犬雑誌も犬種で特化してきているけれど、ラブラドールレトリーバーは
早くからあって専門誌にベイビーはモデル犬として登場したことがあった。
当時まだ生後8ヶ月で図体はけっこうデカいのでほかの犬種だったら成犬
並である。
でもベイビーは調教師にしごかれる日を送った後、ようやくうちへ帰って
きたばかりの頃だった。
甘えたい盛りである。遊びたい盛りでもある。
広告用の撮影をするカメラマンは女性であった。彼女は犬を撮ったことが
あるという話だったが、動き回るベイビーをとらえることができず苦労
した。
わたしは覚えたてのサインでベイビーにシット、ステイ、ダウン、と
大声で命令した。スタジオは二、三人の女性の大声が飛び交い重なり
騒々しかった。
掲載された写真のベイビーは仏頂面、というより緊張でこわばった顔で
あった。知る人みなが、あ~、かわいいー載ったんだー、よかったねー
とか何とか口々に言ったのであるが、すこしもかわいくなかった。
かわいくねーよ!わたしも仏頂面で答え、あることを決めていた。
ベイビーは青山四丁目長者丸通りを散歩しご近所さんに愛を振りまいて
おー、かわいいなー、おーすげーねー、カッケー(これはエイベックス
周辺で踊ってたアンチャン語)とか賞賛の言葉を浴びながら育った。
犬の話を書かないか?、犬出してくれない?、犬と別荘の企画どう?
そういう話を断り続けて、わたしのかわいいベイビーは育っていった。
わたし以外の周辺の人も彼の丸く大きな波長に触れるととたんに顔を
緩める。喜び犬として活躍する日々を送った。
守ってきたのは犬を商売道具にしないこと、決めたことは崩さなかった。
ベイビーが6歳くらいになって本当に落ち着きと大人の貫禄を感じさせ
てくれるようになった頃から、ネットやメディアで犬猫ネタが増えて
きた。犬出さない? も変わらなかった。そりゃ仕方がない、だって
ベイビーはハンサムだかんなー、親バカじゃないぞ(飼い主は皆そう
言うもんだけどね)
かわいいとか、すてきとか、たのしいとか、しつけがどうの食事がとか、
スポンサー付の記事の内容は限られている。
でも読む人は犬のかわいさにひきつけられる。
暮らすというのは「かわいい」だけのことではないはずなんだけど、
それはあまり伝えられていない。
例外的に初期の富士丸君はワンルームでけっこうデカイ犬がどういう顔して
暮らしているかを伝えて興味をそそった。飼い主の謙虚さや素直さも
犬と融けあってたし、でも結局、富士丸君は飼い主を助けていたなあ。
犬と暮らすことのほんとうは犬と暮らしてみなければわからない。
その素敵さはちょっとやそっとの言葉では伝えられない。
それに犬だって人を選ぶんだってこと。鈍感な人間に犬が素直に本音を
吐露してくれるわけがない。
かわいいーだけしか言わない人間に犬がほんとうに思っていることが
わかるわけがないのである。
わかろうとして暮らしてきて11年半が過ぎた。先日、昔撮ったビデオの
中に小さい小さいベイビーが眠っているのが数分だけ映っていた。
ごろ、ごろ、と時々寝返りをうつまんまるのおなかをみせた姿。
それを見たカメがその後ブログで最近の写真を見ての感想、「こいつ、
ごっつくなったな。ギャップありすぎ」と言った。
そうそうほんとによく育った。
そしてすっかり大人になったわたしの相棒。ハンサムな青年から渋い
オヤジになった。グッとくるねえ(飼い主は皆そう言うらしいけど)
一日が過ぎてまた朝がきて、一緒に散歩するとき、一緒にいられて
よかったね、今日も一緒だねと思う。
