはず。
  お釈迦さま、ガウタマ・シッダールタは人はみな生老病死という門を
  平等に通るのだと知り、ならばどう生きるのかということを問い、
  苦悩の元である執着から解き放たれようと修行をしたのでした。
  悟りとは、一瞬一瞬のこと。
  お釈迦さまの生涯は、瞬間の積み重ねなので、経典に記された言葉も
  膨大です。坊さんは面倒でもその一言一句を檀家さんにお伝えなさると
  いいんじゃないかと思うのです。
  己も、みなも、迷信や因習から解き放たれるように。
  
  

  
  
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失われゆく森と水

2008-11-08 09:43:09 | 
  今から五十数年前、レイチェル・カーソンは自然環境は
  つながっているということをもっと真剣に考えよと警告した。
  アメリカは大統領選挙でウイキャンとみんなで絶叫していたが
  その国の良心はこの数十年、どこへ行っていたか?
  海洋生物学者であるレイチェル・カーソンはカリフォルニアの
  海辺から川を遡って森、逆に海底へと観察の眼を広げ、深い思索で
  すべてのものが循環し連鎖していることを確かめた。

  その著書は「沈黙の春」でよく知られているが、
  遺作未発表の講演録や手紙などを収録した遺稿集「失われた森」
               (2000年集英社刊、古草秀子訳)

  本棚から取り出したのは、ここに書かれているはずの雲の話を
  読みたかったから。

  雲はどこからやってくるの? とある日、空をみながら
  うさこはねずみ師に聞いたことがあり、
  「海から」と言われて仰天したのでした。
  ええええっ、空からじゃないの? と。

  物事には元(もと)があり源(もと)があり宗(もと)が
  あり、すべてはひものように続いているのだということを
  旧事で学んでいても、どっこい現実のことに疎いうさこは
  小学生なのであります。
  だから、なぜ? なぜ? としょっちゅう尋ねています。

  風に巻き上げられた水蒸気の微粒子が貿易風に運ばれ、大気へ
  吸い込まれ、雲になり旅をしているわけでした。

  「地球の水のほとんどすべては海にある、
   海以外にはわずか3パーセントしかない。
   だがその3パーセントが、陸の居住者である私達を
   支えている。――略
   水はたえず海から陸へと運ばれる。
   そして植物や動物の生命を支える。」とカーソンは記していて
  雲について書かれた記述は詩のように美しいのです。



  この話を思い出したのは、庭の木々がいちだんと染まって
  美しいので、少し出歩いてみたら……
  森を下ったところにあるダムの周辺へ行くと
  水がめを見下ろし、見守るように茂った木々は、盛装して
  静かな宴をしていたからでした。
  鮮やかな色を競いあうでもなく、あたりまえのように木立はあり
  人がこれ以上、立ち入るのを拒んでいるようにも見えました。
  そっとしておいてくれたら、来年もさ来年もまた宴を見れますよ、
  だれにもここを教えないでねーと。

  戻ると現れた塗装屋のおじさん、
  「知っとるかー、ダムへ行け。ダムがいつばん、きれいだっぺ」
  いいふらしてるなあ、うれしがっちゃって。

  自然の恵みを食い散らかして、ダイエットなんて言ってるのは
  愚かで、申し訳のないことであります。
  雲の話でも読めば腹八分の一分くらいは雲で満たされます。
  ほんとです。
  美しいものはお腹にたまる、これも食物連鎖、眼には見えねど。  
  
  
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何もしない

2008-11-07 01:14:38 | Weblog

   何をして過ごしていますか?
   何もしないをしています。

   それはまた、むずかしいことを‥
   いいえ、そうでもありません。

   コツはなにか、ありましたら‥
   何もしないのだから、そのままでいいというのがコツですかねえ。
   どうしようかと思わないことです。

   飽きたりしないのでしょうか。
   ぼくは、しいていえばガッツリ喰いたいというのがあるけれど
   それも寝てしまえば、夢の中で喰いますので、出された分で
   だいじょうぶです。欲しがりません。

