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「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

福岡県行橋市  「 御所ヶ谷神籠石( こうごいし )・ 中門  」

2013-07-05 00:07:49 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )








































































写真は先日撮ったものと、以前冬場に撮ったものとがあるので比較して観てもらいたい。


御所ヶ谷神籠石(ごしょがたにこうごいし)は、福岡県行橋市の南西部のホトギ山
(御所ヶ岳、標高246.9メートル)山頂から山麓一帯にかけ外周3キロメートルに亘って
花崗岩の切り石と土塁をめぐらせた古代の山城跡で、国の史跡となっている。

調査・研究史

御所ヶ谷山中の石塁や礎石群の存在は江戸時代から知られており、
元禄7年 ( 1694年 ) の貝原益軒の 『 豊国紀行 』 にも記されている。
その後、伊藤常足 『 太宰管内史 』 、西田直養 『 柳村雑記 』 、 『 筱舎漫筆 』、
高田右近 『 豊前国史 』 、渡辺重春 『 豊前史 』 らが、この遺跡について言及している。
その多くは、この遺跡を 『 日本書紀 』 に見える景行天皇の長峡県の行宮と考えていたが、
だが、伊藤常足だけはこれに否定的であった。

この遺跡を神籠石遺跡の一つとして認識し、学界に紹介したのは伊東尾四郎である。
明治43年 ( 1910年 ) 1月には、喜田貞吉、伊東尾四郎、宮崎栄雅が御所ヶ谷神籠石を踏査し、
新たに門や列石を確認している。
その後、昭和初期に文化財指定申請のため実測調査が行われた。

平成2年に行橋市において御所ヶ谷神籠石周辺地域の史跡自然公園化構想が浮上したが、
御所ヶ谷神籠石はそれまで発掘調査が全く手付かずで遺跡の範囲も不明確な状況であった。
そこで史跡の実態を把握する目的で平成5年から同市教育委員会によって発掘調査が行われた。


概要
景行天皇が熊襲征伐の際に、この地に立ち寄ったと伝えられ、景行神社が鎮座している。
古代に築造された山城で、「日本書紀」「続日本紀」に記載がなく、
遺構でしか存在の確認できないものを神籠石(こうごいし)、
または神籠石式山城(-しきやましろ)と呼ぶ。
古代山城(朝鮮式山城)とされることもあるが、築造主体など建設の経緯は一切不明である。
そのため、多くの研究がなされており、様々な学説がある。
門跡七ヶ所(東門・中門・西門・第二の西門・東北門・南門・南西門)、
列石十ヶ所、梁行三間×桁行四間の総柱礎石郡などが確認されており、
神籠石の中でも、規模と保存状態が良い。

門跡の中でも中門の規模は特に大きく、水門は高さ7.5メートル、長さ18メートルの二段の石塁である。
石材は全て花崗岩である。
山頂部を底辺北側の谷を頂点とする三角状の範囲
(東西[底辺]900メートル、南北[高さ]600メートル、比高差170メートル)が列石と土塁によって囲まれ、
その推定外周は約3キロメートルにもおよぶ。なお一部列石が二重になっている。

所在地:福岡県行橋市大字津積および京都郡みやこ町勝山大久保・犀川木山地区に跨る。

アクセス
行橋市中心部から車で約15分の位置にあり、
福岡県道58号椎田勝山線の津積交差点より南約1キロメートル。
みやこ町側からのアクセスはできない。



大分県院内の石橋 47 「 紀念橋 」

2013-07-05 00:05:01 | 大分の石橋



竹や雑草に覆われて全景を見る事が出来ない









細長い石で組まれた輪石








環厚が50センチの大きな石で組まれている








不揃いな栗石を積んだ壁石









対岸の町道脇に案内板がある







路面はアスファルトで舗装されている








水路用桁橋は、幅1m、高さ1.3m、奥行き2.7mになっている








下流側から下りて行くと中まで入って行ける





所在地 /  大分県宇佐市院内町景平 : 院内川
架橋  /  大正13年
石工  /  御幡億二郎
長さ   /  18.65m   幅   /  3.0m
拱矢  /   3.1m    径間  / 11.1m
環厚  /   50㎝   
単一アーチ



この橋を訪れるのは2度目である。
最初は竹や雑草が生い茂っており、橋の全景が見ることが出来なかった。
それで鎌やナタを持参しての再探訪となったわけである。

紀念橋は、大正13年に地元の石工である御幡億二郎によって架けられた橋だというが、
それ以外のことは定かではない。石橋は上下流とも周囲を竹や雑草で覆われており、
鎌やナタを持参してかなり伐採したが、その姿をわずかしか見る事ができなかった。
右岸にあたる対岸の町道下には水路用の桁橋が造られており、
下流側から降りて行けば中まで入って行けるようになっている。

