「先生、知ってた? たまご焼きの味がみんな一緒なんやで。」
今日は、突然に元門下生から電話があった。その女の子(25歳)は、児童養護施設にいた子。長坂が施設で少林寺拳法を教えていたときの門下生。
ちなみに、10年ぐらい会っていない。が、数年前にたまたま銀行で出会って、少しだけ話したぐらい。
「長坂先生? Aやけど、いまから行っていい?」
「おお、A。今出てるけど、すぐに戻るからいいで。」
その子とつながったのは、奈良香芝の宮本勉先生のおかげ。
宮本先生の専門学校での教え子がAと友だちで、その子が宮本先生を訪ねたときにAも一緒に行っていたらしい。
それで、少林寺拳法の話になり、Aが、
A「私もやっていました。」
宮本先生「どこで?」
A「橋本西支部」
宮本先生「えっ、じゃあ、いま電話したろか?」
となって、宮本先生から長坂に電話があったのが、1か月ほど前。
宮本先生「長坂先生、Aさんって知っている?」
長坂「はい・・・」
宮本先生「いま、隣におるんよ。代ります。」
長坂「・・・」
という展開だった。
Aは3時半ごろ、ドリーム会館に来た。いまは、大阪に住んでいるらしい。結婚もして2児の母。
10年ぶりというのに、そんなことも感じさせずに、その10年間のことをいろいろ話してくれた。
苦労もしたし、冒険もしたようだ。
その当時、その施設にいて、少林寺拳法をやっていた子たちの近況にもなった。
いい話もあれば、悪い話もあった。
そんななかで、彼女が言った。
「長坂先生、知ってた? 学園(施設にいた子たちは「学園」という。)におった子たちの、たまご焼きってみんなおんなじ味なんやで!」
「そうなんや!」
「Bの家に行った時も、Cが家に来た時もそんな話になった。「おんなじ味やん!」って。」
「なんかいい話やな。」
彼女は、
「学園にいたことが自分のためになっている。学園でいたから、ちょっとぐらいのことは何とも思わん。」
と言う。
自分が母親になって、当時の自分の親(実の親、義理の親)への気持ちも変わってきたと。
彼女は、学園にいたとき、(子どもの頃)、かなり指導がしにくい子だった。他人とのトラブルが多かった。長坂も苦労した記憶がある。
しかし、彼女は、
「いま、幸せです。」
と心から言う。
その一言が聞ければ、長坂はほっとする。
いまが幸せだから、昔のことを「よかった」と思えるのか?
昔の大変だったことを「よかった。自分のためになった。」と思うから、いま幸せになれるのか?
おそらくどちらもだろう。
あの頃、施設で教えていて、本当に指導者としての力や人間としての質が鍛えられた。
もし、いまの長坂がある程度指導力があるとしたら、それは施設での指導があったからだろう。
いま、発達障害の子たちと向かい合って指導したり、うまくいっているのも、あのころに養った(鍛えられた)力が大きいかも。
施設で教え始めて、
「なんて、自分は指導力がない指導者なんだ・・なぜ、こんなにもうまくいかないんだ。」
と本当に悩んだから。
そこから、はじめて「指導者としての学び」を始めた。
そういった意味では、児童養護施設の子どもたちには本当に感謝しなくてはいけない。
なんか、最近、教え子たちに救われることが多くなってきたなーと思うことがよくある。自分では見返りなんか期待せずに、ただ一生懸命にや
ってきただけだが、やっぱり、それは正しかったんだなーと思う。
「人の幸、不幸は、その人の境遇にあるのではなく、その人自身の心の持ち方にある。」
今日は、突然に元門下生から電話があった。その女の子(25歳)は、児童養護施設にいた子。長坂が施設で少林寺拳法を教えていたときの門下生。
ちなみに、10年ぐらい会っていない。が、数年前にたまたま銀行で出会って、少しだけ話したぐらい。
「長坂先生? Aやけど、いまから行っていい?」
「おお、A。今出てるけど、すぐに戻るからいいで。」
その子とつながったのは、奈良香芝の宮本勉先生のおかげ。
宮本先生の専門学校での教え子がAと友だちで、その子が宮本先生を訪ねたときにAも一緒に行っていたらしい。
それで、少林寺拳法の話になり、Aが、
A「私もやっていました。」
宮本先生「どこで?」
A「橋本西支部」
宮本先生「えっ、じゃあ、いま電話したろか?」
となって、宮本先生から長坂に電話があったのが、1か月ほど前。
宮本先生「長坂先生、Aさんって知っている?」
長坂「はい・・・」
宮本先生「いま、隣におるんよ。代ります。」
長坂「・・・」
という展開だった。
Aは3時半ごろ、ドリーム会館に来た。いまは、大阪に住んでいるらしい。結婚もして2児の母。
10年ぶりというのに、そんなことも感じさせずに、その10年間のことをいろいろ話してくれた。
苦労もしたし、冒険もしたようだ。
その当時、その施設にいて、少林寺拳法をやっていた子たちの近況にもなった。
いい話もあれば、悪い話もあった。
そんななかで、彼女が言った。
「長坂先生、知ってた? 学園(施設にいた子たちは「学園」という。)におった子たちの、たまご焼きってみんなおんなじ味なんやで!」
「そうなんや!」
「Bの家に行った時も、Cが家に来た時もそんな話になった。「おんなじ味やん!」って。」
「なんかいい話やな。」
彼女は、
「学園にいたことが自分のためになっている。学園でいたから、ちょっとぐらいのことは何とも思わん。」
と言う。
自分が母親になって、当時の自分の親(実の親、義理の親)への気持ちも変わってきたと。
彼女は、学園にいたとき、(子どもの頃)、かなり指導がしにくい子だった。他人とのトラブルが多かった。長坂も苦労した記憶がある。
しかし、彼女は、
「いま、幸せです。」
と心から言う。
その一言が聞ければ、長坂はほっとする。
いまが幸せだから、昔のことを「よかった」と思えるのか?
昔の大変だったことを「よかった。自分のためになった。」と思うから、いま幸せになれるのか?
おそらくどちらもだろう。
あの頃、施設で教えていて、本当に指導者としての力や人間としての質が鍛えられた。
もし、いまの長坂がある程度指導力があるとしたら、それは施設での指導があったからだろう。
いま、発達障害の子たちと向かい合って指導したり、うまくいっているのも、あのころに養った(鍛えられた)力が大きいかも。
施設で教え始めて、
「なんて、自分は指導力がない指導者なんだ・・なぜ、こんなにもうまくいかないんだ。」
と本当に悩んだから。
そこから、はじめて「指導者としての学び」を始めた。
そういった意味では、児童養護施設の子どもたちには本当に感謝しなくてはいけない。
なんか、最近、教え子たちに救われることが多くなってきたなーと思うことがよくある。自分では見返りなんか期待せずに、ただ一生懸命にや
ってきただけだが、やっぱり、それは正しかったんだなーと思う。
「人の幸、不幸は、その人の境遇にあるのではなく、その人自身の心の持ち方にある。」
長坂先生の苦労からすると、おやぢはまだまだ苦労もなくのほほんとしてるのですね。 まだまだ修行が足りぬようです。
また頑張れる気がしてきました。