   親分にではなく、うさこさんにたずねてるんですけど。
   はい、同じだと思います。
   あんこを所望すると思いますよ、でも出された分で、もっととは
   言わないですよ、ぼくは知っています、毎日食べるものは見逃しません。

   何もしないと聞いて、いろいろと深い意味があるだろうと考えて
   みたんです、でもあまりにヒマというのは、おもしろくはないんじゃない
   かと思うのですよ。

   ああ、ヒマつぶし?
   それは勘違いです。
   何もしないというのは、つまり競争のルールからはみ出しているだけで
   けっこう忙しいのです、お天道様に従うのだから。
   誰かに命令されているのでも契約しているからでもなく
   当然のようにやらねばならないことが降ってきたり出会ったりするので
   それをおろそかにせず、やっていく。
   それはつまり、何かをしているわけではなく、むしろ何もしないこと
   究極は無為になっていくのです。

   えーーー、ますますわからない。



   それじゃあ、こうならどうだろう。
   君は今の仕事から、今の逆境(君にとってはね)から抜け出したい
   とさっき言ったけれど、それについて。
   抜け出すのはいつでもできる、だから今はこれをおろそかにせず
   やるのみ、それが終わったら次をやるのみ、ということで一日が
   終わる。一日が終わったらゆっくりと今日のことを考えてみる。
   朝が来たら(もし来たら)さあ一日を始めようと、またやるのみ。
   それだけで、抜け出さねばという考えはとりあえず置いてみたら
   どうだろうか。
   朝が来て、君に一日がある。
   それだけを喜んでみないか、と思うのだが、どうだろうかね?

   何もしない、というのは自分でしない分を神様にハタライテいただく
   のかもしれないよ。
   人間の脳が決めることなんて、そんなに当てにはできないからね。
   
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明るい寂寥

2008-11-05 23:48:53 | Weblog

    「明るき寂寥」 歌人、前登志夫の言葉。
     吉野の山中に暮らし、都会のカルチャーセンターで短歌講座を持ち
     講演をし、また山へ戻る。現と幽冥の境をかるがるまたぎ、
     だんだん人の形を薄くしていった。
     名の売れた歌人は都会のホテルなどにいる昨今、この方は吉野に住み
     林業を生業としていた、ほんものの歌人。
     今年の春、四月に逝かれた。享年八十二歳。

     秋の澄んだ空気のなかに立っていると、思いがけない人を思い出す。
     好きな人が逝ってしまうのは、寂しく、悲しくもあるが、
     人はみな死ぬものだ、そう口に出して言ったときにやってくる
     明るい寂寥。

     この森で死ぬことがわたしの望みで、死ぬ日までを生きる。
     死んだあとのことを生きているうちはわからないが、
     だんだんとそれもわかってくるのではないか。

     繰り返す秋。
     この赤く染まった樹々は、三年前のものだ。
     庭は、ねずみ師がずいぶんと働いて今では形を変えた。
     写真に残った数年前の秋の風情。

     見ていると、そのときの空気を思い出す。
     清々としていたな。
       そう、ねずみ師も、そうだった。

     東京の汚濁を途中の道に落としてきたし、この日は客もいず
     ねずみ師をあてにくる人もいなかった。
     めずらしく、ほんものの静寂で、ゆっくりゆっくり別の時間が
     流れていた。
     ここが、どこだか、わからない。ふと思うのだった。
     結界がたしかにあるのだった。

