いつからかその時々に過ぎる思いをメモに書いていたようだ。それを机の上に置いていた。今では英語で言うところの Mess ! になっている (フランス語では何というのだろうか)。しかし時とともにそれがいつもの景色になって、その酷さに気づかなくなっていたことに気づく。最近間違ってシャッターを押し、写っていた自分の手を見て驚いた。自分がいつも見ている手とは異なり、ご老人の手なのである。今回の乱雑な状況に気付いたのはそのカメラの眼と同質のものだったかもしれない。
今までであればその時に不要なものはすぐに捨てていたのだが、暇だったのだろうか、いくつかに眼を通してみた。そうすると、それを書いた時のことが鮮やかに蘇ってくるのである。そういう自分がいたなどということさえ忘れている、思いもよらない姿が蘇ってくる。ほんのちょっとしたことで記憶が蘇ってくる。確かにこの脳にはそれが残っているということを改めて確認する。以前にも触れたが、時空を超えたやり取りが脳内で起こる時、なぜかいつも爽快な気分になるのだ。それは懐かしさとは違う感情である。
1年ほど前から意識的に写真を撮るようになっている。このブログに写真を載せているからだろう。その過程で気づいたことがある。以前は、写真を撮る時に感動したり気になったものを意識せずに撮っていた (今にして思えばなぜ撮っていたのかさえわからないくらいである)。フィルムの制限もあり、対象を選んでいた。ところが最近では、写真を撮る時の自分はそれほど重要ではないという考えになっている。それを意識したのは、ブログに載せる写真を選ぶという作業が入ったからだろう。その時には写真を撮った時の自分は余り関係がなくなっている。もちろん撮った時の感動は残っているが、出来上がった写真をよいと思うかどうかは選ぶ時の自分にかかっている。つまり、写真を撮る時には将来の自分を予想することができないということに気付いたのである。そうすると、写真を撮る時の自分はそれほど問題ではなくなり、とにかく撮ることが重要になるのだ。カメラがデジタルになったこともそれを後押ししている。未来の見知らぬ自分に向けて、気楽にたくさん撮るというのが私の原則になってしまった。
そんなことを考えながら、過去の一時期の一瞬に出てきたものを殴り書きしてあるメモは、昔の自分を垣間見る触媒として捨てがたいものではないか、という思いに至る。今回、その辺に散らかっているメモを選別せずに取っておくことにした。将来どんなメモが爽快さをもたらしてくれるのか、今はわからないのだから。