
グスク内にある路標と説明板

大嶽按司が守護神として大嶽グスクに安置した野原岳の霊石

グスク内にある井泉?か壕の跡?

グスクの所々で見られる石積

グスク頂部にある展望台付近

太陽の神を祀るウティンドゥ ( 御天道 )

グスク入り口にある石畳道

大嶽グスクがある野原岳にある航空自衛隊宮古島駐屯地

展望台から見た増原方面
大嶽グスクは大嶽城址公園として整備され、公園内の展望台からは宮古島が一望できる。
グスク入り口には石畳道があり、その奥には太陽の神を祀ったウティンドゥ ( 御天道 ) がある。
現在、野原岳の南側に野原集落はあるが、
18世紀の初めごろまで野原集落はウプタキズマ、野原岳はウプダキヤマと称されていた。
宮古島の中央地点にあって、展望のきいたウプタキヤマに居城(大嶽グスク)を構えたのは
大嶽按司であった。
大嶽グスクの長さは東西58間 ( 105m ) で、
幅は南北54間 ( 98m ) 、門は未方 ( 南西 )を向いていたと 「 宮古島旧記 」 に記されている。
そんな大嶽グスクは14世紀の末ごろ、宮古島に猛威をふるっていた与那覇原軍によって滅ぼされてしまう。
これによって村は落去し、城址石垣も崩壊した。
14世紀ごろの宮古島は、按司と呼ばれる豪族たちが互いに覇を競い合う戦国騒乱の世であった。
そういう世相の中にあって大嶽按司は智謀に勝れ、堅固な城砦を築き、井泉を掘削して飲料水を確保し、
農業や畜産にも尽力をそそいだが大嶽按司は病死し、残った三人の年少の息子が跡を継ぐ事になった。
次男はツルアズ(知呂按司)、三男をカニマルカニアズ(金丸金按司)といい、
二人とも父の血を引いて文武に勝れた若者であった。
ところが、長男のピギタリだけは生まれつき武芸を嫌い、自ら好んで百姓の仲間に入った。
当時、与那覇原軍はミノスマ(美野村)を討滅した後、密かに大嶽村攻略を企てていた。
そんな時に大嶽按司が死亡し、残ったのは三人の年少の息子たちだけだと知り、
にわかに大嶽グスクに攻め入った。
戦の前に領民の老若婦女子は城の後方の山頂にある 「 かしふがーら 」 という岩間内に非難させた。
戦は早朝から始まり、城内は次々と兵が討たれ、三男の金丸金按司は西門の付近で討死し、
次男の知呂按司もまた東門付近で壮烈な戦死を遂げた。
こうして戦はすっかり終わり、落城した城内には一人も残っていなかったのだが、
不思議なことに集落の百姓や老若婦女子の者を一人も見なかったので、
これはきっと姿を隠しているのであろうと与那覇原軍は、出て来るのを幾日も隠れて待った。
そんなある日、一人の子どもが水を汲みに出て来たのを捕らえて、
集落の人たちが隠れている場所をつきとめ、そこに居た残った人たちを皆殺しにした。
この物語は 「 かしふがーらの戦い 」 として今も伝えられている。
大嶽グスクへのアクセス
大嶽グスクへは、宮古島の中心部に位置する旧・上野村にある
「 航空自衛隊宮古島分屯基地 」 の横にある。
駐車は、大嶽城址公園の下に無料駐車場がある。