     斜め前の道路一本はさんだ土地に家を建てたSさんの奥さんが
     ほおかむりをして通りすぎた。
     彼女の仕事は映画プロデューサーだ。
     夫君のほうはいつもこの森へ来るが、彼女は忙しいようで姿を
     みせるのは珍しい。
     すぐにわかったのは、麦わら帽に手ぬぐいをかぶせて顔を被う
     まるで百姓女のようなスタイルだったから。
     訊かなければ華やかな世界にいるようには見えない。
     この女性(ひと)も、来る道々でいろいろと捨てて、ここへ
     来ているのだなと思ったものだ。
     たまにワインをぶら下げて門扉のところへ現れたりしたが
     わたしが酒を飲まないのを聞いてから、ほっかむりで前を通りすぎる
     だけになった。
     森に溶けていく人だけの日、ここがどこだかわからなくなるような、
     寂寥と、胸のなかに夢のつづきがあるような日だった。     

     
     
    
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プルースト的な日々

2008-11-04 09:59:34 | 
    くんくん親分は、同じ道を毎朝歩きます。
    今日はちょっと遠出しませんか、おっかあ、とか言いません。

    リード(綱)を離すとかえって立ち止まって、どしたの? と
    振り向きます。
    森の中ではリードはほとんど使わないので、先へ先へと進んでいき
    行き過ぎて、おっかあが見えないと振り返り確認しに戻ってきます。



    リードされているのは、わたしの方であります。
    ふたつ名の「くんくん」はダテではないので、新旧の匂いを嗅ぎ分け
    変化を見逃さないのです。

    匂いの粒子が、彼にとってはまるで眼に見えるようなのでしょう。
    フェロモンばかりに過剰反応するおバカではないよ、って感じの歩き方。

    「実質性がないのに持続性がある忠実な味と匂いだけが
     人の魂のように長くとどまり」(プルースト「失われた時を求めて」)
    ゆうべ、森へ誰がやってきたかやあるいは近寄ろうとしているのは何ものかを
    探りながら、彼のデータは更新され、蓄積されていく。

    ただし人と違うのは、マドレーヌを紅茶に浸したりせずに、一口で
    パクリと飲みこむと、「追想の壮大な構造」に足をとられたりするより
    もう一つくれないか、という目線を送ることが大事なところだ。
    感傷はオイラの腹を満たさない。実質重視なんである。

    家に戻るとトースターから漂う香ばしい匂い‥
    クーンと可愛く鼻を鳴らしてみたりして‥ 
   「あんた、さっき食べたでしょ、お散歩行く前に食べてしまったでしょ!」
    実質性がないのに持続しているパンの匂い、オイラも知らず知らずに
    追想の罠にかかっていたのだった。

    クーンともいちど言ってみたいが‥感傷はおいらに似合わないので
    しばし昼寝して夢のなかで、食うことにする。
    (親分は寝てるのにむしゃむしゃしたり、足を蹴って走ったりよく夢を見る)
    追想もまたおいしい、しあわせなことよ。

    誰とどうやって食べたか、それは匂いの記憶を左右する。
    幸福の匂いをたくさん覚えているには、「境」みのえと訓むが、鼻のハタラキが大事。
    人の五官としての鼻が効かなくなったら、記憶の新たな蓄積や再生に支障をきたす。
    「オレって鼻効かないっすよ、味オンチなんすよ」なんて気軽にほざいて
    済ましているうちはいいが、鼻が効かないということはつまり深く考えることができなくなる。
    今そこにある危機がわかるのは、記憶がはたらくからであることを意外と忘れがちだ。

    眼だけで物事を見ているわけではない、それは親分もうさこも同じことなんだな。
    その点、親分が数段優れていることは確かで、彼のほうが神様に近いのである。
    あやかりたいので、寝ている親分にスリスリするのである。

    
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日向ぼっこの効用

2008-11-03 18:23:00 | Weblog

     小春日和は春の天気のことではありません、というCMで
     へえーそうか! とテレビに向かって言った人が全国に
     たくさんいるとふんでいます。
     河童の川流れは河童が楽しく遊んでいるのではありません、
     というのもありましたね。
     あれは電子辞書のコマーシャルだったような気がしますが
     あまりの可笑しさに、そのナレーションばかり覚えていて
     ほかのことはまるで記憶にありませーん。CMとしては
     ビミョーでしょうが、面白かった。