紀念橋へのアクセス
紀念橋へは、景平橋から町道を上流に約300mほど行った場所に架かっている。
駐車は、町道の広くなった場所に駐車した。



大分県中津市 ・ 中津の 『 モンタサン 』

2013-07-05 00:02:17 | 競馬・ボート








大分県中津市の飲み屋街の雑居ビルに 「 モンタサン 」 という競走馬の名がついたスナックがある。
以前は、今のビルの真向いの道路沿いに白壁に黒で 「 モンタサン 」 と書かれた店があったが、
区画整備事業による道路拡張工事によって取り壊され現在のビルに入っている。
昔の店は趣がある店のつくりだったが、写真に残せないまま解体されてしまった。
それでも、その名は残る。
競馬を愛した者、モンタサンを愛した者が喜ぶ店が・・・


競走馬の 「 モンタサン 」 は作家・寺山修司が愛した馬である。

モンタサン
父 モンタヴァル
母 リユウリキ
生年月日  / 1964. 5.30
生産地  / 北海道浦河
生産者  / 石井弥蔵
性別  / 牡
毛色  / 栗毛
調教師  / 矢野幸夫(中山)
馬主  / 古知政市
競走成績  / 27戦12勝
獲得賞金  / 50,035,600円
受賞歴  / 1966年 啓衆社賞最優秀3歳牡馬

モンタサンは1966年デビューし、
6戦目となる朝日盃3歳ステークスにレコードタイムで優勝。
啓衆賞の最良3歳牡馬を受賞。
1967年春、クラシック三冠を前にオープン競走に出走し、
京成杯と東京4歳ステークスを連勝してきたホウゲツオーを相手に勝利。
しかし長引く馬丁 ( 厩務員 ) ストライキの最中に体調を崩し、
皐月賞と東京優駿ではともに単勝4番人気に推されたが敗退。
北海道で馬主の知人から脊椎の治療を受けて復調し、
セントライト記念でニツトエイトを2分の1馬身抑えレコードタイムで優勝。
その5日後の10月6日、菊花賞に向けて京都競馬場に移動したが、
10月11日夜、飼料に付着していた農薬にあたり激しい下痢と熱発を起こし、出走を断念。

1968年にオープン競走を3連勝。
このうち6月に行われた東京競馬場スタンド新築記念(芝2000メートル)は、
特別競走ながら重賞に匹敵する賞金(1着600万円)が設定されていた。
1969年2月には不良馬場で行われた京王盃スプリングハンデキャップで優勝。
春の天皇賞を目指したが、軽い捻挫のため出走を回避。

27戦して重賞3勝を含む12勝を挙げ、
レコードタイムを複数回記録した一方で、2着が7回あった。
八大競走では1968年の有馬記念で4着となった以外はふるわなかった。
1970年の出走を最後に種牡馬となったが、
目立った成績を挙げることはできなかった。

ラジオ関東のアナウンサーの窪田康夫は、
雑誌 『 優駿 』 に寄稿したセントライト記念の観戦記で
モンタサンのファンについて 「 一種異常なまでの打ち込み方 」
「 ファンというよりも信者といった方がピッタリ来るような声援の送り方 」 と
その熱狂ぶりを記している。
彼らは 「 モンタサン党 」 とも称された。

寺山修司は 『 優駿 』 誌上でモンタサンを幾度も話題に取り上げ、
1968年の有馬記念においてもモンタサンの優勝を予想した。
大橋巨泉は寺山の死に際してサンケイスポーツのコラムで寺山とともに“ 惚れた馬 ”として
モンタサンの名を挙げ、モンタサンが出走した東京優駿当日のエピソードを記した。
当時文化放送アナウンサーだった " みのもんた " の芸名 「 もんた 」 はモンタサンに由来する。
クセ馬のカブトシローではないが、ある種人を惹き付ける独特な雰囲気を持った馬である。


かつて熊本の中心街の通町筋の角のビルに 「 ケルソ 」 という馬名を付けた喫茶店があった。
ここには何度か足を運んだことがあり、
店内にはハイセイコー、タケホープ、タニノチカラの有馬記念パネルが飾られてあった。

ケルソ(Kelso、1957年4月4日 - 1983年10月16日)はアメリカ合衆国生産・調教のサラブレッドで、
ニューヨークハンデキャップ三冠や5年連続年度代表馬受賞などの記録を持つ。
1967年にアメリカ競馬殿堂入りを果たした。
「キング・ケリー(King Kelly)」という愛称でも知られる。