「じゃー、『好き』という気持ちに本当や嘘はあるのか?
ある時、野獣そのもののような人間に、美女が恋をした。
そいつは、むしろ、野獣が人間のフリをしている言った方が正解のような奴だった。
でも、美女が『好き』だと言うなら、本当も嘘もない。
ただ好きなんだなと認めるしかんない。
他人の心に嘘も本当もない。
全て自己申告だ」
「自分の痛さは他人には分からない。
だから、痛くなくても『痛い』と嘘をつく事が出来る。
まぁ、脳神経に電極をつけて反応を調べりゃ『本当の痛さ』か『嘘の痛さ』なのか他人でも分かるが、普通は分かんないべ? だって、普通の人は電極なんか引きずって歩いてないからな。
たしかに『痛い』と嘘はつける。なら、痛いに嘘と本当があるとも言えそうだ。
でも、他人の『痛さ』を、嘘と本当に分ける事は、普通は不可能だ。
だから、転んで痛そうにしている人間に対して『本当に痛そう』なんて事を言うのではないだろうか。私はあなたの痛さを疑ってはいませんよという気持ちが『本当に痛そう』という言葉を生むのではないだろうか?
そこには、あなたの痛さを偽物とは思っていません、あなたの言う通りに『痛そうです』という肯定の気持ちがこもっているように思える」
「他人の痛さをどうにかしてやる事もできないしね」
「そうだな。
麻酔でもなきゃ他人の痛さを癒してやることはできない。
せいぜい他人の痛さに共感してやるぐらいしか普通は出来ない。
それが、『本当に痛そう』という発言を生む」
「同情が生んだ言葉なんだね」
「そうだ。
他人の痛さに嘘も本当もない。
痛さは基本的に自己申告だ。
痛くなくても『痛い』と嘘をつけるし、痛くてもやせ我慢して『痛くない』と嘘をつける。
こんなものに、嘘も本当もあるだろうか?
確実に、本人以外には嘘も本当も証明できない。
で、コレは極端な例だが、本人にだって痛いのか痛くないのか分からない場合だってある。
本人でさえ痛さが嘘が本当か分からない場合だってあるのだ。
また、痛さが快感のマゾならどうだろうか?
こんなあやふやな感覚に嘘も本当もない。
あやふやすぎて真偽の証明なんかできるはずもない。
本当も嘘も証明できないモノやコトに本当も嘘もないはずだ」