先日触れた中村真一郎 「全ての人は過ぎて行く」 の前半からいくつか。
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考えてみると、私は書物においても、ある一冊の本に傾倒するというより、できるだけ広く読み漁るという態度を一生つづけて来て、私を知ること深い加藤周一は、そうした私を花から花へ蜜を求めて飛ぶ蝶にたとえて揶揄してやまないが、人生上の師においても、次つぎと広い範囲の年長者から、それぞれの富を譲り受けて、一歩ずつ成長して来たのだった。
もし私に永井荷風や正宗白鳥のような恒産があったなら、自分の書いたものを広く売って、無理解な世間の眼にさらすような勇気はなく、「屋根裏の詩人」として、生涯に本当に気に入った少数の作品を念入りに作って小部数刷り、親しい友人にだけ配って読んでもらうというのが、本来の気質に忠実な生き方だった筈である。
・・・中学の先生方の中で、ただひとりはじめから人生を降りた隠者がいて、その先生の教訓は志の衰えた時に、何度も私の記憶に甦った。
それは英語の石田先生で、病弱だった先生は、ある時、自分で焼いた皿を教壇で出して見せた。その面にはウィリアム・ブレイクの「蝿」という短詩が記されていた。
訳すと、「それなら私は/一匹のしあわせな蝿だ/生きていようと/死んでいようと」という人生への諦念に満ちた句で、先生は、その注釈として、「人生は出世したり、闘争したりするためのものではなく、一生を魂の平和を求めて生きるためにあるのだ」と言った。
しかし、私の子供らしい、裏表のない、出世欲というようなものも皆無で、人に取り入ろうというような処世術も知らない世間知らずの性格は、先生(渡辺一夫)を安心させているようで、驚くほど内密なスキャンダルに類する人間関係についての情報を、いきなり私の耳に入れて鬱憤晴らしをすることが再三だった。
(作家になるための条件について、芹沢光治良は)
「毎日、きちんと三枚、原稿が書けるなら、作家になりたまえ。それができなければやめたまえ」という、非常に実用的な忠言を与えてくれた。
(横光利一は)
・・・むしろ文壇の先頭に立ってこそ、才能を開花させることができる、ただし、文壇のなかに埋没してしまっては保守的な作家となり、前衛性を維持できないので、「片足を文壇に、片足を外に踏んばっていたまえ。現にぼくはそうやっている」と、魅力のある微笑と共に説得してくれた。