正法眼蔵随聞記一の五 に曰く。
古人云く、聞くべし見るべし。
耳で聞け、眼で見よ、とは何のことだろうか。
それに続く言葉は、「きかんよりは〈経〉べし、見んよりは経べし、いまだ
経ずんば見るべし。いまだ見ずんば聞くべしとなり。」
仏教は作法に始まり作法で終わるというところがある。
これなど神道行事の作法も同じと思われるかもしれないが、仏教の作法はすなわち
修行そのものに作法を修することが含まれているので神道とはまったく意味が違う。
神道では厳密にいえば作法に重きはなく、人同士の了解のためにのみ形がある。
仏教では心を得るために形を修める。
それが〈経〉〈聞く〉〈見る〉という言葉で表され、行って知ることの大事さと
それ以外に方法がないことも〈べし〉で表されている。
心心心がわからないと理屈を百万遍言い、聞きしても、心はつかめない。
ふれることができない。
経験する事以外に方法はないというのである。
その入り口に作法という修行がある。
作法を美しく一糸乱れずして修めたからといって満足しているなら、それは
いやらしくわざとらしく映るであろう。また人の心を魅了するものにはならない。
人の心を打たないのに、神仏に通じるわけもないのである。
声しかり。音しかり。
なにもわからなくてもいいから真似をして、ついていく。
真似しかできないことを承知して必死に真似ているうちに、真似ている己を
忘れる。
己を忘れなければ我が出てしまい、師を真似ているにすぎないのに我も我もと
勘違いすることになる。
そこまでで終わりというのが凡人コース。
真人と書いてかんつびとと詠む。かんつびとは、人を真似ず神を真似る。
神の五心を真似て、人の五常を抱き、五行を勉める。
つとめている意識など露ほどもなく朗らかであるので、人は真人を前にしても
それと気づかぬほどである。
うさぎがカメなどと呼んでいるので、どんな種類ですかなどと聞く人もあり。
シマコ、おろかびとを操り今日も馳走に舌鼓。おぬしは今どこらへんにいるんかい?
古人云く、聞くべし見るべし。
耳で聞け、眼で見よ、とは何のことだろうか。
それに続く言葉は、「きかんよりは〈経〉べし、見んよりは経べし、いまだ
経ずんば見るべし。いまだ見ずんば聞くべしとなり。」
仏教は作法に始まり作法で終わるというところがある。
これなど神道行事の作法も同じと思われるかもしれないが、仏教の作法はすなわち
修行そのものに作法を修することが含まれているので神道とはまったく意味が違う。
神道では厳密にいえば作法に重きはなく、人同士の了解のためにのみ形がある。
仏教では心を得るために形を修める。
それが〈経〉〈聞く〉〈見る〉という言葉で表され、行って知ることの大事さと
それ以外に方法がないことも〈べし〉で表されている。
心心心がわからないと理屈を百万遍言い、聞きしても、心はつかめない。
ふれることができない。
経験する事以外に方法はないというのである。
その入り口に作法という修行がある。
作法を美しく一糸乱れずして修めたからといって満足しているなら、それは
いやらしくわざとらしく映るであろう。また人の心を魅了するものにはならない。
人の心を打たないのに、神仏に通じるわけもないのである。
声しかり。音しかり。
なにもわからなくてもいいから真似をして、ついていく。
真似しかできないことを承知して必死に真似ているうちに、真似ている己を
忘れる。
己を忘れなければ我が出てしまい、師を真似ているにすぎないのに我も我もと
勘違いすることになる。
そこまでで終わりというのが凡人コース。
真人と書いてかんつびとと詠む。かんつびとは、人を真似ず神を真似る。
神の五心を真似て、人の五常を抱き、五行を勉める。
つとめている意識など露ほどもなく朗らかであるので、人は真人を前にしても
それと気づかぬほどである。
うさぎがカメなどと呼んでいるので、どんな種類ですかなどと聞く人もあり。
シマコ、おろかびとを操り今日も馳走に舌鼓。おぬしは今どこらへんにいるんかい?