長男、安次富金橋の位牌と一緒にある尚 泰久の位牌
尚 泰久王 ( しょうたいきゅう ) は尚 巴志 ( しょうはし ) 王の七男で、
即位する前は沖縄市にある越来 ( ごえく ) グスクに居住し、越来王子と称されていた。
尚 巴志王の五男の尚 金福 ( しょうきんぷく ) 王の死去で、
尚 金福王の長男、尚 志魯 ( しょうしろ )と尚巴志の六男、尚 布里 ( しょうふり ) が王位を争い、
志魯は戦死し、布里は逓走した。
そのため、越来王子だった尚 泰久が王位を継ぐこととなった。
こうした身内の争乱と阿麻和利、護佐丸の乱などがあった所為か?
尚 泰久王は強く泰平を願っていた。
そのため、多くの寺を創建し、既存寺にも釣鐘二十三個を寄進した。
琉球王国歴代の王の中で最も多く寺を建立した王である。
尚泰久の墓は当初、首里池端の天山陵にあったが、
金丸のクーデターが起きて、家臣らが第一尚氏の各王の遺骨を持って、
読谷村伊良皆の森の中に隠した。
ここから尚泰久王の遺骨は、乳母の郷里である伊波村に移された。
そして明治41年ごろ、尚泰久王の長男、安次富金橋 ( あしとみかなはし ) の子孫の屋良家が、
安次富の墓の隣に移葬したという。