     ということで小春日和がありがたい季節です。

     日向ぼっこは身体にいいそうです。
     疲労回復にはだんぜん日向ぼっこが効きます。
     語源は日向惚けだそうですね、惚けがなまってぼっこになったそうな。

     起き上がると俄然元気になっているので、お日様は効きます。
     この秋の行楽シーズン、燃料値下げで人出が多いようですが、
     「紅葉を見るより人を見にきたようだ」と愚痴ってるオヤジ、
     秋の陽を浴びるのも、紅葉狩りなんだと思えばいいんじゃないでしょうか。
     お日様はくまなく照らしてくれますからね。
     出かけるだけで、だいじょうぶ。

     今年最後のマルコポーロ、先週までよく咲きました。


     今週末から、霜害を防ぐための藁で根を被う作業です。
     「雪虫が飛んでたよ」、とねずみ予報士に言われましたので
     要注意、みんなに風邪をひかせないよう、怠りなきよう準備です。
     
     森から下ったところにある村では、収穫祭。
     あちこちで、人が集っているのにちょっと驚きです。
     農協主催のやら学校区主催やら、農村地帯は地元イベントが多いのは意外で
     わたしのなかの民俗学的興味を刺激します。
     いろいろ尋ねると、ただの芋煮会だあ、と言われちゃいますが、
     いやいや、元々はどうなのよ、なにが起源なのよ? とつっこみまくります。
     で、昨今の収穫祭は、祭りは祀りではなく、ほんとに食う飲むだけのようでした。
     遊んでるんですね、そうやって。
     お天道様の下で、無邪気に遊んで一年の労働を労い、そして豊穣を喜ぶ、
     そこから先が消えてしまったのですねえ、長老は何も教えないのでしょうねえ、
     しみじみと、がらんどうのニッポンって感じがいたしました。

     

     
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美しい「花」がある、、、

2008-11-02 21:10:57 | Weblog
  美しい「花」がある。
  花の「美しさ」という様なものはない。
  小林秀雄の言葉で、最もよく知られ取り上げられるものだ。

  昨日のバラ、美しいものは美しいとわたしは書いた。
  その美しさがどこから来るかということが問題である。
  わたしの頭の中にある思い込みとしての「美しい」であれば
  それは小林秀雄に「ないね」と言われるわけである。

  わたしは言葉がたりない文を書いただろうか。
  なんか気になって落ち着かないという感じがしていながら、
  他のことに時間を費やしていたのだが。
  補足、つづきとしたい。

  美しいものは美しい。それは変わりない。
  そこでその美しさは花のなかにある。花そのものをさしている。
  最初からそう言いたかったのだけれど、言いえていないのである。

  花から放たれるものを受け止め、記号としての「美しい」を使って
  言った。「記号として」の美しいという目線で、花を見たわけでは
  ないということだ。

  縁(えん)がない、そう思っていたときは、記号としての
  「ピンク」すなわち女性らしさをあてはめてピンクの花を
  考えていたわけだ。
  ところが実際にバラを目の前にしていたわたしは、頭の中
  ではなく、目の前の花と話をしている。
  花そのものにイカレてしまったのだ。そこに記号としての
  「美しさ」など介在しないし、思いもよらない。
  ピンクの花びらは花の存在そのものである。

  それはまた人にもいいえて、人の内がわから滲み出してくる
  ものしか、人をとらえることはできないと思ったのであった。
  人を作り、人と人を引き合わせ結び付けているものとは、
  バラの芳香や姿のように、思考を飛び越えて胸の奥深くへ
  すんなりと飛び込んでくる「あるもの」なのだ。
  そのことを、花をみているうちに、おなじことなのだと
  思い至ったのであった。

  バラに圧倒され、考え始めたのだった。

  そしていきついたのが、花のなかにタネがあり、人のなかに
  魂があり、それぞれが見えない「あるもの」をもっている。
  そのあるものが解き放たれたときに、美しいという言葉に結実
  するしかないような姿として現われるということだった。

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