思っていると、ベイビーはふいに顔をあげてこっちを見る。
へらへらと笑いながら、わたしを見る。そして目が合うとまた前を
見て歩く。トットットッと足の運びが気のせいか速くなったような。
森の家へ戻って、シマコと縁側で競いあって「なんかちょうだい」の
波動を放ち続けている。
一日一日、この時間を抱きしめて、離したくないと思う。
思いながら、この執着から離れねばと考えたりする。
いつかこの日々を懐かしんだときに、思い出せることがたくさんある
ように、いつでもポケットから取り出せるように、もっといえば
すぐそこに君がいるように融けあって過ごしていこうと思っている。
タイトルの「奇跡のいぬ」とは本のタイトルである。
グレーシーという名の大型犬(グレートデーン)の物語(2001講談社刊)
だが、この本を買ったのはベイビーが二歳の時だった。
生後半年くらいから食べていたドライフードを急に食べなくなったのだ。
困り果て、この本に倣って全粒粉小麦粉でクッキーを焼いて替わりにしたら、
ガツガツと食べたではないか。おーーー、全部食べたねーと喜んで毎日
焼いた。仕事が忙しかったが、ベイビーがご飯を食べないことはもっと
大事件で大事なことであるから、へたくそなクッキーを焼き続けた。
クッキーにはニンジン、ホウレンソウなどを混ぜたが、ニンジン入りが
特別気に入ってよく食べた。
病気を心配していたので、食べてくれることにとても安心した。
でも、なんでも餌を与えておけばいい、病院に連れていけばいい、という
ことではないことをそのときに知ったのであった。
成長とともにフードを変えながら、様子をみながら選んでいる。
今ではおやつをもらえるかもしらんから、これは食べんでおくんだもんね
というワザを覚えて食べ残ししたりする。食べ残すので心配しておやつを
あげるアホなおっかあをよくわかっているのである。
残した分はわたしの留守中になくなっているので、ちゃっかりしている。
(もちろんそれを見抜いて次に減らされているのはまだサトっていない、
こういう攻防を繰り返している)
飼い主にとってはどの犬もほんとうはみな「奇跡の犬」である。
奇跡が起こるかどうかは、犬のほうではなく飼い主の感性にかかっている。
うちのベイビー、一生が奇跡の連続であるように。
早くからあって専門誌にベイビーはモデル犬として登場したことがあった。
当時まだ生後8ヶ月で図体はけっこうデカいのでほかの犬種だったら成犬
並である。
でもベイビーは調教師にしごかれる日を送った後、ようやくうちへ帰って
きたばかりの頃だった。
甘えたい盛りである。遊びたい盛りでもある。
広告用の撮影をするカメラマンは女性であった。彼女は犬を撮ったことが
あるという話だったが、動き回るベイビーをとらえることができず苦労
した。
わたしは覚えたてのサインでベイビーにシット、ステイ、ダウン、と
大声で命令した。スタジオは二、三人の女性の大声が飛び交い重なり
騒々しかった。
掲載された写真のベイビーは仏頂面、というより緊張でこわばった顔で
あった。知る人みなが、あ~、かわいいー載ったんだー、よかったねー
とか何とか口々に言ったのであるが、すこしもかわいくなかった。
かわいくねーよ!わたしも仏頂面で答え、あることを決めていた。
ベイビーは青山四丁目長者丸通りを散歩しご近所さんに愛を振りまいて
おー、かわいいなー、おーすげーねー、カッケー(これはエイベックス
周辺で踊ってたアンチャン語)とか賞賛の言葉を浴びながら育った。
犬の話を書かないか?、犬出してくれない?、犬と別荘の企画どう?
