昨年、「先送り」 について触れたことがある。それまで何事かが目の前に現れると、後で始末しましょう、後でじっくり調べましょう、後で読みましょう、という態度できたことを批判的に考え書いたものだ。
昨日、モーツアルトのお祭りで友人と話している時、これは必ずしも悪いことではなかったのではないかという思いが浮かんだ。先送りするということは、その時点で判断を下さないということでもある。ただただいろいろなものにわが身、わが心を晒して、そこから言葉にならない何かを受け止めていたのではないか、ということに気付いたのだ。先日の現象学ではないが、まずものがある。そこから受ける何かを長い間静かに蓄積していたのでは、という思いである。
その蓄積が徐々に発酵して、ある日突然はっきりとした言葉になって目の前に現れることだってあるのではないか、との考えが浮かんだのだ。これまでの批判的な考えは、対象に向かってその場で判断することなく、自らの中に去来する何かをひたすら言葉にするという作業が意外と何かをもたらすのではないのか、という期待に変わっていた。その時の言葉が未熟なものでもよい、本当のところを捕らえきれてなくてもよい、そういう体験をしたということを記憶するための一つの手段としてあればよい。そんな中から自分でも気付かなかった何かが将来浮かび上がるかもしれない、という夢のような期待が、酒を酌み交わしながらのある瞬間、頭をよぎった。
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先送り - Esprit critique 2005-06-04
「先送り」再々考 2007-09-24
またお越しください。
私には、自分の心の声というのがよくわかりませんが、一時の感情に身を任せてしまいそうになる時がよくあります(まだ何とかこらえていますが)。これはまた違った意味なんでしょうね。
私はまず、自分の心の声を聞くようにすることを心がけていこうと思います。
何だか自己完結してしまいましたが、話を聞いていただけて嬉しかったです。ありがとうございました。
最初のコメントにも書きましたがまたちょくちょくお邪魔させていただきますね。それでは。
時に人生を長く大きく捉えることも重要なのではないかと思います。ただ若い時はそういう考えにはなかなか至らないということもまた事実ですが。いろいろな考えがありえますが、自分の心の声に素直に耳を傾けるということが一番大切なことのように思います。今まで怠ることなくやってきたわけではありませんが、最後のことには忠実だったように思います。
これからは遅ればせながら、怠ることなく地道に観察していきたいと思っているところです。いずれ何かが噴出してくるのではないかという期待を抱きながら。幸福感は現在しか味わえないと思っていますので、最後にピークが来るのが理想ではないか、というのが今のところの考えです。
hina様もこの人生で大きな絵を描かれることを願っております。
以前からよく覗かせていただいてました。
今回のこの記事を見て、すごく目からうろこっていう感じがして思わず書込みをしてしまいました。私の知り合いで即断即決ではないと本当の決定ではないという考えの人がいるのですが、いつもそれは極端すぎるのではないか、すごく狭い考えしか浮かばないのではと思ってたので、本当に目からうるこでした。私の知り合いのような考えでもいいと思うのですが、もっと違う色んな考えがあるのではないかと考えてしまいます。そんな私は、知り合いからすると、臆病らしいです。自分では臆病というよりのんびりしてるだけだと思ってます。知り合いはせっかちなので。
何だか、まとまりのない文になってしまいましたが、この記事を読んで衝撃を受けました。ありがとうございます。これからもちょくちょくお邪魔させてください。それでは。