フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

映画三題、そしてフランス語 TROIS FILMS ET LE FRANCAIS

2007-03-27 22:50:02 | 映画・イメージ


Angel

その日、カフェを出た後ホテル近くのシネマへ。丁度始る5分前のAngelに入る。客は10人前後か。フランソワ・オゾン François Ozon のイギリス映画。作家を夢見る野菜屋の少女が作家として成功し、零落れるまでを描いている。以前に Sous la sable, Swimming Pool, Huit Femmes などを見ているが、今回の作品は無理をして作られた物という印象が拭いきれず、全く楽しめなかった。

Les Témoins
先日、丁度よい時間にやっていた映画を見た。エマニュエル・ベアール (Emanuelle Beart) が出ている。私にとっては印象的な筋書きではなかったので今となってははっきり覚えていない。主人公の同性愛の若者が出てきて、警官の男と絡んでくる。そのパートナーがべアール演じる作家で不思議なカップルだ。それに若い女性、同性愛者の医者などが出てくるよく理解できない映画であった。ただ、人間という生き物は一体どこまでのことをやりうる存在なのか、フランスで見ているとそういうことを考えさせられる。自分の身を安全なところに保っておき、どこか遠くの出来事として見る場合と違い、見ているところにしか自分の生きる場所がないという精神状態で見ている時とでは受ける印象がまるで違う。

Nue Propriété
この映画も空き時間にやっていたものである。今は離婚している中年女性の母親 (イザベル・ユッペール Isabelle Huppert) と一緒に暮らす二人の息子 (20代か?) を中心に、今は若い女性と結婚して子供も生まれている元夫、母親の男友達、息子の女友達などが出てくる。長い間暮らした家を母親が売りに出そうとする。それを機に息子との関係が崩れ始める・・・それにしてもこの二人の息子、いい大人なのだがよく取っ組み合いの喧嘩をする。そして最後を迎えるのだが、、、

フランス映画を見ていつも感じるのだが、この二つも何気ない日常を何気なく撮っている。その姿勢は嫌いではないのだが、なぜこれが映画になるのか残念ながら全く理解できなかった。面白さをなかなか見つけられなかった。フランス人でなければわからないのだろうか。向こうの文化や社会を体で理解するのは至難の技だな、という絶望的な気持ちである。

絶望的と言えば、今回強烈に感じたことに映画に出てくるフランス語が全くわからないということがある。この二つの映画に限って言えば、ほとんどわからなかったといってもよいくらいだ。簡単な単語しか使っていないと思われるが、その組み合わせたるや今まで耳にしたことのないものばかり。本当に厭になってしまった。

全く厭になったと言えば、先日触れた Phillipe Murray という人の短い本を買って読んでみたが、こちらもほとんど何を言っているのかわからない。これはフランス語という問題もあるが、それ以上にその背景になっているものが頭に入っていないためだろう。つまり、ほとんどすべての文章に何かについての仄めかしがあり、その何かとはフランス文化、社会、それをなしている人、出来事などと関係してくるので全くわからないのである。その昔、アメリカでテレビニュースやお笑い番組を見ていて全くわからず数年間歯がゆい思いをしていたことを思い出していた。当然のことながらそれが理解できるようになるとその面白さに慣れ、日本に帰って数年間は逆に日本のものに全く感じなくなり辛い時期を過ごしたことも蘇ってきた。

それにこれも今回初めて気付いたことだが、私がフランス語を話し始めると相手の眉間に微かな皺が寄ることである。怪しげなアクセントで始まるその言葉に聞き耳を立てなければよく理解できないかも、と体が反応しているかのようであった。体は嘘をつかない。

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