そういう話を断り続けて、わたしのかわいいベイビーは育っていった。
わたし以外の周辺の人も彼の丸く大きな波長に触れるととたんに顔を
緩める。喜び犬として活躍する日々を送った。
守ってきたのは犬を商売道具にしないこと、決めたことは崩さなかった。
ベイビーが6歳くらいになって本当に落ち着きと大人の貫禄を感じさせ
てくれるようになった頃から、ネットやメディアで犬猫ネタが増えて
きた。犬出さない? も変わらなかった。そりゃ仕方がない、だって
ベイビーはハンサムだかんなー、親バカじゃないぞ(飼い主は皆そう
言うもんだけどね)
かわいいとか、すてきとか、たのしいとか、しつけがどうの食事がとか、
スポンサー付の記事の内容は限られている。
でも読む人は犬のかわいさにひきつけられる。
暮らすというのは「かわいい」だけのことではないはずなんだけど、
それはあまり伝えられていない。
例外的に初期の富士丸君はワンルームでけっこうデカイ犬がどういう顔して
暮らしているかを伝えて興味をそそった。飼い主の謙虚さや素直さも
犬と融けあってたし、でも結局、富士丸君は飼い主を助けていたなあ。
犬と暮らすことのほんとうは犬と暮らしてみなければわからない。
その素敵さはちょっとやそっとの言葉では伝えられない。
それに犬だって人を選ぶんだってこと。鈍感な人間に犬が素直に本音を
吐露してくれるわけがない。
かわいいーだけしか言わない人間に犬がほんとうに思っていることが
わかるわけがないのである。
わかろうとして暮らしてきて11年半が過ぎた。先日、昔撮ったビデオの
中に小さい小さいベイビーが眠っているのが数分だけ映っていた。
ごろ、ごろ、と時々寝返りをうつまんまるのおなかをみせた姿。
それを見たカメがその後ブログで最近の写真を見ての感想、「こいつ、
ごっつくなったな。ギャップありすぎ」と言った。
そうそうほんとによく育った。
そしてすっかり大人になったわたしの相棒。ハンサムな青年から渋い
オヤジになった。グッとくるねえ(飼い主は皆そう言うらしいけど)
一日が過ぎてまた朝がきて、一緒に散歩するとき、一緒にいられて
よかったね、今日も一緒だねと思う。
思っていると、ベイビーはふいに顔をあげてこっちを見る。
へらへらと笑いながら、わたしを見る。そして目が合うとまた前を
見て歩く。トットットッと足の運びが気のせいか速くなったような。
森の家へ戻って、シマコと縁側で競いあって「なんかちょうだい」の
波動を放ち続けている。
一日一日、この時間を抱きしめて、離したくないと思う。
思いながら、この執着から離れねばと考えたりする。
いつかこの日々を懐かしんだときに、思い出せることがたくさんある
ように、いつでもポケットから取り出せるように、もっといえば
すぐそこに君がいるように融けあって過ごしていこうと思っている。
タイトルの「奇跡のいぬ」とは本のタイトルである。
グレーシーという名の大型犬(グレートデーン)の物語(2001講談社刊)
だが、この本を買ったのはベイビーが二歳の時だった。
生後半年くらいから食べていたドライフードを急に食べなくなったのだ。
困り果て、この本に倣って全粒粉小麦粉でクッキーを焼いて替わりにしたら、
ガツガツと食べたではないか。おーーー、全部食べたねーと喜んで毎日
焼いた。仕事が忙しかったが、ベイビーがご飯を食べないことはもっと
大事件で大事なことであるから、へたくそなクッキーを焼き続けた。
クッキーにはニンジン、ホウレンソウなどを混ぜたが、ニンジン入りが
特別気に入ってよく食べた。
病気を心配していたので、食べてくれることにとても安心した。
でも、なんでも餌を与えておけばいい、病院に連れていけばいい、という
ことではないことをそのときに知ったのであった。
成長とともにフードを変えながら、様子をみながら選んでいる。
今ではおやつをもらえるかもしらんから、これは食べんでおくんだもんね
というワザを覚えて食べ残ししたりする。食べ残すので心配しておやつを
あげるアホなおっかあをよくわかっているのである。
残した分はわたしの留守中になくなっているので、ちゃっかりしている。
(もちろんそれを見抜いて次に減らされているのはまだサトっていない、
こういう攻防を繰り返している)
飼い主にとってはどの犬もほんとうはみな「奇跡の犬」である。
奇跡が起こるかどうかは、犬のほうではなく飼い主の感性にかかっている。
うちのベイビー、一生が奇跡の連続であるように。