伊丹十三・京都市右京区鳴滝泉谷町に生まれ
第二次世界大戦末期・京都師範付属国民学校
(現・京都教育大学附属小学校)を経て英才集団特別科学学級で教育を受け
当時としては珍しく戦時中に英語教育を実践していたと云われる
同窓に日本画家の上村淳之がおり 中学生の時に父親は死去する
京都府立第一中学校(現・京都府立洛北高等学校)に入学
だから厳密には松山出身ではないのですね
その後愛媛県松山市へ移り 愛媛県立松山東高等学校に転入した為
松山出身の知名度が高いわけです
ここで大江健三郎と知り合い その後二度落第して愛媛県立松山南高等学校に転入
同校を卒業したが大学を受験して失敗したため
東京へ行き新東宝編集部を経て商業デザイナーとなります
その後伊丹は前歴の
俳優・エッセイスト・ドキュメンタリー作家・CM作家・イラストレーターとしての
全ての経験が活かせる事を発見し
映画とテレビドラマで存在感のある脇役として またCMタレントとしても活躍します
『家族ゲーム』(1983年)『細雪』(1983年)では
キネマ旬報賞助演男優賞を受賞しているのですよ
映画監督への転身後はめざましい活躍を
まず1984年 51歳で『お葬式』で映画監督としてデビューし日本国内で高い評価をうけ
この作品で受賞した映画賞は日本アカデミー賞を始めとして30を超えた
この映画は信子の父の葬式がきっかけであり
わずか一週間でシナリオを書き上げたことは皆さんの記憶に新しいことでしょう
その後も食欲と性欲の未分化な人びとを喜劇的に描いた『タンポポ』や
国税局査察部・通称「マルサ」に対する徹底した取材を元にした『マルサの女』
ヤクザの民事介入暴力と戦う女弁護士を描いた『ミンボーの女』など
日本の社会に対する強い問題意識をもちながら
かつエンターテイメント性に富み映画史的引用や細部にこだわった映画作品を作り
一躍当時の日本を代表する映画監督となり
「伊丹映画」というブランドを築く事に成功するのです
特に1992年の『ミンボーの女』では地上げやゆすりをやる暴力団は
市民が勇気を持って賢く行動すれば引き下がることを描き観客は大喜びし
これまで日本では映画でヤクザ(暴力団員)をヒーローとして扱い礼賛しました
(「ヤクザ映画」という一ジャンルが存在する)
まさにこの頃が 伊丹の絶頂期だったのでしょう
それから 様々な事で不幸に見舞われてゆくのですが・・・その顛末はその弐に記します